第85話 霜降《そうこう》
【巻ノ二・残頁捌拾伍:『大荒異聞録・銀母』残巻】
「極北に獣有り。其の身、銀の如く、足は地を履まず。
性は傲にして潔を好み、露を飲み、丹を食らう。怒れば霜を千里に飛ばし、百鬼、夜に哭く。その爪は幽冥を探り、造化を奪うこと、草芥を拾うが如し」
†
阿奴の小さな口が微かに開き、肉眼ではっきりと見える白い冷気を一筋吐き出した。
周囲の気温が急降下する。わずかに残っていた篝火の火種は、もがく暇すらなく瞬時に凍りついて消滅した。地面に広がっていた血水が急速に凝結し、青白い強固な氷の層へと変わっていく。
左右で色の異なる瞳が、片方は青く、もう片方は黄金色に輝き、刺すような寒光を放った。周囲の空間が激しく歪み始めた。
彼女の小さな猫の身体が濃密な氷霧の中で絶え間なく伸び広がり、同時に、骨格が伸び、組み変わっていくピキピキという微細な音が連続して響いた。やがて清冽な結晶音と共に、その氷霧が完全に散り去った。
靄が晴れ、月光が降り注ぐ。
そこに、しなやかで均整の取れた肢体と雪のような肌を持つ少女が虚空に立っていた。星明かりと残月を背に負ったその姿は、冷たく透き通り、俗世の塵一つ纏っていない。
道中で妖丹を飲み込み続け、そのたびに脱皮を繰り返してきた阿奴は、今やかつての幼く愛らしい姿ではなかった。背丈は伸び、人間でいう十四、五歳の美しい少女の姿へと羽化しており、その目元や眉間にはすでに清冷な美しさが宿っている。
彼女は依然として、氷霜で凝結した一着の広袖流仙裙を身に纏い、全身から月銀のような淡い光の粒を零していた。
豊かな銀糸の髪が秋風の中で奔放に舞い踊る中、ただ一つ、髪の間に獣の骨で彫り上げられた半月の簪が挿されていた。そこにあしらわれた一滴の血のような赤い瑪瑙が、氷のような色彩の中でひどく目を引く。周囲の物音を聞き取ったのか、彼女の頭頂部にある銀白色の猫耳が、鋭敏にピクリと震えた。
その光景を目の当たりにした銜蝉は、目ん玉が飛び出んばかりに驚愕し、アホ面を晒して思わず口走った。
『阿奴、お前……デカくなったのか? しかもなんか……』
言葉が終わる前に、阿奴の凍てつくような眼差しが、鋭い刃のように銜蝉を射抜いた。銜蝉は恐怖で全身の金毛を逆立て、即座に気を引き締めると、首をすくめてもはや一言も発することができなくなった。
彼女はゆっくりと顔を下げ、冷たい月のような双眸で、眼下にいる千糸叟を無関心に見下ろした。
この光景を見た沈無は心底肝を冷やした。この息の詰まるような対峙が長くは続かず、すぐに血の雨が降ることを彼は痛いほど理解していたのだ。
この鏡妖司の千戸は即座に決断を下し、身を翻して意識の朦朧とした謝必安の元へ飛び、彼を強引に肩へ担ぎ上げた。刹那、彼の身体は残影と化し、爪先で虚空を連続で蹴り、一気に広場から数十丈後退し、崩れかけた壁の後ろへ身を隠すまで止まらなかった。
一方の銜蝉の動きは彼よりもさらに素早かった。四つの爪をフル回転させ、まるで脇腹に翼でも生えたかのように、一筋の金色の光となって沈無の前を走り抜けていった。半歩でも遅れれば、あの女の理不尽極まりない「寝起きの八つ当たり」に巻き込まれると知っていたからだ。
一行が間もなく修羅場と化すこの死地から撤退すると、喧騒はピタリと止んだ。先ほどまで怒号と殺気が入り乱れていた広場は一転して静まり返り、千糸叟と阿奴だけが遠く向かい合った。
千糸叟は捕食者から発せられる明確な脅威を感じ取り、心の中で警鐘が激しく鳴り響いた。今日ばかりは、敵に回してはならぬ相手を敵に回したと悟り、即断即決で己の舌先を噛み破り、ドス黒い精血を一口噴き出した。精血は血霧と化し、周囲に転がる死体と黒髪の中へことごとく吸収されていった。
悪臭を放つ無数の毛髪が蠢き、成長し、交差して編み上げられ、千糸叟の頭上と周囲に、黄色い屍油を滴らせる、分厚く重い髪の盾を形成し、厳重な防御陣を敷いた。
だが阿奴はそれに気づきもしないかのように、まぶた一つ上げず、ただ優雅に霜の紗手袋を嵌めた右手を上げ、眼下へ向かって静かに、ふわりと押し下げるような動作をした。
瞬間。夜空が震え、純粋な霊気だけで凝結された巨大な銀色の氷霜の猫の掌が、一切の抵抗を許さぬ圧倒的な威圧感を伴って、下方へと轟然と叩き落とされた!
あの無類の強靭さを誇るかに見えた髪の盾は、銀光に触れた瞬間に耳をつんざくような鋭い摩擦音を爆発させた。
千糸叟の顔色が変わる。屍油を自然発火させ、その屍火の高熱で極寒に対抗しようと試みたが、半息にも満たない時間のうちに、その理不尽なまでの超低温によって完全にねじ伏せられてしまった。
拮抗していた力関係が一瞬で一方に傾く。パキパキという凍結音が密集して響くにつれ、広場で黒髪に操られていた屍怪どもは、ガラス細工のように脆く無防備なまま、完全に氷漬けにされた。
次の瞬間、猫の掌の重圧に耐えきれず、一斉に崩壊した。あとに残ったのは、地面一面に散らばる透き通った氷粉だけだった。腐肉のひとかけらさえ残らなかった。
阿奴は己の両手を見つめ、少し苛立たしげに冷たく舌打ちをした。
この新生の肉体は一見完璧に見えるが、実際には形と精神がまだ完全に馴染んでいないのだ。手を持ち上げるたび、抑えきれない凍てつく冷気が袖口から零れ落ちてしまう。
道中で飲み込んできた大量の妖丹は、彼女を強引に新たな次元へと押し上げたものの、完全に錬化し切るまでは、やはり容易には飼い慣らせない荒々しい外力であることに変わりはなかった。
千糸叟は髪の盾が崩壊した隙を突き、猛烈な勢いで数丈後方へ飛び退くと、残った黒髪をすべて袖の中へ回収した。
彼の空っぽの眼窩の中で、黒髪が蛇のように興奮して蠢いている。口からはしゃがれた不気味な笑い声が漏れた。
「大した奴だ。大魏の国内で、人の姿に化形できる霊獣など、老夫はもう十数年も見ておらぬ。お前のその修為、一体どれほどの同類を喰らって積み上げたものだ? 老夫が当ててやろうか。五百か? 八百か? それとも千は下るまい? まだ若いゆえ、本来なら大成する器であったろうに。惜しむらくは、つき従う相手を間違えたことだな」
阿奴は氷の結晶が混じった寒気を小さく吐き出し、桜色の唇を微かに開いた。その口調には、苛立ちを帯びた傲慢と、隠しようのない軽蔑が滲んでいた。
「汚らわしい塵芥が……妾を値踏みするでない」
「ハッハッハ! 今日の老夫はなんと運がいいことか!」千糸叟は怒るどころか狂喜し、枯れ枝のような両手で胸の前に素早く印を結んだ。「謝必安の万金の首を取れるだけでなく、化形できる大妖までタダで手に入るとはな! 老夫が今日この場でお前を叩き伏せ、その魂を抜き取り、奴婢の契りを結ばせてやろう!」
「口数の多い愚か者から、先に死ぬものぞ」
猫の少女が言い終わらないうちに、千糸叟はすでに猛然と攻撃を仕掛けていた。
「ドォォン!」
千糸叟の両袖が激しく膨張した。長年屍油に浸し続けた彼の秘術、膏肓の屍線が決壊した黒い波のように溢れ出す。腐った死体の油と棺の底の陰泥で練り上げられたこの邪法は、法器に粘りつき、霊気を汚染して腐食させることに最も長けている。黒髪が這い過ぎた跡では、地面を覆う寒霜さえ、生臭い黄色の油光を帯びていった。
数万本に及ぶ長い髪が、決壊した黒い濁流のように凍りついた地面を、狂ったように這い進んでいく。この天を覆うほどの髪の毛が半空で狂ったように絡み合い、編み上げられ、わずか数呼吸の間に、何十本もの、無類の鋭さを誇る黒い長槍へと姿を変えた。鼻を刺す生臭い風を巻き起こしながら空気を切り裂き、四方八方から空中の阿奴へ向かって一直線に殺到する!
天羅地網のごときこの包囲殺戮を前にしても、阿奴は慌てることなく、泰然自若としていた。足元で虚空を踏みしめ、その身のこなしは、下界の塵に触れぬ一片の雪のように軽やかだった。広袖流仙裙が夜風の中でヒラヒラと翻り、その動きは舞うようでもあり祈るようでもあり、息を呑むほど美しかった。
彼女は最初から最後まで複雑な法印を結ぶような素振りを見せず、最後にはただ優雅に、足の爪先で虚空を「トン」と軽く叩いただけだった。
水晶のように透き通った氷霜の雪蓮が、彼女の足元で開花した。周囲十丈以内の空気が一瞬にして無数の微細な氷の刃へと凝結し、迫り来る黒い長槍の群れを迎え撃つように渦を巻いて突進した。
氷の刃と長槍が空中で激突し、乾いた摩擦音が響く。千糸叟の膏肓の屍線は異常なほど強靭だった。表面にこびりついた屍油が高温の摩擦によって鼻を刺す黄色い煙を上げながらも、なんと氷の刃による切断に耐え抜いたのだ。
長槍は表面が凍りついて速度こそ劇的に落ちたものの、依然として凄まじい威力を保ったまま、阿奴の周囲へと肉薄してきた。
「小賢しい真似を! 妖女め! お前のその程度の寒気では、老夫の泣血の怨瘴を凍らせることはできん!」
千糸叟の両手十指が、琴を弾くかのように猛烈な速さで弾かれた。凍りついて速度の落ちていた長槍が、まるで主の命を受けたかのように空中で一斉にバラバラにほどけ、天を覆い太陽を隠す巨大な黒い網へと変化し、阿奴の頭上からすっぽりと被さってきた。
その大網を構成する髪の毛の一本一本には、無数の細かな逆棘がびっしりと生えている。一度でも絡みつけば、骨に巣食う蛆虫のように肉に食い込み、宿主の霊力を貪り食い尽くすのだ。
阿奴の表情に、はっきりとした嫌悪の色が閃いた。彼女は生来の極度の潔癖症であり、美しいものを愛する。このような汚らしい汚物が、自分に半寸でも近づくことなど絶対に許せなかった。
彼女は冷たく鼻を鳴らし、胸の前で両手を合わせて印を結んだ。十指が交差し、花の間を飛び交う蝶のように素早く動く。指先が印の形を変えるたび、氷晶で形作られた古の符文が、空中に次々と浮かび上がった。
彼女の両掌が最後に「パン」と合わさった瞬間、宙に浮いていた氷の符文が一斉に砕け、その光が一つに融合した。次の瞬間、彼女の全身から凄まじい霜の輝きが弾け、目を射るような銀色の光輪となって広がった。
「玄霜・拒!」
彼女を中心にして外側へ向かい、肉眼ではっきりと見える青白い氷霜の波紋が薙ぎ払うように広がった。
黒い大網がその波紋に触れた瞬間、表面の屍油は瞬時に灰白色の霜へと凝固し、次の瞬間には粉となって風に散った。髪の毛はしなやかさを完全に失い、硬く脆くなった。
阿奴が広袖を一振りすると、凄まじい突風が巻き起こり、その硬直した黒い網を、空一面に舞い散る無数の黒髪の氷片へと粉砕した。その一瞬、夜空は白と黒の点と線が交差する、まるで余白を活かした水墨の山水画のような光景を描き出した。
だが、司天監の裏の仕事を専門に請け負ってきた千糸叟のような老練な猟犬は、生涯の中で修羅場など嫌というほど経験してきている。
この美しい「山水画」が砕け散ったその刹那。阿奴の足元に張っていた氷の層が、何の前触れもなく砕け散った。
先ほど車を破壊した髪の大蛇よりもさらに十倍は太い、血と肉と屍の骨、そして黒髪が混ざり合って構成された醜悪な大蛇が、長く息を潜めて好機を待っていた獰猛な黒竜のように、腥い悪臭を放つ巨大な口をカッと開き、阿奴の両脚を下から丸呑みにしようと食らいついてきたのだ。
この一撃は正に迅雷の如く、その軌道はあまりにも狡猾で、悪辣だった。
地底から伏兵が飛び出して初めて、阿奴は悟った。先ほどの髪の槍も黒い大網も、決め手ではなかった。それらはすべて、あらかじめ死骨が埋め尽くされていた凍土の真上へ彼女を誘い込むための布石だったのだ。
阿奴は美しい眉を寄せ、半空で身体を強引に捻った。だが、その汚泥の大蛇はあまりにも巨大だった。腥い悪臭を放つ泥の飛沫が容赦なく飛び散り、彼女の穢れなき真っ白なドレスの裾を今にも汚そうとしている。
生死を分かつその瞬間。阿奴の左手が無意識のうちに上がり、髪の間に挿された獣骨の半月簪――月魄琉璃簪へと触れた。
この代物は、天地の精華と奇獣異獣の骨が融合して鍛え上げられた強力な法器だ。簪の中には、阿奴がこれまで少しずつ蓄積してきた至純の琉璃の浄化の力が封じ込められている。これを完全に解放してしまえば、その後に何が起こるか予測もつかない。
指先が冷たい簪の表面に触れた瞬間。彼女の眼差しの端が、無意識に謝必安たちのいる方向へ流れた。その瞳の中に一瞬だけ逡巡の色がよぎり、次の瞬間には激しい怒りへと変わった。
(泥に塗れた穢物ごときに、これを使う価値があるというのかえ?)
もしここで簪を抜けば、それは自分が氷霜の力だけではこの薄汚い老いぼれを抑え込めないと認めるに等しい。
阿奴の指先がビクッと縮み、即座に決断を下した。彼女は思い切って手を引っ込め、目前に迫る凶悪な一撃へ全神経を集中させ、己の力だけで迎え撃つことを選んだ。
だが、達人同士の戦いにおいて、勝負は一念の迷いで決する。
その電光石火の間のわずかな躊躇が、彼女に最適な応戦のタイミングを逃させてしまった。
「キケケケッ! 捕まえたぞ!」
千糸叟の狂喜に満ちた叫びが響いた。この黒い大蛇は直接食らいつくのではなく、突如として空中で大爆発を起こした。
空を覆い尽くすほどの、産毛ほど細く肉眼では捉えきれない黒い怨糸が、腐った血肉の雨に紛れ、水蛭のように阿奴の左腕へびっしりと絡みついた。
「シュッ――」
布が裂ける音と、肉が切れる音が同時に響いた。怨糸が少女の白い肌に食い込み、その下の肉まで無情に切り裂いた。微かな銀の光を帯びた鮮血の赤い筋が、彼女の細い腕を伝って蛇のように流れ落ち、広袖流仙裙に幾つもの鮮烈な紅梅の花を咲かせた。
阿奴は痛みに小さな呻きを漏らしたが、歯を食いしばってそれを押し殺した。
遠くからそれを見上げていた謝必安が、思わず悲痛な叫びを上げた。
「阿奴! ゲホッ、ゴホッ……」
†
【司天監内部メモ】
交渉の席では、声の大きさなど武器にならない。手札が強くて初めて、こちらの理屈が通る。
だが、札をめくった後になって、向かいに座っているのが「寝起きの機嫌が最悪な凶獣」だと気づいたなら、それはもう交渉ではない。自分がどのように死ぬか、死に方のメニューを選ばされているだけだ。




