第35話 逃亡
【巻ノ一・残頁卅伍:『大魏百工記・機括』残巻】
「漢末の大乱、公輸の学は多く民間へ流入す。奇巧の匠人あり、丹砂を以て水銀を提煉し、閉鎖せし銅管の中に灌注す。
水銀の流動の沈重なるを借り、巨木の機関を駆動す。然れども水銀は毒瘴を生じ、久しく其の上に居る者は、多く幻覚を生じ、髪と歯が脱落して亡ぶ」――『司天監・工部档』
【司天監内部メモ】
換気の悪い密室で、高濃度の重金属を利用して大型機械を駆動する。現代社会であれば、労働局から即座に営業停止命令が下る重大な労働安全違反である。
だが大魏においては、これを盗難防止と機密保持のためのトップクラスの工芸と呼ぶ。水銀の池の真上で毎日寝起きする従業員が慢性中毒になるかどうかなど、出資側のリスクアセスメント報告書に記載されたことは明らかに一度もない。
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青銅の階段に押し寄せる粘りつく熱波は、活人の肺葉をその場で焼き焦がさんばかりだ。
謝必安はあの斑に剥がれた金泥の漆塗りの箱を死に物狂いで抱え込む。黒靴がピンク色の血の汗に覆われた階段で絶え間なく滑る。
漆塗りの箱の内部の煞気は、外層の極陽の気と狂ったように衝突している。驚異的な高温を爆発させ、彼の胸を容赦なく炙り続けていた。
『ニャオオ! 親父、手を放せ! 俺様に一口噛ませろ! 一口だけでいいから!』
謝必安に強引に左の懐へ押し込まれていた銜蝉が、豚を屠るような凄惨な惨叫を上げた。
何でも食って死を恐れないこの金色の太猫は。今、口角から晶瑩なよだれを狂ったように分泌している。
奴の目には。この高温と濃厚な煞気を放つ漆塗りの箱は。窯から出たばかりの、紅い辣油をたっぷり纏った極上の爆漿牛肉丸(汁だく肉団子)にしか見えていない!
あの生煮えの狂躁な陰気が、奴の食欲をそそり、謝必安の懐の中で狂ったように身を捩らせる。二つの前足で漆塗りの箱の縁を死に物狂いで抱え込み、血の池のような大口を開け、太歳の粘液がこびりついた金泥の木の皮を何が何でも齧り取ろうとしているのだ。
「黙れ! これは明日の夜、国師を吹き飛ばすための導火線だ。もし呑み込みやがったら、今すぐ下のあの腐れ肉の塊の中へ投げ込んでやるぞ!」
謝必安は歯を食いしばり、脳内で低く吼える。左手の肘でこの食欲に頭を支配された狂猫を死に物狂いで押さえつける。青白い頬を伝う大粒の冷や汗が、青銅の階段にボタボタと落ちる。
阿奴は謝必安の左肩の上方で空中に浮かんでいる。
この高冷な銀色の女王の冷峻な表情からは、銜蝉のこの浅ましい食い意地に対する極致の軽蔑が透けている。
彼女は漆塗りの箱の内部にある四つの材料の最高級の品質を嗅ぎ取ることができる。だが表面に付着している忘憂閣の脂粉の匂いと太歳の粘液は、彼女の飲食の絶対的なボーダーラインを激しく侵犯している。これは最高級のキャビアを残飯の樽に投げ込んだようなものだ!
阿奴は優雅に右の前足を上げる。
一筋の純粋な浄化の霊気が指先から傾瀉し、あの熱く燃える金泥の漆塗りの箱の表面を正確に覆った。
極寒と極熱が激突し、瞬時にジューッという沸騰音が爆発する。
この薄い氷霜の層は。一面では漆塗りの箱の表面の恐怖の高温を強引に鎮圧し、謝必安の胸が焼き抜かれる事態を防いだ。
そしてもう一面では。これは阿奴の高慢な「物理的殺菌」の儀式でもあった。絶対零度を以て、この未来の極上のフルコースの表面にある汚らしい不純物を徹底的に凍りつかせて殺したのだ。
すべてを終え、阿奴は隠そうともせずに白眼を剥く。
一本の尻尾が銜蝉のよだれを垂らす巨大な顔へ正確に鞭打ち。氷霜を舐め取ろうとするこのデブの愚かな挙動を容赦なく打ち断った。
彼女はその霊気を放った足を謝必安の肩の布地に押し当て。漆塗りの箱の熱が何か許しがたい汚れでも染み込ませたかのように、ゆっくりと往復して擦り付けた。
沈無が殿を務める。
この鏡妖司の千戸は青銅の階段の中段に半ばしゃがみ込んでいる。手の中の刃こぼれした秋水の直刀を胸の前に横たえる。
下方の深淵では、太歳肉芝の巨大な身躯が岩壁に狂ったように激突している。数本の太いピンク色の触手が、盲目的に階段に沿って這い上がってくる。触手の先端から分泌される腐食性の粘液が青銅に滴り落ち、鼻を刺す黄煙を陣々と噴き出している。
「行け!」
沈無は刀の刃を返し、這い上がってきた一本の触手を根元から削り落とす。生臭い血水が岩壁に噴き散る。反作用力を借りて地を蹴り、数回の跳躍で階段の頂上へと躍り出た。
沈香木の寝台の入り口。蘇小小は顔を蒼白にしてあの金メッキの銅球を握りしめている。
謝必安と沈無が全身を焦げ跡と血汚れにまみらせて隠し通路から飛び出してくるのを見て、この大魏の花魁に微塵の躊躇いもなかった。
両手で銅球を死に物狂いでロックし、全身の力を振り絞って右へ猛然と回転させきった。
鈍い液体の流動音と、歯車が噛み合うガガガという巨響が伴う。
機関の底部にある大量の水銀が、青銅の配管に沿って傾瀉し、巨大な釣り合い重りとなる。あの真ん中から裂けていた沈香木の一枚板が、機関の連動によってゆっくりと閉じ合わさった。
分厚い百年の沈香木が、下方の太歳肉芝の凄惨な赤ん坊の泣き声と、あの吐き気を催す腥く甘い熱波を、地底の暗黒の中へ死に物狂いで封じ込めた。
寝室の中は再び死のような寂静を取り戻した。
ただ隅の錯金博山炉だけが、龍涎香の白煙を吐き続けている。空気に、あるかないかの鼻を刺す金属の匂いが瀰漫している。水銀の機関が稼働した時に漏れ出た毒瘴だ。
謝必安は彫花が施された寝台の柱にもたれかかり、大口で喘ぐ。胃酸が食道で波打つ。
この忘憂閣の天字号の部屋は。表向きは千金も求め難い優しい郷だが、実際には重金属の慢性毒薬と地底の怨気で煮込まれた絶命の毒穴なのだ。大魏の権貴は極致の奢靡を享受するため、花魁たちの生死など全く意に介さない。
「モノは手に入れた」
謝必安は、表面に薄い霜が張り、内部は依然として熱く燃える漆塗りの箱を、ペルシャ絨毯の上に置いた。
無事な左手で懐から、自らの鮮血がこびりついた木の腰牌を取り出し、逆手で傍らに立つ蘇小小へ放り投げた。
「これが証だ。提燈叟の引魂蛾は、そこにある血の気しか認識しない」謝必安は右腕の引き攣りを強引に抑え込み、冷硬な口調で最後の退路を言い渡す。「明日の黄昏、逢魔の刻。国師の瑠璃の大典が起動した瞬間、この忘憂閣の封鎮の陣紋はすべての活人の陽気を吸い尽くす。太陽が沈む前に、さっきのあの枯れ井戸から下へ降りろ。鬼市へ行って提燈叟を捜せ」
蘇小小はその木の札を受け取る。指先が干からびた血跡に触れる。歓楽街で虚情仮意に見慣れたこの女の眼底に、複雑な幽光が閃いた。
彼女は礼を言わず。ただ振り返って化粧台へ歩み寄った。
時間は逼迫している。彼女は重い金銀の塊をかき集めたりはしない。身分が露呈しやすい、巨大な宝石が嵌め込まれた華麗な髪飾りにも触れない。
化粧台の最下層の隠し引き出しを開け。蝉の羽のように薄く、大魏銭庄の暗紋が刻まれた金葉子(金箔の貨幣)を何束か鷲掴みにし、極めて丸く研磨された東海の真珠の小袋を手にした。
乱世と江湖の逃亡において、最も隠しやすく、最も換金しやすいハードカレンシーだ。
金葉子と真珠を目立たない灰色の布の風呂敷に無造作に押し込む。そして、身に纏っていた曼珠沙華が刺繍された大紅色のシルクの寝巻きを力任せに引きちぎり、粗末な青衣の小間使いの服へ着替えた。
一連の動作は行雲流水の如く。微塵の未練も未練がましさもない。
「謝拾遺、奴家のこの命。あなたのこの血のついた木の札に賭けましょう」蘇小小は風呂敷を斜めに肩に掛け、謝必安を深く一瞥する。「もしあなたのその生煮えの毒薬が国師を毒殺できなかったら。奴家は鬼になってでも秦淮河の底から這い上がり、あの一万四千両の酒代のツケを取り立てに行きますからね」
「安心しろ。俺は一生で一番、踏み倒しみたいなクソ借金が嫌いなんだ」謝必安の口角に自嘲の笑みが引き攣り、目には狠の気が透けている。「最悪の場合。あんたと一緒に陰陽の境を共にするだけだ」
身を屈める。左手で再びあの金泥の漆塗りの箱を抱え上げた。
阿奴の寒気が毒蛇のように正確に這い上がり、漆塗りの箱の表面の余熱と激突して耳障りな「ジューッ」という音を立てた。寒暑が交鋒し、白霧が立ち昇る。
沈無はすでにこじ開けられた床板の破れ穴の前に立っている。
鏡妖司の千戸の鋭敏な聴覚が。扉の外の長廊下から伝わる微細な動静を捕捉した。趙監丞が残した私兵が巡回しているのだ。重い革靴が沈香木の床板を踏み、抑圧されたトントンという音を立てている。
忘憂閣はすでに徹底的に封鎖されている。
その時。床板の破れ穴の下から、幽緑色の燐光の塊がゆっくりと漂い上がってきた。
提燈叟が与えたあの引魂蛾だ。
それは豪奢な鮫綃の宝羅帳の前を二周し、蛍のような緑色の灰を点々と撒き散らすと。躊躇なく枯れ井戸の方向へ向かって飛んでいった。
「行くぞ」沈無が低く喝する。
謝必安は銜蝉を再び懐に押し込み、この太猫が不満の唸り声を漏らすに任せる。
ほぼ使い物にならなくなった右腕を引きずり、沈無の背後に続き、あの酸腐な気息を放つ漆黒の破れ穴へ真っ逆さまに飛び込んだ。
彼らの背後で。蘇小小が青銅の菱花鏡の前の最後の紅蝋燭を吹き消した。
天字号の部屋は無辺の暗黒に沈む。
錯金博山炉の中の龍涎香が、残留する水銀の毒瘴と混ざり合い。明日の黄昏、すべてを焚き滅ぼす盛大な祭典を静かに待ち受けている。
引魂蛾は枯れ井戸の薄暗がりの中で音もなく羽ばたく。
謝必安はあの焼けた芋のような漆塗りの箱を抱え、沈無の援護の下、井戸の壁に残存するレンガの隙間に沿って一気に滑り降りていく。
劇痛の中で大脳が狂ったように回転する。
品物は手に入れた。退路の手配も終わった。次にすべきは、この大魏の朝廷全体をひっくり返せる「生煮えの毒薬」を持ち。あの鬼市で血の茶を煮ている提燈叟に会いに行くことだ。
十万の生霊と皇帝の運命をチップとした大博打は。すでに幕を開けている。
幽緑色の冥蛾がゆっくりと降下し、井戸の底のあの枯れ黒い脚の骨の上に留まった。
微弱で凄惨な緑の燐光は、前方のあの紙紮の楼閣へ通じる泥濘の死路を照らすのみ。
そして背後のあの枯れ井戸は。とうに音もなく暗黒の中に隠没し、虚幻となって辺際を失っていた。




