第108話 太平無事《たいへいぶじ》
【巻ノ二・残頁壹百零捌:『大魏宗正寺・命婦儀範』残巻】
「宗室の貴たるは、声色を動かさざるに在り。刀兵前に迫るも目瞬かず、妖祟傍らに伏すも容改まらず」
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青い毛織物の御簾には、金糸の細やかな縁取りが施されていた。それが、透き通るように白い手によって静かに持ち上げられる。 武陵王妃は車内の奥深くに据えられた蜀錦の軟榻に腰掛けていた。乱れた髪の毛が一筋、頬にかかっている程度で、先ほどまでの惨劇に怯えた様子は微塵も窺わせない。その冷ややかな眼差しは、庭一面に散乱する焦げた肉片を一瞥し、最後に深々と頭を下げる謝必安の上へと落とされた。
「謝少監であったか」王妃の声は低く、感情の起伏は感じられない。「其方、目の前の者が誰であるか弁えておるな?」
謝必安はさらに頭を垂れ、一分の隙もない恭順な声で応じた。「下官は浅学非才にして眼力も足らず、尊き鳳駕に気づきませなんだ。何卒ご教示を」
「今朝の太廟の大典、御簾の陰より其方の受封の儀を眺めておった」王妃の瞳がかすかに動き、抑揚のない言葉の端々に棘を忍ばせる。「それから半日と経たぬうちに、謝少監は司天監で執務を執るでもなく、お忍びで南下され、この仏門の清浄の地で大立ち回りを演じておられるとはな。見事な腕前であった……だが、この天下に、理由もなしに起きる奇遇などそうそう転がっておるまい。其方、そうは思わぬか?」
腰を屈めたまま、謝必安の伏せた瞼がかすかに跳ねた。内心で盛大に舌打ちする。深窓の貴婦人どもの物言いとくれば、いつも山道十八曲がりの如く遠回しだ。精勤を褒めているように聞こえて、その実「正四品の朝廷命官が持ち場を離れ、野良犬のように山を嗅ぎ回り、あまつさえ王府の災難に都合よく出くわすとは何事か」と探りを入れているのだ。
「武陵王妃様であらせられましたか。下官の不調法、平にご容赦を」 謝必安は表情を引き締め、息を吸う間もなく、たちまち朝廷命官らしい厳粛な声音へと切り替えた。顔色一つ変えずに筋書きをでっち上げる。
「司天監は天下の陰陽と妖異を司る役所。今朝の大典が果てるや、下官の手の者が城南に不吉な妖気の蠢きを察知いたしました。折からの晩秋の参詣客に紛れ、九嶷山の逆賊どもが良からぬ企みを抱いているとの報に接したのです。皇恩を忝くする身として、一刻の猶予も許されず、直ちに平服に着替えて極秘裏に追跡し、臨機応変に備えておりました。幸いにも王妃様の高徳の加護と、近衛の猛者どもの命懸けの奮戦により難を逃れることが叶いました。下官の如きは偶々居合わせ、朝廷の使い走りとして後始末を担ったに過ぎず、功など滅相もございません」
言い終えるや否や、御簾の奥から、小さな冷笑が漏れた。 無論、王妃のものではない。先ほど御簾を持ち上げたあの白い手の主だ。薄暗い陰に身を潜めており、顔立ちまでは窺い知れない。頭を垂れたままの謝必安には、奥に控える人物の正体までは掴めなかった。
武陵王妃は暗がりを一瞥し、再び視線を戻して謝必安を観察した。しばしの沈黙の後、その面持ちがわずかに和らぐ。「謝少監の忠勇、しかと見届けた。王府へ戻った後、王爺へありのままを伝えよう。少監の今日の護衛の功は、宗正寺と兵部より相応の恩賞が下されるべきものぞ」
「役目の内にございまして、恩賞など望むべくもございません」謝必安は淀みなく太極拳の如く躱しながら、この貸しが果たしてどれほど実入りのある口止め料に化けるか、頭の中で算盤を弾いていた。
「ゲフゥッ――!」
山をも揺るがす下品な酒の吐息が、二人の応酬を無残に叩き割った。 片肌を脱ぎ、黒鉄のように盛り上がった筋肉を晒した二師兄が、千鳥足で近づいてきたのだ。脂ぎった口元を手の甲で拭い、巨大な朱塗りの酒瓢箪をぶら下げたまま、牛のような目で馬車を眺めて大声を張り上げた。
「おい小弟、箱入りの御内儀を相手に何をぐだぐだと油を売ってやがる! あの雑魚道士はとうに消え失せたんだ、この泥だらけの肉片と骨を早く石灰で固めねえと、陽が落ちて屍毒が立ち上ったら山中の参拝客が揃って腹を下すぞ! 俺に言わせりゃ、さっさと各自引き揚げるのが一番だ。腹が減ってたまらん。美味い酒と飯を腹一杯食わせる約束、明日まで待てるかよ、今日だ今日! 踏み倒そうなんて思うなよ!」
大気が瞬時に凍りついた。 馬車の両脇を固めていた近衛兵たちの顔色が激変し、刀を半寸抜いて怒号を浴びせた。「無礼者! 王妃様を前にして何たる放言か!」
二師兄は怯むどころか、白い歯を剥き出しにして獰猛に笑い飛ばした。「俺は昔から師父しか知らんし、恐れるのも師父だけだ。まあ、大師兄なら半分くらいは怖いが……てめえらなんぞ、どこの馬の骨だ? 命が惜しくねえ奴から、その刀を根元まで引き抜いてみろ!」
「刀を収めろ! 頼むから刀を引いてくれ!」 謝必安は青ざめて割って入り、背中で巨漢を押し留めながら、必死に護衛たちへ両手を振った。
「早まるな、身内だ、滅法頼りになる身内なんだ!」冷汗を吹き出しながら、舌先三寸で取り成す。「このお方は、西方の身毒で苦行を積まれた方外の高徳、法号を……ええと、アピギ法師と申される! 長年異境で妖魔を調伏してこられたため、中原の礼法に些か疎いだけでして! 先刻もこの法師の仏門の神力と頑強な肉体がなければ、我らは皆、骨壺の中で茶を啜る羽目になっておりました! 王妃様の広大無辺なるお慈悲を以て、得道の高僧の無骨な物言い、どうかお咎めなきよう!」
武陵王妃はしばし二師兄を見つめていたが、静かに片手を上げて護衛を制した。 「法師の仏法が並大抵でなきことは、先ほどこの目でしかと見届けた」王妃の声は乱れない。「出家人が俗世の細事に囚われぬは道理。本宮とて狭量な振る舞いはせぬ。法師の申す通り、この場に長居は無用。車を出せ」
白い手が離れ、青い毛織物の御簾が静かに下りた。 完全に閉ざされる直前、奥の人物の唇が微かに動いた。高くはないが、氷のように研ぎ澄まされた冷涼な声が落ちてくる。
「今日の出来事は、仏門の清浄を乱したのみならず、無辜の命まで奪われた。謝少監、司天監の後始末において、都中を揺るがすような無用の風評を立てぬよう願いたいものだな」
「承知仕りました。手落ちなきよう差配いたします」謝必安は御簾の奥へ視線を投げ、深く一礼した。
馬車はゆっくりと向きを変え、境内に響く僧侶たちの沈鬱な念仏を後に、生き残った護衛や駆けつけた増援に警護されながら、別院の門外へと去っていった。負傷者や殉職者の遺体も、手際よく運び出されていく。
馬車が謝必安の脇をすり抜ける瞬間、御簾の裾が音もなくわずかに持ち上がり、銀色の尻尾がひょっこりと覗いた。尾の先にはまだ力が入っていないようだったが、これ見よがしに謝必安の太ももをペシリと叩くと、素早く影の中へと引っ込んだ。
謝必安は頬を引き攣らせ、念話を飛ばした。「阿奴、お前、俺と帰らずに皇親国戚についていって何を企んでるんだ?」
「妾には片付けるべき大事があるのじゃ。少監殿におかれては、随分と余計なお世話にございますこと」
車内から、気怠げで甘ったるい猫撫で声が返ってきた。その呑気な響きに、車内が再び小さくざわめくのが聞こえた。
謝必安は眉を寄せ、遠ざかる車輪を睨みつけて釘を刺した。「明後日の朝、北門から定刻通りに出発するぞ。仕事を放り出すんじゃないぞ」
「分かっておるわえ〜」 尾を引く欠伸混じりの返答が、晩秋の山風に溶けて消えていった。
去りゆく王府の車列を見送りながら、謝必安は苦々しく呟いた。あの性悪猫め、いつの間に家出なんぞ覚えやがった。誰に似たんだか。後でたっぷりとお仕置きしてやる。
ふと、足元から呑気な呟きが漏れ聞こえた。『――親父の真似をしただけに決まってんだろ』
「俺の真似だと? 俺がいつそんな筋の通らない真似をした!」反射的に言い返し、慌てて足元を見下ろした。
いつの間にか、金色の丸っこい肉団子が足元に蹲っていた。全身の骨が抜けたようにふにゃふにゃになり、恨めしそうに唸っている。
「お前、今度は何だ?」謝必安は呆れ顔で眉をひそめた。「子供どもの見張り番を言いつけただけだろ。あのガキどもはどうした?」
銜蝉は白目を剥き、肉球で顔を擦りながら嘆息した。『聞かないでくれよ……一言じゃ言い切れねえ苦労があったんだ』
「怪我はなかったのか?」謝必安が表情を引き締めると、すぐに手を振った。「まあいい、お前がここまで這って来られたなら無事なんだろう。ならとっとと連れてこい」
肥満猫は情けない声を漏らし、重い腰を上げて草むらの方へと渋々引き返していった。
猫が離れると入れ違いに、参道の方から急ぎ足の足音が近づいてきた。 長裙の裾をつまみ、小走りで瓦礫を乗り越えてくる蘇小小。その後ろを、怯えきった侍女がおっかなびっくり追ってくる。
庭の凄惨な光景――飛び散った血肉、倒れ伏す僧侶たち、崩れた塀、そして上半身裸で酒を呷る獰猛な巨漢を目の当たりにし、彼女は息を呑み、すぐに謝必安の姿を捉えた。
「怪我は? どこかやられたの?」駆け寄るその声には、隠しきれない焦燥が滲んでいた。
「無傷だ、擦り傷一つねえよ」謝必安は『驚蟄』を指先でくるりと回して笑ってみせた。「蘇の大旦那がいなかったのが惜しまれるな。俺が大立ち回りを演じて、犬どもを泣かせてやった勇姿を見逃すとは。だが、いいところに来てくれた。公務の後始末を手伝ってもらおう」
蘇小小は呆れたように流し目を送った。「どの口が言うかしら」 酒を飲む巨漢を横目で盗み見ると、声を潜めた。「あの二師兄殿がいなければ、とっくに串刺しにされていたでしょうに、よくも抜け抜けと。それにしても謝少監、王妃様の前で随分と偉そうに大言壮語を吐いたものね。天下を揺るがす暗殺未遂を、よくもまあ司天監の裏仕事にすり替えたこと」
「そうするしかないだろ」謝必安は声を落とした。「車内のあの御方の匂わせを聞いただろう。事を大きくするなという遠回しな圧力だ。刑部や廷尉府が首を突っ込んでみろ、手加減を知らぬ連中が都中を封鎖して家宅捜索を始めるぞ。朝に先帝の遺詔が出たばかりの帝都で、午後に親王妃の暗殺未遂が公になり、そこへ飢えた難民が雪崩れ込んでみろ。国がひっくり返るぞ」
蘇小小は目を細めた。「本当に抜け目のない男ね。で、私は何をさせられるわけ?」
「手はずは簡単、二段構えだ」謝必安は真顔に戻り、手短に指示を飛ばした。 「まず一つ、現場の隠滅だ。お前の息のかかった人足を直ちに手配しろ。転がっている賊と妖犬の死骸はすべて石灰を撒いて焼き払え。呪符の燃え殻一つ残すな。世間への口裏はこうだ――新帝の即位を控え、司天監が棲霞寺の風水を改めたところ、突発的な地脈の暴動を検知した。その余波で別院が崩壊し、参拝客と僧侶に負傷者が出たため、直ちに封鎖して修繕を行う。山裾の避難民どもには以工代賑として修繕の人足を割り当て、温かい飯と汁を配れ。死者の身元が分かれば見舞金を上乗せしてやれ。生きている連中の胃袋さえ満たせば、そんな噂を撒き散らす余裕もなくなる」
「武陵王府の口は? あれだけの近衛が死傷したのよ、誰かが漏らす心配はないの?」
「王妃は立ち回りを心得た聡明な御仁だ」謝必安は確信を込めて笑った。「この非常時に、帝都の平穏を誰よりも望んでいるのは武陵王自身だ。宗室の面目と朝廷の安定のためなら、王府の内輪で固く箝口令を敷くさ」
彼は彼女へ目配せを送り、続けた。「そこで二点目だ。報告の公文書は俺が直々に筆を執る。賊を退けた最大の功績はすべて武陵王府の近衛のものとし、王爺に花を持たせるのさ。司天監は偶然居合わせて支援しただけの脇役にしておく。そうすりゃ俺たちは責任から綺麗さっぱり身を引きつつ、宗正寺に特大の恩を売れる。まあ、その公文書も最終的には極秘裏に封印されるがな」
「手柄も面目もすべて王府にくれてやり、事態も丸く収めた。……で、あんた自身は何をせしめる気? 損をして終わるタマじゃないでしょう」蘇小小はくすりと笑った。
謝必安は平然と言い放った。「王妃様は礼節を弁えておられるし、王爺も筋を通すお方だ。明日、俺は新居の引き渡しがある。先方がどうしても祝いの品を届けたいと仰るなら、追い返すわけにもいくまい?」
「賀儀?」彼女は呆れたように見つめた。 「当然だろ。まさか口止め料とでも呼ぶ気か?」
その図々しい開き直りぶりに、蘇小小は吹き出した。「つくづく、役人という商売の何たるかを心得ていること」
「お褒めに預かり光栄だ。職責を全うしているまでさ」 謝必安は声を潜め、揉み手をしながら擦り寄った。「ところで蘇の大旦那、棲霞寺の大修繕という降って湧いた大普請を一手に引き受けるんだ、お前さんの懐に入る実入りも相当なものだろう? どうだ、俺にも少しばかり色をつけてくれてもいいんじゃないか?」
蘇小小は呆れ果てて腕を組んだ。「何よ、私からまでピンハネする気?」 「仲介料は商売の基本だろ」
「あんた、私にまだ返していない大借金があるのを忘れたわけ? リベートなんて夢のまた夢よ、そこから差し引いておくわ」
謝必安は目を剥いた。「借金だと? 前の件で綺麗さっぱり帳消しにしたはずだろ!」
「誰が帳消しにしたって? あんたが勝手に言っただけで、私は一言も頷いていないわ」蘇小小は涼しい顔でそっぽを向いた。
「おいおい……それじゃまるで当たり屋じゃないか」謝必安が苦虫を噛み潰していると、背後からがさがさと物音がした。
見れば、丸々と太った体を揺らした銜蝉が、鼻水と涙で顔をぐしゃぐしゃにした幼子四、五人を連れて戻ってきたところだった。 肥満猫は謝必安を見るや否や突進し、その裾へ頭を突っ込んで泣き言を喚き散らした。
『親父ぃ! 俺様、生まれてこのかたこんな割に合わない貧乏くじ引いたことねえぞ! ガキの守りなんて化け物退治より骨が折れる! あの悪童ども、俺様の高貴な金毛に鼻水を擦り付けやがった! これ、公務による損耗に決まってんだろ! 今夜は絶対に焼き羊足を二本上乗せしろよ!』
謝必安は足でその毛玉を無造作に払い退けた。「あっちへ行け。犬の餌にならなかっただけでも儲けものだ」
傍らで見ていた二師兄が面白そうに喉を鳴らし、腰の酒瓢箪を叩いて二人を見比べた。「小弟、この弟の嫁御は誠に器量良しだな。さっきは後山であれほど死にそうな声でお前を呼んでいたくせに、顔を合わせりゃ喧嘩腰だ。若い奴らの血気ってやつだな。分かるぞ、俺にもよく分かる。昔な……」男はおもむろに遠くの空を見つめた。
百戦錬磨の蘇小小も、この型破りな大男から「弟の嫁御」と連呼されては形無しだった。耳たぶを赤く染め、外套の紐を直すふりをして冷たく言い放つ。「法師様、滅相もない戯言はお控えください。私と謝少監は、ただの仕事上の付き合いに過ぎませぬ」
「師兄! 頼むからその口を閉じてくれ!」謝必安は頭を抱え、大男の丸太のような腕を掴んで引きずり出した。「師父に育てられた恩を忘れたのか! その軽口で今日まで命があったのは、ひとえにてめえの皮膚が頑丈だったからだぞ! ほら、帰るぞ、都で大盤振る舞いしてやるから!」
二師兄は引きずられながらもなお口を尖らせた。「俺は本当のことしか言わん、出家人は嘘をつかんのだ……そう言えば小弟、さっきの妖道が落とした小物は拾ったか? あの手の細工は護身用の暗器にするか、弟の嫁御の笄に仕立て直せば丁度いいぞ!」
謝必安と蘇小小の視線が交錯した。半拍の沈黙の後、二人は互いに一歩ずつ距離を取った。
半刻の後、棲霞寺の後始末は粗方片付いた。 犠牲となった僧侶と護衛は寺の手で丁重に弔われ、妖犬と賊の骸には生石灰が浴びせられ、薪の上に積み上げられて荼毘に付された。親とはぐれた子供たちは寺に保護され、明朝、避難民の名簿と照合して引き渡される手はずとなった。
一刻余りが過ぎ、黄昏が山肌を侵食し始める頃にも、境内の数箇所で篝火が赤々と燃え盛っていた。 なお、『量天照魂銅鑑』が化身したあの邪悪な巨猫について、謝必安が自ら署名した公文書の控えには、ただ八文字だけが簡潔に記されていた。
「邪器失控、当場自毀」
都へと戻る馬車の中、誰一人として言葉を発する者はいなかった。 膝の上の銜蝉は力尽きて高鼾をかき、二師兄は竹杖を抱えて車内の隅で瞑想に入っていた。吐き出される息には微かに薬酒の香りが混ざっている。そして謝必安は壁にもたれ、めくられた布の隙間から、西の空へと沈みゆく血のような落日を眺めていた。
九嶷山、太古の霊猫の頭骨、自立歩行して逃走した青銅鏡、そして未だ行方の知れぬもう一人の道士――。 この大魏の天下は、太廟での大典を経て新しく塗り替えられたように見えて、その地底深くに沈殿する汚泥は、一寸ごとに濁りを深めていた。
謝必安は重い瞼を指で押し上げ、小さく自嘲を漏らした。 「正四品少監ねえ……クソが。この拾遺の役目、一体いつになったら終わりが見えるんだか」
軋む車輪が朱雀橋の敷石を渡り、暮れなずむ帝都の喧騒の中へと吸い込まれていった。
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【司天監内部メモ】
はっきり言っておく。外勤の公文書作成における極意とは、法具の残骸はすべて「自壊」と書くことだ。決して余計な気を回して「遁走」などと書いてはならぬ。そう書いた瞬間、顛末書の追加提出を命じられ、挙句の果てには「州を跨いだ追跡捜査」という名の地獄の外勤を押し付けられる羽目になる。分かったな?




