第十話 近づきたい
日陰のほうへ駆けていく彼女を、私は見送った。
私の帽子――いや、彼女の帽子だ。つばをつまんで、もう一度かぶり直す。
鼓動が速くなった。
屋上で一緒に過ごしてから、馨は少し打ち解けてくれた気がする。
……違う。生徒会室でのあの日から、彼女は少しずつ私に気を許しはじめていた。
あのとき私が何かを感じたように、馨も何かを感じていたのだろうか。
出会ったばかりのころの彼女は、まるで人を寄せつけなかった。
彼女自身が変わったわけではないのだと思う。けれど最初のころと比べれば、ずいぶん当たりが柔らかくなった。
あれほど意地の悪い人が、私にああいう優しい顔を見せる。そう思うだけで、浮き立つような高揚が胸を走った。
どうして体も頭も、こんなふうに反応してしまうのだろう。
……さて。
身分がものを言うこの学校では、考えておくべきことが多い。私も彼女も変わって、やがて距離が縮まったとしたら、それで何かが壊れはしないだろうか。全校生徒が裕福で有力な家の出というわけではない。けれど、貴族は貴族だけで固まっている。私たちが自分の立場を外れてまで一緒にいれば、周りは噂をするだろう。
そして噂が広まれば、いずれ家族の耳にも入るかもしれない。
家族が馨のような人をどう思うのか、私には分からない。
平民であることは、さほど問題ではない。ただ、彼女は物の言い方が独特だ。
家族とぶつかってしまいそうな気がする。
だから……家族と馨は、会わせないほうがいい。そもそも、会わせる理由もない。
いずれにせよ、このところ馨のことばかり考えている。
もっと馨のことを知りたかった。今よりもずっと。
けれど、彼女はそれを許してくれるだろうか。
彼女の過去を知った経緯そのものが、すでに罪のように思えた。本人の口からではなく、生徒の記録を通してだったのだから。彼女の過去そのものは、決して恥じるようなことではないのに。
彼女が自分から話してくれていたら、もう少し親しくなれていたのかもしれない。もっとも、彼女がそんな話をするとは思えないけれど。そもそも、知り合いはおろか、友達にだって簡単に打ち明けられることではない。打ち明けてもらえるのは、そこまで踏み込める間柄になってからだ。
馨と私は、まだそこまでの仲ではない。
だとすれば、今の距離でさえ、馨が私に許してくれる精一杯なのだろう。周りとうまくやっていくために、彼女が身につけた距離の取り方なのだから。
それでも、わがままを言えるなら、もっと欲しい。
あと少し、近づきたい。
いけない。
瑠々と友達になったころは、こんなことは考えもしなかった。なのに今、どうしてこんなに迷っているのだろう。馨と友達になりたいというだけのことが、瑠々のときと何が違うのだろう。
何か分かっていないことがあるはずだ。少し考えてみよう。
家族以外は、私が何を言っても頷いて、理由も訊かずに味方をする。それが当たり前になっていた。美結のような例外もいる。意見がぶつかることがあってもなお、彼女を副会長に選んだのはそれが理由だ。それでも彼女は、たいていのことは私の決定に従ってくれる。
誰もが私を王女として扱うなかで、馨はひときわ目立っていた。
遠慮なくものを言う。
相手によって態度を変えない。
失うものなど何もないという顔をしている。
美結が馨のように振る舞ったら、私はきっと咎めていた。
けれどなぜか、馨にどれだけ無遠慮な口を利かれても腹は立たなかった。
からかわれるたびに文句を言ったのは、面白がっていると思われたくなかったからだ。本当は、あのやりとりが楽しかった。私も人をからかうような性分ではない。けれど気づけば彼女を真似て、言い返すようになっていた。
単純に、からかい返すのが面白かったのだ。
特別な席をもらったような気がした。彼女のファンクラブに入っているような。
そんなファンクラブ、あるのだろうか。
バンドのことは瑠々から話を聞くくらいで、仕組みもよく知らない。
そういうファンクラブが本当にあって私が入ったとしたら、馨に構ってもらおうとほかの会員と競うことになるのだろうか。
待って。ファンクラブって、そういうものだっただろうか。
……
いつの間にか、試合をすっかり見ていなかった。当然、点数のほうも。
提出用に、あとでそれらしい数字を入れておかないと。
ともかく、大事なのはそこではない。ほかの誰も見たことのない馨の顔を、私は何度も見ているということだ。
少なくとも、この学校の中では。
バンドの仲間といるときの彼女がどんなふうなのかは、私には分からない。ただ生徒の記録を見たかぎり、彼女に身寄りと呼べる人はいないはずだ。
それでも、少なくとも私は彼女の違う顔を知る数少ない一人だということになる。
そうだとしたら、嬉しくないはずがない。
……
そうだ、帽子を返さないと。
「瑠々、バンドにもファンクラブってあるの?」
「えー、なんで? 気になるバンドでも見つけた?」
「まあ、そんなところ」
「え、妬かせる気?」
瑠々が笑う。
いつものように、二人で生徒会室で昼食をとっていた。今日はどちらもお弁当だ。
中身は、自分で作ったものではない。
蓋を開けると、和牛のステーキに卵焼き、それから野菜の付け合わせが目に入った。
牛肉はあまり得意ではないけれど、料理長には一度も言っていない。言えば、わがままを通すようで気が引けた。
それに、彼の作る食事はいつも栄養の釣り合いが取れている。ありがたいことだ。
「うわ、おいしそう。シェフに感謝だね」
瑠々が指先に口づけて、そのまま指を開いて前に放ってみせた。こういう仕草が、いつ見ても愉快だ。
「瑠々のもおいしそうね」
「そう? じゃあ焼き魚、いる? 交換しよっか」
「ステーキが狙いでしょう」
「うっ、お見通しかあ」
ちょうどよかった。ステーキを箸でつまんで瑠々のお弁当に移し、代わりに焼き魚をもらう。鮭だ。実に公正な取引である。
「で、気になるバンドって?」
「実は、名前を知らないの」
「なにそれ」
私たちは顔を見合わせた。
そして、そのまま見つめ合った。
「じゃあ、どんなバンドなのか教えてよ」
詳しく知っているのは一人だけなので、ぼかして話すことにした。あまり具体的に話したら、つきまとっていると思われかねない。それに、今度三人でお昼を食べようと馨には言ってある。そのときにでも、バンドの話は出るはずだ。
出てこなければ、なるべく自然に切り出すとしよう。
「女の子だけの四人組で……ボーカルがギターも弾いていたわ」
「ちょっと、それうちのバンドと同じじゃん!」
さすがにぼかしすぎたか。
「……じゃあ、ボーカルの特徴を言ったらいいかしら?」
「『髪が長い』みひゃいなのらったら、お手上げらからね」
瑠々はステーキを頬張ったまま喋っていた。友達になったばかりのころは注意したものだけれど、いつの間にか私のほうが慣れてしまった。
「髪はぼさぼさなのに、それが無造作に決まっているの。嵐の中から出てきたみたいなのに、どうしてあんなに綺麗なのか――」
待って。ぼかすのではなかったの?
瑠々が片眉を上げる。その顔に、じわじわと笑みが広がっていく。
……その笑みの意味は分かる。
馨の名前を出さないでおいて、本当によかった。
「ち、違うの。事実を述べただけよ」
「はいはい、そうですねー。一条さんが人の見た目を褒めるなんて、初めて聞いたけどね」
「誰かに変な誤解をされたら困るの! 私は王女で、生徒会長なのよ」
異性の芸能人が一緒にいただけで騒ぎ立てる、ゴシップサイトと同じだ。私が誰かの容姿を褒めれば、すぐにその人との仲を噂されるに決まっている。
経験があるわけではない。けれど、そうなるのだろうという確信があった。だから誰に対しても、偏りのない接し方を心がけてきた。
瑠々と二人きりだったから、気が緩んだのだろう。
本当にそうだろうか。
単に馨が綺麗すぎるだけではないか。そう囁く声がした。
……うるさい。黙りなさい。
「ところでさ、その子の髪型ってウルフカットだったりする?」
箸を机に置きながら、瑠々が続けた。
「それが何を指しているのか、さっぱり分からないわ」
「まあいいや。なんか、その条件に当てはまるバンドって多いんだよね……」
「難しいかしら」
「大丈夫、一条さんお気に入りの美人さんはちゃんと探しとくから」
瑠々が大げさにウインクしてみせる。
「助かるわ。ただ、もう黙ってくれる?」
「よそのバンドに浮気した罰だよ。なーんてね、冗談、冗談」
両手で顔を覆う私の横で、瑠々は楽しそうに笑い転げていた。
ノートパソコンを抱えて、ベッドに座る。
検索欄に「日本 バンド 女子 四人組」と打ち込んだ。人に見られて困るような言葉は入っていないはずだ。念のため、あとで履歴は消しておこう。
画像はいくらでも出てくるけれど、知らない女性ばかりだった。となると、馨のバンドはインディーズなのだろう。学校での彼女の立ち位置とも合う。人気のあるバンドだったなら、彼女は望まない注目を浴びていたはずだ。私と廊下を歩いているところを見られたとき以上に。
まったく。名前を知りたいだけなのに、どうしてこんなに難しいのだろう。
本人に訊かずに馨のことを知ろうとするだけでも、私にはうまくできない。
屋上での話しぶりからして、たまに一緒にいるところを見られるくらいは構わないように思う。……都合よく受け取りすぎだろうか。
馨はきっと嫌がるだろうけれど、一つ思いついたことがある。埋め合わせは、改めてすればいい。
ナイトテーブルのスマートフォンを手に取り、通話履歴から瑠々の名前をタップする。
画面いっぱいに、瑠々のプロフィール画像が映った。彼女が飼っている、愛らしい猫の写真だ。
ほどなく、瑠々が出た。
「一条さんから電話なんて珍しいね。どうしたの?」
「さっき、嘘をついたの。あのボーカルの子、私は知っているわ」
「へ……はあ?? なんでそんな嘘つくの!」
「お昼にあんなことになった後じゃ……言い出しにくくて。分かるでしょう」
「……一条さん、ほんとにそのバンドのファンになっちゃったんだ」
声はしょんぼりしていたけれど、ふざけているだけなのは分かっていた。
「そのギターの子、そんなに美人なの? わたしよりギター上手い?」
ギターの腕については何とも言えない。最初の質問は、肯定しても否定しても具合が悪い。
「ねえ瑠々。明日、その子に会ってみない?」




