第2話 聖水
【巻ノ一・残頁弐:地方誌・封印済】
「建康城の地下には二本の川が流れている。
一本は秦淮。白粉の香りが漂う、欲望の川。もう一本は黄泉。五百年の穢れと狂気が堆積している。雑項科の役所は、この二本の川の交差点に建てられている。
備考:湿気が重く、カビが生えやすく、そして……防音性が最悪である」――『建康坊間雑記・廃棄篇』
【司天監内部メモ】
「駐屯地」――他の部署では役所と呼ぶが、雑項科では「用務員室」と呼ぶ。ここでの唯一の業務は、帰りたがらないモノどもを、実家へ送り返すことだからだ。
†
謝必安の住処は、「家徒四壁、ただ猫の尿あるのみ」という言葉を完璧に体現していた。
名目上は「司天監・雑項科」の官署だが、実態は建康城南の廃棄された水運倉庫だ。土地が低いため、梅雨時になると床の隙間から滲み出た水で魚が飼える。
寅の刻(午前四時)。夜明け前の最も暗い時間帯。
空気中に不穏な鉄サビの匂いが充満している。画舫で嗅いだものより濃い。血の匂いではない。錆びた刀の背に舌を擦り付けたような味だ。
謝必安は悲鳴を上げるボロ扉を押し開けた。敷居を跨ごうと足を上げた瞬間、動きが止まった。
敷居の横の水たまり。夜闇に乗じて滑り込もうとしていた「モノ」がいた。皮を剥がれた猿のような形をしており、扉の隙間へ潜り込もうとしている。だが、敷居の上の乾ききっていない黄色の液体に触れた途端、ジューッという腐食音を立てた。
「ウゥ……」
凄惨な低い鳴き声。肉眼で追える速度で、黒い膿水へと溶けていく。
謝必安は無表情で見下ろした。回り道はしない。官靴を履いた足を上げ、痙攣する黒い残骸を踏みつけた。
グチャッ。
最後の一縷の穢気が踏み散らされる。目障りなゴキブリを潰しただけだ。
「低級の穢物。陽に当たれば散る」謝必安は靴底を擦りつけた。職業的な冷淡さと嫌悪感。「分別回収の資格すらない。純粋な有機肥料だ」
「銜蝉」
敷居を跨ぎ、懐の金色の毛玉に言った。「何度も言ってるだろ、玄関で立ちションするな。お前は鎮獄の神獣であって、団地の警備員じゃないんだぞ」
懐の銜蝉は気怠そうに寝返りを打った。脳内で欠伸をし、堂々と言い返す。
『警備員? 俺様ほど優秀な警備員がいるか? 親父、よく見ろよ。昨日の夜、俺様が出がけに「金庭玉液」を引っ掛けておかなきゃ、このボロ小屋はとっくに孤魂野鬼に占領されてたぞ。それに……』
金猫が顔を出す。鼻をヒクつかせ、琥珀色の目に嫌悪が走った。
『この小屋のカビの匂いの方が、俺様の小便よりよっぽどキツいぜ。毒を以て毒を制すってやつだ』
謝必安は言葉を失った。
画舫で稼いだ銀――王員外が口止め料として無理やり押し付けてきたもの――を、脚の欠けた机に放り投げる。銀が机に当たり、ドンと鈍い音を立てた。澄んだ音ではない。泥沼に石を投げ込んだようだ。
薄暗い室内。部屋の隅には呪符がびっしりと貼られた焦げ茶色の壺が積まれている。まだ処理していない「在庫」だ。
銀を置いた瞬間。壺の一つが激しく震え出した。
壺の奥から、コン、コン、コンという衝突音が急激に響く。封印の呪符が風もないのに揺れ、隙間から赤い煞気が漏れ出そうになる。ガラスを爪で引っ掻くような鋭い咆哮が伴った。
「うるせえな」
謝必安は振り返らない。卓の上の空の湯呑みを逆手で掴み、見もせずに後ろへ投げつけた。
パシャッ。
澄んだ音が響く。湯呑みは暴れる壺に正確に命中し、数個の破片に砕け散った。
無造作な一撃だが、精密なメスのように何らかの気の流れを断ち切った。壺の衝突音は瞬時に消え去る。漏れ出した煞気は、見えざる大きな手に強引に押し戻されたように、不本意な呻きを上げて完全に沈黙した。
「次騒いだら、遊郭に便器として売り飛ばすぞ」冷たく脅す。
隅の壺たちは理解したのか、一斉に身を縮め、空気すら数分静まり返った。
「ニャオ」
清冷な猫の鳴き声が、室内の死寂を破った。
銀色の母猫阿奴が、謝必安の肩から軽やかに飛び降りた。埃まみれの床に爪を触れることすら嫌がり、虚空の結節点を踏み、綱渡りのように優雅に、唯一清潔な紫檀の太師椅子へと着地する。
優雅に尻尾を巻き、砕いたダイヤモンドのような瞳で室内を一瞥し、机の上の冷え切ったお茶に視線を止めた。
「見るな。それは昨日のだ」
謝必安は白粉と酒の匂いが染み付いた官服を脱ぎ捨てながら、隅の棚から磁器の瓶を取り出した。「露水が飲みたきゃ自分で採ってこい。今はこれしかない」
器に清水を注ぎ、磁器の瓶から金色の液体を一滴垂らした。
液体は水に入るとすぐに溶け、金属が燃えた後のような微かな異香を放つ。余った瑠璃の破片をすり潰し、練り上げた「エッセンス」だ。凡人にとっては臓腑を溶かす劇毒だが、穢物を食らうこの二匹にとっては最高の聖水である。
阿奴は上品に匂いを嗅ぎ、ようやく高貴な頭を下げて、少しずつ舐め始めた。
一方の銜蝉にそんな優雅さはない。謝必安の懐から机へ飛び乗り、器に頭を突っ込んでガブガブと音を立てて飲む。金色の毛が水浸しだ。餓鬼の生まれ変わりである。
「ゆっくり飲め。誰も取らない」
謝必安はため息をついた。こめかみの痛みがひどくなった。
窓辺へ歩き、今にも外れそうな窓を押し開ける。
外の風が強くなった。鉄サビの匂いがむせ返るほど濃くなり、堀の本来の悪臭すら覆い隠している。天の果ての残月は完全に猩紅色に染まり、身体からえぐり出されたばかりの滴る内臓のようだ。
遠くの皇宮の方向から、ドォンと重い雷鳴が微かに響く。
謝必安の視界には、皇宮の上空にいるはずの気運の金龍は見えなかった。代わりに、巨大で蠢く灰色の影がある。
「風の鉄サビの匂いは……あっちからか」
謝必安は呟き、無意識に服の裾をこすり合わせた。
コン、コン、コン。
その時、非常に規則正しいノックの音が唐突に響いた。
音は大きくない。だがこの死寂の夜明け前には、心臓を打つ重槌のようだ。
机の銜蝉が水を飲む手を止めた。金色の毛が瞬時に逆立ち、喉から低くウゥゥと警告音を漏らす。太師椅子の阿奴も頭を上げ、銀色の瞳孔を針の先のように収縮させ、ボロ扉を凝視した。
扉の外。足音はない。呼吸音もない。
「謝拾遺、起きとるか?」
甲高く、老いた、二枚の朽ち木がこすれ合うような声が、扉の隙間から潜り込んできた。
その声を聞き、謝必安の張り詰めた神経が逆に緩んだ。白眼を剥き、扉へ歩き、軋む木の扉を引いた。
「真夜中に監正大人が寝もせずに、見回りですか?」
扉の前に一人の老人が立っていた。
洗い晒された灰色の道着を着て、青白い紙提灯を提げている。一見すると、棺桶に片足を突っ込んだ普通の老道士だ。顔の皮は樹皮のように干からび、褐色の老人斑がびっしりと覆っている。
「寝付けなくてな」袁老いぼれが笑い、欠けだらけの黄色い歯を見せた。
提灯を提げて敷居を跨ぐ。薄暗い蝋燭の火が揺れ、顔を照らした。
その瞬間、謝必安ははっきりと見た。老人の顔の静止していた「老人斑」が、一斉に目を開いたのを。
斑点ではない。それは無数の目だった。
数十の灰白色の、瞳孔のない眼球が、干からびた顔の皮の上で動き、一斉に机の上の金色の「聖水」を注視した。
「いい匂いじゃ……」袁老いぼれが貪欲に息を吸い込む。顔の目も興奮して細められた。「謝拾遺の手技は、ますます冴えてきよる。この水一杯を鬼市へ持っていけば、命の半分とは交換できるぞ」
「無駄口はいい」謝必安はドア枠に寄りかかり、その恐ろしい顔を無視した。訪問販売員をあしらうような不耐の顔だ。「用もないのに来ないだろ。言え、今回はどこのゴミ箱が爆発したんだ?」
袁老いぼれはヘヘッと笑う。顔の目が再び閉じ、普通の老人斑に戻った。広い袖から黒ずんだ竹簡を取り出し、差し出す。
「穢物のゴミ箱が爆発したわけではない。仏様が……腹を空かせたのじゃ」
謝必安は眉をひそめ、手を出さなかった。竹簡から漂う強烈な肉を煮込む匂いを嗅ぎ取ったのだ。肉がドロドロに煮崩れ、発酵した後の甘ったるい匂い。
「白馬寺か?」
「賢いのう」袁老いぼれは竹簡を強引に謝必安の懐へねじ込んだ。「あそこの住持が言うには、大雄宝殿の仏像がここ数日、ずっと汗をかいとるそうじゃ。それに……夜回りを三人行かせたが、一人も戻ってきておらん」
謝必安は懐の油ぎった竹簡を見下ろした。豚の角煮を抱きしめているような気分だ。
「デカい仕事だな」謝必安は顔を上げ、指を二本立てた。口調が商人になる。「追加料金だ。西域から献上された葡萄酒、五樽。それと、今月の給料を前借りさせろ」
「交渉成立」
袁老いぼれの返事は異常に早かった。謝必安が安請け合いしたのではないかと疑うほどだ。
「引き受けた以上、とっとと行ってさっさと戻るんじゃぞ」袁老いぼれは提灯を提げて背を向けた。二歩歩き、不意に立ち止まって振り返らずに言った。
「そうじゃ、謝拾遺。最近天の月が……少々赤い。廃品回収の際、自分自身も穢物として回収されんよう気をつけることじゃな」
言い残すと、老人の姿は煙のように、音もなく夜明けの霧の中へ溶け去った。
謝必安は扉の前に立ち、肉の匂いを放つ竹簡を握りしめた。天の果てのますます赤くなる残月を見る。胃の中が激しく波打った。
空腹ではない。生理的な吐き気だ。そして、あの「棘」が微かに痛む。
「クソッ」
低く毒づき、室内へ戻る。机の上の環首直刀を掴み、無造作に腰に掛けた。ボロボロの鞘は、薪の燃えカスのようだ。
「デブ、阿奴。飲むのは終わりだ。仕事だぞ」
銜蝉が頭を上げる。口の周りには金色の水滴。「どこへ? またバイキングか?」
謝必安は窓を開け放ち、鼻を突く鉄サビの匂いを部屋中に充満させた。口角に冷たい弧を描き、目には専門家特有の気怠さを漂わせる。
「白馬寺だ。あそこの仏様は……肉でできているらしい。ちょうどいい、油抜きをしてやろう」




