第66話 臥龍と鳳雛
【巻ノ二・残頁陸拾陸:『大魏武経・歩戦篇』残巻】
「凡そ重兵を揮うには。力は踵より起き、胯に転じ、梢に達す。若し臂力、腰馬に勝らば。烈馬朽車を拉くが如し。未だ敵を傷つけずして先ず己の骨を折らん」
【司天監内部メモ】
「山魈」:南方の山中の精怪。外型は人面で猿の身。毛は長く、力大にして窮まりなし。奔走り飛ぶが如し。好んで蝦蟹を食い、常に作祟して人を食らう。
拾遺・謝必安注:たぶん毛むくじゃらの人食い猿。
「猲狙」:形は狼に似て、紅い頭とネズミのような目を持つ。鳴き声は豚に似る。北号山に住む人食いの凶獣。
拾遺・謝必安注:豚の鳴き声をする狼。足が速い。肉はパサパサしててマズい。
†
連綿と数日続いた秋雨がついに停歇した。建康城の外の天際に一道の目を刺す冷光が破り開く。
三日が過ぎ。蔵霜院の内に難得な幾分の生気が迎えられた。
沈無の胸口のあの命にも関わりそうだった傷口は。姐弟子のあの来歴不明の詭異な膏薬の作用の下。すでに一層の堅硬な黒痂を結んでいる。行動の間まだ少し生渋さはあるが、刀を動かし人を殺すにはもはや問題ない。
謝必安も自分の妖骨の右腕に対し少しの門道を探り出していた。
刻意に刺激しさえしなければ、あの骨髄の深処に隠蔵された暴虐と飢餓感は沈睡へ陥る。平日、物を提げたり碗を端し上げたりするくらいなら、勉しいて震えずにこなせるようになった。
この三日間。姐弟子は人間蒸発したかのように、影すら半個も見当たらなかった。紫竹幽苑の内外の大小の事務は、すべて紅綃と門番の小廝・重楼が打理している。
暖閣の内で。一卓の豊盛な早膳が丁度掃蕩されて一空となった所だ。
紅綃は補血の紅棗と山薬の排骨湯を煮込み。塩辛く爽脆に醃製された胡瓜を幾皿と。蒸籠から出たばかりの白麺饅頭を配してくれた。
謝必安は饅頭を連ねて三個食い。ようやくあの生肉に対する一絲の隠秘な渇望を圧し下ろした。
銜蝉は此の刻、太師椅子の上に大の字になって麻痺している。丸々とした腹の皮が小さな太鼓のように張り詰めている。
この太った橘猫は肉の香りを帯びたゲップを一つ打ち。名残惜しげに身を二度晃らせ、艱難に身を一つ翻した。あの琥珀金の猫の目がクルクルと二圏転がり。眸の底の深処に、悄然として一瞬の碧緑が閃き過ぎた。
『親父』
銜蝉は口元の湯の汁を舐め、底気十分に心底でわめき立てる。
『天気も晴れたし。俺たちそろそろ外へ散歩に出るべきじゃねえか? 前の数日、あの目の見えねえ雑砕の孫どもが。暗い夜を専ら狙って闇討ちしてきやがって。俺様の毛を何束もむしり取りやがった。今や真昼間だ。俺たちは失った面子を取り戻しに行かなきゃならねえ!』
「よくその顔で言えたもんだな」謝必安が唐突に一句を受け継ぐ。随即に気性なく胸口を二度拍き打つ。「こっちへ来い」
銜蝉はすこぶる時務を識っていた。此の話を聞くや、直ちにあの大威張りの架勢を収め。ツルッと熟練して謝必安の懐の裡へ鑽り込んだ。
謝必安は慢条斯理に巾帕で口を拭き。左手で下意識に腰の後ろへ探りを入れる。そこには二尺三寸の長さの雷撃棍『驚蟄』が懸けられている。
この数日彼はずっと寒玉の榻の上に横たわっていた。骨が錆びつくところだった。
既然この短棍は師父が特意に二番目の兄弟子に探させた霊木だというなら。彼は確かに離れる前に、この兵器の斤両を試しに行きたかった。
「老沈、筋骨を動かしに行かないか?」謝必安は起身し、首を捻る。順勢にラジオ体操の伸展動作を幾つかやりながら。目光が随って投じられた。
「お前は大丈夫なのか?」沈無が頭を上げる。視線が彼のあの滑稽なストレッチ動作の上を掠め過ぎる。
「男に無理とは言わせねえ。無駄口はいいから、行くのか行かないのか?」謝必安はヘヘッと笑う。
彼へ応答したのは一声の清脆な兵刃の微鳴だった。
沈無は彼と無駄口を叩くのを面倒がり。ただ黙々とあの百辟喪門刀を提げ上げ。行動で答案を出した。
一方の窓の格子の上では。阿奴が優雅に日光を浴びており。このような粗鄙な打闘には毫も興趣がなく。まぶたすら上げるのを面倒がっている。
三人と一匹の猫が蔵霜院を踏み出す。
廻廊は曲折蜿蜒し。周囲は静謐で。数人の足音と軽微に晃動する刀の鳴り音が残るのみ。陽光が重重の雕花の廻廊を穿透し。青石の地の上に斑駁の光の影を灑き落とす。
彼らは幾道かの玲瓏たる月の門を穿ち過ぎる。
両側は粉牆に依って舒展する幾竿の修竹と、錯落たる太湖石だ。格外に出塵に見える。周遭には奇花異草が遍く植えられ。微風が払過すると、外囲の紫竹林がサササと響く。
彼らが真っ直ぐに紫竹幽苑の大門を跨ぎ出た時。あの清幽な竹香が門外の喧囂に衝かれ。隠隠として即将入世の粛殺感を帯びて引き出され。眼前の視野も之に随って開闊となった。
紫竹幽苑の外囲の陣法は。数多の妖魔の連続数日の命知らずな衝撃の下。霊気はすでにひどく稀薄になっていた。
本来清幽な紫黒色の竹林の間。此の時はなんと隠隠として死気が泛び。空気に一股の揮い去り難い腐葉の悪臭と鼻を刺す血生臭さが瀰漫し。無声の内に前数日の戦況の惨烈を訴え説いている。
重楼が正に陣の眼の傍らに蹲り。無表情で一つの錆びた銅鼎の裡に辟邪符を添えている。
彼らが出てくるのを見や。重楼はまぶたを微かに上げ。乾き嗄れた喉の音で一句を提醒した。「陣法が薄弱になり。格にも値しない雑砕が数匹漏れ入った。あまり遠くへは行くな」
「ちょうどいいじゃねえか」謝必安はヘヘッと笑い。満不在乎に両手を拍き打った。「どうせ俺たちは清掃隊だ。今日は環境を掃除し、ゴミを片付けに来たのさ」
言葉の音が剛く落ちるや。前方の竹林の間から。突兀として連続する泥濘の践踏の音が伝わってきた。
幽暗な林の陰が抖動し。二頭の、骨格が奇異で体型が佝僂な怪物が陰影の中からゆっくりと踱り出てきた。
左辺のあのモノは通体に黒い毛がびっしりと生え。面は赤土の如く、四肢は猿のように粗壮。正に人の脳を喜んで食う山魈だ。
右辺のあのモノは更に怪異だ。野狼の躯幹を生やしているが。首筋には一つの碩大で通紅な頭顱を頂いている。口の裡からは絶え間なく腥臭い粘液を流淌させ。口中から豚に似た怪叫を発する。一頭の飢え極まった猲狙だ。
奴らは数量こそ多くないが。身の上にはまだ紫竹陣に絞り割かれた骨の見えるほどの深い傷痕を帯びており。顕然として強弩の末だ。
『豚の顔した狼のヤツだ! あの夜俺様の尻尾を噛みやがったのはコイツだ!』
銜蝉は仇人を見るや。分外に眼を紅くし。直ちに衣の襟の裡から半顆の猫の頭を探り出し。喉を裂いて一声の耳を聾する咆哮を発した。
そして……この団の金黄色の毛玉は迅雷不及掩耳の勢いを以て。猛然と謝必安の後ろへ竄り込んだ。『親父! やっちまえ!』
「このクソガキ……威を借るだけは一丁前だな」謝必安は無奈に笑い罵った。
随後に彼は斜めに前方の怪物を一睨し。傍らへ向かって首を傾けた。「老沈、一人一匹だ。この死に犬は俺のモンだ」
「大意するな」沈無が提醒する。
「安心しろ。俺は正に師父がくれた宝物を試す機会がなくて愁いていた所さ」謝必安はヘヘッと笑う。
謝必安は笑意を収斂した。深く一口の息を吸い。両足で泥濘の腐葉の上をしっかりと踏みしめる。
左手で腰の後ろの『驚蟄』を引き抜き。随後にこの通体幽黒たる短棍を右手の裡へ交えた。
錯金の暗紋が掌の心と貼合した瞬間。
謝必安は満心に期待していた。この千年の雷木が小説の話本に書かれているように。登時に耀眼奪目の雷光を爆発させ。滔滔たる江水が連綿と絶えざるが如く、衆鬼の膝を軟らかくさせることを。
亦は。棍の鳴り音が滾々たる春雷の如く。黄河の氾濫が一発不可収となるが如く、一声にして群妖を震懾することを。
然れども。何事も発生しなかった。
微風が払過する。二人、二頭の怪物、そして一匹の猫が集体的に沈黙へ陥った。
雷光はない。霊気の波動もない。前数日屋の内で隠約として見えたあの微弱な光点すら。此の刻は無影無踪に消失してしまった。
手に握れば。沈悶、死寂。簡直に。正に竈台の裡から引き抜いたばかりの焼き焦げた麺棒だ。
「このボロ木……もしかして湿気て壊れたんじゃねえか?」謝必安は眉頭を一つ皺め。力任せに二度振り回した。棍の身は毫も反応がない。
姐弟子は先前。此の等の霊を帯びたるモノは必ず先ず其の霊を降伏させ、主と認めさせて方に駆使できると叮嘱していたが。
彼がどこから思い至れようか。姐弟子の此の言葉は前半の句を言っただけであり。残りの一大段の至関重要な説明は。硬生生に一字も提げなかったのだ。
これでどうだ。この本来大殺四方すべき雷木は。彼の手の裡で直接一截の死に重い実心の木棍へと退化してしまった。
謝必安はいっそ古樸な起手の架勢を摆えた。
「老沈、よく見てろ。さっきのは意外だ。この第一の棍。俺は足足三日三晩参悟したんだぞ」
彼はインチキ祈祷師のように顎を揚し上げ。もっともらしく言った。
「金庸大師の授けに拠れば。上乗の棍法は力地に由りて起き、腰を経て肩を過ぎ、天人合一することを講究す。丐幇の『打狗棒法』の精髄。俺は早くから多くの秘本を経て。爛熟して心に於ておる。今日便ちお前に眼界を開かせてやろう」
彼の自信満満な眼差しを迎え。沈無の無表情の顔の上の。口角がどうやら情けなくも一度抽動したようだ。
沈無は沈黙した。
眼前のあの頭の猲狙は。対手が持っているのが神兵か火かき棒かなど管す由もない。
平実に武徳を講ぜぬ調性を秉持し。一雷の難聴な豚の怪叫を発する。後ろ足が泥の地で猛然と一蹬し。龐大な身躯が濃烈な腥風を帯び。泰山圧頂の如く真っ直ぐに謝必安の面門へ撲りかかってきた。
「もうあれこれ管してられねえ。初打席、第一球、スイング」
謝必安の眼差しが一つ沈み。意念が瞬時に右肩へ集中する。
妖骨が甦醒した。暗金色の経脈が皮膚の下で瞬時に鼓脹する。
一股の沛然莫禦たる怪力が。即将に決堤せんとする洪流の如く。彼の右腕に沿って傾瀉して出た。
謝必安は半空中の怪物を見計らい。手中の死に重い雷撃棍を掄り上げ。全力で揮い撃ち過去った。
大魏の軍隊が長戟を操練する際。力は踵より起き、胯より発し、梢に達すを講究する。
いかなる兵器の揮舞も。力量は皆下盤の穩固と腰腹の旋転より源を発する。
言うなれば。其の実、現代の野球選手がバットを振って球を打つ発力の原理と完全に一模一様だ。
だが残念ながら、現実において誰もが大谷翔平というわけではない。
因此。この条の右腕が空気を撕き裂く速度を以て揮い出された時。
謝必安のこの一身の未だ千錘百煉を経ていない凡人の肉体は。根本からこの突如其来たる暴力を承受できなかった。
木棍が揮い出された瞬間。謝必安はただ右側の腰と腹の筋肉が。彷彿生身のまま扯き断たれるかのように感じた。
靴の底が湿って滑りやすい泥の地で狠狠と一滑する。彼の下盤は完全に右腕が爆発させた慣性を穩住できなかった。
重心。瞬時に崩潰。
あの万鈞の力を帯びた一棍は。完全に的を失った。
それは猲狙の豚の耳を擦って呼嘯して過り。巨響の一声。直接傍らの一根の椀の口ほど太い紫竹に砸き当たった。
堅靭な紫竹はなんとこの純粋の蛮力に砸かれて四分五裂し。木の刺が横に飛んだ。
而して謝必安の全人は。同じくこの揮い空振った慣性に帯びられて原の地で半箇の圏を転回し。両足が徹底的に地を離れた。
半空中の猲狙は砸かれ中しなかったものの。却って同じく棍の風に刮かれて方向を偏らせた。
その顆の堅硬な野猪の頭顱が順勢に一下し。結結実実に謝必安の平衡を失った左側の太腿の上に撞き当たった。
謝必安が痛みに扭曲した惨叫を一声発する。
彼の全人は猶も振り飛ばされた襤褸の布の偶人の如く騰空して起き。空中で半箇の圏を翻滾し。
随後に十分不雅な平沙落雁の式を以て。重重に一処の腐葉と腥臭の味の満ち積もった爛れ泥の坑の裡へ拍き込まれた。
泥漿が四濺し。瞬時に彼の全の張の顔に糊状に張り付く。一股の難聴な酸腐の味が真っ直ぐに鼻腔を衝く。
場面。瞬時に死寂へ陥る。
本来後ろの頭に躲れて旗を揺らしエールをおくる準備をしていた銜蝉は。口を老大に張っている。
泥の坑の裡のあの抽搐しながら泡を吐いている男を見て。一句の親父スゲェぜが硬生生に喉の裡に卡まり。咽下されてしまった。
あの頭の猲狙は地に着いた後、脳袋を二度振り。目に一絲の疑惑を閃かせた。
それは顕然として些かの失望と不解を見せている。この。匂いを嗅げば渾身に中を補い気を益す香味を散発している人類が。なんと只底盤が不穩な見掛け倒しだったとは。
短暫の錯愕の後。猲狙の目に凶光が大いに盛んになる。それは満口に獠牙の生えた血の盆のような大口を開き。再び泥の坑の裡の謝必安へ向かって撲りかかった。
一声の清脆な刀鳴が竹林を劃り破る。
銀色の刀光が猶も匹練の如く空を横切り。下より上へと斜めに撩って過った。
猲狙は哀鳴を発するにすら及ばず。身躯が半空中で猛然と一僵し。随後に刀光の軌跡に順って。整整斉斉に一は二に分けられた。
腥臭の腥臭い内臓と血の雨が一地に灑き落とされ。幾滴かは甚だしきに至り謝必安の後ろ脳の勺の上に濺った。
沈無の身形は未だ動いていない。ただゆっくりと百辟喪門刀を収め戻したのみ。冷ややかに一傍に立ち。衣の角にすら一滴の汚れも染めていない。
彼は泥の坑の辺へ歩み寄る。居高臨下で。正に狼狽して左手で上半身を撑き起こし、口の裡から絶え間なく黒泥を吐いている謝必安を見下ろした。
この鏡妖司の千戸の、あの岩石の如く冷硬な無表情の顔の上には。いかなる嘲笑の神情も看えなかった。
ただ平静に事実を陳述する冷淡な語気を以て。精準な評価を一つ与えた。
「お前の腰。虚弱すぎる。もっと練らねえとダメだな」
謝必安は狼狽して泥水の中に這い伏し。左手で顔の上の汚垢を一把に抹った。
彼は一傍へ扔り捨てられ、依然として毫も霊気の反応のない『驚蟄』を二度瞅め。
又、自分のこの条の。力量に充満しているとはいえ、あやうく自分の腰椎を扯き断ちそうになった右腕を見て。
心底に深深たる無力感が昇り起きた。
「クソが……」謝必安は血の帯びた泥沙を一口吐き出し。歯を切って罵った。
「言うことを聞かねえ妖骨に、主を認めねえ霊木か。まったく、見事な"臥龍と鳳雛"だぜ。」




