第3話 仏、本は是れ肉なり
【巻ノ一・残頁参:白馬寺・膳堂記録】 「仏は一鉢の水を観て、八万四千の虫を見る。 もし仏身もまた蟲の巣ならば、衆生が拝んでいるのは、果たして『覚者』なのか、それとも『捕食者』なのか? 備考:近頃、参拝客の失踪が頻発する一方、寺内の食肉消費量は激減している。要調査。」 ――『司天監・雑項科・案巻乙四』
【司天監内部メモ】 「廚餘」――腐敗しやすく、異臭を放ち、大量の有機物を含む穢れを指す。 処理の推奨事項:この手のブツは得てして脂っこく、火力(攻撃性)が強い。道理を説くなど無駄だ、直接「物理的に冷静」にさせてやれ。
白馬寺には、白檀の香りがしなかった。
本来ならば、「釈源祖庭」と称されるこの千年の古刹は、終日香煙がたなびき、心神を安らかにする沈香の香りに満ちているはずだ。 だが、謝必安が山門に足を踏み入れた瞬間、鼻をついたのは強烈な、まるで屠殺場の下水道が三日間詰まった末に逆流してきたような臭気だった。
それは肉がドロドロに煮崩れた臭いに、酸化した脂の酸味が混じり合い、鼻毛にこびりつくほど粘着質な悪臭だった。
「この臭い……」
謝必安は大雄宝殿前の広場に立ち、無意識に袖で口鼻を覆った。 「ここは寺院じゃない。発酵した堆肥場だ」
だが、彼の懐の中の銜蝉は興奮のあまり転げ回っていた。金色の猫毛が謝必安の首筋をくすぐり、脳内に響く声は興奮で裏返っている。 『肉だ! でかい肉だ! オヤジ、こいつは満漢全席だぞ! さっきの水鬼よりずっと美味そうだ。あっちは前菜だが、こっちはメインディッシュだ!』
(黙れ。これは生ゴミだ) 謝必安は心の中で冷ややかに返し、警戒心も露わに周囲を掃討した。 (しかも分別されていないタイプのな。腹を壊すぞ)
彼の肩に乗った銀猫の阿奴は、今や完全に毛を逆立てていた。全身を強張らせ、銀色の尻尾で謝必安の首を死に物狂いで締め上げている。まるでそれが唯一の救命浮き輪であるかのように。 彼女の感覚において、ここは清浄な地などではなく、巨大な、今まさに蠕動している胃袋の中なのだ。
「施主……深夜のご来訪、いかなるご用向きで?」
陰鬱で湿った声が、大殿の影から聞こえてきた。まるで口の中に脂身を含んだまま喋っているような音だ。
姿を現したのは、白馬寺の知客僧(案内係)だった。 彼はだぶだぶの明黄色の袈裟を着ているが、その体型は異常なほど肥満しており、歩くたびに肉が波のように揺れ、ピチャピチャと水音を立てていた。 顔は満月のように丸くテラテラと光り、月光の下で気味の悪い脂ぎった光沢を反射している。口の端には、肉汁らしき深褐色のしみがこびりついていた。
「司天監、拾遺だ」
謝必安はあの黒ずんだ腰牌(IDカード)を提示し、気だるげな口調で言った。 「聞けば、ここの仏様は最近食欲が旺盛だとか。消化不良を起こしていないか、手伝いに来てやったんだが……」 彼の視線は知客僧を通り越し、背後にある堅く閉ざされた大殿の木扉に釘付けになっていた。
知客僧の笑顔が凍りついた。
次の瞬間、彼の肥大した腹が突然「ゴロロロ」と轟音を立てた。まるで中から何かが飛び出そうと暴れているかのように。
「施主、強烈な貪瞋痴をお持ちのようで……」 知客僧の声が変わった。甲高く、嗄れ、骨が擦れ合うような音に。 「来られたからには、その皮嚢(肉体)を置いていかれよ。我が仏に供養し、早々に極楽へ登る……なんと素晴らしいことか?」
ビリビリッという布が裂ける音と共に、知客僧の袈裟が猛然と破裂した。
彼の巨大な太鼓腹が真ん中から裂けた。だが腸は流れない。代わりに現れたのは、腹腔全体を占める巨大な、尖った牙の並ぶ口腔だった。 中から真紅のニシキヘビのような長い舌が、生臭い涎を撒き散らしながら、稲妻のごとき速さで謝必安の首へと巻き付こうとした。
「汚ねえな」
謝必安は眉をひそめ、足も動かさず、ただわずかに首を傾げただけだった。その目には、この粗雑な攻撃に対する侮蔑の色が浮かんでいた。
「阿奴、切れ。そんな脂っこいモノに俺を触らせるな」
「ニャア!」
言葉が終わるか終わらないかのうちに、銀色の閃光が走った。 肩の上の阿奴は嫌悪感を露わにしていたが、職務には忠実だ。彼女は「有害ゴミ」処理担当であり、彼女の目には、この舌は肉ではなく、具象化した「穢れの鎖」にしか見えていない。
鎖ならば、切断すればいい。
鋭利な爪が虚空に三本の銀色のラインを描く。空間そのものが切り裂かれ、空気中に「ジジッ」と音を立てる銀の痕跡が残った。
巻き付いてきた長い舌は、銀線に触れた瞬間、「シュッ」という音と共に根元から切断された。 断面からは血ではなく、ドロリとした黄色い脂肪が噴き出した。
「あぁああ――!!」 知客僧は悲鳴を上げ、腹を押さえてよろめき退いた。その目には信じられないという驚恐が浮かんでいる。 「仏の『法鎖』が……切れた!?」
「デブ、食うなら早くしろ。食い残すなら持ち帰り(テイクアウト)だ」 謝必安は淡々と命じた。
懐の銜蝉はとっくに我慢の限界だった。
「飯だぁああ!!」
金色の光が弾けた。 普段は動くのも億劫がるこの太った茶トラ猫が、今は驚くべき速度を爆発させた。 彼は空中で風を受けて巨大化し、猛虎とまではいかないが、仔牛ほどの大きさの金色の巨獣へと膨れ上がり、知客僧の上半身に食らいついた。
「バキッ」という耳障りな骨の砕ける音が響く。 知客僧は腹の中の口ごと銜蝉に噛み砕かれ、まるで軟骨を味わうようにガリガリと咀嚼され、飲み込まれていった。
『ちと脂っこいな』 銜蝉は口元の油を舐め取りながら、脳内で批評した。その口調は気難しいグルメ評論家のようだ。 『この坊主、普段からいいモン食いすぎだ。豚バラの脂身をちゃんと炒めてない感じだ。皮も厚すぎる。星一つだな』
謝必安は猫の食レポを無視した。彼はまっすぐ大雄宝殿へと歩み寄り、足を上げ、あの分厚い木の扉を蹴り開けた。
ドォンという音と共に扉が両側へ激突し、熱波が顔に吹き付けた。そこには窒息するほど濃厚な肉の香りと、血生臭さが混じっていた。
大殿内には灯明がなかったが、白昼のように明るかった。 なぜなら、中央に鎮座する三丈(約9メートル)の高さの如来の金身が、発光していたからだ。
だが、よく見ればそれが仏光でないことは明白だった。
それは分厚い、黄金色の死体油だ。仏像の表面を覆い尽くし、月光を反射してヌラヌラと輝いているのだ。
そしてこの大仏は……泥塑でも木彫でもなかった。
それは何千何万という暗紅色の、新鮮な血肉の塊を積み上げて作られていた。 肉塊はまだ脈動しており、血管が樹木の根のように絡み合い、肉と肉を縫い合わせている。 仏像の「目」は二つの巨大な人間の頭蓋骨で、眼窩の中で眼球が転がり、入り口の謝必安を死んだように見据えていた。
仏像の蓮華座の下には、真っ白な骨が山のように積まれている――すべて、「消化」し終わった残りカスだ。
「阿弥陀仏……」
肉山の大仏がゆっくりと口を開いた。その声は宏大だが濁っており、奇妙な神聖さを帯びていた。まるで無数の人間が同時に読経しているかのようだ。
「衆生は皆苦なり、血肉は是れ檻なり。施主よ、何ぞこの臭き皮嚢を捨て、我と共に『無遮肉身』を修し、永遠の極楽を楽しまざるや?」
その声が落ちると同時に、大殿の四方の羅漢像が次々と破裂し、小さな肉塊の怪物となってボタボタと地面に落ち、謝必安を取り囲んだ。
謝必安はため息をつき、腰の酒瓢箪を外した。中身は王員外からくすねた波斯の葡萄醸だ。
「永遠の極楽? 俺には『永遠の防腐処理』に見えるがな」 彼は酒瓢箪を揺らし、その眼差しは処理すべき決算書を見るかのように冷徹だった。 「生ゴミは切られることを恐れない。恐れるのは『停止』だ。腐敗が止まれば、ただの死んだモノになる」
謝必安は頭を仰ぎ、豪快に酒を煽った。紫紅色の酒液が口元から滴り落ち、油で汚れた床タイルに染みを作る。
彼の瞳がとろんと濁り始めるが、その瞳孔の奥底には、狂気を孕んだ金色の炎が燃え上がっていた。
「そんなに肉がお好きなら、一層『釉薬』をかけてやろう」
彼は口に含んだ酒を、霧として猛然と噴き出した。
フゥッ――という音と共に、酒霧は透き通ったピンク色の霧となり、大殿全体を覆い尽くした。
「阿奴、道を封鎖しろ。臭いを外へ漏らすな」
銀猫が一声鳴き、銀色の流光となって大殿の周囲に見えない障壁を張り巡らせた。
「銜蝉、護法だ。あの細かいクズ肉を俺に触れさせるな、この服は着替えたばかりなんだ」
金猫が怒号を上げた。満腹で動きたくない様子だが、それでも渋々爪を振るい、飛びかかってくる肉塊をいくつか叩き潰した。
謝必安は一歩、また一歩と肉山の大仏へ歩み寄る。
一歩進むごとに、足下の地脈が震動するのを感じた。 それは白馬寺千年の香火の願力だ。穢れに汚染されてはいるが、土台はまだ生きている。油鍋の底にこびりついた古い汚れのように――臭いが、粘り気があり、釉薬を乗せるには最適だ。
「……土台はある」彼は低く呟いた。「一発勝負だ。賭けるぞ」
彼は右手を伸ばした。 その手は今や完全に半透明の金色に変質しており、内部の血管がくっきりと見え、煮えたぎる金砂が流れている。
今回の代償は、前回よりも早く、激しくやってきた。
痛みではない。痛みがあるなら神経が生きている証拠だ。 今、彼の右腕は肘に至るまで、完全に感覚を失っていた。まるでその手が自分のものではなく、冷たい義手をぶら下げているかのようだ。
だが彼の顔には、相変わらずあの玄人特有の気だるげな笑みが張り付いている。ただ口元がわずかに引きつっただけだ。
彼は猛然と掌を虚空に押し当て、足下に湧き上がる地脈の香火を借り、あの巨大な肉山に向けて、強く握り込んだ。
「――定まれッ!」
耳をつんざくような『ブーン』という共鳴音が全場を薙ぎ払った。
大殿に充満していた酒霧が、勅令を受けたかのように瞬時に凝結する。一滴一滴の霧が金色の釘となり、空を切る音を立てて、肉山大仏の体内へ深々と突き刺さった。
「グォオオオ!!!」
大仏が凄惨な悲鳴を上げた。あの「極楽を享受せよ」という荘厳さは瞬時に崩壊し、瀕死の野獣の哀鳴へと変わった。
暗紅色の筋肉は透き通るルビーに変わり、黄色い死体油は流動する金箔に、白い骨格は潔白な漢白玉(大理石)へと変質していく。
錯金琉璃・万象封禁。
これは天の時、地の利を借用した大博打だ。
心臓が三回鼓動する間に、あの肉山からは油と火の気が抜き取られた。 取って代わったのは、高さ三丈、全身が透き通り、内部の血管が金糸と化した絶世の琉璃仏像だった。 それは依然として牙を剥き爪を立てる姿勢を保っていたが、琉璃の封印の下で、その獰猛さは逆に張力に満ちた芸術的な美しさへと昇華されていた。
封印が完了した瞬間、謝必安の脳内の『エリーゼのために』が突然極めて不快な音量になり、百倍に増幅され、彼は危うく膝をつきそうになった。琉璃仏像内部の金糸も、その旋律に合わせてピクリと震えた。
「ハァ……ハァ……」
謝必安は蒼白な顔で手を戻した。 右腕はまだ空中にあり、掴み取る姿勢のまま固まっているが、彼自身にはその腕の存在が感じられない。
「いい色艶だ……」
彼は無理をして前へ進み、左手で仏像の蓮華座を叩いた。カーンという清脆な音が響く。
「紅玉の琉璃、錯金の細工。こいつを建康城の鬼市へ運んで売れば……少なくとも三十年物の女児紅が二百樽、おまけに雑項科のあの雨漏りする屋根も直せるな」
その時、大殿の外からコツコツという足音が聞こえてきた。
袁爺さんがあの白っぽい提灯を提げ、音もなく入り口に現れた。 彼は大殿中央の、目が痛くなるほど華麗な琉璃大仏を見上げ、次に虚弱だが熱狂的な眼差しをした謝必安を見て、顔中の無数の目を同時に細めた。
「ヒッヒッヒ、謝拾遺」
袁爺さんは乾いた笑い声を上げた。 「お主、こりゃあ穢れ回収どころじゃない、生ゴミを国宝に変えちまったな。だがの……」
爺さんは話の矛先を変え、枯れ木のような指で仏像の胸元を指差した。
そこには、半透明の琉璃を通して、一つの黒い心臓がはっきりと見えた。それは完全に同化されておらず、むしろまだ微かに鼓動し、ドクン、ドクンと鈍い音を立て、心悸を催すような波動を放っている。
「あのブツ、どう処理するつもりじゃ?」
謝必安はその指差す先を見て、目を凝らした。
大殿の外、本来ならリズミカルに鳴いていた虫の声が、この瞬間すべて消え失せ、死のような静寂が白馬寺全体を包み込んだ。
「機嫌が悪そうだな」
謝必安は笑ったが、その笑みは目に達していなかった。 彼は感覚のない右手を上げ、酒瓢箪に触れようとしたが、指先は空中で止まった――その手の感触は磁器の表面を叩くようで、生きた人間の温度ではなかった。
「金にはなるだろうが……」 彼は自分に言い聞かせるように、あるいはその廃物と化した右腕を慰めるように、低く呟いた。
「ただ、この品の買い手は、向こうから訪ねて来そうだ」




