第四話 モールの掘り出し物
馨の指が、私の喉に触れていた。
その触れ方は優しくて、そよ風がかすめていくようだった。
体と心が噛み合っていなかった。逃げようと思えばいつでも逃げられた。頭は実際そうしろと叫んでいた。だが喉に馨の指が触れている間、私は魅入られていた。
彼女は瞬きもせずに私の喉を見つめていた――目にしているものに、心を奪われているかのように。その揺るがない視線。彼女が何かにこれほど注意を向けているところを、私は見たことがなかった。
何の前触れもなく、馨は私の喉を撫ではじめた。
初めての感覚に、私は声を漏らすまいとこらえた。自分が何を感じているのか、よくわからなかった。それを確かめたいのかどうかも。何もかもが未知のことだった。
こうなるとわかっていたら、それでも私は馨と一緒にこの部屋に入っただろうか。
恐ろしかったのは、その答えがもう出ていることだった。
「昼休みが終わってしまうわ。教室に戻りましょう」
危ういと感じて、私は彼女の指を掴んだ。馨は夢から覚めたような顔になり、二、三歩後ずさった。その指を掴んだまま、さらに何秒かが過ぎた。
「……そうだね、戻ろう」
待っていた返事が返ってきた。
馨は机まで戻って弁当箱を片づけはじめ、その間に私は急いで襟とリボンタイを直した。すぐそばでは、テレビ画面が防犯カメラの映像を映したままになっていた。生徒会室もこの監視網の例外ではない。だとすれば、数分前に起きたこともおそらく記録されている。天井を見上げると、カメラは都合よくこちらを向いていた。
……まずい。
監視システムの管理は生徒会の役目だから、今この瞬間に部外者が見ているとは思えない。思いたくない。あの映像を誰かが偶然見てしまったら、と考えるだけで恐ろしかった。というより、この十五分ほどの映像をなんとかして消す方法を見つけなければ。
厄介だ。それもかなり。馨も同じことに気づいたらしく、彼女もまたカメラ映像を見つめていた。
「そっちは任せた」
彼女は迷いなくそう言った。
「ごちそうさま」
馨は机の上の弁当箱を二つまとめてから、背を向けて歩き出した。
「まあ、善処するわ」
「してもらわないと困る」
そう言い残して、馨は部屋を出ていった。背を向けられていたので、どんな表情をしていたのかはわからない。ただ、その声に苛立ちがなかったのは驚きだった。彼女もまた、あの映像を誰かに見られることを心配しているのだろうか。
悪いことをしたとは思っていない。
だが私のような立場の人間が相手なら、勝手な憶測を立てたがる者はいくらでも出てくる。それは馨にとっても私にとっても、負えるような危険ではなかった。二人ともそれぞれに築いてきた生活の土台があって、それを壊してしまうのはよくない。そうよね?
……よくないに決まっている。
金曜日だったので、放課後にはいつもの生徒会の会合があった。部屋にはかなりの人数が集まっていて、会議室としては十分に広いはずだが、ひどく窮屈に感じられた。今日これだけの人数がいるのは、新入生を迎えるオリエンテーションの企画と運営を生徒会が担当しているからだ。
「新入生の歓迎行事には、十五名ほどのボランティアが必要になります。それから、各部の発表順や時間を調整する必要がありますので、部ごとに代表者を立てていただきます」
話しているのは副会長の美結だったが、その中身は私の頭に入ってこなかった。気がかりなのは、やはり防犯カメラの映像だった。これだけの人数がいる中では、映像に手を加えることなど到底できない。
月曜日に出直すしかない。
「会長、他に補足はございますか」
「え、ええと……中里さんが説明してくれたとおりです」
上の空で答えてしまい、当の本人から心配そうな視線を向けられた。
私は視線を逸らす。
「では、皆さん取りかかってください」
その一言で、生徒会のメンバーは各部へ散っていった。部屋に残ったのは、美結と私だけだった。彼女は何も言わずに書類を手にソファへ腰かけた。私も気がかりを頭から追い出して、目の前の書類に集中することにした。
美結はハーフアップの編み込みにしていて、亜麻色の髪と合わさると、いかにも貴族の家に生まれた令嬢という風貌だった。耳には小さな真珠のドロップピアスをつけている。副会長という立場にありながら、それ以外に彼女について知っていることはほとんどなかった。共通点といえば、二人とも口数が少ないということくらいだ。だからこそ、美結がいきなり切り込んできたのには驚いた。
「昨日、あの不良の件はいかがでしたか?」
私が任された件のことは、彼女も知っている。ただし馨の個人情報までは伏せられていた。そのほうがいい。また別の誰かが自分の個人情報を見たと知ったら、あの「不良」がどう反応するのか――考えたくもなかった。
「話はしました。それに、不良という言い方は不適切です。彼女にはただ、馴染むまでの時間が必要なだけです」
「あの生徒は会長の警告を無視して、無断で何度も屋上に立ち入っています。他にどう呼べばよいのか、私にはわかりかねます」
美結は、それが揺るぎない事実であるかのように言い切った。
エリートと呼ばれる人たちと関わるのが苦手な理由を、改めて思い出した。彼らは物事の機微を汲まない。手取り足取り教えたところで、掴めるようにはならないのだ。馨の言い分にも、一理あったのかもしれない。
「彼女と話して、少しは理解できたつもりです。思い込みで判断を曇らせるのはやめてください」
「……そうですか」
それから私たちは、別々に書類に目を通しながら残りの時間を過ごした。気詰まりな沈黙は苦にならなかった。王家で育つ間、それが当たり前だったからだ。誰もが、私や兄や両親の機嫌を損ねることを恐れていた。
気がつけばずいぶん時間が経っていて、教師が会議室の扉を開け、片づけて帰るようにと促してきた。私は書類を整理して片づけ、美結も同じようにした。
やがて彼女が、私の机まで歩いてきた。
「本日はお疲れさまでした」
「中里さんもお疲れさまでした」
彼女は何か考え込んでいる様子だった。
「会長職が初めてなのは存じております。ですが、今さら甘くなられては困ります」
「恐怖で従わせるつもりはありません、中里さん」
「それは誤解です、会長」
美結は、こちらに何かを求めるような目を向けてきた。その呼び方が、私に自分の立場を思い出させた。生徒会長とは、そういうものであるべきなのだと。
「学校としては、エリートにふさわしい体裁を保ちたいのです。私たちも、それに沿って振る舞う必要があります」
残念ながら、彼女の言い分は正しかった。私が納得できないのは、その正しさの押しつけ方だ。
そう考えると、やはり馨のことに考えは行き着く。彼女が特待生としてこの学校にいることは知っていたし、それが取り消されるところは見たくなかった。彼女にとっても私にとっても面倒を起こさないためには、彼女の事情を踏まえて一線を守るしかない。防犯カメラの映像という面倒事は、すでに抱えているのだから。
元をたどれば、すべての発端は馨だ。それでも私は、彼女をありふれた不良として扱う気にはなれなかった。先日よけいな面倒を持ち込まれたことについても、恨む気持ちはない。
その理由は、まだ探している最中だった。
土曜日の午後のことだった。
書道の稽古が終わった。家に戻って家庭教師の授業が始まるまでは、二時間ほど自由になる。両親が私たち兄妹のために雇った教師だ。兄の光祐が昼食に付き合ってくれるはずだったが、友人たちとサッカーの練習に行くことにしたらしい。
すっぽかした埋め合わせに、兄は私の好きなマンゴーパフェを買ってくると約束した。だが私はもともと近くのイオンモールに行くつもりだったので、その申し出はあまりありがたいものではなかった。自分で買って、車に戻ってすぐに食べればいい。
私服姿の護衛を連れて、私たちは人混みを縫って歩いた。両親のことは誰もが知っているが、兄と私の顔は、世間には知られていない。学校の人間は、何らかの形で王家と繋がっている。私たちの周囲にいるエリートの子女か、守秘義務契約を交わした職員のどちらかだ。それでも情報が漏れて狙われる危険を避けるため、私たちにはそれぞれ護衛がついていた。
週末ということもあって人混みはひどく、お気に入りの店にたどり着くまでしばらくかかった。タイ料理と創作料理を出す店だ。よく頼むのはトムヤムラーメンで、たまにパッタイも注文する。
店員が注文を取りに来たころ、モールの吹き抜けのほうからかすかな旋律が聞こえてきた。店は吹き抜けから離れているので、音楽は届いても食事の邪魔にはならない。
その加減が心地よかった。
護衛が店員とのやりとりを終えたので、私は椅子に背を預けて力を抜いた。生徒会室での出来事が頭をよぎる。私は慌ててその考えを追い払った。
そういえば……
馨が名字のことで激昂したのをきっかけに、私は自分の護衛の名前を尋ねようと思ったことすらないと気づいた。それが少し後ろめたくなった。警護の人たちはみな感じがよく、この人も自分の務めをきちんと果たしている。ただ彼らは、私たちと結びつけられないよう一定の距離を保っていた。同じ人がずっと付くのではなく交代制になっているのも、そういった理由だ。そのほうが、私たちが誰なのか気づかれにくい。
だから私は、彼女に「B」という名前をつけることにした。
……我ながら、ひどいネーミングセンスだ。
人目のないところに出たら、警護の人たちのことをもう少し知ろうと心に決めた。
ほどなく料理が運ばれてきて、私たちはあまり言葉を交わさずに食べた。会計を済ませて店を出る。さっきのかすかな旋律が、はっきりと聞こえるようになっていた。吹き抜けを覗いてみたいとBに伝えて、私たちはそちらへ向かった。
行ってみると、モールが設営した小さなステージの周りに人だかりができていた。ステージに近いところには椅子が並べられ、それ以外の人たちは見やすい場所を思い思いに陣取っていた。
生演奏はなかなか心地よくて、気がつけば私も頭を揺らしていた。しばらくして、ステージに立っているのが誰なのか見てみたくなり、私は爪先立ちになった。名前がわかれば他の曲も探せるかもしれない。
ドラムを叩く人、キーボードを弾く人、それにギターかベースを持った人がいた。ただバンドのことに詳しくないので、どちらなのかは区別がつかない。そして、ギターを抱えて歌っている人がいた。
私は目を凝らした。
……
嘘でしょ。
歌っているのは馨だった。彼女が力強い声を張り上げるのを見て、私は呆然とした。あんな熱を放つ彼女を、学校では一度も見たことがない。
曲が終わった。彼女が笑って手を振ると、観客から歓声が上がった。
その場の空気に流されて、私も小さく手を振り返してみた。
手を振ったまま、馨がこちらへ顔を向ける。あれだけ人がひしめいて沸き立っているのに、どういうわけか私たちの目が合った。
そしてその瞬間、彼女の手が止まった。




