第43話 陰の兵
【巻ノ一・残頁肆拾参:『大魏軍志・歩人甲』残巻】
「歩人甲。冷間鍛造の精鋼を以て穿綴し、重さ六十余斤。陣を列ぬれば壁の如く、刀槍も入らず。
凡そ妖邪の陣を衝く遇わば、朱砂と牛の血を以て刀の鋒に塗り、無形の鬼を斬るべし。然れども其の重きこと枷鎖の如く。一旦陣破れなば、倒れ伏したる兵卒は宰らるるを待つ黿鼉(大スッポン)の如く、再び起き上がるは難し」――『司天監・兵部档』
【司天監内部メモ】
「陰兵、鉄浮屠と相対す」――つまり。致命的なウイルスを保有し、死を恐れぬ無数の幽霊が。大魏の朝廷における最高峰の重装部隊へ狂ったように突撃するということだ。
これはもはやいかなる戦術的駆け引きでもない。純粋に生死を削り合う、泥沼の肉挽き戦となることが運命づけられている。
†
平康坊、秦淮河の鬼市。
大魏の都城の影に隠れたこの脂粉の河。普段は画舫(屋形船)が連なり、惨白の白紙の提灯がびっしりと掛けられている。
墓泥棒の明器(副葬品)を売る人間の転売屋。死人の毛髪を商う低階の屍鬼。濃厚な水腥い匂いが瀰漫する河道の両岸で、日の目を見ない取引を行っている。
だが今。逢魔の鐘の音が鳴り響き、忘憂閣の陣の目が全面的に稼働した。
本来平穏だった秦淮河の水が、不穏に波立ち始めた。
それは忘憂閣の底にいる太歳肉芝が、狂ったように陽気を呑み込む際に放つ極端な高温だ。
漆黒の河水が刹那の間に無数の巨大な水泡を湧き上がらせ、ゴボゴボという粘りつく爆裂音を立てる。白い煮えたぎる水蒸気が実体のある靄の如く、瞬時に鬼市全体を埋め尽くした。
「水の中に火が! 湯が煮えたぎってる!」
河辺で副葬品の玉器を洗っていた黒市の商人が、凄惨な惨叫を上げた。
両手が河水に入った瞬間、皮肉は瞬時に茹で上がり、剥がれ落ちて森森たる白骨を露出させた。彼は激痛で泥濘の中を転げ回るが、足元の淤泥すら暗赤色の焼き鏝のように熱く焼け焦げていることに絶望した。
両岸に吊るされていた白紙の提灯が。この極端な陽気を内包した熱波に触れた途端、次々と自然発火し、満天を舞う緑色の灰燼と化す。
河面の画舫が劇しく解体し始めた。
棺桶の木材を繋ぎ合わせた船体は、沸騰する水の中で急速にひび割れ、腐り落ちていく。
船室の中にいる、まだ修練して形を成していない水鬼や低階の妖物たちが、胸を引き裂くような嘶きを上げる。奴らの陰気は大陣の陽火によって完全に克制されている。身体全体が、熱湯をかけられた積雪のように沸水の中で急速に融化し。腥く臭い黒煙と化し、忘憂閣の地基の中へ強引に吸い込まれていく。
鬼市の通りでは。活人と死物が一団となって押し合い、忘憂閣から遠ざかる出口へ向かって狂ったように逃げ惑う。
人肉まんじゅうを売る屠殺人が、あの巨大な生鉄の蒸籠ごと、背後に倒壊した地下の牌坊に潰された。
重い牌坊の砕石が胸腔を押し潰し、蒸籠の沸騰した熱湯が頭から顔にかけて降り注ぐ。彼と肉まんじゅうはまとめて、見分けのつかない一塊の爛れ肉へと茹で上がった。
この人も鬼も倶に滅びる沸血の煉獄の中において。
一支の隊伍が、逃亡の人波に逆らい、熱く煮えたぎる泥沼と屍骸を踏み越え、ゆっくりと前へ推進していた。
三百名の重甲を被った鉄浮屠が。三百基の呼吸を持たない生鉄の浮屠塔の如く。秦淮河の沸水の中から歩み出た。
彼らは黒市の商人の骨骸を踏み砕き。燃え盛る画舫の残骸を跳ね飛ばし。忘憂閣の周囲へ通じるすべての経路を死に物狂いで封鎖した。
平康坊、鬼市、忘憂閣正門の外。
三百名の重甲を被った鉄浮屠禁軍が。黒い鋼鉄の長城の如く。あの華麗な五層の木楼を正中央に死に物狂いで包囲している。
重い歩人甲が残陽の下で氷のように冷たい光沢を放っている。大門はすでに腕の太さほどの生鉄の鎖で死に物狂いで施錠されている。楼内からは時折、男女の絶望の泣き叫ぶ声が伝わり、鉄の鎖にぶつかって鈍い音を立て、直後に陣紋によって無情に弾き返される。
兵を統べる鉄浮屠の校尉が、冷たい眼差しで前方の波光きらめく秦淮河を注視している。
霧が出た。
極めて濃厚で実体化しそうな惨緑色の陰霾が。秦淮河の対岸から音もなく波打ち、河面に張り付いて急速に蔓延してくる。
霧の気が過ぎる所。緩やかに流れる河水がピチピチという細密な凍結音を立てる。強烈な屍臭を帯びた惨白の死霜が、肉眼で見える速度で水面に凝結して氷となる。
気温がわずか数息の間に、水滴が氷に変わるほどの極寒へと暴落した。
「結陣! 盾を挙げよ!」校尉が腰の配刀を抜き、声嘶力竭に怒号する。
三百の鉄浮屠が一糸乱れず一歩前へ踏み出す。
数十斤の重さがある玄鉄の巨盾が青石板の通りに叩きつけられ、轟然たる巨響を上げる。長刀が盾の隙間から突き出し、忘憂閣の入り口を死守する。
緑色の濃霧が河岸に湧き上がり。鉄浮屠の軍陣から十歩と離れていない場所で停まった。
重く、金属の擦れる音を伴う足音とともに。二つの人影がゆっくりと濃霧の中から歩み出る。
前を歩く沈無が。右手にあの鉄の鎖がびっしりと巻かれた百辟の喪門刀を引きずっている。重い刀の峰が霜の張った青石板の上に深く白い痕跡を刻み、目を刺すような火花を散らし、歯の浮くような鋭い摩擦音を立てている。
謝必安が背後に続く。
青色の官服は破れ果て、干からびた黒泥にまみれている。右腕は人を駭かす灰白色を呈し、表面に細密な氷の柱の層を結んでいる。死体の枯れ木のように、やや硬直して身の側に垂れ下がっている。
だが左手は依然として、同じく氷霜に覆われた金泥の漆塗りの箱をしっかりと托していた。
「放て!」
校尉は無駄口を叩かず、即座に絶殺の令を下した。
第一列の盾を挙げる甲士が猛然と半ばしゃがみ込む。後列の、とうに弦を張られた数十架の重型軍弩が一斉に突き出される。
機関の弾射の鈍い嗡鳴を伴い。成人の親指ほどの太さの破甲重箭が空気を切り裂く。凄惨な嘯叫を帯び、前方の波打つ濃霧の中へ容赦なく突き刺さった。
ブスッ、ブスッという鈍器が肉に食い込む音が密集して響く。
だが濃霧の中からは。いかなる惨叫も聞こえてこない。
ただ。無数の錆びた鉄片が互いに摩擦し合うような、サササという音だけが響く。
数をしれない虚幻の影が。一糸乱れぬ足取りで、矢の雨を物ともせずにゆっくりと迷霧から歩み出た。
彼らは残破した鎧を着ている。胸骨を重箭で貫かれた数名の陰兵は、手の中の錆びた長槍を投げ捨て。干からびて黒ずんだ両手で矢柄を死に物狂いで掴んだ。骨が折れる澄んだ音を伴い、自らの身体を生身のまま矢じりから引き抜いたのだ。
兜の下の二つの幽緑色の燐火が。微塵の感情も交えず、前方の活人をロックした。
「朱砂! 燃血!」
校尉の目角が引き攣る。逆手で斬馬長刀を引き抜き、刃を自らの手首に容赦なく切りつけた。
三百名の鉄浮屠が同時に倣う。殷紅の純陽の熱血が刃と玄鉄の巨盾に噴き散らされた。
鮮血が冷間鍛造の精鋼に触れた瞬間。不気味な暗赤色の陽火が燃え上がった。
次の息。緑色の陰兵の波と、黒色の鋼鉄の長城が。轟然と激突した。
華美な技などない。最も原始的な質量の押し合いだけだ。
雷のような鈍い金属の衝突音が平康坊に鳴り響く。陰兵の手中の破れた兵刃が玄鉄の盾に叩きつけられ、大面積の火花を散らす。陽火を帯びた盾は焼き鏝の如く、陰兵の躯体を大面積の黒焦げの空洞へと焼き焦がし、濃厚な屍臭を放つ。
一人の鉄浮屠の盾が、二名の陰兵に死に物狂いで抱え込まれた。
鎧の陽火が陰兵の腕をジューッという音とともに灰燼に焼き尽くそうとも。彼らは下顎のない血の池のような大口を開き、歩人甲の継ぎ目を狂ったように噛み千切ろうとしている。
「陣を破るぞ」
沈無が低く喝し。身のこなしは血の霜が張った地面に張り付いて滑るように射出された。
技巧は使わない。
両手で百辟刀の粗い麻縄がびっしりと巻かれた柄を握る。腰と腹が猛然と発力し。この数十斤の重さの凶器を振り回し、上から下へ。陰兵に絡まれたあの甲士へ向かって容赦なく叩き落とした。
「ドォォン――バキィッ!」
耳を聾する金属の爆鳴音の中。
百辟刀の重厚な刃が。無比の動能を帯びて。陽火を加持された玄鉄の巨盾を直接叩き割った。
恐怖の鈍器の打撃力が盾を貫通し、あの鉄浮屠の胸当てを生身のままへこませた。
肋骨がことごとく断裂する鈍い粉砕音を伴い。百斤の重さがある甲士が、内臓の砕肉が混ざった鮮血を大口で狂噴する。倒壊した鉄の扉の如く、背後の同袍の上に重く叩きつけられ。瞬時に小半分の軍陣を押し潰した。
これこそが百辟喪門刀の純粋な暴力だ。斬り切ることを求めず、ただ装甲と血肉をまとめて肉泥に叩き潰すことのみを求める。
「行け!」
沈無は刀の柄を回し、広い刀の峰で斬りかかってきた別の斬馬刀を叩き飛ばす。
逆手で謝必安の後ろ襟を掴み。この混乱した鋼鉄の泥沼の中へ強引に引きずり込んだ。
満地の鮮血が阿奴の放つ氷霜と混ざり合い。平康坊の通りを極度に滑りやすい紅褐色の氷のリンクへと変えている。
倒れた一人の鉄浮屠が死に物狂いで長刀を振るう。刃が謝必安のふくらはぎを掠めて横なぎに迫る。
謝必安は退かない。
とうに汚穢に塗れて本来の色も分からない官靴が。血肉の氷の屑が張り付いた青石板を死に物狂いで噛み締める。
下半身を安定させ。寒食散で痛覚を徹底的に凍結された右腕を猛然と上げる。硬い鉄の棒のごとく、斬馬刀の刃の軌道上に生身のまま割り込ませた。
「ガキンッ!」
鋭利な刃が氷柱の張った灰白色の皮肉に叩き込まれ、朽ち木を斬ったような鈍い打撃音を立てる。
謝必安の右腕は震動で後方へ弾かれ、氷の屑が四散し、皮肉がめくれ返るが。一滴の鮮血も流れ出ない。
痛覚の欠如は、彼を恐怖を持たない推進器に変えていた。
刀の刃の反作用力を借りて前方へ二歩よろめき、後続の挟み撃ちを回避する。
『ニャオオ――ペッ! この火、兵隊どもの汗臭い匂いがしやがる!』
銜蝉が謝必安の懐から身体を半分乗り出す。
この金色の太猫は口を大きく開け。正面から飛んできた軍陣の陽火の塊へ一口で噛み付いた。煮えたぎる湯圓(白玉団子)を飲み込むように頬を二度膨らませ。その陽火を生身のまま腹の中へ飲み込むと。即座に嫌悪感たっぷりに血生臭い黒煙を一口吐き出した。
阿奴は相変わらず冷漠に謝必安の肩に立っている。
煮えたぎる数滴の鮮血が飛び散ってくると。一筋の極寒の霊気を正確に撃ち出し、汚らしい血液を空中で紅宝石のような氷の珠へ凍結させ。澄んだ音を立てて地面に落とさせた。
「奴を止めろ! 懐に凶物を抱えている!」
校尉は百辟刀の余波で砕かれた左腕を抱え。謝必安を指差して嘶き吼える。
十数人の鉄浮屠が絡みつく陰兵を振り切り。斬馬刀を掲げて謝必安へ向かって狂奔してくる。
「門を開けろ!」
謝必安は背後の追兵を意に介さず。左手で漆塗りの箱を托し、忘憂閣の大門へ向かって狂奔する。
沈無は両手で百辟刀を握り、人類ならざる狂吼を発した。
重い刃が空中で暗赤色の半月の弧光を描き。忘憂閣の大門を死に物狂いで施錠しているあの生鉄の鎖へ向かって容赦なく斬り下ろした。
鼓膜を刺すような鋼鉄の断裂音を伴い、火花が四散する。
腕の太さがある鉄の鎖が、百辟刀によって生身のまま叩き斬られた。
重厚な木の門が轟然と倒壊する。
濃厚な血生臭さと吐き気を催す脂粉の香気が。実体を持つ潮水のように大門の奥深くから湧き出した。
謝必安と沈無は砕けた木板を踏み越え。この建康城最高級の銷金窟へと突入した。
しかし。目の前の光景は、謝必安の瞳孔を瞬時に収縮させた。
忘憂閣の内部は。巨大な、稼働中の血肉のすり臼へと変貌していた。
大堂の金箔で装飾された大黒柱に。暗赤色の陣紋がびっしりと浮き出ている。これらの陣紋は生き物の血管のように、貪欲に拍動している。
地面には横七縦八に数百の躯体が横たわっている。綾羅絹緞を着た達官貴人もいれば、薄紗を羽織った青楼の女子もいる。
彼らはまだ生きている。だが身体は水分を吸い尽くされた枯れ木のようだ。皮膚が骨にぴったりと張り付き、人を駭かす灰白色を呈している。
彼らは微かに口を開け、無意識の苦痛の呻きを漏らしている。肉眼で見える細い糸のようなピンク色の陽気が。七竅から強引に剥離され、絶え間なく大堂の正中央にある巨大な玉石の蓮花台へと匯聚していく。
本来は花魁が舞を捧げるためのあの蓮花台が。今や目を刺すような猩紅の光芒を放っている。
光芒は真っ直ぐに上へ伸び。忘憂閣の五層の床板を貫通し。天地を繋ぐ光の柱の如く、皇城太極殿の方向を真っ直ぐに指し示していた。




