第65話 夜未央《よるはいまだなかば》
【巻ノ二・残頁陸拾伍:『大魏異聞録・排異』残巻】
「妖骨の体に入るや、猶も鳩の鵲の巣を占めるが如し。
日は血肉を吸い、夜は神智を奪う。医すべき薬無く。唯だ烈酒を以て之を酖し、方に片刻の安寧を得ん」
――『司天監・医部档』
【司天監内部メモ】
目を覚ませ。妖怪の骨を肉に縫い込めば、一秒で神級のチート能力をタダで手に入れられるなどという幻想は捨てろ。
これは超能力の獲得などではない。二十四時間不眠不休、しかも家賃すら払わない悪辣な隣人を、自分の肉体へ直接招き入れただけのことだ。
私の忠告を聞け。早いうちに己を泥酔させるのが上策だ。
†
蔵霜院。
屋内のあの迷迭香の気味は、此の時どこから来たのか分からない栗の花と灰汁の匂いと混ざり合っている。
それに加えて謝必安が先ほど四方へ奔波して残した満身の汗染みと汚垢が重なり。部屋全体の空気を、人を不快にさせるほど粘稠にさせている。
この匂いに謝必安は我慢の限界となり、当即に先ず己を徹底的に洗漱することを決定した。そこで、彼は身を転じて門外へ向かって一声を張った。
「紅綃お姉様、熱い湯を頼む。熱ければ熱いほどいい」彼は頓とし、喉結を一度転がした。「あと、食べ物を少し。火の通ったヤツ。熱い汁物と、白米飯だ。おかずは何でもいい。血の滴る生肉でさえなければ」
門外から随即に紅綃の清脆な応答の声が伝わった。
いくばくもせず。数名の粗使の僕役が白煙を冒す巨大な柏木の浴桶を一つ担ぎ入れ、西側の廂房へ妥帖に安置した。それと同時。東側の廂房の八仙卓の上にも。すでに数道の鍋を出たばかりの熱い料理と、二罈の美酒が並べられていた。
「銜蝉、阿奴、一緒に来い!」謝必安は門を跨ぐ前、振り返って院内の花園で悪戯をしている二匹の猫を喚ぶことを忘れなかった。
銜蝉は聞くや、直ちに尻を振り振り彼へ向かって奔る。
一方の阿奴は頭と尾を高く上げ、空中で優雅な小走りを踏み、急がず焦らず歩み入ってきた。前足が敷居を跨ぐや。阿奴は優雅に身を翻すことを忘れず、後ろ足で優雅に一つ蹴り、尾で一掃し。ついでに廂房の扉をピシャリと閉めた。
此の時、謝必安は正に衣を解き帯を寛げ、身の短衣を脱ぎ尽くそうとしていた。
彼は浴桶の外で簡単に身の汚垢を洗い流し、随即に大股で桶の内へ跨ぎ入った。あの熱気が騰々たる温水が肌骨に熨帖するに任せ、言い表せないほどの心地よさだ。
彼は思わず気持ちよさそうに長く一口の息を吐き。ゆっくりと両目を閉じ、この久しく遠ざかっていた温度を貪婪に感受する。
此時此刻。彼は正に、この片刻の己にのみ属する寧静の中に自らを沈溺させていた。
「来い、デブ」
謝必安は目を開ける。
左手で一把に、正に逃げ出そうと準備していた銜蝉の首の後ろの皮を掴み。この泥漿と血汚れまみれの金黄色の毛玉を、直接浴桶の中へ引きずり込んだ。
『ミャオォォ! 実の息子を謀殺する気か! 水が熱すぎるぜ!』
銜蝉は心底で一陣の豚を屠るような惨叫を発する。
四本の爪が水の中で狂ったように撲騰し、謝必安の顔いっぱいに熱い湯を跳ね飛ばす。
謝必安は毫も理会せず。左手で猫の頭を押さえつけ、傍らの石鹸角を取り上げ。あの皮の剥げた脊背の上を粗暴に揉み洗いし、あの鼻を刺す妖祟の腥臭を洗い流した。
洗い終えるや。彼は首の後ろの皮を提げて銜蝉を浴桶から抽出した。
地に着くや。このずぶ濡れの太猫は生きる希望を失った顔になり。急吼吼として炭盆の傍へ走り、四足を天に向けて腹を乾燥させ始めた。
謝必安は桶の壁へ靠れ戻る。泥垢と血の塊で絡まり合った乱れ髪を独りで揉み洗おうと試みた。
だがこの時代の男子は長髪を蓄えており、元々手入れが極めて難しい。ましてや彼は此の時右腕が使い物にならず。少し上げようとする度に、陣々の生渋い阻力感が伝わってくる。
「公子。やはり奴婢に伺候させませ」
珠簾が軽く響く。紅綃が袖を捲り上げ、笑みを浮かべて歩み入ってきた。
彼女は満室に氤氳する水気と熱意を迎え。赤裸で沐浴する謝必安に対し毫も避諱せず。真っ直ぐに浴桶の後方へ歩み寄り、謝必安の手から石鹸角を受け取る。温水と合わせて掌の裡で粘稠な白沫を搓り出し。繊柔な指先をようやく謝必安の乱れ髪へ没させ、軽く寄せてゆっくりと揉んだ。
「公子。奴婢は手足が粗笨ゆえ、もし痛くしてしまっても。千万ご容赦くださいませね」紅綃は水柄杓で熱い湯をすくい上げて汚垢を洗い流しながら。口では幾分の嬌俏な笑意を帯びて言う。「以前はいつも蔵霜姉様があなたの金貴な御身を伺候しておりましたから。奴婢はこれが初めての事なのです」
謝必安は目を閉じ。あの香気を帯びた温軟な触感が頭皮の上を遊走するに任せた。
連日の生死の緊繃が紅綃の軽柔な動作の中で次第に化け開く。
彼は一声の心地よい喟嘆を発し。現代人の市儈たる本色を恃みに、気怠げに冗談を飛ばし始めた。
「紅綃お姉様の手芸はこんなにも見事なんだな。俺、もしもう努力したくなくなったら。下半生はお姉様に養ってもらってもいいかい?」
「ペッ。公子は奴婢をからかってばかりいらっしゃいます」
紅綃の両頬に一抹の紅暈が飛ぶ。嗔笑して唾を吐く真似をした。
眼波が流転する間。指の腹が有るか無きか謝必安の耳廓を擦り過り。彼の髪の糸の間の汚垢を細心に尽く洗い清めた。
浴桶から遠からぬ紫檀の屏風の頂端。阿奴が端端正正と蹲座している。
彼女は眼下のこの洗浴の騒動に対し嗤之以鼻だ。
此の時頭を下げ。右の前足を伸ばし。一縷の霊気を施放して、身に染まった微小な灰塵を尽く氷の屑へと凍結させ。直後に軽く一抖みし。銀色の毛髪は瞬時に、一塵も染まらぬ冷傲な光沢を恢復した。
洗浴を終える。謝必安は一襲の清潔な麻布の単衣に換えた。布巾で水滴の垂れる髪を随意に拭く。
此の刻、東廂房の八仙卓の傍には。沈無がすでに大股開きに座定していた。あの百辟喪門刀は膝の上に横たえられ。手には正に一只の粗磁の酒碗が弄ばれている。
謝必安は門へ入るや。二話不説で長椅子を引き開いて座った。
卓の上には。煮崩れるほど柔らかい黄耆の老鶏湯が大碗に一つ。厚く切られた醤牛肉が一皿。さらに山盛りに積まれた白米飯が一盆。
これこそが人の食うべきモノだ。
沈無が酒罈の泥の封を叩き開け。謝必安に碗一杯に注ぎ、さらに自分にも注いだ。
酒液は清澈で、一股の辛辣な麦香を透かせている。
「傷勢が少し良くなったら、建康へ向けて啓程する」沈無は酒碗を端し上げ、喉の音は低沈だ。「だが。先に心理的準備をしておくのが最善だ。今や城の裡は……満大通りが、お前と俺の首級で賞金を換えようとする亡命の徒で溢れ返っている」
「帰れなくても帰らなきゃならねえ。一生姐弟子の所に隠れてるわけにもいかないからな」謝必安は左手で酒碗を端し上げ。沈無と一度ぶつけ。沈重な衝突音を発した。
彼は頭を仰いで飲み干す。辛辣な酒液が食道に沿って胃袋へ焼け入る。
「それに。俺はまだあの狂った女に四万両近くも借りがあるんだ。このボロ借金。俺はどうしても何人かの身から引っ剥がさなきゃならねえ」
沈無の口角が一度扯動した。笑っているかのようだ。箸を取り上げて醤牛肉を一片挟み。不緊不慢に口を開いた。
「太極殿の事。今や遺詔はお前の手上にある。各方勢力は遅かれ早かれ門へ探しに来る。お前は、応対の策を考えてあるのか?」彼は頓とし、眼差しを相手の右腕へ落とした。「お前のその新しい腕も。最善を期すなら早く馴服させることだな」
謝必安は箸を取り上げた。右手の五指は鉄の棒のように僵硬しており、根本から湾曲して二本の細長い竹箸を握ることができない。
彼は低声で暗罵を一つし。左手に換え、笨拙に一塊の醤牛肉を挟んで口の裡へ塞いだ。
「どう応対するって? 遺詔が欲しいなら、モノを持ってきて換えればいいだけさ。大魏というこの大船がまだ沈まない限り。この一道の遺詔があれば、お前と俺は泰山のように穩やかだ。俺、謝必安は昔から何でも食うが。唯だ損だけは食わねえ」
熟肉の醤香と香料の熱気が口腔の中に散開する。
あの刻。一絲の久しく遠ざかっていた活人の気息が、ついに胃嚢へ滑り込んだ。彼は碗を端し上げ。熱い湯を大口で嚥下する。反胃もない。嘔吐もない。これは人類に属する進食だ。
「俺の腕はひとまず置いといて。お前の傷勢はどうなんだ?」謝必安が問う。
「小傷だ、礙事にはならん」沈無は意に介さず笑う。声は依然として低沈だ。「お前の姐弟子の薬は果たして奇効がある。この程度の皮肉の傷。俺の見立てでは三日も出ずに痊癒するだろう」
謝必安は頷き。随即に正色した。「遺詔の内容は見たか?」
「まだだ。それに俺には根本から開けられない」沈無は首を横に振る。眼差しは微かに沈んだ。「どうやらあの巻の詔書には禁制が設けられているようだ。天の下で恐らくお前にしか解けない」
「老皇帝は臨終の前に親口で言った。お前の過去のすべての罪名を赦免し、お前に金吾衛郎将の銜を授け、世襲罔替を恩准すると」謝必安は彼を見つめ、ゆっくりと言った。「この後。お前には何か打算はあるのか?」
沈無は聞き終えるや。清冷な眉と眼を微かに一つ挑ね上げた。目に罕見な錯愕が掠める。だがその点ばかりの驚きは転瞬の間に逝き去り、随即に一抹の苦笑へと化した。
彼は微かに嘆息を一つし、ゆっくりと言った。
「官職は確かに良い。ただ命あって取るばかりで、命あって享けることはできないだろう。鏡妖司の手口に依れば。俺を平穏無事に中枢に待たせておくはずが絶対に無い。今の最も良い生路は、建康を離れることに莫し。西へ向かうも、南へ向かうも、ひいては北へ向かうも良し。言うなれば……俺は実に北の方へ見に行きたいと思っている」
「既然如此ならば。司天監雑項科の客卿殿。それなら俺は、お前をしっかりと良い値段で売り飛ばさなきゃならねえな。安心しろ。隊友を売ることに関して言えば。俺は行家だ。絶対にお前を安売りしたりはしねえよ」
謝必安は口角を微かに挑ね上げる。再び酒碗を端し上げ、沈無と重く一碰し。随即に頭を仰いで一飲して尽くした。
沈無は笑意を収斂し、淡々と語った。
「謝拾遺。俺が若し北境で死んだら。お前はその時、俺に替わってこの柄の刀を埋めてくれ。若し命が大きく生きて帰れたら。俺が改めてしこたまお前に一場の酒を奢ってやる」
謝必安は沈無のあの冷酷なまでに平静な顔を見つめる。唇が動いたが、最終的に彼を縁起でもないと罵りはしなかった。彼は笑意を斂め。重く、緩慢に微かに首を一度縦に振った。
この一樁の託付。彼は受け取った。
正に二人が対飲暢談する際。銜蝉がいつの間にかこっそりと湊り寄ってきた。
彼の短く丸い両の前足がパタッという音と共に卓の縁に掛けられ。眼をパチクリさせながらあの皿の醤牛肉を見つめている。
謝必安は其の状を見るや。順手に二片を挟んで卓の縁に置いた。銜蝉は直ちに開心地に頭を埋めて狼呑虎嚥し始めた。
これに比べ。阿奴は仙気に満ち溢れて見える。
彼女は軽盈に部屋の梁へ躍り上がり。それらの凡間の熟食に対し不屑一顧だ。どこから取り出したのかも分からない、あの洗われて乾乾浄浄になった二顆の内丹を。優雅に粉嫩の舌の先を伸ばして二度舐め。随後に口の裡へ含み。目を閉じてゆっくりと煉化し始めた。
一頓の飯。二人と二匹の猫。窓の外の蕭瑟たる秋の夜を伴い。不緊不慢に食し。逆にある種の劫後余生の人間味すら食い出した。
酒は三巡し、杯を推し盞を換える。
案の上の孤灯が揺らめき。この意料の外の避難所を忽明忽暗に映し出す。
語り尽くせぬ朝堂の派閥、聊り尽くせぬ市井の瑣事。皆滾々と煮え立つ酒気と共に裊々と散開する。
窓の外の風は冷たく霜は重く、夜色が次第に深まるに任せ。この方寸の天地の裡には。ただ杯盞が交錯する微響だけが余された。
菜は五味を過ぎ、杯盤は狼藉。
謝必安は身を返し、寒玉の榻の上に横たわり戻った。手を上げて最後の一盞の燭火を吹き消した。
暗黒が落下した瞬間。積圧されて久しい疲憊感が潮水のごとく席捲して来る。心身が一旦弛緩すれば、もはやあの沈重な困意には抵当しきれず。自らが夢の郷へ沈むに任せた。
枕の辺り。銜蝉が大の字に腹を返し。一灘の爛れ泥のように眠っている。喉の間からは雷鳴のような沈重なゴロゴロ音が発せられている。
阿奴は謝必安の右手にぴったりと寄り添い。ベッドの榻の一角に蜷縮している。
彼女の呼吸は匀称で綿長。寝入って久しいように見えるが。あの双の耳は彷彿、まだ暗夜の中の一絲の風吹草動を捕捉しているかのようだ。
然れども。正に謝必安の意識が混沌へ陥らんとする際。
右肩の処から猛然と一陣の痙攣が伝わってきた。
「ギシッ」
骨格の摩擦する微音が寂静の屋内に響き起きた。
妖骨が、醒めたのだ。
其れは十分に休息した。骨髄の深処に隠蔵されていた嗜血と破壊の本能が。正に暗黒の降臨に伴って次第に甦醒している。
一股の綿密で刺骨たる痛痒感が経脈に沿って蔓延し。彷彿無数の虫が皮下で啃食しているようだ。
謝必安は歯を食いしばり。左手で榻の縁を死に物狂いで扣え込んだ。彼は圧制を試みた。だがその条の右腕は。完全に意識の掌控から脱離していた。
右腕がゆっくりと抬げ上がり。半空に懸かる。
五本の指の節がパキパキという爆鳴音を発し。寸寸に扭曲して一つの怪異な爪の型と化す。
猛然と、真っ直ぐに阿奴の咽喉へ向かって掴みかかった。
阿奴は防ぐに及ばず。喉の管を瞬時に死に物狂いで掐められた。
彼女の両眼は円く見開き。面目は窒息によって猙獰さを顕す。二隻の前爪で謝必安の手の背を死に物狂いで抉り込む。
彼女は拼命に掻きむしりながらも。利爪が謝必安の皮肉を傷つけるのを極度に恐れ。根本から真に発力することができない。
謝必安は本来まだ半夢半醒の間にあった。
彼は迷迷糊糊の中で、右手が正に何かに触れているのを感じた。柔らかくて熱いモノ。心中ではまだブツブツと疑っていた。きっと阿奴がまた傍らに寄り添って寝ているに違いないと。
図らずも。次の瞬。掌の下から伝わる触感が忽然と変わった。
其れは柔軟な皮毛ではなく。緊繃し抽搐する筋肉だった。指の節の深処から更には一陣の劇烈な痙攣が伝わってくる。
謝必安は猛然と驚醒した。その手はどこが安撫しているというのか。なんとすでに死に物狂いで阿奴の首を卡めつけていたのだ。
謝必安は頓時に酒の酔いが半分醒め、大いに一驚を食らった。
彼は焦りで胸が焼けるようになり。一方で左手を使って力任せにその右爪を掰き開きながら。一方で暴喝の声を放った。
「放せ!」
思いがけず。その右腕は命を聞き入れぬばかりか。逆に驚いたように一振りした。阿奴を放した後。なんと真っ直ぐに反転し、謝必安自身の咽喉へ向かって掐みかかってきたのだ。
窒息感が伝わり。謝必安を焦らせて頭いっぱいの大汗をかかせる。左手で死に物狂いで己の右腕と搏闘し。情勢は旦夕に在る。
謝必安は掐られて白目を剥き。喉の裡で呻き。強引に歯の隙間から一句を擠り出した。
「クソッ……強制自殺なんて……この本、この先どうやって進めるんだよ……直接打ち切りじゃねえか!」
忽然と。熟睡していた銜蝉が一翻身した。
大半の身躯が直接謝必安の顔面に糊の如く貼り付いた。
奴のあの肥満した身躯が一団となって、よりによって謝必安の顔へ擠り込まれる。洗浴後の蓬松たる長い毛が直接彼の鼻孔の中へ突き刺さった。
謝必安は不意打ちに驚天動地のクシャミを一つ放った。
この劇烈な一震で。あの失控した右腕はなんと驚愕を受けたかのように。猛然と咽喉を放した。
随後に。腕は僵硬した木偶のごとく。なんと一股の怪力を発した。
強引に謝必安の身躯を引っ張り引きずって起き上がらせ。真っ直ぐに、傍らの精美な図像が彫られた屏風へ向かって突き刺さっていった。
ブスッ。
指の節が毫の阻礙もなく屏風を刺し穿つ。随後に。手首が生硬に一捻りし、下方へ向かって引きちぎった。
「ギィィ――」
耳を刺す破裂の刮擦音が死寂たる夜の裡で格外に清晰だ。
ギィ、ギィ、ギィ。一声が一声に連なる。あの失控した右腕は彷彿疯魔したかのごとく。どうしても屏風の上に生身のまま一条の血路を掻き出そうとしているかのようだ。
暗黒の処。一双のオッドアイの瞳孔が幽幽と燃焼する。正に阿奴だ。
彼女は此の時すでに気を緩め回復しており。無声無息の内に立ち上がり、脊背を弓なりにさせている。
彼女のあの極めて霊性を具えた鴛鴦の眼の中に寒芒が閃爍し。謝必安のあの暗金色の光沢を泛べる右腕を死に物狂いで見据えている。尾は身の後で焦躁に榻の面を拍き打つ。
彼女は敏鋭に察覚した。あの右腕の中に正に一股の暴虐が昇騰していることを。且つそれは決して謝必安に属するものではない異様な気息だ。この力は。正にこの人類の心智を呑噬せんと企図している。
「俺に……止まれ!」
謝必安が双眼を開く。眼底には血走った糸がびっしりと走っている。
彼は怒吼を一発し。左手で右腕の手首を一把に掴み。生身のまま其を屏風の上から引き抜いた。爪の中にはまだ血のついた木屑が塞がっている。
彼はよろめきながら卓案へ撲り寄る。一把にあの未だ飲み干していない烈酒の罈を掴み上げた。
碗はない。杯もない。
彼は歯を使って罈の口の木の栓と布を噛み開け。頭を仰け反らせ。辛辣で鼻を刺す酒液を直接咽喉の中へ灌ぎ込んだ。
透明な酒液が口角に沿って流れ下り、単衣を浸湿する。火のように辛いアルコールが。迅速に体内の「酒狂」の霊気を点燃させた。
大半罈の烈酒が腹へ下る。之に加えて刻意に本身の体質を催発したことで。謝必安はたちまち双眼が迷離し、意識が混沌へ陥り始めた。
あの神経を麻痺させる熱流が血液に沿って。右腕を衝刷し始める。
阿奴は機を失すべからずと見や。急ぎ同じく浄化の霊気を施展した。
妖骨は強横な鎮圧を察覚したか。皮下の暗金色の経脈が困獣の闘いのごとく数度閃爍し。最終的に不甘のままに黯淡と下っていった。
緊繃していた五指がゆっくりと鬆め開かれる。あの狂躁の右腕は最後の一絲の力気を耗尽し。一塊の死肉の如く頽然と垂れ下がった。
謝必安は順勢に氷のように冷たい木の床板の上へ滑り座り。後背を頽然と卓の脚に靠れさせた。
彼は大口で粗く喘ぎ。酒気が汗水の酸楚な味と夾雑して屋の内に瀰漫する。
阿奴の眼差しは始終彼を緊盯していた。あの右腕が平静に帰するのを眼で見るまで。彼女の背中の逆立っていた長い毛が、ようやくゆっくりと順伏して下りていった。
沈重な酔意が、終究に最後の一線の防線を撃潰した。
謝必安は寒玉の榻の上には戻らず。両腕であの空の酒罈を死に物狂いで抱きしめ。頬を氷のように涼しい陶土の罈の壁に貼り付け。
斯くの如く床板の陰影の裡に蜷縮したまま。毫無防備に沈沈と睡りへ落ちていった。
銜蝉が忽然と目を閉ざす。半睡半醒の迷糊とした中で嘟囔する。「親父。何か用事か? どうしてそこへ走ってって寝てんだ……」
言葉の音が未だ落ちぬ内に。阿奴から狠狠と一瞥を食らう。銜蝉は首を縮め。身を転じてまた眠り続けた。
遠方の屋。一双の目は始終至終、未だ嘗て一度も開かれてはいない。
だが此の時。あの豊潤な唇角は、似有若無に微かに掀き上がっていた。




