第75話 帰不得《かえるをえず》
【巻ノ二・残頁漆拾伍:『大荒異聞録・世局』残巻】
「妖魔の人を食らうは、尚ほ枯骨を留む。権謀の絞殺は、骨を挫き灰を揚ぐ」
【司天監内部メモ】
大魏において、この世で最も遠い距離とは「生と死」ではない。
帰る家があるのに帰れず、それでいてどうしても帰らざるを得ないことだ。
†
黒塗りの馬車が、砕石の散らばる古い駅伝の道をゆっくりと碾いて進む。車輪が乾いた軋み音を立てていた。
あの廃村を後にしてからすでに半刻が経過していたが、この道のりは息が詰まるほど重苦しかった。あの大荒の巨物が跨ぎ越した際に残した圧倒的な威圧感が、未だに全員の心に重くのしかかっている。誰も口を開く気になれなかった。
車を牽く蜃驪はすっかり以前の傲慢さを失っていた。巨大な頭をだらりと垂れ下げ、両目は生気を失い、鼻孔から勢いよく噴き出していた黒煙も今はわずかな火の粉が燻るだけだ。その足取りは、死期の迫った老馬のように重い。
御者台に座っていた謝必安は、沈無が全身をこわばらせ、蜃驪すらもすっかり意気消沈しているのを見て、車内に残した二匹の猫のことが気になり、身を翻して車内へ潜り込んだ。
今、彼は揺れる木壁に背を預け、焦点の定まらない目で車頂を見つめたまま、何を考えているのか分からない様子だった。
彼の左手は、無意識のうちに阿奴の頭を優しく撫でていた。普段は近づきがたいこの銀白色の猫は、今は二つの尖った耳を後ろにピタリと寝かせ、尻尾を固く丸め込んでいる。撫でられるのを拒む気力すら失せたのか、謝必安の手を払い除けようともせず、むしろ目を細めてその安らぎにすがりついているかのようだった。
同時に、謝必安の右手は銜蝉のタプタプの腹を揉みしだいていた。この太った猫は白目を剥き、遠慮なくフェルトのクッションの上で大の字になって伸び切っている。本当に恐怖で気絶したのか、それとも現実逃避のために深い眠りを選んだのか。口の端には白い泡まで浮かべていた。
しばらくして、謝必安はようやく長く濁った息を吐き出した。
彼は『驚蟄』を振って伸ばし、車体前方の青布の小窓を器用にめくると、狭い木の窓枠越しに、御者台に座る背中へ視線を向けた。少し躊躇ってから口を開く。
「老沈、昨晩のあのヤバい化け物……今まで見たことあったか?」
御者台の沈無は、右手に百辟喪門刀を固く握りしめ、手の甲には青筋が微かに浮き出ていた。彼は振り返らず、その声には珍しく無力感が滲んでいた。
「俺は鏡妖司の千戸として、極秘の調書にも数多く目を通してきた自負がある。だが、あのような巨物については聞いたこともなければ、見たこともない。謝拾遺。お前たち司天監は妖魔の専門家だろう。あれが一体何者か知っているのか?」
謝必安は苦渋に満ちた顔で首を振り、手を動かして猫を撫で続けた。
「俺もお前と同じようなもんだよ。あんなバケモン、生きて帰って司天監の倉庫をひっくり返さなきゃ分からねえ。いや、それどころか……いつか師父に会えた時、直接あの人に聞かなきゃ答えは出ないだろうな」
よほどプレッシャーが大きかったのか、謝必安は堰を切ったように喋り始めた。猫を揉みながら、ブツブツと独り言のように続ける。
「実を言うとな。昔、師父の下で修行してた頃、あの人は俺をどこにも行かせず、ずっと広大な屋敷の中に閉じ込めてたんだ。俺の命を守るためだって言ってな。あの頃は、なんて頭の固い口うるさいババアだと思ってたが、今になってみれば……」
彼は言葉を切り、窓の外に広がる灰色の空を自嘲気味に見つめた。
「俺は司天監に入ってからずっと建康城に引きこもってたから、今回が初めてのまともな外出なんだ。この大荒の本当の姿を目の当たりにして、完全に目が覚めたよ。少なくとも……自分がどれほどちっぽけな存在か、思い知らされたぜ」
沈無はしばらく沈黙し、親指で刀の鞘の模様をゆっくりと撫でながら、淡々と言った。
「もし今回、生きて建康城に戻れたら、俺は刀を一から鍛え直さなければならない。こんな微末な腕前では、大荒では奴らの腹の足しにすらならない」
「なら、今のうちに少しでも時間を見つけて素振りでもしておくんだな」謝必安は口の端を引きつらせ、その目を次第に暗く沈ませていった。「俺の嫌な予感だが、俺たちがこのヤバい珠を持って帰った後には、絶対に面倒な仕事が山積みで待ってる気がするぜ」
二人が話しているうちに、馬車の激しい揺れが不意に収まった。
謝必安は怪訝な顔になり、声を上げた。「どうした? 急に揺れが止まったぞ?」
御者台から沈無の低い声が返ってくる。「どうやら大通りに出たようだ」
古い駅伝の道が途切れ、車輪は黄土と砕石で突き固められた、見事に平坦な広い道へと乗り上げていた。見渡す限り、その平坦な道は真っ直ぐに伸びている。これは大魏の中心部へと続く官道だ。
道が良くなったせいか、あるいは大妖の気配から完全に遠ざかったからか、蜃驪の重い足取りが目に見えて軽くなった。車輪の回転は急激に速度を増し、風を切る音を立てて進み始めた。
沈無は背筋を伸ばし、闘笠の下の視線を遠くへと向け、少し声を張り上げた。「大通りに出たぞ。この調子なら、半日も経たずに人里が見えてくるだろう」
謝必安は隣の車窓から顔を半分出し、深秋の刺すような風を顔に受けながら、ようやく安堵の息を吐いた。「やっと生きた人間に会えるか……姐弟子たちは、無事に用事を済ませたんだろうか」
言葉が終わるか終わらないかのうちに。謝必安の顔色が突如として真っ白になった。
右腕の妖骨が、何の前触れもなく狂ったように暴れ出したのだ。今回はただの飢餓感ではない。それは暴走に近い衝動だった。皮膚の下で骨がバキバキとズレる音を立て、まるで得体の知れない異物が皮袋を切り裂いて飛び出そうとしているかのようだ。
謝必安は低い呻き声を上げ、額には瞬時に冷や汗が噴き出した。彼は一瞬の迷いもなく左手で『驚蟄』を引き抜き、右腕の経脈に強く押し当て、歯を食いしばって雷気を解き放った。
「大人しくしてろ!」
パチパチと鈍い雷鳴が弾け、三筋の青白い放電が容赦なく彼自身の血肉の中へ叩き込まれた。謝必安の身体はそれに伴って激しく痙攣する。
この唐突な雷の閃光と痛みに驚き、静かにうずくまっていた阿奴は全身の銀毛を逆立て、甲高い悲鳴を上げて車内の隅へと逃げ込んだ。その目には強い警戒と抗議の色が浮かんでいる。
哀れなのは四つん這いで寝こけていた銜蝉だ。伝導した電流の余波が肥満体に直撃し、脂肪をブルブルと震わせた。まん丸の金色の目を極限まで見開き、恐怖に満ちた絶叫を上げる。
『ミャオォォ! 親父! お前気でも狂ったのか? 俺様は起きてる、もう起きてるって! 頼むから雷はやめてくれ、尻尾が焦げちまったじゃねえか!』
謝必安は胸を激しく上下させ、荒い息を繰り返している。二匹の猫の恨み言など相手にする余裕もなく、強引に鎮圧した右腕を左手で押さえ込み、疲労困憊して木壁に寄りかかった。
その時、車外から沈無の怪訝な声が聞こえてきた。「どうした? 何かあったのか?」
謝必安は深く息を吸い込み、震える声を無理やり押さえつけて返答した。「何でもない……こいつら二匹が起きないから、ちょっと手荒に起こしてやっただけだ」
沈無は腑に落ちない様子だったが、それ以上は追及しなかった。
一方、それを聞いた二匹の反応は対照的だった。
阿奴は怒って鼻を鳴らし、顔をプイと横に背け、フワフワの後頭部を彼へ向けた。
銜蝉に至っては、フンフンと鼻を鳴らしながら、焦げかけた尻尾を哀れっぽく舐め回し、恨みがましく大声で喚き立てる。
『親父! あんたマジで鬼だな! せっかく揺れが心地よくて寝てたのに、自分が眠れねえからって雷を落とす奴があるかよ!』
自業自得である謝必安は、両手を上げて降参するしかなかった。「悪かった、俺のせいだ。町に入ったら、俺が直々に美味いものを買ってきてやる。それで勘弁してくれ」
食べ物という言葉を聞いた瞬間、先ほどまで泣き喚いていた銜蝉はピタリと涙を引込め、金色の目をカッと輝かせた。丸々とした身体をゴロンと転がし、ベタベタと擦り寄ってきて媚を売る。
『親父、今自分で約束したからな! 昨日はあのバケモンに肝を冷やされて心身共にダメージを受けた上に、今日は雷まで落とされたんだ。鶏の丸焼きか極上の霊肉でもなけりゃ、この傷ついた心は癒やされねえぞ! 絶対にドカ食いさせてくれよ!』
骨無しの太った猫とは対照的に、もう一方の阿奴は完全に無視を決め込んでいた。己の美しい毛並みを優雅に手入れしながら、高慢に再びフンと鼻を鳴らし、彼を一瞥することすらしなかった。
謝必安は吹き出し、呆れながらこの情けない太った猫を抱き上げた。彼はゆっくりと目を閉じ、タプタプの猫の腹を無意識に揉みしだきながら、その温もりを借りて未だ落ち着かない心神を慰めていた。
誰が予想できただろうか。そこから官道に沿って、さらに丸三日もの車旅が続くことになるとは。
道中、すれ違う商隊の連中が黒塗りの馬車と蜃驪を見ては舌を巻いて驚嘆の声を上げたが、もし誰かが興味本位で近づこうものなら、御者台に座る沈無の氷のような顔と、手元に置かれた百辟喪門刀を見るや否や、すっかり怯え上がってその好奇心を腹の奥へと飲み込んでしまった。
この三日間は静かといえば静かだったが、唯一波乱と呼べるのは、夜営の際に起きた二度の「アクシデント」くらいだ。
付近に巣食う見境のない盗賊か、それとも商隊の中に紛れ込んだ手癖の悪いコソ泥か。月が雲に隠れた深夜、少しばかりの甘い汁を吸おうと野営地へ忍び寄ってきたのだ。
結果はどうなったか?
七人は阿奴に一瞬で氷のオブジェにされ、一人は謝必安の気まぐれで黄金の瑠璃像に練成された。別の一人は全身から黒煙を上げるまで感電させられ、四人は沈無の手によって頭と手足を綺麗に切り落とされた。残りの三人は銜蝉の咆哮を聞いただけで肝を潰して泡を吹き、最後の一人に至っては悲鳴すら上げられず、蜃驪が噴き出した灼熱の黒煙で文字通り人間蒸発させられ、その後しばらく蜃驪の笑いのタネにされていた。
夜のちょっとした余興を除けば、この三日間は極めて平穏だった。
そして三日目の夕暮れ時。遠くの地平線に、ついに大規模な町の輪郭が浮かび上がった。灰暗い秋の空に向かって炊煙が立ち昇り、久しく忘れていた人の営みの匂いを漂わせている。
「やっと生きた人間がいる町が見えてきた。どうやらここは大魏の領土内みたいだな」謝必安は腰にある軽くなった酒瓢箪を振った。中には音を立てるほどの酒は一滴も残っていない。「さっさと町に入って酒を補充して、脂の乗った温かい飯を食わねえと、紅綃が用意した乾パンだけじゃ、銜蝉の奴がまた暴動を起こしちまう」
車内のクッションの上で、銜蝉は特大の白目を剥き、仰向けになって伸び切っていた。鳴くのすら面倒くさそうに、念話だけでブーブーと文句を垂れる。
『親父、誤魔化すなよ! あんたの腰の瓢箪は空っぽでも、車の中には紅綃姐さんがくれた酒瓶がまだあるじゃねえか。あんたがケチって飲まないだけだろ! それより、俺様に約束した肉はどうなってんだ? いつになったら食わせてくれんだよ?』
謝必安は図星を突かれても少しも悪びれず、堂々と言い返した。「お前には分からねえよ! 紅綃が持たせてくれたあの酒は超高級品だ。一滴一滴が宝物なんだぜ、旅の途中で適当に飲んで無駄にできるかよ? 安心しろ、町に入ったら真っ先にお前を腹いっぱい食わせてやるから」
しかし、御者台の沈無は謝必安のように気を抜いてはいなかった。職業柄か、彼は目を細め、少し離れた距離から、徐々に近づいてくるその町を慎重かつ警戒深く観察していた。
謝必安が車簾をめくり、秋風に吹かれながらその古びた城壁を見つめ、唐突に問いかけた。「老沈」
「なんだ?」沈無は振り返らず、同じように遠くを見つめながら答えた。
「お前、あの城門に貼られてる手配書は、お前と俺、どっちの顔の方が多いと思う?」謝必安は窓枠に半ば寄りかかり、自嘲気味な響きを込めて言った。
沈無は顔を横に向け、闘笠の下の瞳にわずかな呆れを浮かべた。素っ気なく返す。「いっそのこと、俺とお前、どちらの賞金首が高いか直接聞けばいいだろう」
謝必安は一瞬虚を突かれ、すぐに口角を吊り上げて悪びれた笑みを浮かべた。「おや、珍しいこともあるもんだ。老沈みたいな堅物も、冗談を言うようになったとはな」
彼らが紫竹幽苑で休息し、大荒の森で迷い、巨妖とすれ違っていたこの数日間のうちに。建康城から始まった嵐は、とうの昔に見えない絞首縄と化し、駅伝と闇の伝手を通じて、一足先にこの町を完全に締め上げていた。
今この瞬間、町の古びた城門の下には、全く異質な二つの勢力が、しかし同じように貪欲な眼光を光らせて陣取っていた。
城門の左側にある掲示板の前では、錆びついた鉄鎧を着た廷尉府の捕り方たちが、墨の滲んだ似顔絵を乱暴に木板に打ち付けていた。頭目の校尉が泥混じりの唾を吐き捨て、分厚い鉄の籠手で腰の刀の柄を押さえながら、鷹のような目で城門を出入りするすべての商人や旅人をねめつけている。
その手配書に描かれている顔は、他でもない謝必安だった。
城門のそばで一輪車を押して野菜を売る老婆が、皺だらけの首を伸ばしてそれを覗き込み、ブツブツと呟いた。「ここ数日、どこへ行ってもこの顔ばかりだねぇ。またあの謝必安って奴かい?」
隣で地面にしゃがみ込み、冷めた饅頭をかじっていた男が相槌を打つ。「聞いた話じゃ、あの小僧の首には建康城で黄金一万両の懸賞金が掛かってるらしいぜ。もし捕まえられりゃ、何代も遊んで暮らせるって寸法さ」
「一万両? そりゃお役人様も血眼になるわけだ」三人目の天秤棒を担いだ行商人が顔を寄せ、声を潜めて言った。「俺、二日前に隣の州の宿場に泊まったんだが、そこの城壁もあの顔だらけだったぞ。これだけ天羅地網が張られちゃ、あいつももう羽が生えてなきゃ逃げられねえだろうよ」
そして、城門と遠く向かい合う酒場の二階。
薄暗い窓が半ば開かれている。体格が良く、顔の半分に刺青を入れた江湖の刀客が、長椅子に豪快にまたがっていた。手には白く濁った酒碗を持ち、足元には九環の巨大な青竜刀が立てかけられている。刀の環が秋風に吹かれ、金属の冷たい音を立てていた。
彼は下で威張り散らす役人どもを見下ろすこともなく、ただ懐にある、黄金がぎっしりと詰まった重い隠し袋をザラザラした指でゆっくりと撫で回し、口元に血生臭い冷笑を浮かべた。
表と裏、官と賊の思惑が交錯する。巨大な天羅地網はすでに張られていた。
あとはただ、あの漆黒の馬車が自ら網に飛び込んでくるのを待つだけだ。
建康城、司天監。
録尚書事であり謝家の太公でもある謝淵は、一日の公務を終えて役所を下がると、両手を後ろに組んでゆっくりと司天監の役所へ足を踏み入れた。主座に座る監正・袁の爺さんを睨みつけ、隠しきれない苛立ちを込めて言った。「袁の爺さん。まだあの小僧の手がかりは見つからんのか?」
監正・袁の爺さんは机の上の羅盤の星軌をいじり続け、まぶた一つ上げずに答えた。「何の消息もなし」
謝淵の目尻が激しく引き攣り、歯を食いしばって吐き捨てた。
「……あのクソガキめ。修行の時はろくに覚えもしなかったくせに、隠れるのだけは一人前になりおって。よくもまぁ逃げおおせるものだ」




