第九話 少しずつ不快な気温
全校生徒が体育館に集められていた。
壇上には校長が立ち、もう何分も話している。何を言っていたかは覚えていない。こんな朝早くから、人の話なんて頭に入らない。
ふいに拍手が起きた。
見知った女子が、壇上へ登っていく。
落ち着いていて、慎ましくて、品がある。
話しはじめた声は静かで、それでいて落ち着き払っていた。何度も練習を重ねたのだろう。声は揺らぐことなく、生徒たちの注意をそのまま引きつけていた。
わたしも例外ではなかった。
ただ、わたしが見ていたのは何を話しているかではなく、彼女自身だった。
妙な気分だった。
二人きりのときに、こんな彼女を見たことはない。始業式で見た彼女は、隙のない王女だった。その印象は、生徒会室で向き合うようになってから崩れた。
どうしてわたしの前では、あの顔を崩してしまうんだろう。
この場の全員から敬意を向けられるべき人間なのに。
そもそも、最初のときに逆らったわけでもない。警告を受け入れて、その場を立ち去ったのだ。
彼女はわたしを脅した。校則を破っていたのは事実だから、生徒会長として当然の対応だ。それなのに追いかけてきて、一緒に昼食をと言った。いや、あれは懇願だった。雪玉が転がるように、事態は大きくなっていった。
あの日から、彼女はいつでもわたしを切り捨てられたはずだ。
一度もそうしなかった。
あの感覚……見逃されているという、腹の底が熱くなるような高揚。
同情でそうしているだけだとしても。
たぶんわたしは、この感覚に飽きることがない。
あんたにそうされるのが、好きだ。
馬鹿げている。まったく馬鹿げている。
ほどなくして彼女は壇上を降り、再び拍手を受けた。促されて仕方なく手を叩くような拍手ではない。みんな、心から手を叩いていた。
彼女に対するわたしの態度が学校に知られたら、たぶん全校の目の敵にされる。
今年の体育には、野球が入っていた。運動が得意なほうではないが、やってみると案外楽しい。特に団体競技は。同じ目標に向かっている間は、クラスメイトと一緒にいるのも苦ではなかった。
今日もそうだった。妙に暑いことを除けば。
帽子は学校の指定業者から買ったものだ。体育は必修なのに、金持ちのための学校が帽子ひとつ配らないというのは皮肉な話だと思う。この安い造りであれば、配ったところで痛くもかゆくもないだろうに。
まあ、帽子の話はいい。
グラウンドでは、クラスメイトたちがそれぞれの集まりに分かれて準備運動をしていた。
わたしは隅のほうでストレッチを始めることにした。
入学したころは、みんなが友達と組んでいるのが気に障った。だが今なら分かる。一人なら、合間に世間話をしなくて済む。
もっとも、悪いところもある。
地面も手すりも日に焼けて熱く、体を預けることができない。支えてくれる相手もいないので、諦めなければならない動きも出てくる。
まったく。
体育は週に何度かある。体が鈍ることはないはずだ。
「一緒にストレッチしない?」
クラスメイトの一人が、こちらへ歩いてきた。わたしを見かねたのかもしれない。
「いいけど」
向こうがわたしの名前を知っているかは分からないし、こちらは知らなかった。相手も訊いてこない。わたしたちは黙って、互いの体を支え合った。
「痛かったら言って」
「大丈夫」
クラスメイトが親指を立てる。わたしは指で丸を作って返した。
終わると互いに礼を言って、脱いでいた帽子をそれぞれ取りに行った。
授業のはじめにくじを引いていて、わたしは打者に決まっていた。他の人たちについていって、バットも受け取った。
今日は別のクラスとの対戦で、みんないつもより浮かれている。わたしは少し気が重かった。どうせすぐに三振するんだろうな。もっとも、そうなれば日陰に戻れる。
まあ、楽しめるだけ楽しんでおこう。
少しずつ不快な気温になってきていた。
投手が振りかぶるのに合わせて、バットを握り直す。ボールはまっすぐ飛んできたが、バットは出さなかった。
「ストライク、ツー」
審判役をしている相手チームの生徒が、背後でそう告げた。
次のボールは振ったが、かすりもしなかった。
おっと。
「ストライク、スリー」
その言葉に救われた。このままでは暑さで倒れるところだった。
バットを下ろして、またグラウンドの隅へ向かう。
歩いている途中で、手すりに肘が当たった。
あつっ。
太陽は容赦がない。
とはいえ、生き物はこれがないと生きていけない。……まあ、仕方ないな。
グラウンドの奥に、屋根のついた休憩所がある。
あそこに行けば、ありがたい日陰が待っている。
走ることにした。数秒も経たないうちに、間の抜けた誰かがわたしの進路に入ってきた。バインダーを抱えた女子で、目はグラウンドに向いたままで、前をまるで見ていない。
まともにぶつかるのは避けたくて速度を落とし、どうにか肩が触れる程度で済ませた。
「痛っ!」
進路を塞いだそっちが悪い。そう言おうとして、見覚えのある身長差に気づいた。
「ちゃんと前を見て歩けっ……一条さん?」
王女は、いつもの彼女に見えなかった。
「何かしら? どうしてそんな呼び方なの」
「今日、眼鏡してないんだ」
「眼鏡がないと、私だと分からないの?」
「……ないと、なんか変」
華姫の口から漏れた声は何とも形容しがたいが、たぶん心外だという類のものだった。
「あら、ずいぶんな言い草ね。人にぶつかっておいて――」
顔の前に人差し指を立てて、話を止めた。
「わたしのせいにしないで。前を見てなかったのはそっち」
華姫はわたしの指を払いのけただけで、謝りもしなかった。
「ともかく、顔にボールが当たったら終わりだから外しているのよ」
「眼鏡、あったほうがいいと思うけど」
なぜか、言わなければいけない気がした。
彼女が、楽しそうな目をこちらに向けた。
「じゃあ、眼鏡が性癖なのね」
「違う」
濡れ衣を否定するわたしを見て、彼女が小さく笑った。
「そもそも生徒会長が、性癖なんて口にしていいの?」
「あなたなら、もっといい会長になれるとでも?」
「絶対に権力を悪用するけどね」
わたしの宣言に華姫は微笑んで、それから答えた。
「私がまともな会長として振る舞っていたら、あなたは私を好きになってくれなかったでしょうね」
グラウンドの向こうで歓声が上がり、華姫がスコアシートに何かを書き込んだ。試合を追いながら話までできるなんて、どういう頭の作りをしているんだろう。わたしは銃を突きつけられたって、二つのことを同時にはできない。
生徒会長になれない理由が、もう一つ増えた。
逆に華姫なら、練習すればバンドのメンバーくらい務まるんじゃないか。
……
待って。今、なんて言った?
「好きって……?」
「だから、これまでのことに本気で厳しくしていたら、あなたは私を嫌っていたでしょう」
「嫌われるのは嫌なんだ」
「当たり前でしょう」
華姫は、馬鹿げたことを訊かれたとでもいうように鼻を鳴らした。その答えは、わたしが知っていて当然のものだったんだろうか。
わたしに嫌われていない。それだけで「好き」という言葉を使っていいと、彼女は思っているらしい。もちろん、食べ物の好き嫌いと同じ意味での話だ。
なぜか、訂正する気は起きなかった。
これ以上考えるには暑すぎる。
まだグラウンドにいる生徒たちに目をやる。暑さなど感じていないように見えた。
「対戦相手、あんたのクラス?」
「ええ。あなたが三振したときも、私が記録をつけていたわ」
「……じゃあ、あんたが見本を見せてよ」
わたしの切り返しに、彼女は口元を押さえて笑った。
「無理よ。私が記録係をしているのは、試合に出られないからだもの」
「見学が認められる事情でもあるの?」
「いいえ、そういうわけではなくて……ただ運動が苦手なだけよ。幸い、先生も何も訊かなかったけれど」
「あんたにしか許されない特権でしょ、それ」
「そうね」
立場からくる恩恵を否定しなかったのは、少しありがたかった。自覚があるだけましだ。多くの貴族には、それすらない。
貴族といえば、本物の王女と並んでグラウンドを眺めているというのも、なかなか妙な話だ。こうして二人でいて不自然に見えない状況が、他にあるだろうか。
「私と一緒にいるところを見られたくないのかと思っていたわ」
数字を書き足しながら、華姫がふいにそう言った。
「誰も見てないから。たぶんね」
念のため、グラウンドを見回す。
「何、話したくないの?」
「私は話したいわ。あなたも同じだというのが意外なだけ」
彼女には珍しく映るのだろう。わたしにとっても珍しい。暑さで調子が狂っている。
RPGの敵に弱点属性があるように、わたしの弱点は炎なのかもしれない。
王女もこの日差しには勝てないらしい。額に汗が浮かんでいる。手を止めているときは、空いた手を目の上にかざして日を遮っていた。
日除けになるものは、何ひとつ持っていない。
意外だった。陶器のように白い肌をしているのだから、もっと気を遣っているものだと思っていた。
それに、日に焼けるだけでは済まないこともあるだろう。
あれだけの立場なら、もっと自分を大事にするべきだ。
「わっ……え?」
わたしが自分の帽子を脱いで、彼女の頭にぽんと乗せたからだ。華姫には少し大きいせいで、どんな顔をしているのかは見えなかった。
このところ、彼女の慌てた反応を見るのが面白くなってきている。
好きな子をからかう男子と同じじゃないか。
……最低だ。
あいつらと同じにはなりたくない。
この興味は、華姫が今いちばん友達に近い相手だからかもしれない。まあ、友達ではないが。バンドのみんなは友達というより家族なので、数には入らない。
それに……
そもそもわたしに、そういう趣味があっただろうか。
暑さのせいだ。焼かれた頭が、くだらないことばかり考えさせる。
さっきまでは、少し暑い程度だった。
今はもう、どうしようもなく熱い。
顔が……
……いや、暑さのせいだ。
「ありがとう」
王女は帽子の位置を直して、こちらに微笑んだ。
そんな季節でもないのに、天気はわたしを焼き殺しにかかっていた。
誰かがこちらを見る前に、わたしは日陰へ走った。




