第二話 屋上の少女
丸山馨。
私が初めてそう呼びかけた、あの屋上でのことだ。
「……なんで、わたしの名前を知ってるの」
屋上の少女の声があまりに剣呑だったので、私は自分の立場を言い聞かせなければならなかった。彼女はただの一生徒で、それに対して私は――
目を合わせようとしたけれど、彼女はすっと視線を逸らした。それでも、逸らす直前に見えたあの目つきは、視線で人が殺せるなら、という言い回しがぴたりと当てはまるものだった。
私の立場では、揉め事を起こせば、すぐに教師たちの知るところになる。だから私は、嘘にはならない範囲の答えでその場をしのぐしかなかった。そのうえで、彼女の顔をじっと観察した。
馨はそれ以上追及するつもりはないようで、二、三歩下がると、教室に戻るために階下へ向かっていった。私はため息をついた。事態の重さがようやく身に染みてきて、膝から力が抜けそうになる。
「……何を背負い込んでしまったのかしら」
実を言えば、一週間ほど前に、私は彼女を防犯カメラの映像で見つけていた。屋上のカメラの存在は、生徒会のメンバーもほとんど知らない。おかげで私は、誰にも気づかれないまま彼女の様子を眺めていられた。
他の生徒たちと比べると、馨はどこか……地味だった。
この学校には、名の知れた家柄の生徒、いわゆるエリートが集まっている。あまり使いたくない言葉だが。育ちのせいか、みんな制服の着方にこだわりがあった。髪型、制服の着崩し方、小物の類い、何でもござれだ。生徒が裕福で力のある親に告げ口をすれば、面倒なことになる。それを恐れて、教師たちは見て見ぬふりを決め込んでいた。
だが馨は、制服をそのまま着ているだけだった。そのせいで、周りと比べるとどうしても素っ気なく見える。ただ、彼女について唯一目を引いたのは、風になぶられたような髪だった。朝でも昼でも、いつ見ても、たった今まで強い風の中にいたかのような髪をしている。
もうひとつ変わっているのは、制服のシャツの下に何かを着ていることだった。私の目には、ヨガのときに着るようなインナーか、日焼けから肌を守るためのものに見えた。あのインナーを着ていない馨を、私は一度も見たことがない。
それから毎日カメラを覗くうちに、彼女の行動が分かってきた。昼休みになると教室を出て、まっすぐ階段へ向かい、屋上に上がる。そして手すりのそばに立ち、休みが終わるまでずっと近くの住宅街を眺めて、チャイムが鳴ると教室に戻っていく。
風になびく馨の髪を見ていると、まるで映画を眺めているような気分になった。
この屋上の件を、生徒会顧問の教師に持ちかけたときのことだ。顧問はひどく動揺した様子だったが、何が問題なのかは最後まで言わなかった。そして最終的に、馨の個人ファイルが私の手に渡された。
あの一連のやりとりは、明らかに不自然だった。本当に。どう考えても。
規則違反になるのかどうかは、私にも判断がつかなかった。だが正直に言えば、私は興味を持っていた。教師が生徒のファイルを預けるくらいなら、事情はよほど深刻なのだろう。そして読み進めるうちに、私は理解した。
とにかく、馨を屋上に近づけてはいけない。それだけは確かだった。
この役目は押しつけられたものだ。それでも、彼女の個人情報を読むと決めたとき、私は越えてはいけない線を越えた。後ろめたさから、私は埋め合わせをすると決めた。彼女がこの学校でうまくやっていけるように、私が手を貸すのだ。
自分の道徳心と信念からそうしているのだと、そう信じたい。
……そういうことにしておこう。
昨日の穏やかな風とは打って変わって、今日は朝から曇り空だった。
もっとも、濡れる心配はない。運転手が兄の光祐と私を、屋根のある昇降口まで送り届けてくれるからだ。
上履きに履き替えていると、瑠々が隣に来て、同じように靴を脱いだ。
「一条さーん〜!今日、お弁当持ってきた?」
「いいえ、持ってきていないわ。どうして?」
彼女は目を輝かせてこちらを向いた。
「じゃあ食堂行かない? 新しく出た焼きそばパン、食べてみようよ」
「あら、去年から出るって言ってたあれ?」
「そう! 新学期からって話だったから、食べてみたくて」
考えただけで、少しお腹が空いてきた。だが空腹の奥に、もうひとつ、重いものが沈んでいた。
「行きたいのは山々なのだけど」
私はため息をついた。
「お昼休みに、生徒会の用事があるの」
「えー。でも、一条さんがそんなに残念そうな顔するの、珍しいね」彼女に頬をつつかれて、私はその手をやんわりと払いのけた。
瑠々は私のクラスメイトで、それ以上に良き友人だった。実際には親友と呼ぶべき間柄なのだけれど、私はその言葉がどうにも気恥ずかしくて、今の呼び方で通している。
「ごめんなさいね、ご友人。埋め合わせはするから」
「その呼び方、いいかげんやめてよ。いつも心がこもってないみたいに聞こえるんだけど」
瑠々は肩を落として嘆いてみせ、私は思わず笑ってしまった。
「あなたが『一条さん』で通そうとするのと、同じことでしょう」
「……だって難しいんだもん! 一条さん、オーラがありすぎて下の名前じゃ呼べないよ」
大げさな言い分に、私は肩をすくめた。良き友人という他人行儀な呼び名は、私たちにぴったりだった。
「ところで、今日は放課後にバンドの練習があるんじゃないの? その前に食べてみたらいいわ」
「あ、そっか! じゃあ後で感想教えるね」
靴を履き替え、瑠々と私は二階の教室へ向かった。中に入ろうとしたそのとき、背後で音がした――上履きが床を蹴る、きゅっという音だ。振り返ると、髪の乱れた生徒が私たちの横を駆け抜け、隣の教室へ飛び込んでいくところだった。
あの髪型なら、もう見間違えようがない。
それにしても、いつも気だるげな馨がどうして今日にかぎってあんなに急いでいるのだろう。授業に遅れるのを気にするような人には見えなかったのに……いや、こういう決めつけはよくない。
生徒会長ともあろう者が。
「もしもーし? 一条さん、聞こえてますかー?」
瑠々が目の前で手を振り、危うく私の顔を叩きそうになる。
私は慌てて扉に手をかけた。
「ごめんなさい、入りましょう」
昼休みのチャイムがようやく鳴った。だが私に、昼食の予定はない。廊下を歩いていると、私はまたしてもあることを意識させられた。新学期が始まってからずっと、生徒たちは私が通りやすいように道を空けてくれる。そんな必要はないというのに。
肩書きのせいで、私はひどく自分を意識してしまう。その居心地の悪さは、いつまで経っても慣れるものではなかった。王家の一員だというだけで、扱いを変えられたくはなかった。
だが、そのおかげで隣の教室まで早く着いたのも事実だった。
馨は教室にいなかった。だとすれば、次に向かうべきは屋上だ。そう決めた瞬間、足は勝手に私をそこへ運んでいた。
私は扉を勢いよく開けた。
驚いたのは、手すりのそばに誰もいなかったことだ。
もちろん、何かあったわけではない。……ないはずだ。
私が邪魔をしたせいで、別の場所に移ってしまったのだろうか。
だが、考え込んでいる余裕はなかった。ふと視界の端に目をやると、出入口のところから馨がこちらをじっと見ていたからだ。
「本当に来たのね」
本当に、奇妙な出来事だった。何かが起きた、としか言いようがない。
何が私に取り憑いたのかはわからないけれど、めったにないことに私は冷静さを失った。これ以上屋上に来たらどうなるか。そう警告したとき、馨の目が細くなるのが見えた。ごくわずかだったけれど、手が小刻みに震えはじめるのも。
ひとつだけよかったと言えるのは、ようやくお互いの目をきちんと見られたことだろうか。馨は面と向かって話していても、視線を別の方向にやる癖があった。だがあのときの彼女の目には、剥き出しの何かがあった。
それが何を意味するのか、私には読み取れなかった。数秒のあいだ、その視線に晒されて――そしてまた、私は不意を突かれることになった。
「……ごめん」
馨はそう呟くと、出入口の向こうへ消えていった。私はただ、それを見ているしかなかった。
何かが起きると思っていた。
そのつもりで身構えていた。
馨はきっと、何らかの形で爆発するだろうと思っていた。
だが、そうはならなかった。おかげで私は今こうして立ち尽くし、罪悪感がみるみる膨れ上がっていくのを感じている。最初は、馨がわざと私を苛立たせているのだと思っていた。だが今は……自分のしたことに、まるで確信が持てず、ひどく落ち着かなかった。
ただ気になっただけかもしれないのに。どうして私は、あんなに頭ごなしに突き放してしまったのだろう。
本気で答えを探せば、きっと見つかるのだろう。それはすぐそこにあって、私が目を向けるのを待っている。だが今は、向き合えるものではなかった。
考えるのをやめた瞬間、私は彼女を追いかけていた。
他の生徒たちの視線を無視して、昼休みの人混みを縫って進む。昼休みはもうすぐ終わる。時間がない以上、いつもの取り澄ました顔はかなぐり捨てて駆けだすしかなかった。馨の髪は人混みの中でもよく目立ったので、じきに追いつくことができた。
「丸山さん!」
私は彼女の制服の裾を掴んだ。
馨が振り返る。むっとした顔だった。けれど、周りのクラスメイトが私たちに気づきはじめると、その態度が変わっていった。彼女はイヤホンを外した。
「何? 何の用」
「お昼を、一緒に!」
私は叫んだ。ほとんど必死だった。
「……何の話をしてるわけ?」
彼女は歯を食いしばった。
「あんたのことなんて知らないし、知りたくもない」
「お願い、明日、生徒会室に来てちょうだい」
私たち二人に視線が集まっているのを、私は嫌というほど感じ取っていた。制服を掴まれている当人も、同じことを感じはじめているようだった。
「……わかった。だから離して」
選択肢はなかった。馨は私の手を振り払い、こちらを睨みつけてから、教室へと歩いていった。この睨みつける顔を何度見せられたことか。もはや彼女の代名詞と言ってもいい。
生徒会長が校内の一匹狼を追いかけ回している。一匹狼というのは私が言い出したのではなく、廊下の囁き声から拾った呼び名だ。傍から見れば、さぞかし奇異な光景だっただろう。誰かが詮索してくる前に、私は自分の教室へ戻ることにした。
何にせよ、今日は奇妙な一日だった。その原因のほとんどは、私自身にあるのだけれど。




