第63話 垂死の経年、春草生ず
【巻ノ二・残頁陸拾参:『大魏異聞録・接肢』残巻】
「凡人の躯。若し強いて妖骨を接がば、必ず其の噬を受く。
初生の骨は、状は飢狼の如し。血食に非ざれば鎮むるべからず。烈酒に非ざれば眠るべからず。若し心智堅からずんば。三日の内に、必ず半人半妖の理智を失いし肉傀と化さん」――『司天監・医部档』
【司天監内部メモ】
まともな人間が労災を食らって目覚めた後。自分の腕が我がままで身勝手な妖骨になっていることに気づいた時。労膳司に損害賠償を求めようとするその恨めしそうな大顔を収めろ。
馬鹿を言うな。労膳司はお前を怪物として焼き殺すだけで、半銭の金も払い等はしない。
私の言うことを聞け。今すぐ烈酒と生肉を用意し、新しく生えてきたこの骨の旦那様を十分に伺候してやることだ。ただし心理的準備をしておけよ。これからの食費は、確実に予算超過するからな。
†
紫竹幽苑、蔵霜院、寒玉の榻。
脳海深処の見慣れた「エリーゼのために」の旋律が次第に遠ざかる。青銅の博山炉の中で香料が燃焼する微弱なパチパチという音へと砕け散った。
謝必安は困難に両目を開けた。
渙散した視線が空中で幾度か虚晃し。ようやく、雕花の木の梁から垂れ下がる月白色の鮫綃の帳へ勉しいて焦点を結んだ。
玉石の榻の面からは源源と絶えず刺骨の寒意が湧き出し。彼の背中の冷や汗を氷に凝結させる。
彼は口を開こうと試みた。だが喉は破れ果てた鞴のように粗重な喘息を発し。口の中は濃烈な鉄サビの匂いで満ちていた。
謝必安は首を回そうと試みる。頸椎の骨が不順な鈍い音を立てる。
彼はゆっくりと頭を下げ。自分が清潔な短衫と短褲を着ていることに気づき。最後に眼差しを自分の右腕に落とした。
本来黒ずんでいた断臂が、消えていた。
視線が及ぶ所。赫然として、一本の冷白の光沢を透かせる見知らぬ腕があった。
筋肉の線条は均整で完璧。いかなる受傷の痕跡も見当たらない。皮膚の下には隠約として無数の暗金色の経脈が浮き現れ。正に心跳に随い、命あるモノのごとく皮下でゆっくりと起伏している。
彼は意念を右手に集中し、動かそうと試みた。
「ギシッ……」
阻力。猶も濃稠な泥沼の中で鉄の鎚を振るうかのようだ。
謝必安は歯を食いしばる。額に青筋が暴起し、強行に神経を牽引する。
右手の五指が猛然と一度抽搐し。爪が寒玉の榻の面を刮擦し、耳を刺す鋭鳴を発した。
手の骨の深処から一陣の隠秘な抗拒が伝わり。脳天を直衝する嗜血の躁動を挟帯してきた。
「ドォォン!」
部屋の扉が一股の蛮力によって突き開けられた。
一団の、泥水と血汚れにまみれた金黄色の毛玉が。転がるようにして部屋の中へ摔け込んできた。
銜蝉だ。
この平日大食らいで怠け者の太猫は。此の時の模樣は見るに忍びない。
背中の金毛は三大塊も剥げ落ち、下から血の滲む皮肉が露出している。左目は高く腫れ上がり。目尻の傍にはまだ干からびた血の跡が糊状にへばりついている。一体自分自身の血なのかどうかも分弁つかない。
銜蝉の口には。幽緑色の蛍光を散発する結実したモノが二顆、しっかりと咥えられていた。
奴は足を引きずりながら隅の紫檀の太師椅子の前へ歩み寄り。無理をして頭を上げ胸を張り。顎を猛然と一振りし、「ペッ」という音と共に、唾液まみれの二顆の宝を阿奴の面前へ吐き出した。
『阿奴! 遠慮なく俺様を褒め称えていいぜ! こいつは俺様が命懸けの仕事で換えてきたんだからな……』
正に椅子の背に端座して爪を舐めていた阿奴が頭を下げ、冷ややかに一瞥した。
本来なら冷たい顔を摆めようとしたが。銜蝉のあの凄惨な模樣の分に免じ。彼女の眼差しが微かに動き。結局のところ脾気を引っ込めた。ただ粉嫩な鼻先を嫌悪感たっぷりに嗅ぎ、シワを寄せただけだ。
『俺様がどれだけ辛苦したか知ってんのか! 全部国師のあのクソジジイのせいだ。おかげで歯が何本か抜けちまって。本来の姿すら喚び出せなくなっちまった。この少しばかりのモノ。全部俺様がこの小さな身体で命懸けで……』
銜蝉はブツブツと念じながら、血を帯びた熱気を長く一口吐き出した。
阿奴は彼を斜めに睨みつけた。顔のその表情は生き写しのようにこう書かれている。誰が信じるもんですか、一体いつ終わるの。二度と国師の言葉を口にしてみなさい、ぶっ飛ばすわよ。
続いて、彼女は銜蝉の好意を拒絶はしなかった。ただ試探するように右の前爪を伸ばし。まず一絲の霊気で内丹を浄化し。その後腹部の下方へ撥ね動かし、一縷の極寒の氷気を施放して、少しずつその上の血汚れを退かせていった。
銜蝉は阿奴が内丹を収めるのを見届ける。
腫れ上がった猫の頭を回し、後ろ足の傷口を舐めようと準備した際。余光が寒玉の榻の上の男が目を開けているのを瞥見した。
『親父!!! 死ぬほど会いたかったぜえぇぇ!』
銜蝉は心底で耳を聾する咆哮を爆発させた。
奴は後ろ足の傷勢も顧みず。猛然と発力し。泥漿まみれの肉の弾丸のごとく。謝必安の懐の中へ直接飛び込んだ。
「グホッ――!」
謝必安はこの数十斤の肥肉に胸を直撃され。あやうく息が詰まりそうになる。
右手を上げて猫を推し退けようとしたが。右腕は榻の上で二度抽搐したのみで、ピクリともしない。彼は仕方なく左手で銜蝉のあの巨大な猫の頭を押さえ、軽く二度揉んでやった。
『親父! ようやく目が覚めたな! ヘヘッ』
銜蝉は頭を死に物狂いで謝必安の首の窪みへ拱り込む。血水と泥漿がすべてあの蒼白な頬に擦りつけられる。
『このボロ庭。前は鬼の影すら半個も見当たらなかったのに。この三日間はまるで妖の巣を突っついたみたいだったぜ。あいつら全員命知らずみたいに中に飛び込んできやがって! 外は根本的に猫が居られる場所じゃねえ!』
『それとな……親父。あんたの身の匂い、なんだか変だぞ? 普段と大分違うし、あの狂った女の身の匂いでもねえ。この匂い……俺様、どこかで嗅いだことあるよな?』
銜蝉は力強く謝必安の身を数回嗅ぎ。口調は無比に篤定だ。
謝必安の左手が銜蝉の結び目の出来た首の毛の中に探り入る。指先が生渋にあの毛玉を掻き分けようとする。
『そうだ! さっき阿奴にやったあの二顆の内丹。俺様が尻尾を噛み切られるのを覚悟で、二匹の猲狙の腹の中から抉り出してきたんだぜ! 親父。後で俺様に追加の飯をくれよな。俺様は十匹……いや、二十匹の北海の小魚を食うぞ!』
「黙れ……」謝必安は白目を剥き。声は沙嗄して彼の言葉を遮った。「うるさすぎる。先に教えろ。お前、猲狙と言ったか?」
『おっ、そうだよ。昔俺たちも一度見たことあるだろ! 狼みたいな面して、真っ赤な血色の頭を乗っけて。目はネズミみたいにコソコソしてて。鳴き声は豚みたいに聞こえる奴。親父、あんたは知らねえだろうが。こいつらマジで凶悍でさ。俺様は命懸けで……』
扉の外から一陣の沈重な足音が伝わってきた。
沈無が粗糙な灰布の短打を着て、敷居を跨ぐ。
この鏡妖司の千戸の左胸のあの骨が見えるほど深かった鞭の傷は。すでに厚い黒痂の層を結んでいるものの、依然として層層の包帯で巻かれている。
彼は玉の榻の前へ歩み寄り、丸椅子を引き寄せ、大股開きに座った。血走った両眼で謝必安を勾々と見つめている。
「目覚めたか」沈無が口を開く。声は低沈で磁性を富んでいる。「見たところ。あの妖女にお前を生呑みにはされなかったようだな」
「長い一覚の夢を見た気がする。あやうく夢の中で死にかけたぜ」謝必安は左手の肘を支えに、勉しいて上半身を撑き起こした。
沈無が腰から水袋を解き。栓を抜き、謝必安の口元へ渡す。
謝必安は受け取らず、そのまま沈無の手から直接、氷のように冷たい水を大口で嚥下する。水液が口角に沿って流れ落ち、首筋の汗の跡を劃り過ぎた。
「外はどうなってる?」謝必安が喘ぎながら問う。
「建康城は一鍋の粥のように乱れている。朝廷の緹騎が世界中でお前と俺を捜している」沈無は水袋を収め、木の栓を固く塞いだ。「だが最も面倒なのは朝廷ではない。荒野の内の妖祟だ。この三日間、奴らは章法など微塵もなく別苑へ衝撃をかけてきた。まるで肉の骨を嗅ぎつけた飢えた犬だ」
沈無は扉の外を指差した。
「門番のあの小廝は三日間目を閉じず。まるまる三筐の辟邪符を焼き尽くした。院の外郭の紫竹陣は。腐肉を食らう魍魎を四十七匹、サンキを三頭絞り殺した。この太猫と俺は。内院へ漏れ入ってきた二頭の猲狙を叩き斬ったに過ぎん」
沈無がそう言うのを聞き。阿奴は銜蝉を一瞥した。顔には「お前が法螺を吹いてるのは分かってたわよ」という表情を露わにし。その後は自顧自に目の前の内丹を享用し始めた。
謝必安は眉を深く顰め。少し苦痛そうに太陽穴を揉んだ。
「待て……俺の脳みそは今ひどく乱れてる。ここは一体どこだ? 俺は究竟どうなったんだ? どうして魍魎やサンキなんてモノまで湧いて出たんだ?」
沈無は彼を見て。平穏な口調で引導した。「お前が最後に記憶している事は何だ?」
「考えさせてくれ……」謝必安は眉間を揉み、死に物狂いで回憶する。「俺が記憶しているのは、老皇帝と少し話をして、彼の最後の一程を送ったことだけだ。その後……確か提灯の老人に会ったような。それ以降の事は。俺は本当に一点の印象もない」
沈無は、謝必安が琉璃の大典の後に昏厥した始末を。原原本本に一通り語った。
謝必安の神色がまだ少し恍惚としているのを見て。彼は耐え性を持って補充した。
「魍魎は形は三歳の小児の如く、通体赤黒く、双目は血の如く紅く、動けば猿猴のように敏捷だ。サンキは犬の身に人の面、形は疾風の如く、移動する時は詭異な笑い声を発する。これらの鬼怪についてはお前の方が俺より熟知しているだろうが」
謝必安は聞き終え、顔色を沈めた。
「俺たち、なんと姐弟子に出くわしたのか。ここは既然姐弟子の地盤なら。平日には大妖ですら軽易に足を踏み入れようとはしないはずだ。あの台面にも上れない低階の小妖どもが中に闖り入ろうと思えば。まず自分の斤両を秤にかける必要があるのに。どうして今は皆狂ったように中へ突進してくるんだ?」
「すべて。お前の身に催命の品が帯びられているからに決まっているでしょう」
入り口から倏然と一道の嬌媚な声が伝わってきた。口調には三分の譏諷、七分の笑意が帯びている。
姐弟子が暗絳色の広袖の大袍を羽織り。裸足で木の床板を踏み、娉娉婷婷と緩歩して屋内へ入ってくる。
彼女は漫歩して隅へ行き。足先で、とうに破れ果てて齷齪不堪となったあの官服の山と。傍らに撇り捨てられた漆皮の革袋を軽く蹴った。
「小七。お前の懐やその革袋の中に、何を詰め込んできたの? 掏り出しなさい」
「姐弟子、お久しぶり。相変わらず青春美麗、窈窕動人で、まるで『洛神賦』から歩み出た神女のようだね……」謝必安は真面目さの欠片もなく作り笑いを浮かべた。
「私と軽口を叩き合うのはやめなさい。洛お姉様を茶化すなんて。彼女にお前のことを告発してもいいのよ」
姐弟子は冷ややかに彼の言葉を遮る。
「お前のその性質、私が省みないとでも? もし自分から老実に掏り出さないなら。今すぐお前たちを通通苑の外へ放り投げて犬の餌にするわよ」
謝必安は一瞬愣とした。興醒めして唇を歪め。顔を横に向けて沈無へ目配せした。
沈無は心領神会する。顔を沈め歩み寄り。一歩先にあの襤褸の官服の山の傍にしゃがみ込み。暗袋の中を熟練して模索し始めた。
先に掏り出されたのは、あの血痕のついた遺詔の巻物と、一冊の破れ古びた本だ。
続いて、沈無の指が本来は大額の銀票が放り込まれていた隙間の中を掻き回す。
空だ。
沈無が手勢を一つ比す。謝必安の顔色は瞬時に黒く沈んだ。
「クソッ。あやうく忘れるところだった。塩鉄の引替券はあの死に損ないの老頭にやっちまったし。老皇帝が答応した賞賜はまだ影すら見えてない。後で労膳司の連中に帳簿を報せなきゃならねえのに。監正のあの老狐狸を思うと……チッ。また頭が痛くなってきた」
彼は心底で狠々と暗罵した。考えなくても分かる。建康城へ戻れば、あのドケチな戸部の役人どもは絶対に国喪を理由に互いに責任をなすりつけ合うに違いないのだ。
「俺の命。阿信より苦しいぜ……」
謝必安は破財の怨念を強引に圧し殺し。沈無へ首を傾け、傍らの漆皮の革袋を見るよう示意した。
沈無は会意し。長い指を一つ引いて結び紐を解き。手を突っ込んで中を模索した。
最後に、沈無が模り出したのは。濃烈な異香を散発する布包みが一つ。そして幽光を泛べる、晶瑩剔透な小物が一つ。
布包みが展開される。
中には赫然として。一小塊のすでに浄化され、琥珀色を呈する「太歳残核」が横たわっている。
そしてあの幽光を泛べる事物こそ。国師の体内から取り出された「業火琉璃」だ。それは普度大師と国師が通力合作してようやく煉化し得た絶世の奇珍である。
「太歳残核。それに加えて仏門の業火琉璃?」
姐弟子は見多識広だ。美眸を一掃しただけで、あの二つの火傷しそうな芋を認し出した。
彼女は冷哼を一つし、譏諷した。「大魏護国大陣が破れ。この二股の匂いが混ざり合えば。あの妖祟どもの目には、お前は奇香を散発する十全大補丹そのものよ」
ここまで言い至り。彼女は鳳眼を一つ見開き、口調を沈めた。
「いい度胸ね。もし私が主動して口を開いて問わなければ。お前という小僧は。死んでも自白しないつもりだったのね?」
「お……俺がどうしてそんな事、敢えてするもんか」謝必安は首をすくめ、どもりながら抗議する。「話す機会が無かっただけだろ? それに……俺は今こうして言ってるところじゃないか……」
謝必安は手を振り。沈無にあの二つの宝物を再び仔細に小心翼翼に収めさせた。
このモノは招揺ではあるが。極佳の護身符でもある。建康城へ戻れば、これは各方勢力と談判する。ひいては普度の老和尚と値を吊り上げるための籌碼となるのだから。
「ど……どうせ姐弟子が護ってくれてるんだ。外のあのゴミどもが中へ闖り入る事なんてできねえよ。それにこの二つのモノは、お前には使い道がない」
謝必安はいっそ後ろへ仰け反り、死豚は滾水を怕れずとばかりに嘟囔した。
「俺はもうずっと休暇を取ってねえ。ちょうど機に乗じて自分に大休暇を与えてやる。この大魏の官を当めるなんて。まったく牛馬より惨めな生活だぜ」
「思い通りになるとでも? ここを一体どこだと思っているの?」姐弟子は冷笑を一つ。
「世の内で姐弟子だけが素晴らしい。姐弟子のいる子供は宝のようだ……」謝必安は厚顔無恥に哼唧し始めた。
ちょうどこの時。突然一股の彼を絞り砕くような飢餓感が出現した。
「姐弟子……俺、腹が減った。何日もモノを食ってない……ここには何か、俺の腹の足しになるモノはないか?」
謝必安の笑顔は終に掛け留めることができなかった。声は冷たく発顫し、額には登時に冷や汗が直冒した。
彼は左手で榻の面を撑え。両目は餓死鬼のような執念を透かせた。
「肉。生肉。腥ければ腥いほどいい」謝必安の喉結が転がり。唾液を一口嚥下した。「それから、酒。お前のこの別苑で最も烈しいのを……そうだ、俺が以前教えたあの高粱……蜀黍酒はあるか?」
口に出した途端。謝必安は自らまず驚いて跳ね上がった。
生肉? 俺が明らかに食いたいのは熱々の白米飯と鮮湯のはずだ。どうして口から飛び出してきたのが。よりによって生肉と烈酒に変わっているんだ?
姐弟子は眉を挑ね上げ、多くは語らず。振り返って門の外の紅綃へ手勢を一つ打った。
片刻の後。丫鬟が木桶を一つと、泥で封じられた酒罈を一つ提げて入ってきた。木桶の中には半身の未処理の生羊肉が装えられており、暗赤色の血水がまだ下へ滴っている。
謝必安は懐の銜蝉を推し退けた。
彼はよろめきながら寒玉の榻から翻身して下りた。両足が地に触れた瞬間。膝がぐにゃりと曲がり、あやうく地へ跪きそうになる。
彼は踉蹌しながら木桶の前へ歩み寄る。右腕が不受控制に抽搐している。彼は左手を使わず、逆にあの沈重な右腕を強迫して抬げ上げた。
「プチッ」
冷白色の五指が鉄釘のごとく。生羊肉の肌理の中へ粗暴に插し込まれる。
彼は片腕で発力し。筋と血が連なった大塊の生肉を生身のまま引きちぎった。
謝必安はあの高粱酒の罈を取り上げ。泥の封を破り開け、酒罈を頭頂まで掲げた。
辛辣で鼻を刺す酒液が傾瀉して下り。彼のあの暗金色の経脈が凸起する右腕の上に澆がれた。
「ジューッ――」
烈酒が右腕に接触し。滾々と煮え立つ油のような沸騰音を発する。
彼は頭を仰け反らせ。残りの小半罈の烈酒を直接喉の中へ灌ぎ込んだ。
アルコールが食道の中の血生臭さと混ざり合い。簡直に胃の中で一把の火が炸裂したかのようだ。体内に沈寂していた「酒狂」の霊気が瞬時に点燃された。
謝必安はあの生肉の塊を口の中へ塞ぎ込んだ。
咀嚼することなく。筋膜と血水もろとも直接嚥下した。
野獣のような進食の音が、寂静な暖屋の内に廻蕩する。
沈無は丸椅子に座り、無表情だ。
姐弟子は両腕で胸を環し、眼差しが微かに動く。
銜蝉は恐怖のあまり阿奴の背後へ縮み戻った。
謝必安は狼呑虎嚥に生肉を一塊引きちぎる。
歯が筋膜を噛み穿つ瞬間。一股の形容し難い満足感が右腕に沿って頭皮へと一路這い上がる。彷彿、干からび裂けて久しい土地が終に甘霖を待っていたかのようだ。
だが次の刻。彼の胃袋は劇烈に翻攪し始めた。
「オロロッ――!」
たった今呑み下した血肉がことごとく吐き出される。
謝必安は地に跪き。目の前が黒くなるほど吐き続け、鼻腔の裡は腥臭に満ちている。
だがその右腕は、却ってまだ微かに顫抖している。
飢え。
まだ飢えている。
明らかにたった今胆汁まで吐き出しそうになったというのに。妖骨の深処から伝わる飢餓感は半点も消退していない。
彼は粗く喘ぎ。再び手を伸ばして木桶へ向かって掴みかかった。
「まったく……見鬼だ」
「俺が明らかに食いたいのは白飯だぞ」
彼は歯を食いしばって一言罵ったが。それでも第二塊の生肉を口の中へ塞ぎ込んだ。
斯くの如き反覆折騰を数回経て。彼はようやく頑強な意志を憑みに、あの心を焼く飢餓感を勉しいて圧制し。ついに脱力したように動作を停めた。
右腕の皮下の暗金色の経脈が次第に平息し。冷白色の光沢を恢復した。
あの彷彿いつでも理智を引き裂きそうな嗜血の感は。ついに烈酒と生肉の安撫の下で沉睡に陥った。
謝必安は鮮血まみれの右手を抬げ。手の甲で口角の血の跡を抹い去ったが。胃の裡は翻江倒海の如く悪心している。
彼の大脳は明らかに、熱々の羊肉の清湯と白米飯を無比に渇求しているというのに。この意志に背叛した肉体は、却って偏偏として生腥い血肉にしか反応を生じない。
彼は満地の砕骨を見つめ。良久の沈黙。目角が微かに一度抽搐した。
彼は目を上げ。明らかに不対勁な自分の右手を直勾勾に見据え。声を沈めて口を開いた。
「おい、姐弟子。俺が昏迷して目覚めない間に。一体俺の身体に何をしたんだ?」
「ペッ。親切を仇で返す気ね」姐弟子は白目を剥き、彼を斜睨する。「お前あの時、すでに片足を鬼門の関に踏み入れてたのよ。私に他にどうしろって言うの? それに、どうせお前がこうなるのは初めてじゃないし……」
「だからお前、果たして……」
「私が果たして、何だって?」姐弟子の眼差しが冷え。笑っているようで笑っていないように彼を見る。「口を開く前に、先ず重さを量りなさいよ。自分の皮を仔細しなさい!」
「……」
姐弟子と謝必安は斯くの如く、大眼と小眼で睨み合い僵持した。
最終的に、謝必安が敗陣し。満腹の牢騒を抱えて低声で罵った。
「見鬼。また一つ飯をたかる奴が増えちまった。このボロ手はよりによって生肉ばかりを食いやがる。以後の飯代は恐らくまた倍増だな」
沈無はこの風景を殺すような抱怨を聞き。口角が微不可察に一度扯動した。
銜蝉はこの言葉を聞くや頓時に緊張し、急急として叫喚した。
『親父! それはダメだ! そいつは後から来た奴だぞ。どうして俺様よりたくさん食う資格があるんだ!』
阿奴は気性なく白目を剥き。いっそ振り返って。自顧自に背中の毛を舐め清潔にし始めた。
一方の謝必安は此の時まさに満心憂慮であり。この太猫の抱怨を理会する心思など毛頭なかった。




