第89話 金蝉脱殻《きんせんだっかく》
【巻ノ二・残頁捌拾玖:『大荒異聞録・蜃影』残巻】
「海市蜃楼は、皆、大妖の吐納より生ずるものなり。
雲を呑み霧を吐き、真形を五色の流光の中に匿し、地を縮めて寸と為す。凡胎の肉眼の窺い得る所に非ず、亦た尋常の金鉄の及ぶ所に非ず」
†
官道の上では、あの屋根のない馬車とそれを牽く蜃驪が、濃霧の中でとうに歪み、変形していた。
鏡妖司の者たちの視点から見れば、馬車全体が蒸気のようでもあり濃霧のようでもある曖昧な虚影の中に包み込まれ、雲霧の奥深くからは時折、不気味な微光が漏れ出しているように見える。
「ヒュンッ! ヒュンヒュンヒュン――!」
第一波の重弩の矢の雨が、空気を引き裂く甲高い悲鳴を交えながら、次々とその虚影の中へと突き刺さった。
だが、予想された木の板が砕ける鈍い音も、血肉が貫かれる惨鳴も聞こえてこない。鉄の鎧さえも容易く撃ち抜く数十本の重矢は、泥でできた牛が海に入るかのように白霧の中へと没し、微かな波紋すら立てることはなかった。
鏡妖司の者たちは驚愕の表情を浮かべ、武器を握る掌から無意識のうちに冷や汗が滲み出た。
百戸は青銅仮面の奥で双眸をわずかに細め、冷たい鼻息を一つ漏らした。彼は再び手を振り下ろす。後方の拒馬の陰から第二陣の緹騎が素早く進み出て位置につき、直後にまたしても密度の高い黒い矢の雨が吠え猛りながら放たれた。
結果は同じだった。音もなく、影もなく。まるで彼らが矢を放っている相手は、ただの虚無で捉えどころのない幻夢に過ぎないかのようだった。
あの霧の巨繭が官道の上を刻一刻と迫ってくるのを見た百戸は、目を裂けんばかりに見開き、声を荒げて怒鳴った。
「鳴鏑! 縛索衛、陣を起こせ!」
「ピィィーッ!」
鋭い長い音を引く鏑矢が、天高く打ち上げられた。
官道の両側で、数十名の縛索衛が全身の筋肉を隆起させ、一斉に怒号を上げながら同時に力を込めた。泥濘の下に埋められていた太い絆馬索が瞬時にピンと張り詰め、泥水を跳ね上げながら飛び上がる!
落とし穴の後方では、重甲の緹騎たちがとうに斬馬の長刀を引き抜いていた。冷え切った刀の刃を輝かせ、逆棘だらけの拒馬の後ろに静かに伏せ、獲物が自ら網へ飛び込んでくるのをただ待っている。
「絆馬索に落とし穴、加えて拒馬まである」百戸は腰の刀の柄を押さえ、歯を食いしばった。「本官は絶対に信じないぞ、貴様らが地を潜り天へ昇れるとでも言うのか!」
待機する時間は、いつだって果てしなく長く感じられるものだ。
誰もが前方を直視し、視線を一寸たりとも外そうとはしなかった。寒気を帯びた霧が彼らの傍らや足元を舐めるように流れていく。
十の呼吸が過ぎた。二十の呼吸が過ぎた。優に線香が半分燃え尽きるほどの時間が流れ去った。
予想されていた激しい衝突は、一向に訪れなかった。
あの雲霧の塊は、落とし穴に落ちることも、絆馬索に引っかかることもなく、なんと皆の目の前で跡形もなく綺麗さっぱりと散り去ってしまったのだ。まるで、彼らが先ほどまで敷いていた厳戒態勢の陣形が、ただの滑稽な茶番劇に過ぎなかったかのように。
その場は水を打ったように静まり返った。
緹騎たちは顔を見合わせ、刃を握る手を半空で硬直させたまま、収めるべきか構え続けるべきか分からずにいた。厳格な軍令に縛られ、誰一人として物音ひとつ立てる勇気もなく、ただ横目で、後方から凄まじい低気圧を撒き散らしている百戸を恐る恐る盗み見るしかなかった。
青銅の仮面の下で、百戸の顔色は最初の沈着から、獲物が食いついた時の嗜血の興奮へ、そして最後には少しずつ谷底へと沈み込み、鉄青色に染まった陰惨な表情だけが残された。
「クソッ!」
百戸は突如として環首直刀を引き抜いた。雪のように白い刀光が閃き、一刀のもとに傍らの拒馬を真っ二つに叩き斬った! 彼は怒り狂って咆哮した。
「貴様ら、全員死人にでもなったのか! 今すぐそこへ行って調べてこい!」
「は、はっ!」
「急げ! 続け!」
雷鳴のような怒号が死の静寂を打ち破り、恐慌状態に陥った応諾の声がすぐさまあちこちから上がった。
だが、鏡妖司の軍陣が混乱に陥っていたまさにその時。あの忽然と消え失せたかに見えた馬車は、実際には常理では到底測ることのできない、極めて異常な空間の中に身を置いていたのだ。
車内において、蜃驪はすでに完全に『蜃景』の中へと逃れ入っていた。現世の山川や道路は強引に引き伸ばされて錯乱した光と影へと変わり、馬車全体もかつてないほど激しい揺れに見舞われていた。
本来なら片隅で丸まり、寝不足を補うように眠っていた阿奴は、この突如の激震によって揺り起こされた。彼女が目を開け、まだ周囲の状況をはっきりと確認する間もなく、泥汚れと生臭い匂い、そして金色の猫の毛が混ざり合った分厚い肉の塊が、息もできないほどの重みで自分にのし掛かっていることに気づいた。
生来、極度の潔癖症である阿奴の脳内で、理性の糸が「プツン」と音を立てて切れた。彼女は無駄口を叩くことすら面倒とばかりに、両方の前足を即座に残影と化し、目の前の太った顔面へ、雨あられと高速猫パンチを連打した。
『いてえっ! 叩くな! ちょっと待って、叩くのやめろって!』
銜蝉は頭をコブだらけにされ、頭を抱えてしきりに命乞いをした。
『お前……お前って婆ぁは、なんて恩知らずなんだ! 俺様が死に物狂いで庇ってやらなきゃ、さっきの揺れで、お前なんかとっくに車の外へ吹っ飛ばされてたんだぞ! 親父ぃ! あんたからも何か言ってやってくれよ、早く俺様を助けてくれ――! ストップ……痛いってば!』
謝必安はこの時、両手で死に物狂いに手すりにしがみついていた。全身をめちゃくちゃに揺さぶられ、胃の中はひっくり返るような大波に襲われている。彼は青ざめた顔で、この生きた道化二匹を叱りつけようと口を開きかけたが、その瞬間。
彼の傍らにあった、ただでさえボロボロだった車体の板が突如「バキッ」という脆い音を立てて折れ、直後に狂風に引き裂かれ、車外の虚無の中へと巻き込まれていった。
車外の光景が、何の遮りもなく三人の目の前に広がった。
車外は枯れ木と濃霧だろうとばかり思っていた彼らの目に飛び込んできたのは、認識を根底から覆すような世界だった。
官道を覆っていた濃霧はとうに消え失せ、見渡す限り、互いに絡み合い、絶え間なくうねり狂う七彩の虹色の光が広がっている。
この虹色の光は濁流のように、あるいは潮の満ち引きのように、無数の光と影を引き伸ばし、細かく砕き、ねじ曲げていた。砕けた車体の壁越しに、大荒の原野、枯れ果てた古木、さらには驚愕に顔を強張らせた幾人もの人々の顔が微かに見えた。現世のあらゆる光景が、まるで溶け出した蝋燭のように、何筋もの流れる光の帯へと引き伸ばされているのだ。
馬車は今、この世の走馬灯の内部を駆け抜けているようでもあり、あるいは無数の夢境が交差して編み上げられた極彩色のトンネルの中に身を置いているようでもあった。色とりどりの斑な光と影が交差し、彼らの顔を掠めていく。ひと呼吸するたびに、周囲の色彩が絶え間なく解体と再構築を繰り返し、ため息が出るほど美しい光景だったが、謝必安と沈無は同時に背筋が粟立つような恐怖を覚えた。
ここにおいては、空間と時間の境界線が曖昧に溶け合っているように感じられた。ただ前方で、相変わらず雲霧の蒸気を吐き出し続けているあの蜃驪だけが、死に物狂いでこの馬車を牽き、光怪陸離たる虚無の中を波を割って突き進んでいた。
車内はひび割れんばかりに激しく揺れ動く。沈無は片膝をつき、右手の百辟喪門刀を木の床に深く突き刺し、その力を借りて身体を安定させている。左手は千糸叟の乱れた髪の束をガッチリと掴んでいた。もし千糸叟の口にボロ布が詰められていなければ、今頃は天地をひっくり返すような勢いで罵詈雑言を喚き散らしていただろう。
沈無は外の常理を覆す奇景を見つめ、首を回して大声で叫んだ。「謝拾遺、これが一体何の妖法なのか、さすがに説明してもらうぞ!」
「阿奴、ちょっと、ちょっと待て……」謝必安は顔色を土気色に変え、苦しげに手を振った。「蜃驪の速度が落ちてから……説明する……ウッ……もうダメだ……気持ち悪い……吐きそう……」
阿奴は、いつでも吐きそうな謝必安の無様な姿を見て、怒ったように冷たく鼻を鳴らした。彼女はまず銜蝉を隣へ蹴り飛ばし、それから身体を動かして、この二人から一番遠い角を選んで端座した。そして、ひどく嫌そうな顔で、爪にこびりついた汚れと猫の毛をペロペロと舐めて手入れし始め、あの太った猫の方など二度と見ようとはしなかった。
銜蝉はひどく惨めな顔で、一回りも腫れ上がった丸顔をさすりながら、車の隅に縮こまって小声でブツブツと文句を言った。
『親切でやってやったのにこの仕打ちかよ……お前って婆ぁはなんて理不尽なんだ。大して何も食ってないくせに、どこからそんな馬鹿力が出てくるんだよ。手がマジでえげつねえ……』
直後、またしても車体の木の板が風に巻き上げられて吹き飛んだ。バラバラに解体されていく馬車を見て、謝必安たちの顔色もそれに伴ってさらに引き攣り、険しさを増していった。
その頃、隘路の官道において。
偵察を命じられていた数名の斥候が、恐慌状態に陥りながら陣の前に逃げ帰ってきた。その中の一人が膝に手をつき、大口を開けて荒い息をついた。「百、百戸殿に御報告いたします……! 影も形もありません! 前方の官道を隈なく探りましたが、何一つ残っておりません! あの馬車は……本当に虚空へと消え去りました!」
それを聞いた百戸の胸中で、怒りの炎が火山のように噴出した。彼はその斥候に強烈な蹴りをお見舞いして地面に転がし、声を嗄らして咆哮した。
「消え去っただと? 百を超える目が、揃いも揃って見張っていたんだぞ! それで巨大な馬車一台を完全に見失っただと? そんな馬鹿げた怪談を、誰が信じるというのだ! 鏡妖司の顔に泥を塗りおって、この役立たずどもめ! これで『照瑕堂』がこれから先、どうやって司の中で顔向けできるというのだ! ボサッと突っ立っているな! 全員散開して探し出せ、地面を三尺掘り返してでも見つけ出せ!」
彼は荒い息を吐きながら、陰惨な眼差しで、いつまでも晴れない周囲の濃霧を睨みつけた。「早馬を飛ばせ。同時に、後方にいる廷尉府の連中にも知らせろ! クソッ、今回ばかりは鏡妖司も特大の恥を掻かされた。本官はこの命に代えても、必ずやこの事態の落とし前をつけねばならん!」
瞬く間に、線香一本が燃え尽きるほど時間が焦燥の中で流れ去った。
百戸は刀の柄を固く握りしめ、冷たい声で傍らの副官――試百戸に尋ねた。「あれだけの人数を派遣したというのに、どうして未だに一人からの報告すら上がってこないのだ?」
試百戸の額に冷や汗が滲んだ。「ただちに催促に参ります……」
言葉が終わるか終わらないかのうちに。
「グガァァーーッ!!」
耳をつんざくような狂暴な嘶きが、官道両側の密林の奥深くから唐突に響き渡った。続いて、絶え間なく続く凄惨な惨鳴が白霧を突き破り、まるで疫病のように林の間に急速に蔓延し始めた。
百戸は肝を冷やし、致命的な危機を悟った。即座に刀を引き抜き、大喝する。「全軍警戒! 円陣を組め! 迎撃せよ!」
彼は大股で前に進み出ると、声を荒げて問い詰めた。「どこで何が起きた! 報告しろ!」
前方の濃霧がうねり、二名の緹騎が全身血まみれの斥候を両脇から抱え、よろめきながら進み出てきた。その斥候の着ていた皮鎧はズタズタに引き裂かれ、腹腔は無残に破れ開いていた。彼はこぼれ落ちる腸を両手で抱え、最後の力を振り絞って百戸の腕を掴んだ。両目をカッと見開き、喉の奥から断続的に「ゴボッ、ゴボッ」という音を立てる。
「妖……魔が……多すぎる……山を……埋め尽くして……」
言葉を終える前に、斥候はガクンと頭を垂れ、その場で息絶えた。
百戸はその死体を凝視した。骨まで達する凄惨な爪痕と、傷口に未だに残る濃烈な妖気。
それと先ほどの忽然と消え失せた馬車を考え合わせ、一つの荒唐無稽だが背筋の凍るような仮説が、瞬間的に彼の脳裏に閃いた。
奴ら、故意にやったのだ!
この時、円陣の周囲から惨叫が次々と上がり始めた。濃霧の中、無数の血走った紅い眼球が暗闇で連続して点灯する。血肉を咀嚼する音と骨が砕ける音が、まるで潮の満ち引きのように四方八方から迫ってきた。
群妖どもには、明らかに歩みを止める気配がなかった。奴らを狂乱させているあの腥く甘い匂いはまだずっと先にあるが、目の前で刀を構えて陣を組んでいるこの生きた人間たちの集団が、偶然にも獲物を追う道筋を完全に塞いでいたのだ。
「撤退だ! 全軍撤退せよ!」百戸は即座に決断を下し、全力を振り絞って大声で怒鳴った。
前方の親衛が刀を振り回し、飛びかかってきた首無しの屍怪を斬り退ける。それを見た試百戸が焦ったように振り向き、大声で叫んだ。「お頭、早く下がってくだせえ! もう持ちこたえられません。今逃げなきゃ手遅れになります!」
数名の親衛が決死の覚悟で死に物狂いの援護をする中、百戸は無様な姿で後方へと血路を切り開いていった。彼は何度も振り返り、無数の部下たちを飲み込んだあの濃霧を睨みつけた。目尻が裂け、鮮血が頬を伝って流れ落ちる。最後に彼は、底なしの怨毒に満ちた咆哮を轟かせた。
「謝必安――!! 沈無――!!」
一方、この隘路から一里離れた両側の山頂。
全身が漆黒で、なんと背中の上に眼球が逆さに生えている不気味な烏が、枯れ枝の上に静かに佇んでいた。
烏は頭を傾け、背中にある濁った人間の目で、眼下で繰り広げられている一方的な殺戮を見下ろしている。鳥の嘴が微かに開き、その喉の奥から、なんと色気を帯びた艶やかな女の笑い声を吐き出した。
「見つけたわ……本当に厄介な事ばかり起こす人……」
さらに反対側の険しい尾根では。本来なら木の梢に引っかかっていたはずの雪のように白い紙鳶が、風一つない死の静寂の中で、自ら枯れ枝の束縛を振り解いていた。
紙鳶の表面に点々とした赤い斑点が滲み出し始め、それが絶え間なく広がり、朱砂で描かれたかのような幾筋もの歪な文字列を形成していく。林の中で起きているこの凄惨な光景のすべてを悉く拓本のように写し取ると、直後、生き物のように羽ばたいて舞い上がった。重なる迷霧を掠め飛び、建康城がそびえる方角へ、疾風のように飛び去っていった。
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【司天監内部メモ】
謀略の駆け引きで勝敗を分けるのは、情報の非対称性(情報差)だ。
一生涯、相手より賢くあり続ける必要はない。相手より、線香が半分燃えるほど早く答えにたどり着けば、それで勝ちなのだ。残された時間があれば、穴を掘り、人間を埋め、ついでに道を急ぐには十分すぎる。




