第59話 紫竹の幽苑
【巻ノ一・残頁伍拾玖:『大魏都城考・建康風物』残巻】
「六朝金粉の地、十里の珠簾。建康の美は、雕欄玉砌にあり、烏衣の風流にあり。然れども繁華の下、白骨が基を撐う。秋雨に逢う毎に、秦淮の河水は胭脂と腐肉の気を泛ばす。世家は花を賞し酒を飲み、流民は道傍に屍を伏す。此れ乃ち大魏の絶景なり」――『司天監・地理档』
【司天監内部メモ】
公務で妖祟の重創を受け、命が一本の糸に懸かる際。もし目を開け、自分が司天監の隙間風の吹く官設医署ではなく。千金も求め難き降真香が薫り、月白色の鮫綃の帳が掛かる、とある私家の幽苑の内にいると気づいたならば。直ちに指先を噛み破り、血書を以て後事を書き遺されたし。
†
鬼市の深処。惨緑色の燐火が泥濘の中で揺らめく。
女の猩紅の丹蔻を塗った両唇が微かに啓く。一縷の淡紫色の煙霧が、あの大妖の脚の骨で彫られた煙管からゆっくりと吐き出された。
煙霧は空中で散らず。実体を持つシルクのごとく、謝必安のその右腕へ軽やかに絡みつく。
微弱なジューッという腐蝕音を伴い、その紫の煙は半透明の蝋質の薄膜へと化す。
心臓へ逆流せんとしていた煞気と敗血を、砕けた骨の間に死に物狂いで封じ鎮めた。
「この命、ひとまずは繋ぎ止めたわね」
女は気怠げに立ち上がる。暗絳色の広袖の大袍が動作に合わせて汚らしい泥水に引きずられる。
彼女は振り返り。煙管の真鍮の末端で、鉄塔のように僵立する沈無の肩を軽く二度叩いた。
鈍い打撃音が落ちる。沈無の全身の麻痺感が瞬時に退潮した。
だが完全な解放ではない。沈無の両足は知覚を取り戻したものの、沈重な鉛の水を注ぎ込まれたように重い。筋肉を動かすたび、骨の間に生渋い阻力感が伝わる。
「大男。その子を担ぎなさい。私の駕籠にぴったりとついてくること。もしはぐれたら、この鬼市の食屍鬼どもは、龍の気の染み付いたそんな肥えた肉を見逃しはしないわよ」
姐弟子は振り返り。空中で煙管を使い、随意に半円を描いた。
姐弟子の言葉が落ちるや否や。耳を刺すカカッという骨格の摩擦音が突如として響いた。
両側の黒い淤泥が劇烈に波打つ。高さ一丈に達する縫合血屍が四頭、泥を破って現れた。
これらの怪物は全身に暗紫色の屍斑がびっしりと生え。太い四肢は数種の妖獣の肢体を強引に接ぎ合わされ、継ぎ目からは腥く黒い防腐の薬液がドクドクと滲み出ている。
四頭の血屍の肩には。奢華でありながら人を駭かす白骨の乗輿がしっかりと担がれていた。
大駕籠の主体は、滑らかに研磨された人型の肋骨と妖類の脊椎の列で構築されている。四隅には髑髏で彫琢された防風提灯が懸かり、幽緑色の鮫人の油脂を燃やしている。
月白色の鮫綃の帳が屋根から垂れて風に揺れ、濃烈な降真香と血生臭さが混ざった奇異な気味を放っている。
姐弟子は裸足だ。雪白の足首には獣骨の足輪が繋がれている。
虚空を二歩踏み、遼東の雪狐の皮が敷き詰められた軟榻へ気怠げに臥した。
指を随意に曲げる。
一筋の無形の気が、沈無の足元にいた、迷い煙のせいで全身硬直した二匹の猫を。宙を隔てて白骨の大駕籠の中へ吸い上げた。
沈無は歯を食いしばり、百辟喪門刀を腰へ掛け直す。両手に力を込め、昏迷する謝必安を再び肩へ担ぎ上げた。
重負を背負う牛馬のごとく泥濘の中を困難に跋渉し、眼差しは空中に懸浮するあの白骨の乗輿を依然として見据えている。
「行くわよ」車廂の内から嬌媚な低い囁きが伝わった。
四頭の縫合血屍は、いかなる水門や通路へも歩を進めない。乗輿を担いだまま、暗黒の尽頭にあるあの惨緑色の濃霧の死路へ向かって真っ直ぐに激突した。
奇異な光景が発生した。
白骨の乗輿が濃霧に触れた瞬間。周囲の空間が、強引に引き裂かれたボロ布のようになった。
長い石段もなく、薄暗い攀じ登りもない。陰陽両界を隔てるあの幽明の大防が、姐弟子の覇道たる妖気の碾圧の下で、鏡面が砕けるような澄んだ音を発した。
次の息。地下暗河の濃烈な屍臭は蕩然無存となった。
氷のように冷たい秋雨が。大魏に属する草木の青臭さを交え、洶湧として顔を打つ。
彼らは虚空から地界を穿透し。大魏の都城建康城、秦淮河畔のとある廃棄された水神廟の陰の中に出現したのだ。
この時すでに丑の刻。
大魏の国師が太極殿で引き起こした異象はすでに平息している。だがこの六朝の古都は、依然として死寂と粛殺の中に籠罩されている。
冷雨が建康城を覆う。百年の奢靡を承載したこの都城を洗い流し、ある種の異質な病態美を滲み出させている。
秦淮河の水はとうに混濁している。水面には周囲の遊廓や権貴の内宅から流れ出た残花と脂粉が漂うだけでなく。微かに見える暗赤色の血汚れすら混ざっている。
輿の屋根には大輪の曼珠沙華が描かれ、遠観すれば盛開する血の蓮のごとし。この白骨の乗輿は雨の中を平穏に前進する。
駕籠を担ぐ血屍に足音はない。足裏が地に着く処、溜まり水は自動的に黒い氷の屑と化す。一行は秦淮河畔の青石板の道に沿って、黙々と城外の方向へ向かって歩き去った。
車廂の内。地龍の熱気が迷迭香と混ざり合い、春のように暖かい。
姐弟子は軟榻に半ば寄りかかり、あの肥満した金猫を懐に抱いている。
猩紅の丹蔻を塗ったその爪が、ゆっくりと銜蝉の脊椎骨に沿って一節一節下へなぞる。極上の脂身を丈量しているかのようだ。
「骨格は粗笨、妖丹は混沌……救いようのない大食らいの怠け者ね」彼女は小声で呟く。指先で意図的に銜蝉の首の後ろの命門を力強く押した。
銜蝉は心底で、豚を屠るような絶望の惨嚎を上げた。琥珀色の猫の瞳に涙が溢れる。四肢を硬直させ、一本の髭すら妄りに動かせない。
奴はこの生涯で、女に撫でられることがこれほど驚悚な事だと感じたことはなかった。
「でもこの脂肪は見事に養われているわ。もし皮を完全な形で剥ぎ取り、硝製して柔らかい敷物にすれば。私のあの寒玉の榻にも似合うでしょうね」
女は軽く笑い、肝を潰した太猫を無造作に傍らへ放り投げた。
彼女の眼差しは。隅に投げ捨てられ、全身から微弱な霊気を放つ銀猫へと向けられた。
姐弟子は煙管の銅の吸い口で、軽佻に阿奴の高慢な顎を跳ね上げる。強引に頭を仰け反らせ、ダイヤモンドのように冷冽なオッドアイの瞳を端詳した。
「お前は見事に養われているわね。罕見たる極寒の血脈。ここ数年、良いモノをたらふく呑み込んできたようね」
姐弟子はゆっくりと紫の煙を一口吐き出し、目に突如として絶佳の素材を審視する狂熱を現した。
「霊気は精純、連帯して全身の骨格まで玉質化を呈している。もし脊骨を抽き出し、生身のまま弟弟子の左腕に接げば。即座に弟弟子の体内で反噬する炎毒を抑え込めるでしょうに。惜しいわね……」
阿奴の喉から抑圧された低い唸りと嘶きが泛ぶ。目に燃える怒火は人を灼き傷つけんばかりだ。もし霊気が封鎮されていなければ。彼女は必ずやこの妖女に五臓を氷封される滋味を味わわせてやっただろう。
銜蝉は這いつくばって妄動こそしないものの。喉の奥でくぐもった咳を漏らし、口は休まることなく、連珠砲のように阿奴へ伝音して愚痴る。
『死ぬほど寒いぜ! このクソ天気はどうなってんだ! 雨が強すぎて俺様の毛にカビが生えちまう! 親父はどうしてまだ目を覚まさねえんだ? 阿奴、この狂った女は俺たちを一体どこへ連れていくつもりだ? 俺様、今夜は相当力仕事をしたんだぜ。歯だって何本も折れちまったし。腹は今や大牛一頭呑み込めるほど空っぽだ! さっきのあの真っ赤な珠も食えなかったし、この商売はマジで大赤字だぜ!』
銜蝉の聒噪とは全く異なり。阿奴はこの時まさに気悩の真っ最中であり、全身に氷のように冷たく極まる殺意を縈らせている。
彼女の瞳が驟然と危険な細い縫い目へと縮小し、悪辣に睨みつけた。銜蝉はたちまち識趣に口を噤み、首をすくめた。それでもあの暗絳色の曼妙な背中をこっそりと盗み見ることは忘れなかった。
乗輿の外は、秋雨が滝の如し。広大な建康城は正に宵禁であり、空曠な通りには半人の歩行者も見当たらない。
沈無は謝必安を担いでいる。
粗く重い喘息の声が空曠な長街に反響する。鹿皮の靴が積水の石板を踏み、鈍い水飛沫の音を立てる。彼の視線は雨水に模糊とされ。前方のあの巨大な乗輿を死に物狂いで見据えることしかできない。
彼らは大魏で最も鼎盛を極める朱雀橋の付近を通り過ぎた。眼を放ち望めば、朱雀橋を中心に、酒肆、客棧、茶楼が鱗次櫛比として両岸に佇立している。この地、もし白日であれば、必ずや人潮が洶湧し摩肩接踵するであろう。
だがこの時は雨の幕が低く垂れ込め。河面には権貴豪門の奢華な画舫が漂い満ちている。周囲の遊廓の聳え立つ粉牆黛瓦は雨の幕の中で連綿と絶えず、高壁の内からは隠隠と糸竹管弦の音が伝わってくる。しかし一壁を隔てた青石の溝渠の中には。凍え死んだ数人の流民の屍骨が転がっていた。
銜蝉は堪えきれずに乗輿から頭を半分突き出し、雨水に打たれて首をすくめながらブツブツと文句を垂れる。
『今夜は肉まんじゅうを売る夜市一つ開いてねえ! 親父がこの狂った女に切り刻まれたら。俺様はどこへ飯をたかりに行きゃいいんだ? 大男、お前もっと早く歩けよ。俺様の腹は太鼓を叩いてるんだ!』
一方の阿奴は、意図的に女と安全な距離を保っている。彼女の眼底の青と黄の幽光は雨の夜の中で明滅を定めず。女が弛緩した瞬間に隙に乗じて発難する準備を常時整えていた。
彼らが正に長年修理されていない城壁の裂け目を通り抜け、建康城を踏み出そうとした、その際。
前方の雨の幕の中に。驟然と十数団の防風罩に護られた松明が明るく灯った。
火光は、満地に寒芒を閃かせる生鉄の蒺藜と、披堅執鋭の金吾衛の一隊を映し出した。
「止まれ!」
先頭の校尉の眼差しは、あの詭異な白骨の乗輿を越え、後方のあの魁梧たる身躯を死に物狂いでロックした。
「鏡妖司の千戸、沈無だ! 奴の肩に担がれているのは必ずや朝廷の重犯、謝必安に違いない!」校尉が厲声で暴喝し、逆手で腰の環首刀を引き抜く。「巻き上げ機、弦を張れ! その場で格殺せよ!」
十数名の金吾衛が一糸乱れず地に半ばしゃがみ込む。雨水に浸かって膨張した牛筋の弓弦が、巻き上げ機に引かれ、生渋い摩擦音を発した。
沈無の目が沈む。左足を後退させ、青石板を一つ踏み砕き。第一輪の弩箭の斉射へ応変する準備を整えた。
然れども。乗輿の内の女は、ただ不耐煩に眉を顰めただけだった。
「深更半夜に、うるさいわね。人を寝かせる気はないの」
雪白の柔荑が、ゆっくりと月白色の鮫綃の帳を撥ね退ける。女はその煙管を唇へ送り、深く一口吸い込んだ。
続いて前方のあの粛殺たる軍陣へ向かって。漫不経心に一口の濃郁なる淡紫色の煙霧を吐き出した。
煙霧は暴雨の中で散り去らぬばかりか。逆に十数条の滑りつく紫色の毒蛇と化し。積水の地面に張り付いて音もなく這い進む。それらの金吾衛の鉄甲へ一寸の狂いもなく纏絡した。
「放て――ガッ!」
校尉の怒吼は戛然而止した。紫の煙が七竅に潜り込む。
金吾衛たちの眼差しは瞬時に空洞かつ痴迷へと変わった。彼らは僵硬したまま手中の重弩を放す。沈重な機括が足の甲に落ち、骨格の砕裂する音がはっきりと聞こえた。
だがこれらの兵士は半点の痛呼も発さず。逆に口角に一抹の詭異な微笑みを勾起させた。
縫合血屍は乗輿を担ぎ。木偶の如き兵士の群れの中を、閑庭を散歩するように通り抜ける。
あの両目を見開き、舌先を噛み破って己を清醒させようと死に物狂いになっている校尉の身側を通り過ぎる時。女は爪で、彼の兜鍪の上を随意に一つ弾いた。
澄んだカーンという音が響く。
校尉の頭頂の百煉精鋼で打たれた兜鍪に。なんと瞬きする間に大面積の赤褐色の鉄サビが生じた。
鉄サビは生命を擁するが如く、鉄甲に沿って急速に蔓延し、彼の頭蓋骨ごと一併に腐蝕した。校尉は瞬く間に鉄サビの匂いを放つ一尊の枯骨と成り果て。風雨の中に立ち尽くし、二度と半寸も動けなくなった。
沈無は謝必安を担いでいる。満地の錆びた重弩と幻覚に陥った兵士を踏み越えた。
彼は思わず頭を上げて乗輿を一瞥し、刀を握る手心から、無意識に冷や汗が滲み出た。昔から口数が多い銜蝉すら、この時は口を固く閉ざしていた。
前方には此れより一人として阻む者はいない。城を出るや。城外の景色は驟然と荒涼にして粗糲へと変わった。
泥濘の黄土が沈無の靴底へ死に物狂いで噛みつく。足を引き抜くたび、極大の腰と腹の力量を耗費する必要がある。遠くの鍾山は秋雨の洗い流しの下、潑墨山水のごとき灰黒色へと化していた。
どれほど進んだか知れない。沈無の感覚では、およそ十里の地を歩いた。
荒野の上、枯れ草が腰に及ぶ。老木は盤根錯節し、枝は空へ救いを求める無数の鬼の手のようだ。
周囲は濃霧が瀰漫し。時折、泣くようで笑うような詭異な鳴き声や、重い枝骨が踏み折られる澄んだ音が伝わってくる。
本来軟榻の一角に伏せていた阿奴が、全身の雪毛を頃刻に逆立てた。猛然と頭を上げ、一対の眸子が暗色の中を往復して梭巡し、喉から陣々の凄厲たる低い唸りが溢れ出す。
本来腹を返して大睡していた銜蝉が驚いて飛び起き、慌てて伝音して問う。『阿奴、お前何を神経尖らせてんだ?』
謝必安を担ぐ沈無も歩を停めた。百辟刀を握る手の甲に青筋が凸起する。ただ周囲の空気が無比に粘稠に変わったと感じる。彷彿千万対の温度のない目が暗処に隠れて窺視しているようだが。一体どこが不対勁なのかは言い表せない。
ただ車廂の内の姐弟子のみが意に介さない。白骨の乗輿が迷霧を破り、荒野の尽頭にあるあの茂密な竹林へ入っていく。
すべての竹の幹は皆、淤血を見たような暗紫色を呈している。竹の葉が秋雨の中でサササという摩擦音を発する。こここそが姐弟子の私人領地――紫竹幽苑だ。
白骨の乗輿が。純白の鵞卵石で舗装された蜿蜒たる小径の上にしっかりと降り立った。
これらの鵞卵石は異常に滑らかに打磨されている。遠くから望めば。まるで無数の砕かれ随意に林間に撒かれた頭蓋骨の破片だ。
小径の尽頭に。一庭の幽静な別苑が坐落している。
院門の前に、両手を垂れて侍立する男童の模樣の小廝が一人。容貌は精緻で俊秀だが、眼差しは死水のように空洞だ。
両手には毛髪で縛られた竹箒を持ち、音もなく落ち葉を掃いている。白骨乗輿が地に着くカカッという微音を聞き。小廝は木然として振り返り、満地の湿った泥の中に直接ひざまずいた。だが泥水は身のシルクの衣の裾を汚さない。乾ききった声で誦念した。
「恭しく恩主の苑へのご帰還を迎えます」
言い終えてから。彼はゆっくりと立ち上がり、あの繁複な紋様が織り込まれた竹編みの苑の門を押し開いた。
姐弟子は月白色の鮫綃の帳を捲り上げ、裸足で車廂を歩み出た。正面から緑の襖を着た丫鬟が一人歩み寄ってくる。
この少女は年歳まだ若く、五官は繊巧に生え。だが肌は長年陽光を見ない死白を泛べている。
彼女の目角の下方には大魏で盛行する「泣血妝」が二抹暈染されている。殷紅の胭脂が蒼白な顔立ちを引き立て、妖異な美しさだ。
一絲の乱れもない双丫髻の間に、鋭利に打磨された飛禽の骨の簪が斜めに挿されている。薄いスカートの裾が苑門の青石板を払い、足取りは軽盈で、落地無声。
丫鬟は低眉順眼に両手で姐弟子の手中の妖骨の煙管を受け捧げ、衣を合わせて深く一礼した。柔声細語で言う。「恩主、ご労頓に存じます。奴婢はすでにサフランを浸した熱い湯を温めてございます。これより沐浴更衣の伺候をいたします」
「急ぐことはないわ」姐弟子は気怠げに雪白の柔荑を上げ、丫鬟の奉承を遮った。「先に『蔵霜院』へ案内しなさい。あの寒玉の榻が置かれた部屋を開けるのよ」
「ハッ」
緑襖の丫鬟は恭敬に頭を垂れた。薄皮の提灯を一盞提げ、そのわずかな昏黄の光暈を借りて路を導き。振り返って別苑の奥深くへと歩み入った。
姐弟子が車廂を歩み出た後。二道の獣の影もぴったりと続いて、月白色の鮫綃の帳の内から飛び出した。
阿奴は一抹の清冷な月光のごとく。軽盈に乗輿から跳び下り、謝必安の背の上にしっかりと落ちた。彼女の眸光が流転する間には戒備が尽くされ、陰気森森たるこの別苑を冷ややかに掃視している。
一方、後から駕籠の内でぐっすりと眠っていたあの銜蝉に至っては。転がるようにして車廂から摔け出た。
肥満した身躯が湿って滑りやすい卵石の上でツルッと滑り、あわや道傍の黒泥の中へ転がり落ちそうになる。彼はガタガタと震えながら濡れた皮毛を振るう。頭を上げて阿奴と沈無がすでに遠くへ歩き去ったのを見るや。恐怖のあまり喉から一連の驚恐のゴロゴロ音を発した。
『お前ら義理ってもんがなさすぎだろ! 大男、待ってくれよ!』
銜蝉は慌てて尻尾をきつく挟み、短い足を邁き開く。ただ一塊の狂奔する橘色の肉の玉が隊伍の最後に尾随するのみ。一歩でも遅れれば、背後のあの四頭の縫合血屍に皮を剥がれ骨を砕かれると死に物狂いで恐れているのだ。
沈無は昏迷する謝必安を担いでいる。泥濘にまみれた鹿皮の靴を踏みしめ、幽香を放つ沈香木による九曲の廻廊へ踏み入った。一歩邁み出すたび、一塵も染まらぬ木の床板に足跡を一つ残していく。
廻廊の両側の廊柱には皆、防腐の生漆が塗抹されている。漆の面が斑になった箇所からは。隠隠として人体経絡のような暗紅の木紋が透けている。
庭の中央には、一池の広闊な活水が鑿られている。だが池の水は陳年の古墨のような濃黒を呈している。数株の残敗した秋の蓮が冷雨の中で瑟瑟と震える。広大な枯れ葉が相互に摩擦し、サササという微音を発する。
池の畔には高く聳える湖石が堆畳されている。無数の孔洞を侵蝕されたそれらの灰白の岩石は。周囲の幽緑色の提灯の映照の下、まるで互いに抱き合う一体一体の巨大な骸骨だ。謝必安たちこの見知らぬ群れを静かに注視しているかのようだ。
空気に降真香と奇特な幽香の匂いが瀰漫している。沈無はこの美輪美奐たる園林が、全体として詭異を透かせていると感じた。
一行は廻廊の深処で歩を停めた。前方は一処の僻静な小院だ。
緑襖の丫鬟が前へ進み出。袖を払い、百鬼夜行図が彫琢された沈重な木門を押し開いた。
刹那の間、刺骨の陰寒の気が面を撲って来る。屋内の陳設は精雅。
正中央には赫然として。一塊の巨型の寒玉で彫琢された石榻が擺放されている。榻の傍の四隅には各々一尊の青銅錯金博山炉が立ち、裊々と軽煙を吐いている。煙霧の中には人の気血を凝滞させる珍稀の毒草が混在し。部屋全体を仙境の如く薫染しながらも。歩歩に殺機を暗蔵している。
姐弟子は緩歩して敷居を跨ぐ。眼差しは幽幽たる冷光を放つ玉榻へ落ち、口調は淡漠だ。
「弟弟子を横たわらせて。静かにね」
沈無は言われるがまま。肩の上の謝必安を、寒気を放つ玉榻の上へ小心翼翼に平らに置いた。
謝必安の身躯の重みが離れた途端。彼の張り詰めていた意志が突如として弛緩する。沈無の目の前が陣々と黒く染まる。胸の傷口からは、とうにずぶ濡れとなった玄色の武術着に沿って、暗赤色の血水が絶え間なく滴り落ちている。
彼はよろめいた。百辟刀を死に物狂いで押さえつけていなければ、あやうく地へ崩れ落ちるところだった。
「よくぞここまで持ち堪えたわね。嘉許に値するわ」
姐弟子は言い終えると、彼を見ようともしない。黄花梨木の浄手盆の前へ歩み寄り。花びらの浮かぶ清水を掬い上げ、ゆっくりと指先に染み付いた陰寒を洗い流した。
両手を洗い清め、緑襖の丫鬟から渡された雪白のシルクのハンカチで水滴を拭き取り。頭も振り返らずに吩咐た。
「紅綃。こちらの刀を携えた漢を廂房へ案内なさい。熱い湯を用意して彼の満身の汚穢と臭気を洗い流し、ついでに一缶の『生肌活血膏』を持っていって胸元の傷勢に敷治してやりなさい。手足は手際よく。彼を私のこの庭の中で死なせないこと。他の事は……もし彼が中途で何か要求があれば。できる限り満足させてやりなさい。何しろこの一命を残しておけば、後日まだ使い道があるのだから」
「ハッ」
紅綃は容を斂め福身する。旋即として沈無の身側へ歩み寄り。首を垂れて言う。「こちらの公子。奴婢に随いておいでくださいませ。貴方様の傷口、これ以上処置を遅らせれば。たとえ肉身が強悍であろうと、恐らく今夜は乗り切れませぬ」
沈無は微かに頭を上げる。血走った両眼で姐弟子を重く一瞥し、眼底に一絲の複雑な情緒を閃かせた。彼は此地に留まるは無用と深知している。声は嗄れていた。「……奴が目覚めたら。直ちに俺に知らせろ」
彼は深く屋内を一瞥し。百辟刀の柄を力強く握りしめ、揺れ墜ちそうな身体を支える。直後、紅綃の引導の下、沈重な足取りを引きずり、この静室を歩み出た。
此の時の銜蝉も、一晩中の折騰によりすでに前胸が背中に貼り付くほど飢えていた。阿奴へ向かって伝音する。
『このボロ庭の外に精を成した肥えた地鼠が何匹かいるみたいだ。俺様はちょっと秋風を打ってくる。ついでにお前に内丹を二つ持って帰ってきて、歯の祭りをさせてやるよ!』
言い終えるや。一道の金光と化して窓の外へ飛び出し、竹林の深処へ没した。
阿奴は微かに一つ頷き、心中すでに寸歩も離れぬと決意している。彼女は身形を一縦し、軽盈に玉榻の縁へ躍り上がり。四爪を寒玉の上に釘付けにした。彼女の眼瞳は緊縮し、満懐の警戒で姐弟子を見据え。謝必安の頭部の一側に守ることを堅持した。
姐弟子はこの主を護る異獣を理おうとはしない。彼女の眼差しはゆっくりと下へ移り、謝必安のあの右腕と。先ほど鬼市の中で取り出されたあの暗金色の巨大な妖の脊椎骨を見据えた。
謝必安の右腕はこの時すでに半透明から黒ずみへと転じ、紫黒色のカビの斑点がびっしりと生えた一截の枯れ木と化していた。
女の口角に一抹の引く意味深長な幽笑が勾起する。軽く声を潜めて呟いた。
「少し見ない間に。大きく育ったように見えて、やはりこの徳性ね」
部屋の中は死寂無声。香炉の内の香料が燃焼する時に発するピチピチという微音と。月白の帳が夜風の中で揺らめくサササという微音があるのみ。
雕花の窓の格子を透かし、滂沱たる雨の夜を遠眺する。
幾重もの黒雲の深処。
あの嘗て猩紅に染め抜かれていた明月は。
今、その身の血色を徐徐と褪色させつつあった。




