第六話 華姫
ソファは十分に広いのに、私は馨のすぐ隣に座っていた。
いつの間にか、私は彼女といることに抵抗を感じなくなっていた。瑠々の隣に座るときと同じだ。
馨を友人だと思っているということだろうか。
理屈っぽく説明するなら、こうだ。私は褒められない手段で彼女のことを知りすぎてしまった。だから頭のほうが、もう親しい相手なのだと勘違いしている。
当然ながら、馨は私についてほとんど何も知らない。そのため、彼女が距離を取ろうとするのは当然だろう。そう思っていたのに、彼女は少しも動かなかった。嫌がられるか、離れていかれるものだと覚悟していた。それなのに、彼女は座ったときのまま動かない。
彼女はじっと床を見つめている。
私の振る舞いに戸惑っているのだろうか。人が思いがけない動きをすると固まってしまう、野生の動物のようだ。
「そうだわ! 私のことを話すんだったわね。……どこから始めたものかしら。思ったより難しいものね」
沈黙を破ることにした。そもそも、そのために二人でこの部屋にいるのだ。ただ、そこへ至る流れが何もないまま切り出したせいで、自分にだけ照明が当たっているような気分になった。
「わたしもそう思ってたところ」
馨はそう呟いて、何か考え込んでいる様子だった。私のことをここまで知ろうとするのは、友人になりたいからだと考えてもいいのだろうか。もっとも、私自身が彼女を友人と呼べるかどうかも怪しい。打ち解けている時間といえば、せいぜい全体の三割くらいのものだ。それを普通の友人関係とは言わないだろう。
あの副会長の美結でさえ、まだいくぶん私に親しげだった。
結局のところ、馨は貸し借りなしにしたいだけなのだ。それが何を意味するにせよ。だから勝手な推測はやめて、その都度応じていけばいい。
「気になっていることを、そのまま訊いてくれない? そのほうがお互い楽でしょう」
「わたしもそう思う」
「よかった。では、どうぞ」
「そうだな……」
馨が座り直した。楽な体勢を探しているのだろう。それでも彼女は、私から離れようとはしなかった。
相手が離れていかないというだけで嬉しくなるとは、私はよほど自分に自信がないらしい。
そこにばかり気を取られるのは、そろそろやめたほうがいい。
「まだ二年生なのに、どうして生徒会長になれたの」
「中学でも生徒会長をしていたの。それで先生方が、経験は十分だと判断して学校に推薦してくださったのよ」
「でも投票はあったよね」
馨はわずかに眉をひそめて、不満を表した。
「あの日、投票のために並ばされて昼休みが潰れたんだ」
「候補に挙がった時点で、結果は決まっていたようなものよ。仕組まれていたと言われても、否定はできないわね」
「うげ」
彼女は呻くように言った。
「これが漏れたら、私の評判も立場も何もかも終わりよ。だから誰にも言わないでちょうだいね」
さすがに大げさだった。ただ、真剣に受け取ってほしかった。
「あんたと違って、わたしは言いつけたりなんかしない」
馨が鼻で笑い、私は顔をしかめた。
「それに、そっちだってわたしの弱みを握ってるじゃん」
「敵同士でいる必要はないでしょう。私はこうして、何でもない世間話みたいに自分から話しているのよ」
「わたしに同情してるから?」
同情がないとは言えなかった。ただ、私は馨ときちんと話をしてみたいとも思っていた。どうして質問を受ける気になったのか、どうして包み隠さず答えているのか、自分でもわからない。見るかぎり、彼女は私の身分などまるで気にする様子もなかった。
それどころか、私にずいぶん意地の悪いことを言う。体裁を取り繕う必要もないし、腫れ物に触るような扱いも受けない。それが心地よかった。
そう思えるような相手は、瑠々のほかにいなかった。
あの二人に共通点があるというのが、なんだかおかしかった。
「同情はやめて。そういうの、嫌いなんだ」
馨の声が少し尖ったので、私は考えごとから引き戻された。
「ああ、ごめんなさい」
「ほら、また!」
「な……礼儀を尽くしているだけよ! そういう人間なの!」
私がもどかしさに手を振り上げると、馨がその言い方を下手にまねてみせた。
「はいはい。じゃあ次」
「ええ、どうぞ」
彼女は口を開きかけて、また閉じた。訊き方を考えているようだった。
「なんて言えばいいのかな……王女って、普段何してるの?」
「公務のこと?」
「だって、あんたの親はこの国を治めてる人でしょ。ちゃんとしろっていう重圧、相当なんじゃないの?」
「決められた振る舞いをすること、良い成績を取ること。それは確かに求められているわ。でも趣味や習い事については、両親は思ったよりうるさく言わないの」
「へえ、意外」
「両親がそこまで寛大な理由なのだけど……」
瞬きをした拍子に何かを思い出しかけて、私はそれを振り払った。
「高校を卒業したら、私は有力な家の跡取りと結婚することになっているの」
馨は私の告白に呆然としていた。
「今どき、娘を売るってこと?」
「いいえ、無理やりではないわ。決められた縁談というだけよ。両家にとって利益になるの。資産とか、事業とか。テレビのドラマにあるような話ね」
「……あんたは、それを望んでるの?」
彼女はゆっくりとそう言った。口元に、かすかな優しさが残っていた。
痛いところを突かれた。今まで真剣に考えたことがなかった。だが馨に正面から尋ねられて、私は認めざるを得なくなった。本当は望んでいない。ただ、他にましな道がないだけなのだと。
私には、成し遂げたい目標も夢もなかった。
だが、周りの人間にはそれがある。
バンドを持つ馨にも。
あてもなくさまよっているのは私だけだ。そう気づいた瞬間、これまでにないほどの孤独が押し寄せてきた。
王女という肩書きを持って生まれた以上、私は常に人目に晒されている。王女とはこうあるべきだという世間の期待に背けば、一族の名に傷がつく。
それだけは避けたい。
そのためには、卒業と同時に嫁いでしまうのが早い。そうすれば、誰も私に何かを成し遂げることなど期待しなくなる。ただ……夫となる誰かを支えること以外は。
自分で気づいてしまったことの重さに、思わず全部を口走りそうになった。だが馨には、彼女自身が抱えているものがある。
そこに私の事情まで背負わせることはない。私は最後のところで自分を抑えた。
「いいえ。本当は望んでいないわ。でも、他に道がないの」
怒りと悲しみが一度に押し寄せてきた。こんな家に生まれたいと願ったわけではない。それに、どうして私は他の人のように打ち込めるものを見つけられなかったのだろう。私には手の届かないものを、どうして皆は当たり前のように見つけられるのだろう。実家はさまざまな趣味や進路を試させるために、惜しみなく費用をかけてくれた。それでも私の手には、何ひとつ残らなかった。
気がつくと、涙がひとしずく、スカートに落ちて染みを作っていた。
「でも、無理やりの結婚じゃないんでしょ? 本当に好きな相手を探すって選択肢もあるはずだけど」
馨の声には、何か引っかかるものがあった。それが何なのかは、私にはわからない。彼女は私のスカートを見つめていたが、やがてためらいながらも顔を上げ、涙で濡れた私の目を見た。それから、無理やりやらされているような手つきで恐る恐る手を伸ばし、私の肩をぎこちなく何度か叩いてみせた。
どの動作も、見ていられないほど不器用だった。
それでも、愛おしいと思ってしまった。
「好きな相手が見つかるなんて、到底思えないわ。それに王家の承認も必要なの。何かしら家のためになる相手でなければ」
「へえ。ずいぶん……打算的な家族だね」
けなしているのに、それでも私に気を遣って言葉を選ぼうとしている。それがおかしくて、私は小さく笑った。彼女にも優しいところがあるのかもしれない。特に、目の前で誰かが泣いているときには。
だったら、彼女の前でもっと泣いてみようかしら。
「自分の将来のことは、あまり深く考えたくないの。だから……」
私の中には、溢れ出しそうになっているものがもうひとつあった。これ以上考え続ければ、自分が自分でなくなってしまうかもしれない。だが馨が返してくれる小さな反応が、ほんのわずかな間だけ、それを忘れさせてくれた。
「もういい。十分聞いた」
彼女はため息をついた。
「今の話、誰にもしてないでしょ?」
「ええ、誰にも」
「じゃあ、これで貸し借りなしだ」
それきり、私たちはまた黙り込んだ。すっかり重い空気になってしまったけれど、次に何を続ければいいのかわからない。何か別の話をしたかった。本当に何でもよかったのに、何も浮かんでこない。
困り果てて、私は隣の彼女に目をやった。
改めて眺めてみると、馨の横顔はとても綺麗だった。正面から見ても綺麗なのだろうけれど、彼女はいつも視線を逸らしてしまうので、確かめようがなかった。
「ねえ、どうしていつも目を合わせないの?」
彼女は前を向いたままだった。
「目は心の窓だとか、どこかで見たから。人に心の中を読まれたくない」
「そんなこと、本当にあるのかしら」
訊きながら、私はソファから立ち上がって馨の前に回り込んだ。それから、彼女と目の高さが合うまで身をかがめた。
彼女の目が見開かれる。そして案の定、すぐに顔を背けた。
だが、そうすることは予想がついていた。
だから私は両手を伸ばして彼女の頭を押さえ、まっすぐにその目を覗き込んだ。
「あなたの説が正しいのか、確かめたいの」
「うっ」
馨の視線があちこちに泳ぐので、私は顔と顔が向き合うまで距離を詰めた。こうすれば、どこを見ようと私の顔から逃げられない。
観念したように、彼女の視線が私に戻ってきた。そのまま何秒かが過ぎる。私は彼女が今何を考えているのか、真剣に読み取ろうとしていた。そうしているうちに手のひらから熱が伝わってきて、私は驚いて顔から手を離した。
そのとき、あるものが目に入った。
彼女の耳が、真っ赤になっていた。
……
馨にも、こういうところがあるのね。
「もういい?」
彼女に押しのけられたけれど、力はまるでこもっていなかった。私は小さく笑って、また隣に腰を下ろした。馨はソファに深く背を預けている。今のやりとりで疲れたのだろう。私のほうも気が抜けて、同じように疲れていた。
少しこのまま休みたい。
私たちは二人きりで、ソファに座っていた。この部屋に入ってからどれだけ経ったのかはわからないけれど、そんなことどうでもよかった 。馨がくつろいでいるところを見るに、門限はないのだろう。その点は心配しなくてよさそうだ。
「……もし、好きな相手が見つかったとして」
唐突だった。
「それがどうしたの?」
私は身を起こした。
「もしそうなったら、その人と駆け落ちする?」
今度は、馨のほうから目を合わせてきた。
そのため私は、真剣に考えた。
じっと見つめられたまま考えられる、精一杯の真剣さで。
これから先をずっと一緒に過ごしたいと思える相手が現れたとして、私に家族を捨てる覚悟があるだろうか。確かにあの人たちは、家の力を大きくすることばかり考えている。それでも、私の家族だ。長年仕えてくれている使用人たちとともに、私を愛し、大切に育ててくれた。
父と母と兄を置いて、別の人生を選ぶ……
縁を切るわけではない。それでも、考えるだけで胸が痛んだ。最後まで選び切る覚悟が、自分にあるとは思えなかった。
「正直に言うと、わからないわ」
考えすぎて疲れてしまい、私はまたソファに背を預けた。
馨も同じように背を預けた。
腕が触れ合っていた。それならと、私は彼女の肩に頭を預けた。彼女が強張るのがわかったけれど、深く息を何度か吐くうちに力が抜けて、居心地の悪さも消えていった。
「そっか」
それきり、どちらも言葉を発しなかった。




