第五話 ずるい
観客の熱気は、はっきりと肌で感じられるほどだった。
演奏しているのは、出したばかりの最新アルバムの曲だ。この人たちのほとんどはわたしたちのことなんて知らないはずなのに、どうやら何か刺さるものがあったらしい。
わたしは声を振り絞って歌い、指はフレットボードの上を駆け回った。メンバーたちも思いきり鳴らしている。ドラムの侑子は、一切ぶれない正確さで叩き続けていた。ドラムは他のメンバーにとってのメトロノームでもある。それゆえに、彼女の役割は大きい。
観客が手拍子を打つなかで、これ以上ないほど生きている実感を得ていた。メンバーたちも同じだっただろう。
残念だが、何事にも終わりは来るものだ。
曲が終わると、観客から歓声が上がった。その反応に高揚したまま、わたしは手を振ってみた。ぱらぱらと振り返してくれる人もいる。悪くない気分だ。
「聴いてくれてありがとう! これからも応援よろしく!」
舞台裏に引き上げようとしたそのとき、観客の一人と目が合った。
その人はこちらに手を振っていた。マスクをつけていたけれど、あの眼鏡には見覚えがあった。
「……一条さん?」
わたしは振っていた手を止めた。あの王女さまが、こんなモールで何をしているんだろう。上流階級の人間が休日に何をするのかなんて知らないけれど、こんな場所にいるとは思わなかった。わたしをつけてきた可能性もある。だが、あの立場の人間には土曜日にもっとやることがあるはずだ。
バンドをやっていること自体は別に隠していない。ただ、ステージの上と普段とでは我ながら別人だと思う。それに生徒会室であんなことがあってから、華姫にどう接すればいいのか自分でもわからなくなっていた。
そのうえバンドのことまで知られてしまったことが、どうしようもなく腹立たしかった。
何もかもが一方的だった。向こうはわたしのことを勝手に知っていくのに、こっちは肩書きくらいしか知らない。それが我慢ならなかった。人の生活を覗き回るなら、こっちにも同じことをする権利があるはずだ。
それでこそ、貸し借りなしだろう。
月曜日は、あっという間に来てしまった。華姫を問い詰めようと心を決めたはずなのに、いざその機会が来ると迷いが顔を出した。
あのとき感じた怒りは、もう収まっていた。
また屋上に上がれば、彼女も必ず追ってくるはずだ。あるいは誰かを寄越して、わたしを追い払わせるか。
悩ましい。実に悩ましい。
昼休みまで残り七分ほど。それまでに決めなければならない。あまりに面倒で、いっそ席に座ったままでいようかとも思った。だがわたしの席は人気者の男子の隣で、いつもどおり騒がしくなるに決まっている。結局、別の手を考えたほうがまだよかった。
チャイムが鳴るまで、わたしは考え続けた。
「あんたのこと、話して」
「え?」
わたしたちはまた生徒会室にいて、彼女はテレビのリモコンをいじっているところだった。前回と同じく、他のメンバーはこの部屋から遠ざけられている。華姫は怪訝そうな顔をこちらに向けてから、また画面に目を戻した。わたしはソファに座って、彼女が防犯カメラの設定画面と格闘するのを眺めていた。
「今の話はあとで考えるわ。まず、これを手伝ってちょうだい」
「甘やかされた王女さまは機械に弱いんだ? 意外だな」
「うるさい」
華姫が言い返してくるのは珍しかった。しかもまるで似合わない言葉遣いで。おかしくなって笑うと、彼女はむっとした顔でこちらを見て、リモコンを放り投げてきた。
「礼儀正しさはどこに行ったの、会長さま?」
「先週あんなことがあったのだから、もう取り繕う必要もないでしょう」
「……じゃあ、遠慮なく言わせてもらっていいわけだ」
華姫がこちらを睨みつけてきたので、わたしはまた笑ってソファから腰を上げた。
機嫌を損ねている華姫は、思ったより嫌ではなかった。むしろ少し面白い。
リモコンを操作して録画の一覧を出し、先週の日付と時間帯を選ぶ。案の定、映像にはわたしたち二人が映っていた。
早送りで内容を確かめることもできたが、あれをもう一度見るのはさすがに気まずい。振り返ると、華姫と目が合った。彼女も少し狼狽えている。だからわたしは中身を見ないまま、生徒会室にいた時間帯をまとめて削除した。
リモコンを王女に投げ返す。
「ずいぶん早く解決してしまうのね。やっぱり私は機械に弱いのかもしれないわ」
「別に。運がよかっただけ」
もう少し追い打ちをかけたかったが、彼女が落ち込んでいるように見えたのでやめておいた。仲良くするのは少し気持ち悪かったし、わたしらしくもない。この部屋の空気には何かあるのかもしれない。自分の判断を疑わせるような何かが。
それとも、二人きりだからだろうか。
閉じた空間で、誰の目も届かない。そんな場所にいれば、誰だって少しくらいおかしくなる。少しだけ大胆になって、少しだけ踏み込みたくなる。
「さっきの話、ようやく飲み込めてきたのだけど」
まるでわたしの考えを裏づけるように、華姫が口を開いた。
「どうして私のことを知りたいの?」
「わたしにだって気になることくらいあると思わない?」
王女が目を細めてこちらを見た。昔観ていたアニメのキャラクターを思い出す表情だった。
「……いいえ、そうじゃないでしょう。正直に言いなさい」
「何を?」
「本当は何が目的なの?」
疑われたことに腹を立てかけて、思い出した。人を寄せつけずにきたのは自分だ。誰かのせいにできるような問題ではない。
「あんた、わたしの許可もなく勝手に知りすぎてる」
わたしは吐き捨てるように言った。
「だから貸し借りなしにしてよ。あんたのことを教えて」
「普通のことでいいの?」
「それと、誰にも言ってないことをひとつね」
「なるほど……いいわ」
思ったよりあっさりしていた。もっと疑われるか、うるさく食い下がられるかと思っていたのに、王女はこちらの要求をあっさり呑んだのだ。
華姫が扉のそばの時計を見る。
「昼休みが終わるまであと十五分ね。残りの時間で何か食べて、放課後にまた会うのはどう?」
「生徒会の仕事は? もうすぐオリエンテーションがあるって聞いたけど」
「会合は火曜と木曜と金曜。だから今日は空いているの」
話がまとまってしまった。どういうわけか、わたしは放課後に王女と過ごす約束をしてしまった。王家の人間に会うためだけなら、何を犠牲にしてもいいと考える人間は山ほどいる。またその考えが頭をよぎった。今度ばかりは、少し……
……
今、何を感じているんだろう。
愉快だったのだ。こんな機会を、わたしみたいな人間があっさり掴んでしまったことが。
華姫が誰かの家を訪ねるには、王家の警護班による長い事前調査が必要になる。そのため、わたしが彼女の屋敷を訪ねることになった。わたしは校内を、いつもとは違う経路で彼女について歩いた。
他の生徒はまず知らないであろう通り道だった。生徒会のメンバーが持ち場へ移動しやすいように、そして一般の生徒の邪魔にならないように使われているのだと聞かされた。歩いていると屋根つきの昇降口に出て、そこにはもう黒い車が待っていた。
高価そうなスーツを着た運転手が回り込んできて、わたしたちのために車の扉を開けた。
車が走り出すと、やがて遠くの空を背に大きな屋敷が浮かび上がってきた。運転席との間には仕切りのようなものがあって、二人きりの空間はひどく狭く感じられた。華姫にうるさく言われたため、わたしは髪を整え、制服の乱れを直した。彼女は着ているインナーについても尋ねてきたが、これを脱ぐ気はないと伝えた。
彼女は不思議そうな顔をしたが、それ以上は踏み込んでこなかった。
ほどなく車は鉄製の門を抜け、両側に両側に木々が立ち並ぶ長い私道に入っていった。わたしは最後にもう一度、身なりに問題がないかを確かめた。
車が止まったらすぐ降りるつもりでいたのに、窓の外を木が流れつづける。何より、肝心の建物がまだ見えてこない。住居には見えない小さな建物をいくつか通り過ぎた。ああ、それから湖も通り過ぎたか。
……あれは、天然の湖なんだろうか。
ここまで裕福さを見せつけられると、不気味ですらあった。
しばらくして、ようやく正面玄関に辿り着いた。
わたしは正面玄関までの距離を、完全に見誤っていた。門をくぐってから玄関に着くまでの時間のほうが、学校まで全力疾走したときより長かったくらいだ。
ドアハンドルを掴んで開けようとした瞬間、扉が大きく開いた。執事だろう。乗るときと同じだと、どうして考えなかったのか。開けてもらえるとは思っていなかったので、思わず声が出た。隣で華姫が小さく笑った。
屋敷の扉は、先ほどとは少し違う装いの使用人が二人がかりで開けた。華姫に続いて中に入る。これを家と呼んでいいのかはわからないが、中に入った瞬間に内装のちぐはぐさに度肝を抜かれた。
頭上には巨大なクリスタルのシャンデリアが吊るされているのに、その真下には、素っ気ないほど簡素な生け花が置かれている。床は磨き上げた大理石で、模様が刻まれていた。青海波をもとにした模様だ。
玄関ホールで目についたものを挙げただけで、これだけある。
「ほら、ぼーっとしていないでついてきて」
使用人たちは頭を下げて、広間から出ていった。見ている目はない。見られている気配はない。少なくとも、わたしにわかる範囲では。それでも大人しくしておくことにして、わたしは羊のように華姫の後ろをついていった。
似たような廊下と部屋をいくつも過ぎるうちに、わたしは気を逸らすために頭の中で数を数えはじめた。王女の部屋の扉にたどり着くまで、八分半ほどかかった。この屋敷の途方もない広さがわかる。
「ここが私の部屋よ」
「学校に行くときって、この歩く時間も計算に入れてるわけ?」
「実は部屋の近くに別の出入口があるの。毎日そこに車をつけてもらっているのよ」
「嘘でしょ」
「本当よ……」
「……じゃあ、なんで今あんなに歩いたの?」
「初めて来たのだから、屋敷を案内しようと思ったのよ」
華姫は不服そうだった。
「それなのに、あなたは一言も返事をしてくれなかったじゃない」
言われてよく思い返してみると、確かに王女はずっと何か話していた。ただ、頭の中で数を数えるのは思いのほか難しくて、そちらに気を取られていた。
「ああ、ごめん」
最低限にもほどがある謝罪を受けて、王女はため息をつきながら部屋の扉を開けた。
玄関ホールと似たようなものを想像していたのに、彼女の部屋は意外なほど普通だった。置いてあるものはどれも間違いなく高級品だったが、どこにでもある女子の部屋とそう変わらない。ある一つの家具を除けば。
「驚いた? 七歳になってから、部屋の飾りつけは自分でしていいことになったの」
華姫はなぜか誇らしげだった。
それは自慢になることなんだろうか。だとしたら、わたしはさぞかし立派なものだ。
「なんで部屋のど真ん中にソファがあるの?」
「友人がたまに来るのよ。一緒に勉強するの」
「それ、こんな場所に置いてる説明になってないけど」
「でも友人は、いいねって言ってくれたわ」
友達といるところなんて見たことがない、と言い返しかけて、自分にそれを言う資格がないことに気づいた。だから何も言わずに、そのソファへ腰を下ろした。
七人は座れそうなソファなのに、華姫はわざわざわたしのすぐ隣に座った。場所はいくらでも空いているのに、どうして真横に座るんだろう。
そう思いながらも、わたしは体をずらそうとしなかった。




