第62話 春夢
【巻ノ二・残頁陸拾弐:『大魏異聞録・肉芝延嗣』残巻】
「世に奇術あり、名を『同胞共体』と曰う。大妖の血肉を取りて炉鼎と為し、死者の残躯を其の中に没す。
活人の体温を以て死気を化し去り、妖気を以て断脈を続接す。
施術の際、血肉交融し、極めて旖旎なり。然れども少しでも不慎有らば、便ち双双理智を失いし肉傀と淪落すべし」――『司天監・医部档』
【司天監内部メモ】
兄弟よ。絶世の美女が自ら進んでお前の前で「素っ裸」になった時。自分が祖先の墓から青煙が上がるほどの桃花運(モテ期)に出会ったのだと、自己陶酔するのはやめておけ。
よく覚えておけ。ここは人を食って瞬き一つしない建康城だ。お前は女の美色に貪恋しているが。女はお前の骨の灰をすり潰して研究したいだけなのだ。
†
紫竹幽苑、蔵霜院、寒玉の榻の前。
一人と一匹の猫の対峙は、長くは続かなかった。
阿奴は喉の奥で抑圧された低い嘶きを転がし、目の前の妖魅な女を死に物狂いで見据えている。
然れども。姐弟子はただ気怠げにあの桃花のような眼眸を上げるだけだ。眼底の奥深くに隠隠として、人ならざる暗赤色の縦長の瞳孔が泛び上がる。
排山倒海の如き霊圧が、無形の巨手と化し。瞬時に阿奴の咽喉を扼し締めた。
「そこの紫檀の椅子へ行って、大人しくしていなさい」姐弟子の声は軽柔だが、忤逆を許さぬ森寒を透かせている。「もし一丁の動静でも立てて私の行医を邪魔すれば。お前のその綺麗な銀の皮を剥ぎ取り、獣の姿すら保てなくしてやるわよ」
阿奴は身動きが取れない。だがその雪のように白い銀の毛髪は依然として緊縮している。
彼女は心で明白に分かっている。謝必安の生死は今や一瞬に懸かっており、自分は決してこの女の対手ではない。ましてや、目の前の女は確かに彼を救えるのだ。
理智は頭を下げるべきだと告げている。だが高慢な自尊がどうして甘心できようか。
幾度も権衡を経た後。この銀色の女王の口角が二度引き攣り、最終的に不服そうな短促の冷哼の一声へと化すに留まった。
彼女は優雅に凌空から躍り下り、軽盈な足取りで隅の太師椅子へと歩いていく。続いて身体を丸く縮ませたが、眼差しは依然として警惕を解いていない。
姐弟子は視線を収め、門の外へ向かって淡々と吩咐た。
緑襖の丫鬟・紅綃が扉を推して入ってくる。手には彫工の精美な白玉の海棠の碗を捧げ持ち、碗の中には清澈透亮の液体が盛られている。
「この無根露の碗を椅子の傍に置き、その小畜生の渇きを解いてやりなさい」姐弟子は頭も振り返らずに吩咐る。「そして退がれ。院の門を死守せよ。私の吩咐なくば、何人たりともこの部屋に半歩でも近づくことを禁ずる」
紅綃は低眉順眼に玉の碗を下ろし、衣を合わせて退き出た。そして厚重な雕花の木門を外から固く闔じた。
直ちに口の内で念々と詞を唱え、指先で門の前に向かって素早く形を画く。印記を結び終えると、傍らへ退き静かに等候した。
屋内には、香炉の内で燃焼する微音と、謝必安の気若遊糸の呼吸だけが残された。
姐弟子は再び眼差しを謝必安の身へ戻した。
彼女はゆっくりと両手を上げ。指先で慢条斯理に、己の身に残されたただ一件の月白色の絹糸の中衣を解いていく。
シルクが彼女の羊脂玉のように白皙な肌理に沿って滑り落ち、地に委てて軽柔なサササという音を発する。
窒息するほど完璧な肉体が、同時に言い表せない危険な美感を透かせながら、微塵の保留もなく空中に暴露された。
彼女の肌は女子の温潤を有すると同時に、冷たい磁器のような詭異な光沢を帯びている。
腰際からは隠約として幾道かの暗赤色の複雑な紋路が見え。交織して曼珠沙華のトーテムと化し、彼女の呼吸に随って活物の如くゆっくりと蠕動している。
己の衣衫を褪いだ後。彼女は俯き、動作は軽柔にして抗拒を容さず。謝必安の身に残された、血汚れと泥漿でずぶ濡れになった襤褸の布切れを、一つ一つ剥ぎ落としていった。
「ふふっ。師姐に、今のあなたの模樣をよく見せてちょうだい……恥ずかしがらないで」
彼女の口は軽語と呢喃を漏らしながらも、手の動作は停まらない。
謝必安の赤裸の躯体が完全に展露された時。縦え生死を見慣れた姐弟子であろうと、眉が思わず微かに跳ね上がった。
この男の身躯の上には新旧の交錯する傷痕がびっしりと走っている。
殊に、あの肩甲骨の処から黒ずみ始め、灰白色の斑塊がびっしりと生えた右腕は。濃烈な枯れ木の腐臭を放散している。
彼女は微かに首を横へ向け。氷のように冷たい指先を彼の鎖骨に沿って滑り下ろさせ。あの血の気のない耳畔へ向かって蘭の如き息を吐きかけた。
「弟弟子。あなたのこの底子は乍寒乍熱でね。折騰されて師姐のこの心も……すっかり痒くなってしまったわ」
姐弟子は嬌媚な嘆息の声を漏らす。
彼女は裸足で寒玉の榻を踏み。ゆっくりと謝必安の腰際に跨座し、俯いて呢喃した。
「始まるわよ、小七……くれぐれも、動かないでね」
最後の字が唇と歯の間で消散するに随い。滝の如き青絲が謝必安の蒼白な頬に垂れ落ちる。
続いて、猩紅の丹蔻に染まった指先が彼の顎を軽く摘み、強引に歯の関を開かせた。
次の息。氷のように冷たく柔らかな紅唇が。厳糸合縫(隙間なく)に印を合わせるように重なった。
濃烈な迷迭香の気味を帯びた液体が。交纏する唇舌に沿ってゆっくりと謝必安の口の中へ渡されていく。
これは姐弟子の「本命の涎水」であり、この世で最も頂級の麻酔の聖薬である。
謝必安は無意識の嚥下の中で。ただ一筋の氷のように冷たく極度に粘稠な液体が喉の管に沿ってゆっくりと滑り落ちるのを感じた。
この寒流が過ぎる所、五官の感知は強行に切断され。彼の瞳孔は次第に渙散し。意識は彷彿、直直に一片の温柔にして深邃な泥沼の中へ墜入した。ただ身の上の女に擺布されるに任せるのみ。
謝必安の意識が徹底的に混沌へ陥った際。椅子に縮こまっていた阿奴の瞳孔が驟縮した――彼女は再び、この不可思議な異象を親眼で見たのだ。
姐弟子の両手が奇怪な法印を一つ一つ結び出すに随い。彼女の胸口の正中央、本来白皙無瑕だった肌が、なんと蕾を含むが如くゆっくりと裂け開いたのだ。
あの裂け口は拡がるほどに大きくなり、両側へ寸寸に翻展し。最終的に、なんと胸の前に一輪の妖異な血色の蓮の花が盛開したかのごとき様相を呈した。
鮮血の噴湧もなく、臓器の外露もない。裂け口の深処には。ただ一団の、滾々と煮え立つ高温を散発し、濃烈な異香が充満する、幽紅の血肉の漩渦があるのみ。
彼女は不急不徐に両手を伸ばし。左手で謝必安を扶け起こし、右手で謝必安の右腕を握り。己の胸口の正中の裂け目に照準を合わせ、ゆっくりと下方へ按圧した。
「ジューッ――」
謝必安の肉身が血蓮の核心の高温に接触するや。なんと焼き入れと擠圧に似た細砕の微音を発した。
想像したような鮮血の横流はない。逆に生渋と阻力感に充満している。
謝必安の右腕が一寸一寸と女の胸腔の中へ没していく。
その感覚は、猶も錆びた鉄の杵を、緊密で滾々と煮え立つ春泥の中へ強行に擠り入れているようだ。
姐弟子は修長な首を仰け反らせ。喉の奥から意味不明な甘ったるい悶哼の声を発する。彼女の両足は謝必安の腰と腹を死に物狂いで挟み込み。あの死気を放つ腕が、己の胸腔の内で血肉と経絡と強行に接駁し、融合するに任せた。
満室の内に。生と死、肉と血を完璧に糅合させた後の妖異な旖旎が尽きない。
隅にいる阿奴はかく成ることをとうに知っていたかのように。気を立てて尻尾を振り、首を横へ向け。いっそ眼不見為浄と決めた。
謝必安の右腕全体が完全に胸腔へ沈み込んだのを待ち。姐弟子はようやく手を空け。机の上のあの暗金色の、彷彿まだ微かに蠕動しているような大妖の脊椎骨を勾き帯びた。
彼女は深く一口の息を吸い込み。頭を仰け反らせ、紅唇を微かに啓いた。
絲毫の遅疑もなく。姐弟子はあの粗糙で堅硬な暗金の妖骨を。一点一点、己の口の中へ送り込んでいく。
異物が彼女の柔嫩な口腔と喉管を擦過し、引き裂くような痛楚をもたらす。だが彼女の面上の神情は却ってますます痴迷と嚮往を深めている。
彼女は獲物を呑噬する巨蟒のごとく。好整以暇にこの「接ぎ木」の妖骨を腹の中へ呑み込み。其が内腑の中で、謝必安の断脈と交織し根を生やすに任せた。
†
意識の深淵の中。漆黒無光。
本来なら霊魂を引き裂かんばかりの陰寒、灼熱、そして腐敗感。それが突然。温かく、潮湿で、弾性に満ちた熱流に包み込まれたのだ。
謝必安が猛然と目を開ける。
猫はいない。血生臭さもない。あの秋雨が降る建康城もない。
柔和な黄色のタングステンランプの光が、オフホワイトのファブリックソファの上に降り注いでいる。
エアコンが壁の隅で、低く安定した「ブゥゥン」という運転音を発している。
窓の外には見慣れたネオンの灯火が明滅し、時折、バイクのマフラーの轟音が数声伝わってくる。
「何ボーッとしてるの? 今日は私とショッピングに付き合った後、帰ってきたらこのワインを開けるって約束だったでしょ?」
清脆で嬌嗔な声が、彼を現実へ引き戻した。
謝必安が振り返る。
彼のガールフレンドが、ダボッとした白い彼シャツを着て。シャワーを浴びたばかりの長い髪を、タオルで随意に頭頂に丸くまとめている。
空気には、彼が最も熟知しているあのシトラス調のボディソープの香気が瀰漫している。清新で、十分な現代の人間界の生活臭を帯びている。
彼は頭を下げて自らの両手を見た。十指は修長で、皮膚は健康。あのような労災の痕跡はなく、右腕もまだちゃんとある。
「さっき……なんだか長くて、ひどく荒謬な悪夢を見た気がするよ」
謝必安はガールフレンドから渡されたワイングラスを受け取る。暗赤色のワインの液がガラスの杯の中で揺れ、温暖な光沢を屈折させた。
「最近残業のしすぎで頭がおかしくなったんじゃないの? あのケチな社長が、また企画書の修正を迫ってきたの?」
ガールフレンドは笑いながら彼の身側に座り。柔らかな身躯が自然に彼の懐の中へ依偎してきた。
二人はワインを飲みながら。会社内のゴシップ、来月の家賃、そして週末はどこへ火鍋を食べに行くかについて語り合った。
それらの瑣末で、平庸で、しかし無比に真実たる現代生活の欠片。最も有効な安神薬の如く。謝必安の霊魂の奥底の疲憊を撫で平らげていく。
語り合っているうちに。空気の中の温度が、悄然と攀昇していくかのようだ。
ガールフレンドの眼差しが、迷離として水潤に変わる。
彼女はワイングラスを下ろし、彼の足の上に跨座し。両腕で彼の首を環した。
ワインの微酔いを帯びた両唇が。軽く彼の顎にキスをし、続いて一路下方へ向かい。あのワイングラスを握っている彼の手の上へと遊移していった。
彼女は悪戯っぽく、謝必安の右手の人差し指を含んだ。
温熱で、湿潤な口腔が指先を包み込む。舌の先が一絲の挑逗の滋味を帯び。軽く吸い、舐める。
その極致の柔軟さと微弱な吸力。言い表せない痺れるような感覚が、指先に沿って脊椎骨へと一路這い上がるのを謝必安に感じさせた。
彼は情不自禁に目を閉じ。この久違の温柔郷の中へ沈溺しようとした。
突然。
「テンテテンテン……テンテテンテン……」
一陣の悦耳で、高デシベルで、かつ劣悪な音質を帯びた旋律が。何の予告もなく、アパートの窓の外の大通りから鳴り響いた。
それはこの都市のゴミ収集車特有の放送音――「エリーゼのために」。有名なピアノの小曲だ。
この、日常の瑣末な事とゴミ出しの時間を代表する提示音。それは一本の粗暴な鉄の鎚のごとく。眼前にあるこの温馨で旖旎な光景を容赦なく叩き砕いた。
ファブリックソファは瞬時に飛灰と化す。エアコンの嗡鳴は扭曲し、青銅の博山炉の中で香料が炸裂するパチパチという音へと変わった。
シトラスのボディソープの香気は。濃烈で鼻を刺す血生臭さと迷迭香に、徹底的に覆い隠された。
謝必安は猛然と冷気を一口吸い込み。意識は瞬時に灼熱の洪流によって湮没された。
†
姐弟子の視線が次第に焦点を結んだ。
謝必安は依然として未だ目覚めず、赤裸のまま氷のように刺骨の寒玉の榻の上に横たわっている。
然れども。本来黒ずんで壊死していた右腕は。今や完好無損の状態で身側の玉石の上に並べ置かれている。
枯れ木のような死気は蕩然無存。取って代わったのは生気に満ちた冷白色の光沢だ。皮膚の下には。隠約として一筋の暗金色の流光が経脈に沿ってゆっくりと遊走しているのが見える。
彼の右手の人差し指が。今正に一処の温熱で潮湿な所在に、死に物狂いで包み込まれている。
姐弟子は正に身を俯かせている。あの妖艶絶倫な顔立ちが近在咫尺にある。
豊嫩な紅唇が正に謝必安の右手の人差し指を固く含んでいる。舌の先に極めて強い吸力を帯び。彼の指の骨の深処にある最後の一絲の頑固な死気と骨毒を。生身のまま吮い吸い出そうとしているのだ。
指には神経が密布している。これほど細緻入微な毒抜きの作法は。骨格の強行融合などよりも遥かに心神を耗費する。
此の時の姐弟子には。とうに先ほどのあの高高在上で、慵懶従容な模樣はない。
彼女の全身はまるで水の中からすくい上げられたように、大汗淋漓だ。
幾筋の青絲が汗水に浸透され、狼狽して蒼白で血の気のない頬に粘り付いている。あの白皙の胴体の上には細密な汗の珠がびっしりと布き。薄暗い燭火の下で一層の水光を泛べている。
「ハァ……ハァ……」
彼女は謝必安の指を離し。黒い毒血と唾液が混ざった濁気を一口、傍らの白絹の上へ吐き出した。
胸の口が劇烈に起伏している。豊満な双峰が急促な喘息に随って絶え間なく顫動し。口からは嬌媚でありながらも極度の疲憊を透かせた喘息声が発せられる。
謝必安の性命を保つため。彼女はほぼ通身の大半の心力を耗尽した。
風華を散らし尽くした彼女は。虚弱に謝必安の胸膛に這い伏し。額を軽く謝必安の胸口に抵てた。
掌と耳の畔に、この男の体内に新たに煥発し出した強健な心跳を感じ。規律ある心音を聞き。彼女のあの疲態が溢れ満ちた桃花の眸の中に。ここに至りようやく緩緩と一絲の病態の満足が浮現した。
良久。
彼女は手を伸ばして男の頬を撫で。指先を片刻停留させた。
「小七……」彼女は声を低め、自ら呟くように笑った。「今回は……師姐に何点をつけてくれるのかしらね」




