↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/15

第七話 疲れる

 王家の車でアパートまで送られたときのことは、よく覚えている。降りるなり近所の人たちが噂しはじめ、周りに集まってきたこと。向けられた視線が、ひどく煩わしかったこと。


 危ないからと、華(はな)姫(き)が車で帰るよう譲らなかったのだ。


 あれだけのことを聞かされたあとで、どうやって断れというんだろう。愛想よくしなければという義務感があった。もっとも、どちらでも彼女は気にしなかった気もする。優しくされているのは、わたしの事情を知っているからだ。ただの生徒だったとしたら、同じように扱ってくれただろうか。


 エレベーターホールに着いたところで、バンドのピアノ担当の史恵《ふみえ》と鉢合わせた。黒塗りの車から降りたわたしと、そのドアを閉める運転手を見て、彼女の目が丸くなる。


「馨(きょう)! え、ちょ……宝くじでも当たった?」


 前髪を振り乱しながら駆け寄ってきて、両肩を掴まれた。


「そんなのにお金使うわけないでしょ」


 振り払って、エレベーターホールへ歩き出す。


 彼女は小走りで追いかけてきて、隣に並んだ。


「そんなに悪いものでもないよ。侑子なんて一回百万円当てて、全部ドラムセットに突っ込んだし……」


 その声は、あまり耳に入ってこなかった。


 あの夕方、華姫と話をしたあと、自分が何をどう感じているのか分からなかった。


 それが嫌だった。


 だが、その正体を探ろうとしたら、もっと嫌になる気がした。


 藪はつつかないほうがいい。


 エレベーターのボタンを乱暴に押す。それだけで、史恵にはわたしの落ち込みようが伝わったらしい。頬を指でつつかれた。


「ごめん、今はちょっと一人にさせて」


 約束したのだから、そう簡単に破るわけにはいかない。


「そっか。じゃあ詩《し》保理《ほり》と侑子《ゆうこ》には、帰ってきたら言っとくね」


「二人はどこ行ったの」


「バンドバトルの登録に行ってる。来週でしょ、覚えてる?」


「来週か。じゃあ練習しないと」


 隣でエレベーターを待ちながら、史恵が同意するように小さく声を漏らした。




 しばらく弾いているうちに、指が痛みはじめた。ギターをスタンドに戻し、ベッドまで歩いてうつ伏せに倒れ込む。息が苦しくなるまで、そのままでいた。


 仰向けになって、左腕を見つめる。


 これのせいで、学校ではいつもインナーを着ていた。


 ……あそこなら見えない。そう、そんなに目立たないはずだ。わたしは引き出しから、あるものを取り出した。


 ……


 ……


 椅子には学校の鞄が置いてあった。


 問題集には一切手をつけていない。というより、もはや取り組むつもりもない。出さなかったのは初めてではない。だから口頭注意だけでは済まず、明日の放課後は居残りになるはずだ。


 あるいは昼休みに教室に残って、問題集を片づけてもいい。昼休み前の授業の課題だから、どちらにしても教室に残ることになる。ただ、しばらく屋上には行きたくなかった。罰点の脅しは、自分で思っていたよりずっと堪えていた。退学にでもなったら、面倒どころの話ではない。


 そのとき華姫はどんな反応をするんだろう。


 どうであれ、わたしには関係ない。




 中学と違って、居残りの生徒を見張る教師は教室にいなかった。苦手な歴史以上に、美術史には手も足も出ない。問題集を睨んでも、何を問われているのかさえ分からない。


 教室にはもう一人いたが、机に突っ伏してたぶん眠りこけている。


 頭を絞って、誰か助けを求められる相手がいないか考えた。


 名前だけでなく中身まで知っている人間は、一人しか浮かばなかった。


 はっきり覚えている。一年生のころ、大きな試験のたびに生徒たちは職員室前の掲示板に群がっていた。わたしもその中に立っていたが、他の生徒のように首を伸ばして順位表を読むことはしなかった。


 自分がどれだけ勉強したかは、自分が一番よく分かっている。


 ただ興味本位で、学年の上位三人だけはいつも見ていた。


 そこには必ず同じ名前があって、何度も見るうちに覚えてしまった。


 華姫の順位は安定していた。常に一位というわけではないが、必ず三位以内には入っていた。一年生が終わるころ、王女が理系に進むことに驚く人間は一人もいなかった。


 わたしは文系なので、仮に頼める状況だったとしても彼女には訊けない。


「何かお困りですか?」


 落ち着いた声に思考を遮られて、わたしは顔を上げた。


 知らない女子だった。


 だからわたしは、誰でもそうするように黙ってその顔を見つめた。


 彼女は笑みを返してきた。


「あら、失礼しました。私は中里《なかざと》美結《みゆ》。生徒会の副会長です」


「……何の用?」


「教室の前を通りかかったら、問題集を開いたままぼんやりしている方がいたので、声をかけてみようと思いまして」


 どう考えても怪しい話だった。だが、問題集は相変わらずわたしを嘲笑っている。

 だから、深く考えないことにした。


「あんたも文系?」


「ええ」


「じゃあ、ここ。何を問われてるのか分からない」


 問題集を副会長のほうへ押しやる。周りの席は空いていたので、彼女が椅子を持ってくるのを待った。


 彼女はそうしなかった。


 代わりに、身をかがめて問題集の中身を覗き込んだ。その拍子に、わたしの目は彼女の豊かな……


 美結が副会長なら華姫と同じ二年生のはずだが、同学年でここまで違うのか。


「これは、この作品がどの様式や流派に属するかを尋ねているんです。印象派、キュビスム、ルネサンス……そういった類のものです」


 美結の説明を聞きながら、わたしは要点を書き留めた。見当がついたので、あとは自分で埋められるはずだ。


「他にご質問は?」


「もういい。ありがと」


 美結がもう一度微笑む。


 だが、その目は笑っていなかった。


「それで、今日は屋上に行かなかったのですね」


「罰点が欲しいやつなんていない」


「その程度で引き下がる方だとは思っていませんでした」


「二人きりになりたかったの? そういう趣味があるなんて知らなかった」


 例の忌々しい笑みを浮かべたまま、副会長は左手をわたしの椅子の背に伸ばし、右手を机に置いた。そしてもう一度、身を乗り出してくる。


 目の前に、彼女の顔があった。


「あなた、かなり危ういことをしていますよ」


「規則は破ってない」


「問題なのは態度です。貴族のための学校に無理やり入り込んだのなら、それらしく振る舞ったらどうですか?」


 本来なら腹が立つ言葉のはずだが、視線がまた胸のほうへ行ってしまって、真面目に聞く気になれなかった。


「あんたも気取った貴族の一人ってわけ?」


「だったら何だって言うの!」


 歯を食いしばって出てきた声は、さっきまでとはまるで違っていた。その落差は、なかなか見ものだった。


 美結の物腰からして、わたしが忌み嫌う階級の人間であることは疑いようがない。だが今、あの連中に感じていたはずの傲慢さが、彼女からは感じられなかった。その代わりに目の前の副会長は、何かを抑え込んでいるようだった。


 華姫も似たようなところがある。二人しか見ていないので断言はできない。ただ、前にも生徒会室で同じことを考えた覚えがある。あの部屋の空気には、やはり何かあるらしい。


「また平民に戻るくらいなら、気取った貴族でいるほうがよほどいいです」


「……また?」


「この場所に立つために、私は地獄を味わってきました。でもあなたは……王女に便宜を図ってもらって入学したのでしょう?」


「何が言いたいの?」


「あなたたち二人が親しくしているのに、私が気づいていないとでも?」


「頼んだわけじゃない。向こうが勝手に首を突っ込んできただけ」


「ずいぶん恵まれた話ですね」


「そうだね。孤児にでもなれば、あんたの人生もずっと楽になるよ」


「……何ですって?」


 人にもそれぞれの苦労がある。だが今はどうでもいい。腹が立つのは、自分の力で掴んだものを、誰かのコネのおかげだと決めつけられているからだ。


「母さんは死んだ。この学校を受けたのは、母さんがそう望んでたからだよ。受かったのに、喜ぶことすらできない。どこかの鬱陶しい副会長が、裏から手を回したなんて決めつけるせいで!」


 左の拳を机に叩きつけると、美結がびくりと身を引いた。視界の端で、クラスメイトが目を覚ましかけているのが見えた。


 まあ、今さらどうでもいい。


 手を伸ばして副会長の両肩を掴み、荒々しくこちらへ引き寄せた。彼女の足がもつれて、結果としてわたしが制服のシャツごと引き上げる形になった。


「言っておくけど、わたしは自分の力で入った。あんたの事情を、わたしに押しつけるな」


 美結は最初、見下したような顔をしていた。だが図星を突かれたらしく、その表情が揺らいだ。


「人に手を上げれば退学になりますよ。それくらいご存じでしょう?」


 誰だって知っている。


 生徒会室での一件が頭をよぎった。


 あの日、華姫はどうして何も言わなかったんだろう。


「……そうですね、決めつけたのはやりすぎでした。ですから、これで貸し借りなしにしましょう。言いつけたりはしません。その代わり、あなたも私の醜態を黙っていてください」


 思いがけない提案だった。選択の余地はなかった。わたしはため息をついて、制服を掴む手を少し緩めた。


 彼女がわたしの腕を掴もうとしたので、何も言わずに手を離した。美結はそのまま勢いよく机に手をついた。問題集が重い音を立てて床に落ち、筆記用具が散らばった。ここでようやく、クラスメイトが目を覚ました。迷惑そうな顔でこちらを見る。


「うるさいんだけど」


 わたしが片手を上げて謝るあいだに、美結がゆっくりと立ち上がった。彼女は貴族らしからぬ言葉を吐き捨て、乱れたスカートを直しはじめる。制服を整えようとしていたが、あれだけ乱暴に引かれたせいで、肩のあたりがすっかり伸びていた。


「最悪、これじゃ――」


 わたしが睨むと、彼女はその先を言わないことにしたらしい。彼女はしばらく制服を直そうとしていた。だがほどなくチャイムが鳴り、どれだけ手を尽くしても間に合わず、副会長はくしゃくしゃの制服のまま教室を出ていった。


 ……疲れた。


 何もかもが、ただ疲れる。


 誰もがわたしを舐めてくるのに、うんざりしていた。


 どうして王女は、わたしなんかと関わろうとするんだろう。


 椅子も机も動いたまま、問題集と筆記用具は床に散らばっている。盗まれたところで買い直せるものばかりだ。わたしは全部そこに置いていくことにした。


 そして気がついたときには、見慣れた扉の前に立っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。