第60話 秦淮夜雨
【巻ノ一・残頁陸拾:『大魏朝野僉載・国喪』残巻】
「帝は太極殿に崩じ、琉璃と化す。東宮は伏誅し、皮を剥がれて朱雀門に懸かる。
是の夜、建康の風雨は晦きが如く、百官は泥に伏して哭喪するも、実には各々鬼胎を懐く。国の太宝は懸かりて未だ決せず。司天監が気を望むに、建康の上空に主無き紫気が四散し、群烏が争い啄むを見る」――『礼部・大典档』
【司天監内部メモ】
龍の椅子に端座する天子が暴死し、朝野に権を傾けた国師が妖孽と成り果てて逃遁した時。翌日早朝の朝堂に、胸を叩き足ずりして哀悼する忠臣など決して現れない。
普段の清談法会で兄弟と呼び合う世家門閥どもは、真っ先に「妖党の清剿」の旗印を掲げ、新君擁立の従龍の功を奪い合うのだ。この群鴉が腐肉を争う際。あの血に染まった伝位の遺詔を握る者こそが、この満朝の豺狼どもの目において、最も肥え太った極上の鮮肉となる。
†
建康城、太極殿の廃墟。
満天の秋雨が、国師に打ち破られた丸天井の穴に沿って、九天から傾瀉する滝のごとく狂い注ぐ。
氷のように冷たい雨水が、残破した黄色の琉璃瓦と青銅の鼎の残骸に降り注ぎ、ピチピチという砕け散る音を立て。断裂した金糸楠木の木屑を巻き上げ、溜まり水と共に四方へ横流する。
大魏の権力の最高中枢は。今や、濃厚な腐臭と血生臭さを放つ泥水の一潭と淪落していた。
緋色や紫色の官服を着た十数名の朝廷の大官が。太歳の粘液が混ざる泥濘の中を、一歩ごとに深く浅く足を取られながら踏みしめている。
大魏の開国以来、世家門閥は皆、ゆったりとした衣と広い帯、足には高歯の木靴という風流な作法を崇尚してきた。だがこの時、殿内の惨状を目の当たりにし、礼法や儀態など構っていられる者がいようか。
彼らは慌てて殿の門前で朝靴を脱ぎ、人を呼んで高歯の木靴へ履き替えさせた。だが、平時には名士の風度を最も彰顕するはずの木靴が、妖祟の粘液まみれの地面を踏めば絶え間なく滑り、かえってこの大官の群れを狼狽で滑稽なものに見せている。
大魏の天子はあの純金の龍の椅子ごと、なんと高さ一丈ばかりの、晶瑩剔透たる琥珀色の琉璃の彫像と化していた。
刹那、ある大官は顔を覆って痛哭し、ある大臣は信じ難き様に呆若木鶏となる。
ただ数名の重臣のみが強引に鎮定を装い、禁軍の統領へ宮禁の封鎖を厲声で喝令しながら、太史令と司天監へ検証を急ぎ喚ばせた。
それと同時。皇城の外郭、承天門の上。
太子の皮袋が風雨に合わせて狂乱に揺れ動き、破れた帆が引き裂かれるようなカサカサという摩擦音を立てている。
この時の城楼はすでに黒甲の衛兵に層層と包囲され、飛鳥一羽たりとも出入りは叶わない。
大局を統べる東宮詹事は、全身の戦慄を強引に抑え込み。宮禁を掌る衛尉へ周辺情報の封鎖を督促しながら、震える声で数名の衛兵に梯子を登らせ、黒布で天日を遮り、太子の皮袋を高所から降ろすよう指揮した。
彼は心で明確に分かっている。この承天門の上の風音がもう一秒響けば、大魏の天は、さらに徹底的に崩れ落ちるのだと。
皇帝は殯天し、太子は生剥ぎにされ、国師は遁走した。
「国難が頭上に迫れり! 陛下が妖邪の反噬に遭われ、なんと此の如き異象と化されるとは。実には大魏百年に未だ有らざる惨劇なり!」
髭も髪も真っ白な大魏の司徒、王家現任の家主・王衍が。両膝の力を失い、汚穢の中に重く跪いて空泣きする。その眼差しは絶え間なく周囲を瞥見し、混乱の中で自派の陣脚を安定させようと試みている。
「王司徒が斯くも凄惨に哭かれるとは。まさか心虚でもお有りかな?」
蒼老でありながら無尽の威厳を透かせた冷笑の声が、王衍の哭号を打ち断った。
大魏録尚書事、謝家の老太公・謝淵が。二名の玄甲の衛士に支えられ、満地の血汚れを踏みしめながらゆっくりと歩み出た。
溝がびっしりと刻まれたその老顔に半分の哀慟もなく、あるのは獲物が網に落ちたのを見た時の森寒のみだ。
「袁監正。先ほどの大殿の内の光景。衆人の中で、お主が最も分明に見たはずじゃ」
謝太公は首を回し。片手で傘を突き、片手で提灯を提げ、雨水に浸った衣の裾を身体にぴったりと貼り付けたまま、薄暗い灯火の下で黙り込んでいる袁の老いぼれを見遣った。
袁の老いぼれは心領神会する。数十個の灰白色の目が陰の内で幽幽と転がり。朝野を爆発させるに足る一つの餌を投げ出した。
「国師・李泌は、実には太歳の妖孽が化けたモノ。陛下は其の妖法による暗算を受け、方に龍馭賓天されたのじゃ。今やあの老妖道は負傷して遁走しおったわい」
此の言葉が出るや。王衍の顔色は瞬時に紙のような惨白となった。
満朝の皆が知っている。琅琊の王氏が近年、正に国師への依附に頼ることで、朝堂において風を呼び雨を喚ぶ(権勢を振るう)ことができていたのだと。
「王衍! 貴様は平日よりあの妖道と過従甚だ密に過ぎ、狼を室に引き入れ、国の太宝をして塵を蒙らしめた!」謝太公が猛然と玉笏で王衍を指差す。口調に皮を剥ぎ骨を割るほどの狠辣が透ける。「者ども! 王衍の司徒の職を褫奪し、御史台へ引き渡し厳加に鞫問せよ!」
とうに抑えきれずにいた数名の謝系の武将が。狼虎の如く前方へ飛びかかり、粗暴に王衍を泥水の中へ押し倒した。
これは題を借りて発揮する政治的清算だ。司天監の裏書きを得た今、王家というこの肥えた肉は、謝家の食卓に並べられることが運命づけられたのだ。
「で……でたらめな! この琉璃の妖法。貴様ら司天監が妖と通じて乱を作し、賊が賊を捕らえよと叫んでいる勾当ではないのか!」
王衍はこの時泥濘の中に死に物狂いで押さえつけられ。本来名貴な絳紫の官服は太歳の粘液にまみれていたが。依然として甘んじて弱みを見せず、頭を昂げて厲声で言い返した。
「我は大魏の三公、司徒に列す! 今や聖諭も下らぬに、貴様ら無憑無拠、何を以て我を捕らえるか!」
謝太公は彼の叫囂を置若罔聞とし。彼を直接通り越し、話題を承天門の皮袋へと投げた。
「国の儲君に至っては……」謝太公は寒蝉の如く口を閉ざす百官どもをゆっくりと環視し、眼差しを驀に凛とさせた。
彼は知りすぎている。今この刻、最も命取りになるのは王家ではなく、行方知れずの謝拾遺なのだ。
彼は龍の椅子の前方、地面のあの一揃いの絳紅色の絲羅大袖の寛衫が依然として目を刺すのを見据える。傍らにはまだ血痕のついた御筆が転がっている。一瞬の間に、彼の心中にはすでに定見があった。
「老夫の『録尚書事』の手諭を伝えよ!」
謝太公の声は洪鐘の如く。残破した太極殿の内に隆々と響き渡り、無上の威権を以て大魏最高の統治の意志を行使する。
「司天監九品拾遺の謝必安、禍心を包蔵す! 査するに拠れば、此の賊はすでに国の重器を竊取し潜逃を密謀す。罪は謀逆に同じ! 尚書省刑部に令し即刻海捕文書を起草し、画形摹状せよ。郵駅の快馬を借り、火急に大魏各州、郡、県へ発せよ!」
「廷尉、御史台に著じ司隷校尉と会同し、即刻京兵捕役を出動させ、関津渡口を厳密封鎖せよ! 凡そ情を知りて報ぜざる者有らば、大魏の律令に依り保伍連座の法を行い、満門抄斬とす! 賞格は万金、死活を問わず!」
語り終えるや。彼の枯れ細った指は玉笏を死に物狂いで握りしめ、指の節は力みで一本一本白く浮き上がる。面上は国のために賊を緝める凛然たる大義の一派を装うも。その心中ではとうにあの者を極限まで恨み、暗に罵っていた。「あの孽障め。なんとまたも老夫に此の如き滔天の大禍を引き起こしおって!」
一連の極めて厳密な国家機関が、謝太公の三言両語の間に轟然と運転を始める。
この時の殿内の満朝の文武は。心中皆狂ったように各自のチップを計算し。この新皇登基の擁立の盛宴において、一杯の羹を分け合い、先機を搶占できることを切望している。
然れども、ただ深邃な陰の内に立つ袁の老いぼれのみが。この世家門閥の狂歓を冷ややかに見つめていた。
誰も知らない。袁の老いぼれが真に気にかけているのは、伝位の遺詔などではなく、あのまるまる八万両の白銀であることを。
司天監は建康城の地脈陣法を維持するため、帳簿上の庫銀はとうに底を突き、基層官吏の俸禄すら発給できなくなりかけている。
あの平日に少しの砕銀の未収のためにいつも彼と争い休まぬ拾遺の小役人が。この時手に握っているのは、謀逆の品などであるものか。あれは明らかに、司天監の上下が命を繋ぐのを待っている横財なのだ。
ちょうどこの時。全身を黒袍に籠罩された一人の鏡妖司の暗探が。夜の雨と断壁残垣の掩護を借り、一抹の遊魂のごとく袁の老いぼれの背後の陰の中へ滑り込み。泥水の中に片膝をついた。
暗探の肩には。羽毛が稀疎で、右の翼が詭異な枯萎状を呈する「追影鴉」が一羽、留まっている。
「監正に稟ず」暗探が喉音を低く押し殺し、額を氷のように冷たい石板にほとんど擦り付ける。「下官の追影鴉は一路沈千戸と謝拾遺を追随して鬼市へ入るも、迷迭香の気を持つ紫霧に毒暈され。彼らは……鬼市の深処で憑空に消失し、一絲の気息すら残さず消えました」
袁の老いぼれのあの老斑がびっしりと走る顔の皮が微かに抽搐し、沈黙して語らない。
鏡妖司の暗探は袁監正の顔色を窺い、息を殺して言う。「他事が無ければ。下官はこれにて鏡妖司へ戻り復命いたします」
袁の老いぼれは軽く手を振る。暗探が退き去るに随い、彼の指先は神経質に微かに痙攣し始めた。
皮肉の深処に、半時辰前、あの「資産」に触れかけた時の生渋な触感がまだ残留しているかのようだ。それは表面に雨水と血汚れがある粗糙な皮袋。ずっしりと重く、氷のように刺骨の冷たさを放ちながらも、誘人な罪悪を透かせていた。
「あの紫霧は精鋭の追影鴉を瞬時に倒す。接応の者の手口、決して老夫の下にはあらず」
袁の老いぼれの干からびた唇が蠕動し、目に一抹の陰鷙な冷光が閃く。彼は知りすぎている。謝太公の政令は固より厳密だが、妖祟の地界へ逃れ入った亡命徒を対付するには、世俗の捕快や鉄甲など全く無済於事だということを。
彼は傘を突き、ゆっくりと陰を歩み出た。泥濘を踏んで謝太公の身側に至る。
「謝太公。その海捕文書と官衙の捕役では、恐らく令孫は生け捕れませぬぞ」袁の老いぼれの声は嗄れ、ただ二人にしか聞こえぬ音量で幽幽と語る。
謝淵の老顔が微かに横へ向き。神を装い鬼を弄るこの監正を冷ややかに睥睨する。
「あの小僧の気息は、鬼市で大妖に強行に抹除されたわい」袁の老いぼれは相手の眼底の防備を毫不避諱し、直截了当にチップを投げ出した。「太公が若し、朝廷や各方勢力の前に割り込み。あの『品』を穩々と囊中に収めんと欲せば。世俗の兵馬は已然として無用」
此処まで言い至り。袁の老いぼれは風の漏れる口を大きく開け、耳を刺す低笑を発した。
「恐らくは太公御自ら、謝府のあの伝家の蓍草を動用し。令孫のために一卦、命盤の方位を卜していただく労煩をおかけせねばならぬじゃろうて」
謝太公は無表情のまま聞き終える。見た所は無動於衷だが、心底ではとうに怒火中焼であった。「いい度胸だ! なんと老夫に折寿のリスクを冒させるとは……この老い先短いクソジジイ、実に良い算盤を弾きおる!」
二匹の同じく老謀深算、貪婪成性の老狐が。この血生臭さを放つ廃墟の中で、心照不宣の視線を一つ交換した。
「者ども! 駕籠を用意し府へ戻る!」
謝太公が厲声で喝令し、当即に大殿の内の残局を放り捨てる。彼は刺骨の冷雨を冒して玉階を降り。身側の親信へ手振りを一つ打ちながら、冷幽幽と袁の老いぼれを見据えた。
「老夫は身体が不適でな。先に府へ一趟戻らねばならん。お主。速やかに近道を抄って戻り報せを打て。大魏の司天監監正が、今夜老夫の府上へ客として参ると」
†
建康城内。烏衣巷、謝府、絳雪軒。
謝府の最も深処に位置するこの院落は、謝家全体で最も奢靡で精巧な居所だ。家屋の正中央の地龍は極めて盛んに焚かれ、源源と絶えぬ暖意が、初秋の陰雨の刺骨たる寒気をとうに駆散殆尽している。
謝知微は一襲の乾燥した柔らかな鮫綃の寝巻きを着て、雲錦の布団が敷かれた軟榻に慵懶に横向きに臥している。あの絹の帯の下に隠れた盲目は。方に若有所思に虚空へ向かって「視」ていた。
「お嬢様、探ってまいりました!」
貼身の大丫鬟・翠桃が髪の先にまだ雨水をつけ、気喘吁吁に雕花の木門を押し開いて飛び込んでくる。霎時に一陣の刺骨の冷冽なる雨気を引き込んだ。
「太極殿のあちらで大事が起きました! 皇帝は崩御され、国師は逃げました。老太公が録尚書事の名義を以て、夜を徹して海捕文書を簽発し……今や満城が廷尉と官衙の捕役兵馬だらけ。至る所で若旦那様を捕らえようと……若旦那様はもしやすでに……」
翠桃の声は泣き声を帯びている。
謝必安は謝家から名を除かれたとはいえ。絳雪軒全体の丫鬟たちは皆知っているのだ。いつも夜半に壁を越えて忍び込み、渾身血だらけでありながら無頼のふりをするあの若旦那様こそが。自家の小姐にとって、この氷のように冷たい府邸の内の唯一の光であることを。
謝知微は柔らかな引枕にもたれかかる。蒼白な顔に半分の慌乱もない。
彼女はやや氷のように冷たい手をゆっくりと伸ばし、翠桃の濡れた頬に軽く触れ、目角の涙を拭ってやる。
幼い頃から共に育ってきたこの丫鬟に対し。彼女の残存する人性の中に、いまだ一絲の淡薄な温存が保留されている。だが口調は依然として空霊にして平板だ。
「泣かないで。涙がこの部屋の暖気を汚してしまうわ。兄は潮湿が好きじゃないの」彼女は小声で言う。彷彿己に無関な些事を陳述するように。「兄は死んでないわ」
「薬を熬じに行きなさい」謝知微は手を引っ込める。口調に不容置疑の威圧が透けた。
「大老爺の庫房へ行き。あの三百年の野山参と、この前貢がれてきた天山雪蓮を持ってきなさい。この絳雪軒の銀骨炭の炉で熬じるのよ」
翠桃はそのままその場に愣とし、目を丸く見開いた。「お嬢様、それは万万なりませぬ! あの雪蓮は老太公が指名して命を繋ぐために残してある宝物。若し発見されれば……その上、この部屋には降真香が薫り込まれております。この時に薬を熬じれば、まさか……」
「行けと言ったら行くのよ」謝知微は微かに首を横へ向ける。薄綃の下の盲目が虚空へ向かって「望」んだ。
「たとえ天が塌てこようとも。この鍋の薬は断やせないわ。兄の腕の『寒陰散』。薬効がそろそろ切れる。もし帰ってきた時、この熱い湯で吊っていなければ。あの腐った腕で生きたまま痛め殺されてしまう」
彼女は頬を白狐の毛皮の絨毛の中に埋め。聞き取れぬほど微細な呟きを発した。
「あの人は昔から、決して損を食おうとはしない性分。この皇家の商売。あの人なら必ず順利に帳目を結清する方法があるわ……そうでしょう?」
夜の風が窓の隙間に吹き込み、彼女の額の微かに乱れた前髪を撩動する。そして彼女が面を向けている方向。それこそが建康城皇宮の位置だ。
今夜の夜空は厚重な烏雲に層層と封鎖され、一絲の月光も透けない。
然れども、彼女のあの曼珠沙華の絹の帯の下に隠蔵された盲目は。彷彿、片片の雨の幕と漆黒の夜色を容易に穿透するかのようだ。
彼女には満城の風雨は見えない。太極殿の内のあの晶瑩たる琉璃の棺槨も見えない。
だが彼女は清清楚楚と「視」ていた。建康城の上空、数百年にわたり蟠踞してきた大魏気運の金龍が。正に無声の悲鳴を発し、寸寸に崩裂していくのを。
建康城の護国大陣が、破れた。
坊市の溝渠、荒塚枯井の間に隠匿されていた無数の妖魔が。血生臭さを嗅ぎつけた蛆虫の如く。雨の幕の陰影の中で蠢蠢欲動し始めた。
無数の、死気と怨念が混ざり合った紫黒色の煞気が。満天に乱舞する群鴉と化し。正に貪婪に、この都城の最後の一筋の生機を噛み千切っている。
ちょうどこの時。無人の注意する蒼穹の頂端が、突然裂け開いた。
肉眼では弁じ難い細長い裂痕が天幕の上に横たわり。一陣の清脆なる砕裂の異響を挟帯し。
一件の未知のモノが幽暗の尾を引く軌跡を曳き。九天の上から剥落し、人間へと直墜した。
正に歩を移して離宮を準備していた袁監正が、猝然として足を停めた。彼は有所感あったか、猛然と頭を上げ、烏雲に遮蔽されたあの天の裂け目を望み。喃喃自語と呟く。「天道に欠け有り……」
謝太公はその異様を見て、歩を停めて進まず泥塑と同形となった袁の老いぼれを狐疑に見やり、眉を顰めて問う。「何事か?」
袁監正はここに至り、のろのろと視線を収め。首を回して謝太公を見つめ、口角を引き攣らせて言う。「いや、老眼の昏花じゃて。今しがた、小虫が一匹飛んでいくのが見えた気がしたのじゃ」
「兄さん……」
謝知微は頭を下げ。炉の内で揺らめく橘紅色の火光を見つめる。両手で両膝をしっかりと抱え込み、顔を腕の間に埋め。極めて微弱でありながら、堅定に満ちた呟きを発した。
寒風が寂静たる深院を吹き過ぎる。彼女に回答する者は誰もいない。
彼女は全く知らない。此時此刻。決して損を食おうとしない彼女のあの兄が。知覚を全く失ったまま、氷のように刺骨の寒玉の榻の上に横たわっていることを。
榻の傍ら。濃厚な迷迭香の気息を放つ一人の妖魅な女が。正にゆっくりと、己の身の華服の長袍を褪ぎ落としている。
続いて。その猩紅の丹蔻を塗った指先が勢いに順じて滑り落ち。悄然と謝必安の衣の襟を挑き開けた――衣衫が層を成して褪け去り。赫然として、正に黒ずみ、死気を流淌させている右腕が露出する。
女の手は休止することなく。彼の胸に沿って一路下へ向かい、彼の身の衣物を一件一件とことごとく解き開いた。
一切が停妥した後。女はゆっくりと頭を下げ、榻の上で両目を固く閉じた謝必安を痴迷されたように凝視した。死寂の室内。彼女は久しく一言も発さず。ただ口角にゆっくりと、幸福にして詭譎たる微笑みを漂わせた。
【巻ノ一終・『秦淮夜雨・長生期尽く』末頁】
「是の夜、太極殿崩じ、天子琉璃と化し、国師遁逃し、国本は皮を懸かる。
建康の風雨三日歇まず、秦淮の水は赤し。
司天監九品拾遺・謝必安、拠りて称するに、伝国の遺詔と連同して一併に失踪す。
後世の史官称す。『大魏の気数、此れよりして裂く』と」
【作者より】
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます。
これにて、『世説新鬼』第一巻はひとまず幕となります。
全六十話。長すぎず、短すぎず、といったところでしょうか。
秦淮河から始まり、そして秦淮河で終わる物語でした。
謝必安、沈無、阿奴、銜蟬、蘇小小、謝知微――そして、どこか普通ではない人々や出来事の数々。
彼らが集まって、この第一巻の物語ができあがりました。
実を言うと、九十話まで書き進めてからようやく、
「そういえば、第一巻の終わりに何か書いておいたほうがいいのでは?」
と気づき、こうして戻ってきました。
この世界を書くのは、私にとって初めての試みです。
今あらためて第一巻を振り返ってみると、まだまだ至らないところもたくさんあったと感じています。
いつか機会があれば、もう一度きちんと手を入れたいと思っています。
それでも、この物語に登場した誰か一人でも、一匹の猫でも、あるいは一つの出来事でも――
皆さまを笑わせたり、心配させたり、本を閉じたあとにもほんの少し心に残ったものがあったなら、それだけで私にとって大きな励みです。
第一巻は終わりました。
けれど、謝必安の物語はまだ終わっていません。
彼の師姉も姿を現しました。
そして、いくつかの出来事が、これから少しずつ動き始めます。
第二巻も、一緒に続きを見届けていただければ嬉しいです。
もしこの先もお付き合いいただけるなら、フォローや評価、感想をいただいたり、この物語を好きになってくれそうな方に紹介していただければ幸いです。
ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
銜蟬と阿奴が、これからも皆さまを守ってくれますように。
あ、そうだ。
私の作者アイコンは、昔一緒に暮らしていた猫を、私自身が撮った写真です。
銜蟬っぽいでしょう?




