第82話 山雨来たらんと欲して、風楼に満つ
【巻ノ二・残頁捌拾弐:『大魏奇門考・陣噬』残巻】
「凡そ大波の起こるは、必ず微かな浮草より発す。人心に一念生ずれば、百鬼たちまち其の腥きを嗅ぐ。万劫の始めは、皆、紅塵の一牽より生ず」
【司天監内部メモ】
人生が突然好転した時ってのは、ケチな上司が柄にもなく豪華な夕飯を奢ってくれるようなものだ。裏には必ず、命懸けのクソ仕事が隠れている。
†
蘇小小は沈水烏木(黒檀)で造られた渡し舟に足を踏み入れた。
船首には、顔に目も鼻も口もない、ぼろぼろの蓑をまとった渡し守が立ち、白骨の長棹を握っていた。彼女が目的地を告げることもなく、渡し舟はまるで行き先をとうに知っているかのように、自ら粘り気のある川の水を切り裂いて進み始めた。
今回の船旅に臨む彼女の心境は、前回、命からがら逃げ出した時とはまるで違っていた。蘇小小は川面から立ち昇る白い霧を見つめるうちに、無意識のうちに、あの疫病神の男が酒に酔ってでたらめに歌っていた奇妙な曲を低く口ずさんでいた。
「銀色の小舟が揺れる……」
「ペッ、なんであの薄情者が教えてくれたクソみたいな歌を歌っちまったんだ……」彼女はハッと我に返り、柳眉をひそめて低く毒づいた。
見渡せば、この地下の暗河の水は墨のようにドロドロとしていた。死の静寂に包まれた川面には、時折、引き裂かれた冥銭が漂い、すでに水でパンパンに膨れ上がった死体が波間に浮き沈みしているのが見える。
蘇小小は素早く心を引き締め、紅い唇を微かに開き、大魏の市井で歌われる清冷な古調に切り替えて低く吟じた。
「秋風起ちて江水寒し。落葉紛々、木蘭より散る。心に貴人の去るを知り、手には関門を通る札を持つ……」
清冷な歌声が、何もない川面に悠々と響き渡る。その時、一羽の漆黒のワタリガラスが濃霧の中から不意に飛び出し、かすれた鳴き声を上げながら、この孤舟の行く末を見送るかのように飛び去っていった。
道中は平穏で、他の渡し舟とすれ違うこともなかった。暗闇の中で時間が密かに流れ去り、やがて船底からザラザラとした摩擦音が伝わり、鬼市の船着き場へとゆっくりと接岸した。
今の船着き場はかつての賑わいを失っており、まばらな提灯の光が薄暗く揺れ、光と影の間に青い魚の鱗に覆われた顔の者たちが時折うろついているだけだ。渡し舟が完全に停まるや否や、蘇小小は手際よく面紗を引き上げ、滑りやすい木の板を踏んで船から飛び降りた。
揺らめく幽緑の鬼火が、一年中陽の目を見ないこの暗闇の市場を辛うじて照らし出している。空気中には、安物の白粉と体臭が混ざった血なまぐさく甘い匂いが充満していた。
蘇小小は烏の濡れ羽色をした、無地の蜀錦のゆったりとした外套を羽織り、べっとりとした青苔に覆われた青石板の上をゆっくりと歩く。その生地は薄暗がりでは一見すると何の変哲もないが、彼女が鬼火の照らす範囲に足を踏み入れると、生地の繊維の間に鈍い銀色の糸で緻密に刺繍された「白骨蓮花」の隠し紋様が、水波のように冷たい光を流転させた。
豊かな黒髪は、何の装飾もない古い玉の簪一本で斜めに無造作に結い上げられているだけだ。玉の質は土色がかっており地味で控えめだが、周囲の低級な妖魔どもを退かせるほどの濃密な陰気を漂わせていた。
他の者たちが鬼市を訪れるのは、命を繋ぐ丹薬や、悪辣な呪具、あるいは殺し屋を金で雇うためだ。だが蘇小小が鬼市に来る目的は、彼らの打算とは少し違っていた。
「この金葉っぱ一枚で、上等な『生骨散』三瓶と交換しな。値切りはなしだよ」
蘇小小は柔らかな声で言った。その蘇州訛りを帯びた気怠い声は、柔らかな絹の下に釣り針を隠しているかのようだった。
向かいに立つ、全身を死斑で覆われた薬材商人は、飛び出した濁った眼球をひん剥き、とてつもない冗談でも聞いたかのような顔をした。「蘇の女将さん、これは白骨に肉を生やすほどの奇薬ですぜ! たった薄っぺらい金葉っぱ一枚で三瓶も持っていこうってんですか? もしこれを外の裏取引に回して競りにかけりゃあ……」
「外?」蘇小小は鼻で笑い、暗紋の刺繍された袖口で軽く鼻先を覆い、刺すような死臭を遮った。「今外がどんな状況か、私が目も耳も潰れたとでも思ってるのかい? 外の世の中が狂ってるのを知ってるくせに、競りがどうのなんて見え透いた嘘をつくんじゃないよ。私は値切り交渉に来たんじゃない。倉を開けて薬を出しな。老娘にはまだ、あんたに聞きたい大事な話があるんだから」
商人はその容赦のない言い分に完全に言葉を失い、苦虫を噛み潰したような顔をするしかなかった。仕方なく手を振り、部下の首無し小鬼を奥の倉へ薬を取りに行かせた。
周囲に人がいなくなったのを見計らい、商人はようやく声を潜めた。「わかりやしたよ、全く敵わねえ。で、蘇の女将さん、一体何を探りに来たんで?」
蘇小小は面紗を少しずらし、警戒しながら左右を流し見ると、聞き取れるぎりぎりまで声を落とした。「裂天道人の話は耳に入ってるよ。あの男、一体何者だい?」
商人はもったいぶって顔を寄せてきた。身体から放たれる粘り気のある腐敗臭が鼻腔を直撃する。彼はヘヘッと笑い、機嫌を取るように喉の奥で囁いた。「蘇の女将さん、最近江湖に流れてるこの手の噂は、あっしも人から聞いた話を受け売りしてるだけでして。もし情報に間違いがあっても、どうか責めねえでくだせえ。
……聞いた話じゃ、あの裂天道人は元々崇真館で修行してたらしいんで。普段は門から一歩も出ねえような引きこもりだったのが、数日前に何の邪気にあてられたのか、発狂しちまってな。『天道がどうの』『亀裂がどうの』と神がかりなことを喚きながら、いきなり前王朝の厲王の墓を掘り返しやがった!
噂じゃ、この墓暴きがとんでもねえ大惨事を引き起こして、地底の凄まじい煞気(殺気)を噴出させちまったらしい。その場で百人以上の命が吹っ飛んだって話ですよ! 今じゃ高郵の辺りは……チッ、そりゃあもう地獄の有様だとか……」
蘇小小は小さく眉をひそめ、袖の中で指先を素早く動かして吉凶を弾き出した。しばらくして、長いため息をつく。
「まさか本当にそんな大騒ぎになってたなんて……これで北の商路が絶たれたら、城外の木炭が運んでこれなくなる。もうすぐ冬だってのに、部屋を暖める炭が入ってこなけりゃ、今年の冬を越すのも骨が折れるね」
言い終わるか終わらないかのうちに、彼女は腰からさらに金葉っぱを一枚取り出し、全く惜しむ様子もなく粘りつく木の机に叩きつけた。「これで米十石と、細塩を一斗。私の好きな野菜や果物、羊肉も分かってるね。調味料もケチるんじゃないよ。後で前に住んでたあの小さな中庭に運ばせな。向こうには受け取る人間がいるから」
商人はそれを聞くと、死んだ魚のように濁った、飛び出した眼球をぐるぐると回し、しゃがれた乾き笑いを漏らした。「蘇の女将さん、そりゃ太平の世の金相場で、今の皆の命を買おうって腹ですかい!
こんな物騒なご時世に、外の役人どもは関所をハエ一匹通さねえほどガチガチに固めてるんですよ。その金葉っぱ一枚じゃあ、米ならあっしもせいぜい玄米一石を融通するのが限界です。塩なら青塩三斗、それ以上は一升たりとも出せねえ! 羊肉に至っちゃ……フン、今の世の中、生きた人間の肉の方が羊肉より安くなりかけてるんでさ。あっしの裁量で、臘羊のあばら肉を半分、それに葵菜の漬物を幾つかおまけしてやりまさぁ。もし少ねえってんなら、その金葉っぱは女将さんが毒を仰ぐ時の足しにでもしてくだせえ。あっしのこのちっぽけな店じゃあ、とてもじゃないが御奉仕しきれねえ!」
蘇小小は美しい目を細めて商人を見つめ、幽鬼のようなため息をついた。「よくもまあ図々しい計算ができるもんだ。私の要求した物、一銭たりとも減らすんじゃないよ」
そう言うと、彼女は懐から小指の爪ほどの大きさの東海真珠を二粒取り出し、商人の懐へ無造作に放り投げた。
商人は真珠の柔らかな艶を見るや、口角を激しく引き攣らせ、泣き出しそうな顔で嘆いた。「蘇の姉さん、蘇の御先祖様! こりゃもう明らかな強盗じゃねえですか!」口ではそう不満を垂れながらも、極めて仕方なさそうに手を振り、急いで手下の小鬼に米や食料を運ぶよう指示を出した。
蘇小小は冷ややかに、さらに追い打ちをかけた。「そうそう、薪と木炭も忘れるんじゃないよ。あんたからの付け届けとして貰っておくからね」
商人の手がびくりと震え、せっかく懐に収めた真珠を危うく地面へ落としかけた。彼はパクパクと口を開閉させたが、もはや反論する気力もなく、背を向けて後ろの小鬼に向かって力なく手を振った。
蘇小小はまぶた一つ上げず、さらに追及を続けた。「情報はその一つだけかい?」
商人はひどく身を切られるような顔をしながら、仕方なく、とっておきの情報まで口にした。「へいへい。もう一つの情報は、女将さんのあの昔馴染みの……ペッペッ、あっしが口を滑らせやした! 司天監のあの謝拾遺にまつわる話でさ……もう耳には入ってるんでしょう? 聞いてもあっしの店の看板を叩き割らねえでくだせえよ。聞いた話じゃ、奴のそばにいる女が……いや、もしかしたら奴の姉弟子なのかもしれねえが、連れを伴って城の南にある王家の荘園を更地にしちまったらしいんでさ。たった一晩で、鶏も犬も一匹残らず皆殺し。人間は一人残らずミンチにされ、荘園そのものも跡形もなく壊されたって話で……あっしもわざわざ見物に行きやしたが、地面一面に血肉と瓦礫が混ざり合ってて、ありゃあ、噂以上の惨状でしたぜ!」
蘇小小はそれを聞くや、商人を斜めから睨みつけた。玉簪の下で、その端整な顔がさっと曇った。怒りと疑念が、表情の上を目まぐるしく駆け抜ける。
「人間が全部ミンチにされただって?」蘇小小はすでにその噂を耳にしていたが、それでも怒りを抑えきれず、机をバンと叩いて声を荒げた。「でもあの荘園の中には、借金のカタに私に渡されるはずだった上等な蜀錦が何反も置かれてたんだよ! 全部がただのボロ布の山になったなんて、絶対に信じないね。いいかい、あんた、後で部下を何人かあそこに潜り込ませて探ってきな。もし見つけたら、半分はあんたにくれてやる。それにしても、その女の凶悪さはどういうことだい。王家は一体、そいつにどんな血の恨みを買ってたって言うんだ?」
商人は恐怖で首をすくめ、膝がガクガクと震えた。彼は口を開いて誤魔化そうとしたが、蘇小小のその作り笑いの裏に隠された殺気を察知し、これ以上彼女と張り合うのを即座に諦めた。
彼はこの女の恐ろしさを骨の髄まで知っている。元青楼の花魁という美しい外見の下に隠れているのは、骨までしゃぶり尽くす黒市の闇医者なのだ。
彼はすっかり気勢を削がれ、長く深いため息をつくと、袖筒からクシャクチャに丸められた海捕文書を取り出し、ばつが悪そうに差し出した。
「この手配書、女将さんもすでにご覧になったでしょう。謝必安、賞金万両。蘇の女将さん、あんた奴とは……少なからず繋がりがある。もし奴の行方を知っているなら……コホン、あっしには何も言わなくて結構でさ」
蘇小小は似顔絵を受け取り、商人を悪鬼のような目つきで睨みつけた。彼女の細い指にはめられた彫刻入りの長い爪飾りが、似顔絵を容赦なく貫き、両目の部分に二つの大きな穴を穿った。そのまま手配書を木の机へ釘付けにした。
「繋がりだと?」蘇小小は怒りのあまり冷笑を漏らし、その声には一切の温度がなかった。「あの薄情者、忘憂閣でタダ飯タダ酒を食らった挙句、最後には老娘の店を台無しにして、こっちまで身を隠して逃げ回るハメにさせやがった! あいつが死んだら、私はどこの亡霊を引っ張り出して借金を取り立てりゃいいんだい!」
彼女はパッと手を引き抜き、目の部分に二つの大きな風穴が空いた似顔絵を残したまま、踵を返して濡れた青石板の道を外へと歩き出した。
「いいかい、よく聞きな! どんな手を使ってでも、そいつを探し出しな。もし何か手抜かりがあったら、後で老娘がどうやってあんたの皮を剥ぐか、楽しみに待ってな!」
建康城、烏衣巷、謝府・絳雪軒、某所の密室。
ここには燭火の光はなく、一年中散ることのない凍てつく冷気だけが立ち込めている。四方の石壁には難解な大篆がびっしりと刻み込まれ、その一画一画から、薄暗い血のような赤い光が滲み出していた。天井からは不揃いな黄色い符籙が何枚も垂れ下がり、風もないのに揺れていた。
謝家の陣法は、氷冷を礎とし、無情をもって成る。
自らを温度のない死物と見なし、七情を斬り、六欲を絶つことでのみ、百鬼を使役し、体内で無限に湧き上がる強烈な反噬を鎮め、抑え込むことができるのだ。
法陣の中には一人の女がいた。彼女は額に花黄を点し、両目には漆黒の華綾の目隠しを巻いている。その布には隙間なくびっしりと織り模様が施されていた。
飛天髻に結った髪には砕玉の歩揺が挿されている。上には錦の縁取りがある襦衣を着て、下には精緻な五彩の文様を織り出した裙をまとい、外側には翠緑の軽い紗を羽織り、腰からは色鮮やかな帯が床に垂れていた。
この「裛衣香」を幾度も焚き染めたその羅衣は、芳しい香りを放ち、彼女をまるで下界の塵にまみれない冷たい月の仙子のように際立たせていた。
謝知微は法印を結び、法陣の中央に胡座を組み、静座を始めてから、すでに三日が経っていた。ただ静かに座り続け、今は呼吸の音すらほとんど聞こえないほど微弱になっていた。
突然。幽暗な密室の奥から、何の前触れもなく陰冷な怪風が吹き起こった。
一羽の緋色の折り鶴が、重厚な石門の隙間をすり抜けてふわりと舞い込み、揺れながら彼女の膝の上に落ちた。折り鶴の両翼に微弱な燐火が灯り、それが聞き取れないほど小さな囁き声へと変わり、彼女の耳の奥へ潜り込んでいった。
それは外界から届けられた情報だった。
――若様は音信不通、生死不明。市井の噂ではすでに捕らえられたとのこと。真偽は不明。
伝言を告げ終えた緋色の紙鶴は、音もなく燃え尽き、彼女の膝の上に一握りの灰だけを残していた。
「お兄様……」
刹那。
謝知微の古井戸の水面のように静まり返っていた心が、突如として激しく震えた。「心配」という名の人間の体温が、周囲の氷のような死寂の中で、気づかれないほど微かな波紋を広げたのだ。
世俗においては、それはただの人間らしい温情にすぎない。しかし今、数多の鬼を使役する法陣の中央にいる彼女にとって、それは致命的な破綻だった。
そのほんのわずかな熱が、決してあってはならない堅氷の亀裂となった。
「キィィィー!!」
それまで静まり返っていた密室の中で、無数の陰魂が一斉に凄まじい絶叫を上げた。
生きた人間の気配を鋭く嗅ぎつけた百鬼たちは、血の匂いを嗅いで狂乱するサメの群れのように、心の隙間に殺到した。無数の見えない青黒い鬼の手が彼女の経脈を引き裂き、怨念に満ちた牙が彼女の魂を貪り食う。
謝知微の華奢な身体が、がくりと傾いた。
彼女は激しく咳き込み、死気を帯びた黒い血を勢いよく吐き出し、地面へ撒き散らした。温かな血が密室の冷気に触れた途端、瞬く間に血色の氷の華へと凝結した。
周囲の石壁の篆文が法陣の動揺を感知し、文字の中の紅光が爆発的に膨れ上がり、猛烈な速さで流転し始めた。それに呼応するように、天井から垂れ下がる鎮圧の符籙が次々と眩い金光を放って点滅するが、やがてこの膨大な反発の力に耐えきれなくなり、次々と自然発火して灰となり、柳の綿毛のようにハラハラと舞い散った。
凌遅刑にかけられるような激痛が、全身を襲った。だが彼女は蒼白な下唇を強く噛み締め、呻き声一つ上げることなく、荒れ狂う思考を必死に鎮めようとした。
暗闇の中で陰魂との死闘を繰り広げながら、彼女の氷のように冷たい指先がゆっくりと閉じられ、膝に落ちていた、兄の消息をもたらした紙鶴の灰を、極めて慎重に、そしてこの上なく大切に掌の中に握りしめた。
その頃、建康城から百里離れた場所にある、わずか数十戸の家しかない辺鄙な小さな村。
村は小さいながらも、ささやかな人の営みが感じられた。幸いなことに村の百姓たちはよそ者を排斥することなく、謝必安と沈無は話し合いの末、ここで一晩宿を借りることにした。
一行が落ち着いた頃、ちょうど夕陽が西に沈み、落日の名残が空を赤く染め上げていた。
不意に、村の外の林の茂みから騒がしい鳥の鳴き声が響き渡った。無数の鳥たちが極度の恐怖に襲われたかのように、四方八方へ飛び散って逃げていく。
謝必安と沈無はその異変に気づき、同時に顔を上げた。沈無は立ち上がってしばらく様子を窺い、差し迫った危険はないと判断すると、百辟喪門刀を握っていた手をゆっくりと緩めた。だが謝必安は鳥たちが消えた空を見つめ、なかなか視線を外そうとしなかった。
沈無は眉を上げて尋ねた。「どうかしたか?」
謝必安はそこでようやく視線を戻し、こわばった眉間を揉みほぐした。「ただ、胸騒ぎがするだけだ。どうも……何かがおかしい」
沈無は驚いたように笑い、彼の肩を叩いた。「ここ数日で随分と人を殺しすぎたからな。堂々たる謝拾遺も、恐ろしさを知ったというわけか?」
「足を折ったのは俺だが、喉を掻き切ったのはほとんどお前だろうが」謝必安は冷たい顔で彼を一瞥した。「俺に言わせりゃ、ここ数日お前の尻に張り付いて命を狙ってる薄汚い怨霊の数が、日増しに増えてるように見えるぜ」
沈無は興をそがれて舌打ちをした。「わかった、言い負かされたよ。じゃあお前は、都に戻ってからのことを心配しているのか?」
謝必安は再び顔を上げ、とうに空の彼方へ消え去った鳥の群れの方向を見やり、ゆっくりと首を振った。「うまく言えないが……まあいい。考えすぎても仕方ない。蜃驪の足なら、明日の昼過ぎには建康に辿り着けるだろう」
言葉が終わるか終わらないかのうちに、静かだった村の入り口から、突然騒がしいざわめきが聞こえてきた。
謝必安と沈無が声の方向を見ると、狩人姿の屈強な男たちが二、三人、掛け声を合わせながら、仕留めたばかりの、丸々と太ったイノシシを担いでいた。優に二百斤はありそうで、首元からはまだ血が流れている。男たちは汗だくになって泥だらけの道を踏みしめて大股で歩いてくる。その周囲には子供たちが群がり、老人たちは女たちを呼んで手伝わせようと大声を上げていた。
しかし、何よりも目を引いたのは、一番先頭を歩いて道案内をしている一匹の巨大な太った猫だった。
その猫は丸々と太っているくせに、胸を張り、頭を高く上げ、大股で堂々と歩きながら、後ろの狩人たちを引き連れて、のっしのっしと村へ入ってきたのだ。
謝必安と阿奴にしか聞こえない念話の中で、銜蝉は得意絶頂で喚き散らしていた。
『親父! 早く見ろよ、こいつ十分デカいだろ? 俺様がさっき林の中で、まずこいつを前足の一撃で足の骨をへし折ってその場に這いつくばらせてやったんだ! それから頭を爪で押さえつけたら、ピクリとも動けなくなったってわけさ! ……最後はおまけで、後ろについてきた二本足の連中におこぼれを恵んでやったんだ! どうだ、俺様スゴイだろ?』
まん丸の猫の目がキラキラと輝きながら謝必安を見つめている。その顔には「早く褒めろ、俺は肉が食いたいんだ」という強欲な表情がこれでもかと書かれていた。
追手ではないと分かり、謝必安は衣の裾をまくり上げて大股で迎えに出た。その巨大で、強烈な獣の臭いを放つイノシシを見た瞬間、こわばっていた口角がついに緩んで笑みがこぼれた。あのギラギラと光る目を見つめ返して口を開く。
「俺は急に、この山の獣どもが不憫でならなくなったよ」
そして振り返り、沈無に向かって手を振った。「老沈、ここ数日はパサパサの乾パンばかりだったが、今夜は御馳走にありつけるぜ。手伝ってくれ」
車内で丸まっていた阿奴は、頭の中に響き渡る銜蝉の騒々しい念話に叩き起こされ、眉をひそめた。寝返りを打ち、寝起きの不機嫌を銜蝉にぶつけようとしたが、この数日間であまりにも多くの妖丹を腹に収めていたため、体内の霊力がまるで潮の満ち引きのように波打っている。
二、三度身じろぎしたものの、結局その凄まじい眠気には抗えず、まぶたが重く垂れ下がり、頭を傾けて再び深く暗い眠りの底へと落ちていった。




