第八話 雲とわたしたち
誇れるような取り柄は多くない。それでも、私が引き継いでからの生徒会がうまく機能していることは、いつも誇りに思っていた。
新入生のオリエンテーションまであと一週間。各部との調整は、ほぼ終わっていた。残っているのは、準備に人手が必要になりそうな部へメンバーを振り分けることくらいだ。
もっとも、すべてが私の手柄というわけではない。副会長も相応の働きをしている。そういえば、夕方に皆が持ち場へ散ってから美結の姿を見ていない。
もう五時を回っている。
何にこんなに時間がかかっているのだろう。
下校のチャイムも鳴ってしまった。探しに行ったほうがよさそうだ。
机の上のリモコンを取り、戸棚が動き終わるのを待つ。テレビにすべてのカメラ映像が並んだところで、美結の姿はないかと一つずつ目で追っていった。
ほどなくして、廊下を歩く彼女が見つかった。ずいぶん……身なりが乱れている。ただ、表情も姿勢もいつもどおりだったので、少なくとも怪我はしていないのだろう。戻ってきたら訊けばいい。
テレビを消そうとしたとき、あるものが目に留まった。
胃が締めつけられるのを感じた。
テレビを消してリモコンを放り投げ、私は足早に屋上へ向かった。
馨はこちらに背を向けて、いつもの場所に立っていた。歩み寄りながら頭上に目をやる。防犯カメラは、相変わらず同じ方向を向いていた。
あれは後で何とかしよう。
私は足早に近づいて、名前を呼ぼうとした。
「丸山さ――」
途中で気づいて、口をつぐんだ。
危なかった。また馨を怒らせてしまうところだった。名字で呼ぶことに慣れていたけれど、彼女が嫌がるのなら改めるべきだ。
もっとも、下の名前で呼ぶのは少し落ち着かないけれど。
「……馨さん?」
返事はなかった。手すりに上体を預けたまま、彼女は遠くを見続けている。ほつれた髪が、風に揺れていた。
カメラに映っていることが、どうしても気にかかった。二人でいるところを教師に見られたらまずい。馨に罰点が付くことにでもなれば、なおさらだ。それに、また映像を消す手間をかけたくもない。
馨が黙ったままなので、私は別の手を考えた。
「こっちに来て。死角になる場所があるの」
その手を取って、そっと引っ張っていく。彼女が小さく唸り、何か不満げに呟くのが聞こえた。
屋上の出入口は、四角い小屋のような造りになっている。私たちはその裏手に回っただけだ。
馨は自分から歩こうとしなかったので、裏手まで連れていくのにいくらか手間がかかった。見たところ、ここまで足を運ぶ人間はまずいないようだった。
「誰も来ないから、カメラも一台きりなのね」
誰に言うでもなく、声に出してみた。
返ってきたのは、穏やかな風だけだった。
視線を落とすと、自分の手がまだ馨の手を握ったままだと気づいた。
離すべきなのだろう。
だが、隣の彼女は何も言わなかった。
何かがひどく危ういところで釣り合っている気がした。それが何なのかは、私にも分からない。
ただ、それを自分から壊したくはなかった。
だから私は、手を握ったままでいた。
変わった形の雲が目に留まった。頭上をゆっくり流れていくのを、そのまま目で追う。ずいぶん遠くまで流れたころ、馨がようやく口を開いた。
「疲れる」
「何が?」
「全部」
どういう意味なのか、私には分からなかった。
訊いてみると、彼女はため息をついただけだった。
「体を丸めて、目を閉じていたい」
「ここ、すごく汚れているわ。よければ私に寄りかかって」
変なものでも見るような顔で、馨がこちらを見た。
「たとえの話」
「あら、そう」
彼女が何を考えているのかは、やはり分からない。当然ではある。知り合ってから、まだ一週間かそこらなのだから。
それでも、どこかで自分に落胆していた。
もっとも、考え込んでいる余裕はなかった。馨が私の申し出に乗ることにしたらしい。
彼女は後ろから、私にもたれかかってきた。重さがかかりすぎないように体を預けてくれたので、思っていたよりずっと楽な体勢になった。
頭が私の左肩に乗っている。シャンプーだろうか、果物のような甘い匂いがふわりと漂ってくる。
そして温かい息が耳をかすめ、背筋が震えた。
「この体勢、最悪。手をどこに置けばいいのか分からない」
耳元で、馨が不満げに呟いた。
頭がぼんやりしてくる。
「私に抱きついてもいいのよ」
考えもせずに口にした提案は、考える間もなく切り捨てられた。
「うわ、無理」
「そんなに私が嫌いなの?」
「人に抱きつくのが嫌なの。あんたはちょっと鬱陶しいだけ」
その言い方は、なぜか私を安心させようとしているように聞こえた。
笑えばいいのか、抗議すればいいのか分からなかった。
彼女の言葉と行動は、いつも噛み合わない。実際のところ、頭の中では何が起きているのだろう。こういうとき、もっと彼女のことを知っていればと思う。
「鬱陶しいと言えば、今日あんたのとこの副会長とやり合った」
「やり……え、なんですって!?」
美結と馨に接点はないはずだ。少なくとも私の知るかぎりでは。そもそも、どうやって知り合ったのだろう。二人の共通点など、何一つ思いつかない。
「そういえば、さっきカメラで美結を見かけたわ。ずいぶん服装が乱れていたけれど」
「ああ、それわたし。話がこじれて、ちょっと手が出た」
……え?
馨は何を言っているのだろう。まさか二人が……
勢いよく振り返って彼女と向き合う。私の顔を見て、何を考えているか察したらしい。馨の目がすっと細くなった。
「そういうのじゃない。制服を掴んだだけ」
「それ、かえって変な想像をしてしまうのだけど」
「あんたが変態なだけでしょ、一条さん」
肩を軽く小突くと、彼女が鼻で笑った。大体のことは言われても許せるが、変態呼ばわりだけは話が別だ。
そもそも王女としての評判に関わるのだから、何を言われても許すべきではないのかもしれない。
それでも、この人のことは許してしまうのだろうという確信があった。
「で、あんたの口利きで入学したんだろって言われた」
彼女は私の腕に手を添えて、体の向きを元に戻した。そしてまた、私にもたれかかってくる。
「どうしてそんなことを……? 私たちが知り合ったのは、つい最近なのに」
背中越しに、馨が不服そうに肩をすくめるのが伝わってきた。
「全部あんたのせい。話しかけられてから、穏やかに過ごせた日がない」
「じゃあ、私のことが嫌いでしょうね」
どこから始まったのだろう。
以前は馨のせいだと思っていた。だが振り返れば、そうではない。あのとき屋上で見て見ぬふりをしていれば、何ひとつ起きなかったのだ。
だがもし屋上で何かが起きていたら、事はもっと重大だった。生徒会の人間として止めに入らなかった私に、やはり責任があったはずだ。
自分の評判などどうでもよかった。ただ、止められたはずの出来事を止めなかったと知りながら、平気でいられるとは思えない。
考えなければならないことが多すぎる。
正しい選択というのは、どうしていつもこんなに難しいのだろう。
「いつも迷惑をかけて、ごめんなさい」
「大げさに言った」
耳元に、息のような声が触れた。
「あんたは自分の仕事をしただけ」
何か言おうとしたが、喉の奥が詰まった。
体がわずかに震えたからか、それとも小さく漏れた声のせいか。
どちらにせよ、馨の手が肩にかかって私を振り向かせた。
「泣くとか、ずるいでしょ。泣きたいのはわたしのほうなんだけど。わたしは泣いてないよ」
そう言いながらも、彼女の口元には小さな笑みが浮かんでいた。
私はもう一度、謝ることしかできなかった。
「同情されるのは、もううんざり」
「そんなふうに言わないで」
「不良として扱って」
「どうして自分をひどく扱わせたがるの? 分からないし、分かりたいとも思えない」
馨と目が合った。それでいて、私の向こう側を見ているような気がした。
「そのほうが楽だから」
もう一度訊いても、返ってくるのは沈黙だろう。彼女の曖昧さが、私は苦手だった。事情を知っている分、勝手に想像を膨らませてしまうからだ。
「楽なほうを選べばいいというものではないわ」
彼女の手を振り払う。
目の前の彼女は、これまで見たことのない表情を浮かべた。どう受け取ればいいのか分からなかった。
「馨さん……気に入らなくても、私たちはもう前より互いを知っているの」
「だから?」
「だから、この学校生活を一緒に乗り切りましょう」
風が強くなってきていた。馨の髪をまとめて乱し、目元が半分隠れてしまうほどだ。私は髪を下ろしていないので、彼女のように風で格好をつけることはできない。
「それ、本気で言ってる?」
「ええ、もちろん」
「あんたはそんなの望んでない」
「望んでいるわ」
「勝手すぎる」
「私の望みを勝手に決めるあなたのほうが、よほど意地悪よ。これで満足?」
いつもの馨なら、こう言い返されるのを面白がったはずだ。だが今、その顔に浮かぶのは迷いだけだった。
「そんなの無理でしょ。わたしたちが……」
「友達に?」
「違う……その呼び方、鳥肌が立つ」
「そう呼ばなくてもいいわ。でも、他人でないくらいにはなれるでしょう」
彼女は何か言いかけて、思い直したようだった。
「分かった。でも必要なとき以外は近づかないから。あんたに媚びてるって言われるのは、もうたくさん」
「関わるときは美結よりは丁重に、瑠々よりは雑に扱うと約束するわ」
「誰?」
そうだった。馨は瑠々にまだ会っていない。
「ああ、今は気にしないで」
「余計気になるんだけど」
「今度、一緒にお昼を食べない? 瑠々を紹介するわ」
「それ、必要ある?」
「実はね、あなたたちには共通点があるのよ」
バンドのこと。それから……それくらいだろうか。
馨は納得していない様子だった。この学校に彼女の友人がいるとして、見かけた覚えはない。さっきの言葉から考えるに、そもそも友人を作る気がないのだろうと思えた。
陽が沈みかけていた。
時間というのは、こんなに早く過ぎるものだっただろうか。
「そろそろ帰りましょう。学校が閉まってしまうわ」
馨と私は、屋上の出入口へ向かった。カメラには、画面に急に現れる私たちが映っているはずだ。死角に入ったところで、結局は映像に手を加えなければならない。
それも苦ではなかった。
相棒のようなもの……いや、共犯者とでもいうべきか。
「美結よりわたしと一緒にいる時間が長いなんて、傍から見たら意味不明でしょ?」
「ずっとそんなことを考えていたの?」
「考えたくて考えてるわけじゃないよ、あいつのことなんて」
美結をどう思っているかは、火を見るより明らかだった。
「でも、あんたがわたしを友達扱いしたら、あいつは余計に苛立つだろうね。だったら、コネ扱いされるくらいは我慢してもいい」
「友達という言葉に慣れてもらえるなら、何でもいいわ」
「調子に乗らないでよ」
めったに見られない馨の拗ねる姿に、私は笑いをこらえきれなかった。
雲は流れていく。私たちも、少しずつ動いていた。




