第76話 入甕《甕に入る》
【巻ノ二・残頁柒拾陸:『大荒異聞録・市井』残巻】
「大荒の城郭、外には妖邪を禦ぎ、内には鬼蜮を生ず。
活人は糠を食らい、死人は血を飲む。城門の開闔の間、呑み吐くは皆是れ欲壑なり」
【司天監内部メモ】
俺に言わせりゃ、たとえ全国指名手配中の最重要人物になったとしても、道端で役人の検問に出くわしたからといって慌てる必要はない。
時として、最も危険な場所こそが、最も安全な隠れ家になるからだ。
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城門までまだ数里の距離を残したところで、馬車の速度が目に見えて落ちた。
沈無は闘笠の縁越しに、城門口で舞い上がる砂埃、列をなす流民たちの異様な停滞感、そして城壁の上に幾つも増えている玄鉄の旗を観察し、城内の異様な空気を鋭く察知した。
「謝拾遺、お前も見ておけ」沈無は重い声で言い、蜃驪の歩みを緩めさせ、城門から二里ほど離れた隠れやすい土手の中腹に馬車を停めた。
謝必安は車簾をめくり、馬車から飛び降りた。
「この町はおかしい」沈無は闘笠を脱ぎ、遠くの城門を鷹のような目で直視しながら指を差した。「あれは廷尉府の『玄甲緹騎』だ。こんな辺境の町、秋の税の取り立てだとしても、わざわざ都の緹騎が門番をしにくるわけがない。あの通行手形を検める厳重な構え、十中八九俺たちを狙っている」
謝必安の顔から安堵の色が一瞬で消え去った。火の粉混じりの荒い鼻息を立てている蜃驪を振り返る。
「緹騎が通行証の確認か? どうやら歓迎の準備は万端らしいな」
土手の上に立ち、風を受けながら深く眉を寄せる。無意識のうちに懐へ手を探り入れ、指先でその『御前密啓金牌』に触れた。
もしこれが数日前であれば。この金牌を見せれば天子に拝謁するも同然、三法司の尋問も受けず、すべての関所を無条件で通過できたはずだ。今すぐあそこへ歩いていき、この金牌を底辺の役人どもの顔に叩きつければ、奴らは震え上がって土下座する理屈だ。
だが、その考えは脳裏に半呼吸ほど留まっただけで、完全に握り潰された。
「ペッ。あいにく都は、胴元が入れ替わっちまったからな……」謝必安は心の中で盛大に悪態をついた。
皇帝の遺詔という庇護のオーラは、名目上は聞こえが良く、確かに一時的な命の保障にはなった。だが、先日の夜襲を仕掛けてきたコソ泥どもの言葉を借りれば、黄金一万両という懸賞金の誘惑は、とうの昔に底辺の兵士どもの理性を灰燼に帰しているのだ。
今ここで目立つ金牌を見せびらかせば、あの緹騎の野郎どもは土下座するどころか、血走った目で一斉に刀を抜き、自分たちを細切れにして賞金を受け取りに走るだろう。そんなことは火を見るより明らかだった。
「こいつは厄介なことになったぜ」
謝必安は思わず低く呟き、ひどく嫌そうな顔をして、まるで焼け火箸でも扱うかのように金牌を懐の奥底へと押し込んだ。
「老沈。都へ戻って元締めのご面相を拝むまでは、この特権には期待できそうにないな」謝必安はしゃがみ込み、馬車の車体の下にある泥濘に手を突っ込んだ。冷たく湿った泥を無表情で顔面に塗りたくり、元々の輪郭を隠し始める。
沈無はその自傷行為のような真似を見て、眉をひそめた。「本当に城に入る気か? 迂回しないのか?」
謝必安は立ち上がり、泥まみれの手を着物の裾で適当に拭いながら、全身が青黒い鱗に覆われた妖馬を指差した。「こいつがこれだけ目立ってんだ、道中でどれだけの人間が俺たちを見たと思う? どうせここまで来たんだ、ここから都までは遠いようで遠くない。中に入って少しでも情報を拾っておくべきだろ。それに……運が良ければ、城の中で知った顔に会えるかもしれないしな」
「知った顔だと?」沈無は言葉を失った。
「ああ。知った顔に会えれば、馬車に乗ったまま悠々と都に入城できるかもしれない。俺たちの幸運値がカンストしてるかどうかの賭けだ」謝必安は手のひらの灰をパンパンと払い、振り返って声をかけた。「デブ、阿奴、行くぞ。老沈、お前は何とか車を迂回させて、城の外の官道を十里ほど行った先にある東屋か土地廟で待っててくれ。俺は中を一回りしたらすぐに向かう」
「情報収集なら、せめて本職であるこの俺がやるべきではないのか?」沈無は疑いの目を向け、淡々と言った。「お前に務まるのか?」
「心配すんなよ、沈客卿」謝必安はニヤリと笑った。「この俺に妙案ありってやつさ。今回は俺の言う通りにしてくれ」
言い終えると、謝必安は『驚蟄』を手に取り、少し伸ばして杖代わりにした。車内でまだゴロゴロしていた銜蝉を無理やり粗末な外衣の懐へ押し込み、丸々とした太った顔だけを覗かせ、さらに阿奴を自分の頭の上で丸まらせた。
すべての準備を終えると、背中を丸め、右足をわざと引きずりながら、まるで浮浪者のように城門へ向かって歩き出した。
残された沈無は、そいつの言う『妙案』とやらがこんな有様だったことに、ただ呆気にとられて立ち尽くすしかなかった。
城門の前は長蛇の列だった。秋風が地面の黄土を巻き上げ、顔に当たるとひどく痛む。
謝必安は毛皮を積んだ何台かの牛車の後ろに紛れ込み、家畜の強烈な獣臭に混じりながら、小刻みな足取りでゆっくりと前進した。顔に塗りたくられた泥が徐々に乾き、皮膚を強く引っ張り、かえって蜘蛛の巣のようなひび割れの皺を作り出している。陽の光の下で遠目に見れば、風雪に耐え抜いた皺だらけの落ちぶれた老人にしか見えない。もしあの若々しい鋭さを残す目を見なければ、沈無でさえ彼を見分けることはできなかっただろう。
彼は耳を澄ませ、周囲の商人や流民たちの囁き声を拾い集める。
「聞いたか? あの似顔絵の、謝必安って司天監の下っ端役人が、太極殿をぶち壊して、皇帝陛下まで殺しちまったらしいぞ!」前の天秤棒を担いだ行商人が声を潜め、ツバを飛ばしながら語っている。
「その情報、もう古いぜ」隣の痩せたロバを引く男が鼻で笑った。「俺の伯母の旦那の従兄弟が都で役人やってるんだがな、あいつが何か邪術を使って大魏の国運を盗み出したって話だ。それで天の怒りを買って、国師様まで動かしたらしいぞ!」
三人目の栄養失調で顔色の悪い流民がブルッと身震いし、もったいぶって顔を寄せた。「でも俺が聞いた話じゃ、国師とそいつはそもそも人間じゃなかったらしい。国師は皇宮の中で正体を現して、人肉を食らう大妖怪になったんだとよ。それで、二匹で相打ちになって両方とも重傷を負ったとか……」
懐に隠れていた銜蝉が白目を剥き、喉の奥で微かな抗議のゴロゴロ音を鳴らす。『親父、あんたの今の評判、数日前の夜に出くわした媪妖の腐肉よりも臭えな。いっそのこと都に戻るなんてやめちまえよ。ここら辺も山紫水明、人も多くていい場所じゃねえか。いっそ山賊にでもなろうぜ。俺様と阿奴が手伝ってやるから、あんたが大将で俺様が副将だ。気楽で最高だろ?』
「黙ってろ、今は大人しくしてな」
謝必安は懐で落ち着きのない猫の頭を上から押さえつけ、太った猫の冗談を綺麗に聞き流した。銜蝉は少し媚びるようにその手のひらに顔を擦り寄せ、頭の上の阿奴は尻尾を振って謝必安の後頭部をポンと叩き、賛意を示した。その間にも、謝必安の視線は密集する群衆を通り抜け、少し先の城門の下へと注がれていた。
城門には二つのバリケードが設けられていた。内側には刃のような目つきの玄甲緹騎が数名、横刀に手をかけて通行人を冷酷に睨みつけている。外側は地元の県衙の下っ端役人が直接身体検査を行っていた。
謝必安の番が来ると、顔中に肉のついた荒くれ役人が、刀の鞘で乱暴に彼の腰の辺りを小突いた。「何者だ! 通行手形を出せ!」
謝必安は即座に腰を深く曲げ、極度に恐縮した媚びへつらう態度を作った。懐からシワだらけで油汚れのついた通関文牒を取り出し、両手で捧げ持ち、乾き切ったしゃがれ声で答える。「へへぇ、お役人様。あっしは北から逃げてまいりまして……ネズミ捕りでございます。糊口を凌いでおります」
役人は嫌そうに二本の指でその汚れた通行手形を摘み取り、適当に目を走らせた。顔を上げ、泥だらけで微かに悪臭すら漂う謝必安の顔を見ると、たちまち眉間に深い皺を刻んだ。
その時、役人の視界の端に、壁に貼られた黄金一万両の手配書がチラリと入った。絵の若者は清廉な顔立ちだが、骨格や背格好が、目の前のこのビッコの乞食とどこか似通っているように思えた。
役人の心臓がドクンと跳ねた。無意識に腰の刀の柄を強く握り、猛然と一歩前へ踏み出す。謝必安の顔を穴の開くほど見つめ、その泥の下に隠された真の顔を見透かそうとした。
少し離れた場所にいた玄甲緹騎の一人も異変を察知したらしく、ゆっくりと刀の柄に手をかけ、軍靴を鳴らしてこちらへ歩き始めた。
まさに危機一髪、千鈞の重みが掛かったその瞬間。
「ゲホッ! ゴホゴホゴホォォォ――!!」
謝必安が突然、肺がちぎれるような激しい咳の発作を起こした。身体を二つに折り曲げて苦しみ悶え、手にした『驚蟄』がカランと音を立てて地面に落ちる。両手で胸を掻きむしるように押さえ、壊れたふいごのような喘鳴を漏らし、今にも五臓六腑を吐き出しそうな勢いだった。
そして、唐突に顔を横へ向けるや否や、「オロロロォ」という声と共に、血の混じった黄色い濃痰を、役人の足元の青石板の真横へ正確に吐き出したのだ。
頭の上の阿奴も見事な連携を見せ、シュタッと彼の肩まで退避し、心底汚らわしいというような軽蔑の表情を浮かべた。懐の銜蝉に至っては、恐怖のあまりに引きつったような凄惨な奇声を上げ、猫でさえ目を背けたくなるほどの惨状を演出した。
「この労咳病み(結核)のクソジジイ! てめぇ、死にてえのか!」顔に肉のついた役人は尻尾を踏まれた猫のように飛び上がり、三歩も後ろへ退いて口と鼻を強く押さえた。その目には恐怖と極度の嫌悪が満ちていた。
医者も薬も不足しているこの大荒の世界において、肺病は即ち不治の死の病であり、しかも伝染性が極めて高い。体格が似ているというだけの指名手配書と照らし合わせるためだけに、いつ息絶えるかもわからない疫病神に触れたい人間など、誰一人としていなかった。
謝必安は激しく喘ぎながら、ブルブルと震える手で袖口から五銖銭を数枚取り出した。だが、その銅銭の下には、混じりけのない純度の高い砕銀が一つ、これ見よがしに隠されていた。
彼はそれを震える手で役人へ差し出し、途切れ途切れの声で言った。「お役人様……これは、あっしからの……入城の心付けでございます……どうか見逃してくだせぇ……あっしはゲホッ、城に入ってネズミを捕ったら、すぐに出ていきますんで……」
役人の視線がその砕銀に吸い寄せられ、眼底の強欲さが一瞬で疫病への恐怖を打ち負かした。息を止め、稲妻のような早業で刀の鞘を使い、銅銭と砕銀を丸ごと自分の袖の中へと掻き込んだ。
「シッシッ! さっさと入れ! ここで厄病神ヅラすんじゃねえ!」役人は苛立たしげに手を振り払い、同時に歩み寄ってきた玄甲緹騎に向かって媚びへつらう笑みを浮かべた。「大人、ただの死にかけの労咳ジジイです。ネズミ捕りの野良猫を二匹連れてまして、臭くて敵いません。確認しましたが、全く問題ありませんぜ」
緹騎は眉をひそめ、地面に吐き出された血混じりの濃痰を一瞥すると、心底汚らわしいというように手を振り、くるりと踵を返してバリケードの奥へ戻っていった。
謝必安はプルプルと震えながら腰を曲げ、地面に落ちた『驚蟄』を拾い上げ、役人に向かって何度も何度もペコペコと頭を下げて感謝の言葉を繰り返した。そして顔を極限まで低く伏せたまま、コソコソとビッコを引きながら、よろける足取りで城門の薄暗いトンネルへと吸い込まれていった。
城門を抜けきったその瞬間。彼の顔に貼り付いていたあの病弱で媚びへつらう表情は、潮が引くように綺麗さっぱりと消え去った。
唐突に、謝必安の後頭部がプニプニの肉球でポンポンと二回叩かれ、阿奴の得意げな鼻鳴らしが聞こえた。銜蝉も襟元から頭を突き出し、謝必安を見上げて得意満面で言った。『親父、あんたのその芝居、マジで天下一品だな! 俺様も危うく騙されるところだったぜ。どうだ、俺様のあの鳴き声も、完璧なアシストだっただろ?』
謝必安は吹き出し、太った猫の顎を撫でてやった。「お前もなかなか賢かったぞ、阿奴もな。最高の連携だった」それを聞き、謝必安の後頭部に垂れ下がっていた銀色の長い尻尾が、嬉しそうにパタパタと揺れた。
銜蝉は懐の中でゴソゴソと体勢を変え、謝必安の襟元に顎を乗せ、前方に広がる通りをヨダレを垂らしそうな顔で見つめた。『次はどこへ行くんだ? 俺様の腹はもう限界まで叫んでるぞ』
「次は……」謝必安は心の中で呟き、遠くへ視線を走らせた。「どこかで熱い酒でも一杯ひっかけるとするか。ついでに、俺の首を狙ってる奴らが一体どれくらいいるのか、見物してやろうじゃねえか」




