第58話 業縁《ごうえん》
【巻ノ一・残頁伍拾捌:『大魏風物誌・鬼市』】
「陰司の当鋪は札を認め、人を認めず。銀貨両訖、生死自負。残躯朽骨に遇わば、万金ありとも回春の術を施さず。故に鬼市に入る者、多くは屍を担ぎて入り、血を纏いて出る惨状なり」――『工部・暗渠档案』
【『調寄・甜蜜的家庭』(改調)・佚名童】
私の姉弟子、とても可愛い。
純潔で美しく、気前が良い。
話し方は優しく、気品があり、
学業だって一番だ。
濃い化粧はしないけれど、
清らかな髪の香りがする。
普段はとても気怠げだけど、
後輩の面倒見はとても良い。
可愛い姉弟子よ! あなたを忘れない。
あなたの笑顔が、一番忘れられない。
†
鬼市の周辺。紙張りの楼閣。
雨水と黒血に浸った江南の塩鉄引が、死体油の臭う床に転がっている。
提灯の老いぼれの眼窩。瞳のない暗がりに、緑の燐火が揺らめき、やがて静まる。枯れ木のような左手が手すりから上がる。黄ばんだ湾曲した爪が、虚空を軽くつかんだ。
十万両の価値がある塩鉄引が、陰風とともに掌へ収まった。
老人は紙の縁をなぞる。桑皮紙。純金の糸を織り込んだ暗紋。右下の戸部と巡塩御史の関防。大魏が鉄、糧、船を動かす最高の証明。
散銀は拒むが、天下の物資を動かすこの硬貨は、十殿閻羅とて拒めぬ買路銭だ。
「見事な手際だ」
喉から破れふいごの音が漏れる。塩鉄引を蓑衣へ収め、左手で十六星の骨の天秤を振る。
ギシッと骨の摩擦音が響いた。
謝必安の違約を示す猿の頭の分銅。それが千斤の重荷を下ろしたように沈む。死契の違約を示す秤の竿が、水平に戻った。
「銀貨両訖。因果は平らいだ」
老いぼれは床の瀕死の若者に一瞥もくれない。右手の人皮提灯を持ち上げる。
中の心頭血。ルビーの輝き。外界の気に引かれ、狂ったように脈打つ。
親指が提灯の黄蝋に触れた。パリッと硬い音が響く。死体油と朱砂で煮詰めた蝋が強引に剥がされた。
至陽至剛にして、生気に満ちた血の気が大広間に広がる。
「返してやろう」
提灯が傾く。
血の滴。重力を無視し、空中に浮遊する。
滴が引き伸ばされ、ねじ曲がった。無数の血の糸と化す。熱を帯び、宿主を探して盲目的に蠢く。
沈無は百辟喪門刀を握る。体を硬直させ、血の糸を見据えていた。
プツン。
微かな音がした。
血の糸が標的を捕捉する。帰巣する蜂のごとく、謝必安の左胸の硬化した毛穴へ正確に潜り込んだ。
体内に血が戻る。青灰色の躯殻が激しく痙攣した。
背骨が強弓のように跳ね、床へ重く叩きつけられる。肋骨がきしむ。
「ウッ……呼――!!」
冷え切った空気が、干からびた肺葉へ強引に流れ込む。ふいごのごとき荒い息。水死体が突然陽気を吹き込まれたかのようだ。
謝必安の目が開いた。
眼球には血糸が走り、苦痛が張り付いている。胸が上下する。停止していた心臓が、血の駆動で打つ。ドクン、ドクン、ドクン。
生き返った。惨重な代償を払い、命を買い戻したのだ。
『ニャオ! 親父、治ったな!』
銜蝉が尻尾を振り、顔の血を舐めようとする。阿奴の爪がそれを弾いた。銀の女王は察している。謝必安の気配は戻ったが、異常な混乱が潜んでいることを。
沈無に喜びはない。片膝をつき、謝必安の右腕を見た。
半透明。活人の肢体としての形を失っている。肌の下で鋭い砕けた骨が突き出す。橈骨と尺骨の破片が肉を裂き、空気に晒されていた。筋肉は灰色に死んでいる。経脈は尽く断たれた。
神仙とて救えぬ爛肉だ。
「人は目覚めた。だが腕は死んでいる」沈無は顔を上げ、提灯の老いぼれを睨む。「塩引を受け取りながら、腕一本直さぬと? 銭が火傷するほど熱いとは思わんか」
老いぼれが冷笑した。
「当鋪だ。善堂ではない」手すりを指で叩く。「金を収めて血を返す。違約の死契を平らげただけだ。骨を繋ぎ、毒を払うのは他人の商売。掟は掟、銭貨両清。おのおの我が道を行け」
燐火が冷たく冴える。
「その腕の煞気と敗血は、とうに骨の髄に達している。華佗を黄泉から呼び戻そうと、繋がるわけがない。誰か、客人を送り出せ」
老いぼれは机の茶をすする。
紙張りの童男童女が笑う。口角が耳まで裂けた。四匹の青白い蜘蛛のごとく、床を平行移動する。
竹の指が青い光を放ち、カサカサと耳障りな音を立てて迫った。
「行くぞ」
謝必安の手が、沈無の襟を掴む。声は消え入りそうだが、目は清明だった。
分かっていた。契約は終わった。長居すれば命を落とす。ここは法なき闇だ。
沈無は刀を収めた。謝必安を肩に担ぎ、百辟喪門刀を引きずって、二匹の猫とともに紙の楼閣を去った。
『親父、最初からあのジジイは信用ならんと言ったろ。俺様に食わせとけばよかったんだ』銜蝉が小走りでぼやく。
阿奴は門を出るなり、謝必安の背へ飛び乗った。丸くなって目を閉じる。不快な嘴を無視した。
陰河の寒風が、謝必安の体を震わせる。
本当の悪夢は、ここからだった。
†
沈無は泥を踏み、陰河の渡し口へ走る。半里も行かぬうちに、謝必安が悲鳴を上げた。
「ウァァァ――!!」
熱湯に落とされた魚のごとく、肩の上で跳ね、のたうち回る。
沈無は驚き、彼を断石に横たえた。
微かな燐火の下、光景に息を呑む。
心臓が血を送り出していた。熱い生気が全身を巡る。
だが、その血流が断たれた右腕に達した時、破滅が起きた。
右腕には、三時辰の寒陰散で抑えられていた錯金琉璃の反噬と、腐った毒血が溜まっていた。心停止の間は末端に留まっていたものが。
心臓の再動により、それらが逃げ場を得た濁流となり、逆流を始めたのだ。
残る脈絡を伝い、心臓へと向かう。
生き返った矢先、己の右腕の毒で死ぬ。取引の盲点。老いぼれは命を返したが、致命の毒源を残した。
右肩に、暗紫の斑点が浮かび上がる。首を伝い、顔へと急速に広がっていく。
「ブフゥッ!」
謝必安は顔を仰け反らせ、七つの穴から黒血を噴いた。眼球が突出し、黒い血筋が走る。喉がヒューヒューと鳴った。呼吸のたび、毒が神智を侵す。
敗血の死劫。
「ニャオオ!」阿奴が鳴き、右肩に浄化の霊気を注ぐ。蔓延を止めようとした。だが錯金の煞気は強すぎる。氷は瞬く間に熱い毒血に溶かされた。
「持ちこたえろ!」
沈無の目が赤く染まる。刀を握る手が震えた。
腕を根元から断たねば、半時辰と持たない。毒が回れば大羅金仙でも救えない。
だが、止血の薬も、痛みを消す麻沸散もない。死気の野外で虚弱な腕を強引に斬れば、それだけで命を落とす。
医者などいない。泥沼の窮地だった。
†
沈無が百辟刀を構え、一か八かの切断を決意した、その刹那。
異香が漂った。悪臭を突き抜け、鼻腔を満たす。
甘く、ネットリとした、ローズマリーのような香気。馨しいが、それは無孔不入の骨を削る劇毒だった。
沈無の脳が眩む。燐火が幾重にもブレた。防衛しようとするが、肉体の制御が完全に失われていた。
筋肉に鉛が流れ込んだように、関節が動かない。百辟刀が泥に落ちた。鉄の塔のごとく立ち尽くし、指一本動かせない。
謝必安の傍。銜蝉は香りを半口吸うなり、泥へひっくり返った。四肢が弛緩し、知覚を失う。真ん丸の目だけが開き、瞳の色が琥珀と碧緑に切り替わる。喉から恐怖のゴロゴロが漏れた。
阿奴が最も速かった。氷霜を放ち、浄化を試みる。だが香気は実体のごとく氷をすり抜け、口鼻へ入った。小柄な体が空中で硬直。謝必安の胸へ落ちた。オッドアイの瞳にだけ、怒りが燃える。
死の静寂が訪れた。
殺招はない。ただ一口の香気で、鏡妖司の千戸と二匹の霊獣が瞬時に封じられた。
†
気怠い足音が響く。
小道の影から、圧倒的な圧力を纏う影が現れた。
女だった。
鬼市の夜行衣も蓑衣も着ていない。底冷えする陰河の畔で、布地の少ない暗絳色の広袖大袍を纏っている。
襟元が大胆に開け放たれていた。歩むたび、シルクが肩から滑り、白い肌と鎖骨が露わになる。燐火に照らされた白さは、凄絶な肉欲を透かせていた。
右手には二尺の煙管。大妖の脚の骨で削り出され、赤い血筋が走っている。雁首で燃える暗紫の煙草。あの迷迭の異香の源。
女の姿を見た瞬間、泥の銜蝉が震えた。
『ニャ、ニャオォ!(あの頭の狂ったアマだ! 親父起きろ、俺様たちの皮が座布団にされちまう!)』
脳内で豚を殺すような悲鳴を上げる。声が出るなら、こいつは迷わず謝必安を売って逃げただろう。
阿奴は女を睨み、喉から警告のシューッという音を漏らそうとした。だが霊気は香りに抑え込まれ、高慢な女王もまな板の上の鯉に過ぎなかった。
女は断石へ歩み寄り、泥水で痙攣する謝必安を見下ろした。
二匹の猫を視線がかすめる。口角にからかいが浮かぶ。
「おや。あの時、空気を読まずに皮を剥いで薬にされかけた小畜生じゃない。見ないうちに美味しそうに太って」
煙管の真鍮の端で、銜蝉の太った頭を軽く叩いた。コンと鈍い音。金猫は白目を剥き、失禁しかけた。阿奴は歯を剥くが、髭一本動かせない。
女は猫を捨て、朱い唇を開いた。謝必安の顔へ淡紫の煙の輪をゆっくりと吹きかける。
煙が巻くと、謝必安の劇痛が奇跡的に和らいだ。首の暗紫色の屍斑が、一時的に拡散を止める。
「チッチッチ、無惨な姿ね……誰にこんなにされたの? ん?」
声は逆棘の羽毛。耳膜を軽く刮る。嬌艶で、残忍。
彼女はしゃがみ込んだ。大袍が泥に汚れるのも気にしない。白玉のような手。瑪瑙の指輪。マニキュアを塗った爪が、謝必安の血と泥まみれの顎を軽薄に跳ね上げた。
「薄情な子ね。あの時教えた妖祟の処理の手技は、全部忘れたの?」
血走った、辛うじて清明な目を見つめ、銀の鈴のような、背筋の凍る笑いを漏らした。
「大魏の官界で身を崩し、こんな人とも鬼ともつかない姿になって。結局、心優しい姉弟子が、この腐肉の山の後始末をしてあげなきゃならないんじゃないの」
謝必安の喉仏が動いた。目の前の魅惑的な顔。原主の初期記憶の断片が潮のように蘇る。
あの筆舌に尽くしがたい師匠の座下。異種接肢と妖骨融合に精通した姉弟子。彼を弟弟子と思ったことなど一度もない。
彼女の目には、謝必安はいつでも生体実験に使える良質な素材に過ぎなかった。
姉弟子は顎から手を離し、半透明になった右腕を見た。舌の先で唇を舐める。絶世の珍宝を見る狂熱。
「手の骨はバラバラ、経脈は粉々。完璧な素材だわ。小七、姉弟子の腕前は知ってるでしょう? 妾はね……その柔らかく力のないものを、無比に硬く揉みしだいてあげるのが大好きなのよ」
彼女は立ち上がった。何かを想像し、身体が甘く震え出す。広い袖が翻る。「ふふっ、想像しただけで……骨の髄まで震えてきちゃうわ……私の可愛い弟弟子。ほら、あなたはいつも姉弟子をこんなにその気にさせる」
ドスッ。
二尺の、暗金の色沢を放ち、妖紋が走る奇妙な骨格が泥に叩きつけられた。空気が吸い尽くされ、ブーンと心悸のする低周波が響く。太歳を凌ぐ凶悍な煞気が周囲を覆った。
「小七、今夜は運がいいわ。たまたま無常駅の奥で、空気を読まない上古の遺種の皮を剥ぎ、脊椎を引き抜いてきたのよ」
煙管をくわえ、興奮の狂熱を輝かせる。
「少し痛みを我慢してね……。後で、姉弟子が気持ちよく奉仕してあげる。妾の良さを思い出させて、今後外の得体の知れない女狐どものことなんて考えられないようにしてあげるわ。ついでに、新しいのと交換してあげる……もっと長持ちする……良い、身体の、骨をね」




