第90話 借刀殺人《しゃくとうさつじん》
【巻ノ二・残頁玖拾:『大魏刑律考・獬豸』残巻】
「廷尉府に『国運法界』を設く。獬豸の冠を以て眼と為し、朱墨の木簡を以て陣と為す。法網張る時、妖邪は避退す。 然れども法は衆を責めず。若し法網破るるに至らば、執法者反ってその噬みを受けん」
†
馬車が隘路を突破した瞬間、両側にあった極彩色に歪む光の帯の流れる速度が明らかに鈍った。現世の枯れ果てた荒涼たる光景が、まるで水面に映る逆さ絵のように、車外に微かに浮かび上がり始める。
「しっかり掴まれ! 出るぞ!」
謝必安は両手で死に物狂いに車体の手すりを掴み、喉を裂けんばかりに怒鳴った。
直後、巨大な水風船が弾けるような「ポンッ」という音が耳元で響いた。馬車を包み込んでいた沸騰する蒸気と雲霧が、狂風の中で一瞬にして引き裂かれ、吹き飛ばされた。 続いて猛烈な激震が襲い、耳元で「バキッ」と巨大な音が鳴った。車体の最後まで残っていた側面の板もついに限界に達し、脱落して虚無の中へと落ちていった。
「ブルルルァァーッ」
車を牽く蜃驪が、極度に疲弊した嘶きを上げた。血のように真紅だった妖瞳は、急速に元の濁った灰白色へと裏返っていく。狂奔していた速度が肉眼でも分かるほどに落ち、太い鼻孔からは絶え間なく火の粉の混じった白煙を噴き出している。それに伴って胸部も鞴のように激しく上下し、大口を開けて荒い息を吐き続けていた。
沈無はそれを見るや否や、気絶している千糸叟を車の床板に無造作に放り投げた。百辟喪門刀を提げ、身を翻して御者台にピタリと着地する。即座に刀の峰で蜃驪の逆鱗を叩き、その速度をさらに落とさせようと試みた。 この時の蜃驪はすでに完全に力尽きており、走る速度はそこらの駄馬の小走りと大差なくなっていた。
車内では、謝必安が残った木の床の上に大の字になってへたり込んでいた。両目はまっすぐに灰色の空を見つめ、胸を激しく上下させている。しかし口からは「ヒッ、ヒヒッ」という断続的で奇妙な息の音が漏れており、どうやら笑っているようだった。
沈無は首を回し、この神経を疑う同僚を見て、眉をひそめて尋ねた。「何を笑っている?」
謝必安はそこでようやく声を張り上げ、憚ることなく豪快に大笑いし始めた。笑いすぎて涙が出るほどだった。 「ゲホッ、ゴホッ……待てよ、さっき急に思いついたんだが……もしアレをそういう風に使うなら……」謝必安は笑いながら床をドンドンと叩いた。「マジで上手いこと利用できるかもしれない。俺はなんでさっきまでこんな簡単なことに気づかなかったんだ! 俺ってば本当に大バカ野郎だぜ!」
沈無はさっぱり話が見えず、怪訝そうに眉をひそめた。「何の話をしている?」
「まあちょっと休ませてくれ。事態はまだ終わっちゃいねえんだ」謝必安は上体を起こし、顔の汗を拭った。「お前、さっき知りたがってたよな。蜃驪がどうして突然あんな風に暴走したのかって」
沈無は表情を引き締めた。「詳しく聞こう」
謝必安は少し前へ身を乗り出し、蜃驪の鱗に覆われた後頭部を指差した。「あそこの、逆さに生えてる鱗が見えるか? 本によれば、あれは龍の末裔にしか生えない『逆鱗』だ。ただまあ、本物の龍ほど大層な真似はできねえ。だからさっきの『流光』の技もあんな短い時間しか保たなかったんだがな……」
言葉が終わるか終わらないかのうちに、車を牽いていた蜃驪が「ブルルッ」と強く鼻を鳴らし、わざと車体をガクンガクンと二度大きく揺らした。まるでこの見下した評価に対して強烈な抗議の意を示しているかのようだ。
謝必安は頭をぶつけて目を回し、慌てて両手を挙げて降参した。「わかったわかった! 言い方を変えよう! 龍なんて俺も見たことねえ。本に『龍にのみ逆鱗あり』って書いてあるんだから、逆鱗を持ってるってことは、今の世の中じゃ数えるほどしかいねえってことだ。間違いなく珍獣中の珍獣、超絶レアな大物だぜ!」
このフォローが蜃驪の自尊心を大いに満たしたらしい。異獣はその巨大な頭を高く上げ、空に向かって誇らしげに長く嘶き、足取りもそれに合わせて幾分軽快になった。
「よし、デブ、阿奴、俺は少しだけ目をつむるぞ」謝必安は疲れ切った様子で車の床に寝転がった。「もし後ろから何か動静が聞こえたら、すぐに俺を叩き起こしてくれ」
阿奴は、隣にいる太った猫を冷ややかに睨みつけた。
銜蝉は青アザだらけに腫れ上がった太った顔を晒し、悲しそうな顔で小声でブツブツと文句を言った。『親父ぃ! 俺様の耳、さっき殴られすぎてちょっと調子が悪いんだよ。ずっとジンジン鳴ってるんだ。もし後で何か聞き漏らしても、絶対に俺様を責めるなよ……アイタタ、マジで死ぬほど痛え……』
謝必安はその愚痴など全く聞こえなかったかのように、首を横に曲げると、すでにとっぷりと深い眠りに落ちていた。
隘路を抜け、馬車は緩やかな斜面をゆっくりと下り、前方に広がる静まり返った山谷へと入り込んでいった。この山谷さえ抜ければ、地形は平坦な道へと変わるはずだ。
だが、彼らがゆっくりと歩みを進めているその頃。十数里後方の山谷を抜けた原野の官道上では、もう一つの光景が密かに幕を開けていた。
廷尉府の軍勢は、鏡妖司の前哨から送られてきた緊急の密報をとうに受け取っていた。
部隊を率いる廷尉監は、立派な駿馬の背に端座している。年齢は四十代ほど。彼は高くそびえる武冠を被り、玄色の立ち襟の袍服の上に精緻な魚鱗の兩当鎧を羽織っている。左腰には権力の象徴である官印と黄色の綬帯を締め、同じ側に環首直刀を提げており、いかにも威風堂々とした佇まいだ。
彼は密報に書かれた「鏡妖司の追捕を逃れ、獲物遁走」の文字を見て、口角に隠しきれない嘲笑を浮かべた。「古くから『鏡妖司・照瑕堂の名を聞けば泣く子も黙る』と言われてきたが。今となっては、暗がりで人に噛みつくことしか能のない狂犬どもも、所詮はその程度のものだったようだな」
廷尉監は即座に右手を挙げ、前へ向かって軽く振った。
傍らに控えていた廷尉史が、ただちに馬を進めて命を待った。外見は三十代ほど。彼は是非を明弁する象徴である獬豸の冠を被り、動きやすい黒い筒袖の短袍に身を包み、その上に軽便な皮鎧を羽織っていた。腰には鉄尺、縄、海捕文書をぶら下げている。
廷尉監の目には貪欲な喜色が浮かび、前方の山並みを見つめた。「兄弟たちに伝えよ。前方の谷口に陣を敷き、網を張れ。鏡妖司の連中が食い残したこの天から降ってきたような大功労、我々廷尉府が遠慮なく頂戴するとしよう」
半の時辰後。謝必安たちは山谷を抜けようとしていた。
「謝拾遺、起きろ」沈無の低い声が静寂を破った。「前方に異変だ」
謝必安は寝ぼけ眼で身を起こし、目脂をこすり落とした。彼が沈無の視線の先を追うと、遥か前方の官道で土埃がもうもうと舞い上がり、まるで一本の黄色い土の竜が彼らに向かって這い寄ってくるように見えた。
「どうやら千糸叟のジジイの言った通りだったな。廷尉府の連中が俺たちを『お出迎え』に来たってわけだ。随分と派手な出迎えじゃねえか」謝必安は冷たく鼻で笑った。
沈無は目を微かに細め、長年の従軍経験を頼りに、即座に相手の兵力配置を読み上げた。「あの土埃の規模から見て、少なくとも一曲――ざっと五百人はいる。部隊を率いているのは廷尉監だろう。陣形は整っており、規律も厳格だ。両翼にはそれぞれ数十の騎兵が遊撃に回り、陣の正面には大盾と鋭利な斧を手にした三百の重装歩兵が密集陣形を敷いている。さらに後方には百名の弓弩手が控えている。あの陣容を見る限り、俺たちをブチ込む囚人車と枷までご丁寧に用意してあるようだな」
謝必安は舌打ちをして、少し呆れたように言った。「クソッ、いくらなんでも大げさすぎやしねえか? 俺たち二人を相手にするのに、五百人も出動させるのか?」
沈無は顔色一つ変えず、落ち着き払って応えた。「鏡妖司と司天監の看板には、それだけの価値があるということだ。この大掛かりな出迎えは、俺たち個人に向けられたものじゃない。俺たちの背負っている看板に向けられたものだ」
謝必安はそれでようやく合点がいったように頷き、大げさに伸びをして、気怠げに大きな欠伸をした。「俺たちの首を手土産に出世したけりゃ、それ相応の実力があるかどうか見せてもらわなきゃな。だがまあ、向こうがこれだけ盛大にもてなしてくれたんだ。後でこちらもドカンとデカい返礼の品を贈ってやらねえとな。ただ、あの連中、家を出る前に自分の後始末は全部済ませてきたのかね?」
彼は沈無の肩をポンと叩いた。「老沈、お前も後ろを見てみろ。さっきからデブがブツブツうるさくてゆっくり眠れなかったんだが、今にして思えば、今日の大芝居の主役たちがようやく全員揃ったってわけだ」
それを聞いた沈無は身を翻し、神経を研ぎ澄まして後方の遠くを見つめた。
彼らが通ってきた道の後方でも、同じように空を覆うほどの土埃が舞い上がっていた。前方の廷尉府の軍勢よりもさらに凄まじい規模だ。濛々と舞う土埃の中からは、天地を揺るがすような人の物とは思えない凶暴な嘶きが幾つも混ざって聞こえてくる。
それは、妖丹の匂いに引き寄せられ、ただ貪り食うという欲望だけを残した、空を覆うほどの妖魔と百鬼の群れだった。
沈無は前門の虎、後門の狼とも言うべき絶体絶命の窮地を見渡し、顔を強張らせて、猛然と首を回して彼を睨みつけた。「お前、まさか……」
「これだけの光景はそうそう拝めるもんじゃねえ。壮観すぎて現実味がないくらいだろ?」謝必安は満面の笑みで彼の言葉を遮り、手をひらひらと振った。「そんなわけねえだろ。鏡妖司の連中もご苦労なこった。だがここから先が本番だ。いよいよ俺たちの出番だぜ」
沈無は深く息を吸い込み、相手を殴り飛ばしたい衝動を必死に抑え込みながら言った。「貴様、また一体どんな悪巧みを企んでいる?」
「人聞きが悪いな」謝必安は無実を訴えるように目をパチパチと瞬かせた。「俺は朝廷にいるような腹黒い陰謀家とは違う。俺って人間は昔から内向的で超慎重派なんだ。俺が飼ってるこの二匹の猫を見ればわかるだろ? 無害で、誰からも愛される良い子たちだ」
沈無は口角を引き攣らせ、この狂った病人のような男の言葉に返す気力を完全に失った。
謝必安は冗談を収め、真剣な顔つきに戻って指示を出した。「デブ、阿奴、後で一戦交えることになる。俺は少し準備をするから、お前らは俺の代わりに周囲を警戒しておけ」
言い終わるや否や、彼は身をかがめ、床板の下に隠してあった暗箱から、あの切り裂かれた漆革の袋を取り出した。彼はその破れ目を見て、身を切られるような顔でため息をついた。「最初からもっと頑丈に包んでおけば、こんな面倒なことにはならなかったのによ。ハァ……」
文句を言いながらも、彼の動作は極めて慎重だった。恐る恐る、袋の中から二つの物を取り出した。
左手に乗せているのは、嗅ぐ者のヨダレを誘うような、特異な芳香を放つ『太歳残核』。 右手に支えているのは、煮え滾るような高温と濃厚な白檀の香りを封じ込めた『業火琉璃』だ。
沈無、銜蝉、阿奴の三つの視線が、申し合わせたようにこの二つの至宝へと引き付けられた。
「何をするつもりだ?」沈無が尋ねた。
「ちょっと試してみる。錯金琉璃の性質を使って、こいつの匂いを一時的に封じ込められないかやってみるんだ。二つの匂いが混ざり合っちまうと面倒だからな」謝必安は太歳残核を再び懐に押し込み、両手で業火琉璃を包み込んだ。「俺のことは見るな、お前らはお前らの仕事をしろ!」
言葉が終わるか終わらないかのうちに、彼は両目を閉じ、体内の錯金琉璃の力を全開に引き出し始めた。業火琉璃の表面に、匂いを遮断するための磁器化された外殻を新たに凝結させようと試み、あっという間に滝のような汗を流し始めた。
謝必安が作業に没頭している間にも、後方から迫る妖群の先鋒はすでに馬車のすぐ近くまで肉薄していた。
全身に長い毛を生やし、鋭利な爪と牙を持つ三頭の首無しの屍怪が、咆哮を上げながら半空へ跳躍し、車内へ飛び込もうとした。
銜蝉は瞬時に体型を巨大化させた。怒号と共に、蒲扇よりも巨大な猫の掌を連続で振り下ろし、「ドゴォン!」という大音響と共に、そのうちの二匹の屍怪を一撃で肉泥に変え、地面の土の中へ叩き込んだ。
残る一匹がちょうど車輪にしがみついた時、沈無が爆喝した。「失せろ!」
言葉が終わる前に、彼はすでに刀を振り下ろしていた。寒光が一閃し、その怪物を肩から背中にかけて真っ二つに両断した。残骸が濁った血と共に四方へ飛び散る。
だがいかんせん、この時の蜃驪の走る速度には限界があった。ますます多くの妖魔が潮のように群がり、包囲の輪を狭めてくる。幸いなことに、妖の群れは蜃驪の体から放たれる匂いを嗅ぎ取り、本能的な恐怖を抱いて、あまり近づきすぎることは避けていた。蜃驪もまた牙を剥き出しにし、鼻から煙と火の粉を吹き出しながら、銅鈴のように巨大な白い目で、周囲から隙を窺おうとする有象無象を凶悪に睨みつけていた。
膠着状態の中、体つきの細身の媪妖が隙を見つけて目標を切り替え、なんと混乱に乗じて滑るように車内へと潜り込んできた。奴は剃刀のように鋭い牙が並ぶ口を大きく開き、床に転がってピクリとも動かない千糸叟の股間へ一直線に食らいつこうとした!
「デブ! 忘れんな、あのジジイのことはしっかり守れ!」謝必安は目を閉じたまま、汗だくで大声で怒鳴った。「どうしても手に負えなくなったら、あいつをそのまま投げ捨てて囮にしろ! 『大魏のために慷慨して命を捧げた』ってことにしてやる! 都に帰ったら俺が自ら上奏文を書いて、十里先まで白旗を並べ、天を震わすほどの泣き声で見事な葬式を挙げてやるから安心しろ!」
床に転がっている千糸叟は、依然として経脈を氷漬けにされ身動き一つ取れなかったが、意識はすでに覚醒していた。この言葉を聞いた瞬間、怒りのあまりまぶたが激しく痙攣し、脳血管が破裂するリスクを冒してでも跳ね起き、謝必安に殴りかかろうとしたほどだった。
幸いにも千鈞一髪の危機に、銜蝉のしなやかな空中での尻尾振りが間に合った。鉄の鞭よりも硬い猫の尻尾が「バチン」という音と共に、媪妖を真っ向から車外へと弾き飛ばした。
谷口の前方では、廷尉府の斥候が土埃を巻き上げて迫り来る馬車の動静をとうに察知していた。
鋭い鏑矢が空気を切り裂いて引き鳴らされ、刹那にして、厳重に配置されていた兵馬が両側に向かって大きく陣形を展開し始めた。
両翼の騎兵が真っ先に命を受けて動き出した。馬蹄の音が暴雷のように轟き、大地に天を覆うほどの土埃を踏み鳴らす。彼らは氷のように冷たい二つの弧を描きながら外側へ駆け出し、大きな円を描いて谷口を包囲するように迫ってきた。
謝必安は目を開けた。手の中で無事に金色の琉璃の外殻でコーティングされた業火琉璃を見て、長く濁った息を吐き出した。それを懐にしまい込み、手を振って、首を回して沈無に叫んだ。 「老沈、馬車を出せ! 騎兵に追いつかれるな。馬車ごと大きな円を描いて走り、奴らの歩兵の本陣に向かって真っ直ぐに突っ込め! 後ろの追手は俺とデブで引き受ける!」
「気でも狂ったか!?」沈無は顔色を失った。「相手には強弩の部隊がいるんだぞ! このまま真正面から突っ込めば、生きた的になるだけでしょうが!」
「安心しろ。前方の矢の雨は阿奴と蜃驪に任せておけ。せいぜい一斉射撃を耐え凌げばそれで終わりだ!」謝必安は『驚蟄』を引き抜いた。棍身には雷光がパチパチと閃いている。「とにかく迂回して走れ! 後ろは俺とデブに任せろ!」
言い終わるや否や、謝必安はまるで一柱の殺神のように、車体の後部に仁王立ちになった。これほど至近距離であれば、脳みそのない弱小の妖魔を相手にするなど、単なるモグラ叩きゲームに過ぎない。
「ドォォン! バキッ! ジジィィッ――」
『驚蟄』が驚異的な雷霆の力を伴い、一振りで一匹の妖物の頭蓋骨を粉砕する。雷の電撃が密集する妖群の中で四方八方へと伝導し、周囲の妖魔を黒焦げにして激しく痙攣させた。 しかし、太歳残核の香りはあまりにも誘惑的すぎた。馬車の後方を追う妖群は退却するどころか、ますます興奮して狂乱状態に陥り、前線の者が倒れても後続の者が次々と湧き上がってくる。
この光景は、まさに包囲網を狭めようとしていた廷尉府の騎兵たちの目にもはっきりと映っていた。
彼らは馬車の後方から大津波のように押し寄せてくる凄まじい妖群を見て、魂が消し飛ぶほど肝を冷やした。とてもではないが前に出て包囲網を狭める勇気など湧くはずもなく、皆慌てて手綱を引き絞り、馬の速度を落とした。不用意に近づくことを恐れ、遠くから馬車の両側を並走しながら、馬車の動きに合わせて大きな円を描き、無様な姿で廷尉府の歩兵本陣の方向へと後退し始めた。
廷尉監は本陣の中央に端座し、前方で繰り広げられる異様な追撃戦を見て眉を深く寄せた。彼は顔を向け、傍らにいる廷尉史に尋ねた。「奴ら、一体何の真似をしていると思う?」
廷尉史は空を覆う土埃を見て、ゴクリと生唾を飲み込んだ。「報告いたします。奴ら……どうやら妖群に絡まれているようです。主官殿、弓弩手に矢を放たせますか? 手前は、退避してくる味方の騎兵たちを誤射してしまうのではないかと案じておりますが」
廷尉監は即座に決断を下し、冷酷に命令を下した。「どいつもこいつも役立たずの腑抜けめが! 伝えよ。『国運法界』を展開せよ! 奴らをあの妖孽どもごと、まとめてこの場に鎮殺してくれるわ!」
「はっ!」
百名を超える重甲の歩兵が一斉に怒号を上げ、手にした巨大な盾を次々と地面の土へと突き立てた。瞬く間に盾と盾が噛み合い、甲と甲が連なり、まるで流れる水のように整然と、決して打ち破ることのできない鉄壁の円陣が構築された。陣形が完成するのに伴い、幾筋もの銀色の流光が、盾と盾の間を霊蛇のように這い回り始めた。
続いて、あの獬豸の冠を被った廷尉史が、弓弩手たちの援護を受けながら、大股で陣の最前線へと進み出た。彼は朱砂で染められ、廷尉の巨大な印が押された『獬豸鎮法簡』を天高く掲げ、天に向かって大喝した。 「王法ここに在り! 妖邪は法に伏せ!」
音波が轟き渡る中、彼は全身の気力を振り絞り、法簡を黄土の奥深くへと突き立て、固定した。
「グォォォォン――!」
刹那。大地が激しく震動し、法界が大いに張られた!
あの獬豸の法簡を核として、幾千幾万もの金色の符文が、鎖のように土を突き破って飛び出してきた。符文が交差し合い、金色の光が天を衝く。またたく間に半円形の金色の結界へと変化し、廷尉府の五百の兵士たちをその内側にすっぽりと保護した。
結界の表面では、無数の厳格な金色の符文が生き物のように這い回り、流転し、天地に法を敷き、万物を粛殺するかのような浩然たる威厳を放っている!
沈無は馬車を操りながら、前方に突如として出現した眩いばかりの法界を直視し、大声で叫んだ。「謝拾遺! 廷尉の本陣まで残り二百五十歩! 見ろ、相手は本気だぞ!」
謝必安は車体に群がってきた妖物を一蹴りで蹴り落とすと、フラフラと揺れながら沈無の右斜め後ろへと歩み寄った。彼は顔中から滴る汗を拭う暇もなく、懐からあの特異な芳香を放つ『太歳残核』を取り出すと、それをそのまま直接沈無の手に握らせた。
「老沈、これ、お前が全力で投げたらどれくらい遠くまで飛ぶ?」
沈無の硬いタコだらけの掌が、無造作にその重さを量り、前方の距離を目測して重い声で答えた。「百二十歩。確実にな」
「こいつを、奴らの法界に向かって思いっきり投げつけろ! 正確にな。チャンスは一度きりだ」謝必安の表情には、興奮に満ちた計算高い笑みが閃いていた。「投げ終わったら、デカい声で『Train』って叫べ! そしたらすぐに車の向きを反転させて、都の方角へ全速力で逃げるんだ!」
沈無は手に握らされたその厄介な代物を見つめ、今はもう無駄口を叩かなかった。彼は深く息を吸い込み、右腕を軽く振って筋肉をほぐし、両目を前方に一点集中させた。
百八十歩……。
百五十歩!
距離が百歩まで縮まったその瞬間。沈無は猛烈な爆喝を響かせた。腰のバネを使い、右腕全体の筋肉を隆起させ、限界まで引き絞られた強弓のように、太歳残核を廷尉府の法界に向かって全力で投擲した!
残核が手から離れ、一筋の流光と化して空を切り裂き飛んでいく。直後、彼は息を継ぐと、前方の廷尉府の大陣に向かって、梵鐘のような大音声で一つの言葉を叫んだ。
「勸――!!!」
叫び声が天地を震わせ、まだその余韻が消えやらぬうちに。 沈無の眉間は一気にきつい結び目となった。彼は完全に間抜けな顔で首を回し、尋ねた。「……それで? 何を『勧める』んだ? 武器を捨てて仏門に入れとでも勧めるのか? これだけか? 他に続く言葉はないのか?」
「ああ、これだけだ。勧めるべきものは全部勧めた」謝必安は両手を合わせ、無実の罪を着せられたような顔で瞬きをした。「南無阿弥陀仏、これぞ仁義を尽くすってやつだ。仏様が来ても文句はつけられねえよ、アーメン。老沈、何ボサッと突っ立ってんだ? 早く逃げるぞ!」
陣の中では、廷尉監が眉をひそめて尋ねた。「奴ら、何を叫んでおるのだ?」
廷尉史が耳を澄まし、少し迷ったように答えた。「どうやら……『勧』と言っているように聞こえましたが?」
「勧めるだと?」廷尉監は冷笑を漏らし、顔いっぱいに侮蔑の色を浮かべた。「死を目前にして、本官に降伏でも勧めようというのか、愚かな……」
その言葉が終わる前に、異変が突如として発生した。
半空において、あの『太歳残核』が、無数の視線が注がれる中、正確に金色の法界の表面へと落下したのだ。
金文の法界は邪祟の侵入を感知し、本能的に金色の火炎を放った。残核は瞬時に燃え上がった。 しかし、それは残核を破壊するどころか、まるで熱した油を注ぎ込んだかのように、太歳残核の内部に秘められた、天下の妖魔を狂わせるあの特異な異香を完全に、徹底的に揮発させてしまったのだ!
法界は妖邪を物理的に阻むことはできても、空気の匂いまでは遮断できない。金色の炎によって急激に揮発した異香は空気を伝って四方へ拡散し、瞬く間に結界を越え、山を崩し海をひっくり返すような勢いで廷尉府の大陣の中へと浸透していった。
この究極の誘惑の匂いは、百歩どころか、方円数里以内の妖魔であっても、今この瞬間、はっきりと嗅ぎ取れたはずだ!
刹那。これまでずっと馬車の後ろに食らいついて離れなかった巨大な妖鬼の獣の波が、一斉にその動作をピタリと停止させた。
次の瞬間。彼らはまるで操り人形の糸を引かれたかのように、一斉に、寸分違わず首をねじ曲げた。無数の血走った暴虐の眼球が、一斉に廷尉府の大陣の方向を向いた。なぜならあそこからは、このボロ馬車よりもはるかに、絶対に抗うことのできない強烈な誘惑の香りが漂ってきていたからだ。
「ガアァァーー!!!」
少なくとも三分の二の妖群が、その場で一斉に進行方向を反転させた。彼らはあのボロ馬車のことなど完全に頭から消し去り、黒い決壊した濁流のごとく、廷尉府の大陣に向かって一切の顧みもなく狂ったように突撃を開始した!
真っ先にその矢面に立たされたのは、本陣の縁に後退してきたばかりの、あの数十名の廷尉府の騎兵たちだった。 彼らは完全に呆気にとられていた。眼前に迫り来る海嘯のように天を覆う妖鬼の狂乱の波をただぼう然と見つめ、馬首を反転させて逃げることすら忘れ、一人残らずその場に硬直して脳内を真っ白にしていた。
ここに至って、廷尉監はついに事の異常性に気づいた。先ほどの狂喜と傲慢さは一瞬にして跡形もなく吹き飛び、顔面を紙のように蒼白にし、声を嗄らして絶叫した。「矢を放て! 早く放て! 早く誅邪の矢を射掛けるのだァァ――!」
「ヒュン、ヒュンヒュン――」
恐慌状態に陥った弓弩手たちは、慌てふためきながら無秩序に弦から手を離した。まばらな弩の矢が放たれ、破魔の金光を帯びた矢が最前列を走っていた妖魔の群れを大量に射殺した。 しかし、あの野山を埋め尽くすほどの大群を前にすれば、この数えるほどの矢など、燃え盛る荷車にコップ一杯の水を掛けるようなものに過ぎなかった!
「ドゴォォン!!」
第一波の妖獣が、後方からの猛烈な押し出しを受け、そのまま金色の法界へと激突した。法界は瞬時に金光を大爆発させ、符文が激しく躍動し、瞬く間に最前列の数十匹の妖獣を、生きたまま血の霧へと震砕した!
だが、それに続いて第二波、第三波が、まるで尽きることのない無窮の妖鬼の狂乱となって、死を恐れぬ勢いで次々と覆い被さってくる……。
ほんのわずかな時間の間に、金色の法界の外側には、妖魔の死骸が積み上がってできた血肉の壁がすでに形成されていた。最前線で盾を構える重装歩兵たちは、半透明の結界越しに、外側で絶え間なく積み上げられていく歪な死体と、結界の表面にぴったりと張り付き、どす黒いヨダレを垂らしている獰猛な巨大な口を目の当たりにしていた。
戦鼓の音はまだ鳴り止んでいないが、重甲の中はとうに冷や汗でぐっしょりと濡れそぼっていた。この人の世の物とは思えない恐怖の光景を前に、歩兵たちの心は恐怖でひどく揺らいでいた。 誰かの足が竦んだのか、一人が最初に後方へ半歩退いた。その刹那、本来なら決して打ち破ることのできない、盾と甲が堅く連なった鉄壁の円陣に、目に見えない綻びの兆しが現れた!
「半歩でも退く者は、その場で斬り捨てい――!」
廷尉史は即座に腰の佩刀を引き抜き、目を剥いて大喝した。雪のように白い刀の刃を前方へ真っ直ぐに向け、軍法の森厳さをもって、今にも崩壊しそうな軍心を強引に押さえ込もうとした!
鋼の刀が肉に食い込み、血の光が弾けた! 後方に控えていた督戦隊が声を聞いて進み出ると、無表情のまま刀を振り下ろし、逃亡を企てた数名の歩兵を無情にも斬り殺した。
だが、これらはすべて無駄な足掻きに過ぎなかった。
「ピキッ……パキィィッ――」
大魏の威厳を守護すべき、万法不侵と謳われたあの国運法界は、数千匹に及ぶ妖祟の決死の特攻と絶え間ない衝撃の前に、ついに耐え得る限界点に達してしまった。 目を見開いて絶望する無数の視線の中で、無数の金色の符文が、清冽な破砕音と共に、皆の目の前で完全にその効力を失い、砕け散った!
「ギャァァァ――!」
体躯の巨大な黒毛の熊妖が咆哮しながら陣の中に飛び込み、巨大な掌で一名の重装歩兵を盾ごと地面に叩き潰した。数匹の毛のない媪妖が人混みの中を素早く駆け抜け、鋭利な爪で兵士たちの喉笛を次々と切り裂いていく。大きく開かれた口がそれに群がり、噴水のように噴き出す鮮血が大地を真っ赤に染め上げた。
引き裂かれた手足が半空を舞い飛ぶ。廷尉府が誇る精鋭の歩兵たちは、死を恐れず、ただ太歳残核を貪り食うことだけを目的に襲い掛かってくるこの怪物どもの前に、熟した麦の穂のように、まとめて薙ぎ倒されていく。
廷尉監は、この現世の地獄のような惨状を前に、もはや言葉を発することもできなかった。彼は首を回し、すでに遠ざかっていくあの馬車の背中を見つめた。佩刀を握る手は激しく震え、もはや刀を握り続けることすらできず、絶望と底なしの怨毒に満ちた咆哮を響かせた。
「謝必安――!! 貴様、絶対にマトモな死に方はせんぞォォ――!!」
謝必安は遠ざかる馬車の後部に立ち、軽薄な態度でヒラヒラと手を振って見せた。
馬車は、背後に残されたわずか数匹の貧弱な妖獣だけを引き連れて、後ろで繰り広げられる盛大な殺戮の宴を尻目に、余裕の足取りで都へ向かう官道へと走り去っていった。
†
【司天監内部メモ】
古文書によれば、「勧」の字には、古くはTrain――群妖を引き連れて他人になすりつけること――という意味があったらしい。 ただし奇妙なことに、現存する辞書にも経典にも、そのような語義は一つとして記されていない。 一説には、ある拾遺が勝手に言い張っただけともいう。
【作者より】
お読みいただき、ありがとうございます。
この怪談や猫たち、そして少し奇妙な物語の数々が、皆さまの食事のひとときや、一杯のコーヒーを楽しむ時間、あるいは眠れない夜のお供になれたなら、とても嬉しく思います。
もし気に入っていただけましたら、フォローや評価、感想をいただいたり、この物語を好きになってくれそうな方に紹介していただければ幸いです。
皆さまからの一つ一つの応援が、私がこの物語を書き続ける力になります。
―― 仔猫




