第三話 日替わりランチ
英語は苦手な科目のひとつだった。だから昼休みのチャイムが鳴ったあとも、わたしは黒板の内容を書き写すのに余計な時間を使わざるを得なかった。ようやく書き終えて、疲れきった顔を上げる――そこで絶望した。いちばん避けたい相手が、教室の入口のすぐそばに立っていたからだ。
英語なんて、グローバル化のせいだ。
華姫は、巻き毛らしき髪の女子と話していた。
あの子には見覚えがある。どこで見たんだろう。記憶を探っていると、ぼんやりした像が浮かんできた。RISING SUN ROCK FESTIVAL。ライブバンドが集まる、日本の定番ロックフェスのひとつだ。じゃあ、あの子はどこで――
「マジかよお前!」
隣にいた男子のグループが下品な笑い声をあげて、わたしの思考は断ち切られた。盛大なため息をついた。とにかくこいつらから離れよう。そう決めたわたしは、華姫に気づかれないうちに脇をすり抜けることにした。
目立たないよう慎重に歩いて扉へ近づいていくと、あの女子が「またあとでね!」と叫んで、食堂の方向へ駆けていくのが見えた。
ばれた。
わたしは自分から華姫の懐に飛び込んでしまった。まあ、向こうが両手を広げて待っていたわけではないけれど。
華姫が振り返り、目の前にわたしがいるのを見て、嬉しそうに目を丸くした。
「こんにちは。お昼、行きましょうか」
口の動きだけで「行かない」と返したが、彼女はまるで意に介さなかった。それどころか、華姫はわたしの左腕を掴んだ。悲鳴が漏れて、その拍子に彼女のほうを驚かせてしまった。
「ごめんなさい!」
彼女はすぐに手を離し、一歩下がった。
「ごめんなさい、お友達にいつもやっている癖で」
わたしは腕をさすった。まだ少し痛む。とはいえ華姫のせいではない。彼女の掴み方は優しかった。それでも、腕の下にあるものに触れるには十分だった。
「もう、次からは一言言ってよ」
「あら、次があると思っているのね」
うっ。さっきの腕の一件で完全に調子を狂わされて、今日いちばんの失言をやらかしてしまった。渋い顔をしているわたしを見て、華姫が笑った――彼女のそんな表情を見るのは、初めてだった。
彼女はついてくるようにと身振りで示した。負けを認めたわたしは、黙ってそのあとを追った。面白がっている生徒たちの視線が、一歩ごとについてくるのを感じながら。
「図書室みたいな匂いがする」
「そう? 慣れてしまったのかもしれないわ」
ペットの飼い主が糞の匂いに慣れてしまうのと同じだ。初めての来客には、その匂いが強烈に襲いかかる。
「一条さん、なんでわたしをここに呼んだの」
わたしは生徒会室の隅に立っていた。中学のときの生徒会室と比べ、ずいぶん立派だ。シャンデリアまで下がっている。もっとも、趣味の悪い金色だったけれど。金持ちが金持ちのために運営している学校なのだから、今さら驚くようなことでもない。
華姫は机に向かっていた。みんなで囲む大きな机ではなく、彼女専用の机だ。あの肩書きに付いてくる待遇のひとつなんだろう。彼女は机の上に何かを置き、包みを解いた。中から出てきたのは弁当箱だった。
「そんなところに立っていないで、こちらにいらっしゃい」
彼女は布張りの丸椅子を引き出して机の前に置き、軽く叩いてみせた。
わたしは動かないままでいた。今この場で何が起きているのか、まるで見当がつかなかったからだ。
「わたし、何かやらかした?」
「……そうね、そうとも言えるし、そうでないとも言えるかしら」
「他に誰か来るの?」
「いいえ、誰も来ないわ。 だからどうぞ」
彼女はもう一度丸椅を叩いた。
「二人きりになるように手を回しておいたから」
華姫が生徒会のメンバーを散らすように仕組んだのなら、彼らはわたしたち二人が今ここにいることを知っているはずだ。
それが、なぜか落ち着かなかった。
なにしろ彼女は本物の王女なのだ。あれだけ力のある一族の人間だと知ってしまうと、ただの生徒会長だとは思えなくなる。それを知っていながら、わたしは彼女にかなりひどい態度を取ってきた。常識のある人間なら、絶対にしない態度だ。彼女が指を鳴らすだけで、明日の新聞にわたしが載る可能性だってある。それも派手な見出しつきで。
このまま突っ立っていても膠着状態が続くだけだと悟って、わたしは渋々歩み寄り、丸椅子に腰を下ろした。
「はい、どうぞ」
王女は包みごと箱を机の上に滑らせた。
「わたし、普段お昼食べないの。だから、いらない」
それを彼女のほうへ押し返した。
気のせいかもしれないが、華姫は少し気を落としたように見えた。
「私が作ったのよ。無添加の材料を使って、料理人の手も借りずに」
彼女の顔に、遠慮がちな笑みが浮かんだ。
確かにわたしはひねくれているけれど、人の気分に水を差すほどではない。だから、箱をこちらに戻すよう身振りで示した。華姫がそのとおりにしたので、わたしは包みを解いて弁当を開けた。中身は、ふりかけをかけた白米、唐揚げがいくつか、卵焼き、それに付け合わせの野菜。さっきの言い方からすると普段は料理をしないようだったが、見栄えはなかなか悪くなかった。
「おいしそう」
我ながら下手くそな褒め方だったが、華姫は柔らかく微笑んだ。
「ありがとう」
「でも、全部は食べきれない」
「いいのよ、食べられる分だけで。怒ったりしないから」
食べ物を無駄にしたくはなかったので、わたしは少しずつ箸を進めることにした。二人とも黙ったまま、しばらく箸を進めた。だが、だんだん落ち着かなくなってきた。もともと口数が多いほうではないけれど、それでも触れざるを得ない話題があった。
ちらりと華姫のほうを見ると、彼女はゆっくりと白米を口に運んでいた。目が合って、彼女が弁当箱を置きはじめる。
わたしは慌てて視線を逸らし、唐揚げをひとつ口に放り込んだ。
「丸山さん――」
その呼び方、やめて。
「これを見てちょうだい」
華姫は机の自分側の引き出しを開けて、リモコンのようなものを取り出した。それをわたしの右側へ向けたので、わたしもそちらを見た。この学校が桁外れに裕福なのは知っていたが、戸棚が形を変えて動き出すとまでは思っていなかった。SF映画で見るような光景だ。
だがこれは映画ではなく現実で、だからこそ目の前の光景は正気とは思えなかった。
戸棚があった場所には巨大なテレビ画面が現れ、校内のさまざまな部屋を映した四十〜五十台ほどのカメラ映像が、画面いっぱいに並んでいた。
「見てのとおり、校内はカメラだらけなの。だから普段は、盗難や不審者の報告でもないかぎり、細かく見ることはないのだけれど」
「そう」
「でも一週間ほど前、なんとなく眺めていたら、あるカメラが目に留まったの。四列目の七番目を見て」
言われたとおりにマス目を数えていくと、確かにそれは屋上のカメラ映像だった。気づいていなかったが、カメラは手すりのほうへまっすぐ向けられている。つまり華姫には、わたしが屋上に上がるところがはっきり見えていたということだ。
「最初は、あなたが何か企んでいるのかと思って見張っていたのだけど、あなたはただ景色を眺めているだけだった」
彼女はそう言った。
屋上に上がるたびに見られていたなんて、信じられなかった。ストーカー行為とまでは言えないかもしれないが、その事実に、胃の底が重くなった。
「ただ、生徒が屋上に立ち入ることは認められていないわ。だから先生に報告しなければならなかった」
ああ、最悪の気分だ。
「先生は動揺した様子だったけれど、理由は説明してくれなかった。それから、私にファイルが渡されて――」
やめて。
「あなたの個人情報を見てしまったことは、本当に申し訳なく思っているわ。でもあの一件があって、私はあなたを見守る役目を任され――」
「あんたが余計なお節介で告げ口しなけりゃ、こんなことにはならなかったんだ」
わたしは立ち上がった。冷たい汗が肌を覆い、じっとりした手をスカートで拭う。
要するに全部この女のせいだ。屋上から遠ざける役目を負わされたと言うけれど、そもそもこの連鎖を引き起こしたのは彼女自身の行動じゃないか。
クズだ、どいつもこいつも。どれだけいい人そうに見えても、必ずどこかでわたしを踏みにじる。
「……あのね、私はただ、あなたの学校生活が少しでも過ごしやすくなればと思っているだけなの 」
華姫も立ち上がり、ゆっくりと机のこちら側へ回り込んできた。
「起きてしまったことは過去でしかないわ。だから――」
「わたしのこと、少しでも知ってるみたいな顔しないで!」
わたしが遮ると、彼女はびくりと身をすくめた。
よくもわたしが経験してきたことを、そんなふうに片づけられるものだ。
「あんたみたいな金持ちのクズに、苦労の何がわかるっていうの。何不自由なく育っておいて、人のことに首だけ突っ込んでくるくせに」
……わたしはひどく疲れていた。それなのに一度溢れ出したものは止まらなくて、すべてをぶつける相手が必要だった。華姫はただ黙って立っていた。その表情からは、わたしを怖がっているのかどうかも読み取れなかった。
ずいぶん長い時間が過ぎたように感じられた。
「私の家柄も、肩書きも、財産も、羨まれるものだということはわかっているわ」
彼女は静かに言った。
「でも、私には私の苦しみがあるの」
耳を疑った。華姫は何もかも持っている――金も、権力のある家族も、人脈も、約束された将来も。それなのに、自分もわたしと同じように苦労しているのだと言う。何かが壊れた。自分の中にそんなものがあるとは知らなかった。だが心の奥底では――ずっと、ずっと奥底ではわかっていた。わたしは同じことを繰り返しているのだと。それでもわたしは、苦しんでいるという王女のほうへ足を踏み出した。
わたしが一歩近づくたび、華姫は一歩後ずさった。背中が壁につくまで。追い詰めたわけではない。左右どちらにでも逃げられたし、そうすればこの場はすぐに終わっていたはずだ。
だが、彼女はそうしなかった。
わたしは片手をゆっくりと伸ばして、彼女の襟元のリボンタイを掴み、引いた。きれいに結ばれていて、華姫が楽に呼吸できる程度の緩さだった。彼女の視線を感じながら、もう片方の手も伸ばして、わたしはリボンを締めはじめた。いつもより、ほんの少しだけきつく。
彼女が小さく声を漏らし、わたしの指を自らの指で掴んだ。
だが、その手つきは優しかった。
「丸山さん……?」
「その呼び方、やめて」
「な、なんのこと……?」
「……わたしがこの名字を嫌いなのは、父親のものだから」
言いながら、リボンを握る手に力がこもった。切り刻んでしまいたくても、この名字はわたしの一部だった。公的な書類には、どれにも記載されている。ないものとして振る舞うこともできるのかもしれないが、周りは必ずこの苗字でわたしを呼ぶ。わたし一人が知らないふりをしたところで、どうにもならない。
「か……馨……」
震える声が、わたしを呼んだ。感情をぶちまけてから、初めて彼女の顔を見上げた。
華姫の下唇は震えていて、その目には涙が滲んでいた。
わたしがリボンから手を離すと、彼女は短く、荒い息を繰り返した。それからわたしは、リボンを完全に解いた。気がつけば、襟のボタンも外していた。
視線が彼女の喉に吸い寄せられた。リボンが食い込んでいたところに、うっすらと赤い跡がある。それ以外は、傷ひとつない白い肌だった。手を伸ばして、そっと指を喉に触れると、華姫がまた身を強張らせた。
彼女の肌は、想像していたよりもずっと柔らかかった。




