第一話 四月
本作品の表紙イラストは、依頼して制作していただいたものです。作者様の許可を得て掲載しております。
風が少しずつ強くなってきた。それに体を預けると、髪は好き放題に乱れた。視界がふさがれるのが、妙に心地いい。首から下げたMP3プレーヤーに、イヤホンを挿したばかりだった。穏やかな風が吹き抜けていくなか、わたしはバンドの最新アルバムに合わせて頭を揺らし、手すりから少しだけ身を乗り出した。
真下には学校のテニスコートが見える。何人かの生徒が準備をしている。二人がネットを調整し、残りの生徒はコートを掃き、ボールを用意している。スマホを取り出して時間を確かめる。昼休みはもうすぐ終わる。だとすれば、放課後のテニス部のための準備だろう。
そのとき、聞き覚えのない音がふいに混ざり込んできた。アルバムのつもりでリミックス音源を間違えて取り込んでしまったんだろうか。いや、そこまで不注意だった覚えはない。小さな機械のボタンをいじりながら、わたしはその違和感の出どころを探した。
「ねえ、聞こえてる?」
耳元で、大きな声がした。
驚いた拍子に後ろへよろけ、そのまま尻もちをつく。見上げると、ポニーテールに眼鏡の女子がこちらをのぞき込んでいた。数秒かかって、ようやく思い出す。始業式で挨拶をしていた、あの二年生だ。
一条華姫。
「一条さん?」
イヤホンを引き抜いた。
「ここは立ち入り禁止よ。それに、あなたが毎日来ているのも知ってる」
少女はそう続けながら、二、三歩後ろに下がった。その拍子に、鳩の群れとぶつかりかける。
まあ、鳩に当たるわけもないのだけど。小さな足が間一髪で駆けて逃げていった。
それでも、少しくらい罪悪感を持たせてやってもいいだろう。
「不注意にもほどがあるんじゃない? 今、殺しかけたよ」立ち上がって埃を払い、スカートを直す。
「殺してなんかいな―― 」
華姫の目がわずかに見開かれ、一瞬だけ眉が寄ったように見えた。だがすぐに、落ち着いた表情に戻る。わたしとしては、その表情のほうが彼女には似合っていると思った。
「馬鹿にしているの?」
ざまあみろ、お節介な会長さまめ。
クラスは違うけれど、華姫とわたしは同じ高校二年生だ。ただ、これまでの学校生活の過ごし方はまるで違う。まず第一に、華姫は生徒会長だった。
普通、二年生が立候補できるのは副会長までで、三年生になって十分な支持を得て、ようやく会長になれる。
だが、華姫はそもそも普通ではなかった。
一条華姫は、この国を統べる王家の娘――つまり、正真正銘の王女さまだ。それが会長就任に一役買ったのかどうかまでは分からないが、少なくともほとんどの生徒が彼女の身分を知っているようだった。この国のトップである父親によく似ている、とクラスメイトが話しているのを聞いたこともある。彼女の立場を考えれば、わたしがこのまま生意気な態度を取り続けたらどうなるか、想像もつかない。
だからわたしは背を向けて、目の前の景色をあてもなく眺めることにした。そのうち向こうが去ってくれることを願って。
捕食者に出くわして固まった動物のようだ。
さまよう視線が、学校近くの住宅街を走っていく野良猫を捉えた。
小さなスカーフを巻いていて、やたらと可愛い。ということは、あの猫はちゃんと世話をされているんだろう。
「丸山馨」
静かな、それでいてどこか呆れたような声が、思考を断ち切った。「黙っていないで、教室に戻ってくれる?」
その問いかけに、わたしは反射的に奥歯を噛みしめた。何年経っても、わたしの名字はいまだに苛立ちの種だった。
それでも、よりによって王女さま相手に噛みついたところで、マシなことなんて一つもない。
「……なんで、わたしの名前を知ってるの」
「生徒会には、在校生全員の記録があるのよ」華姫は乱れた髪を耳にかけ、眼鏡の位置を整えた。「それに、あなたの……特別な事情については聞かされてるから」
教師にしか知らされないという話だったはずだ。生徒会長は約束のうちに入っていない。とはいえ、これ以上どんな弾を握られているのか、知る気も起きなかった。
「わかった、もう邪魔しないから」
手すりから体を離して、ドアのほうへ歩く。彼女はまだ目の前に立っていた。わたしが近づくと、華姫は一言も発さずに脇によけた。
彼女の気が済むまでおとなしくしているのが賢いんだろうが、そのやり口がどうにも引っかかった。肩書きひとつで人の個人情報まで手に入れられてしまう。それが、どうしても納得できなかった。
「じゃあ、明日また屋上に来たらどうなるわけ?」
「さあ、どうなるかしらね」
返ってきたのは、思わせぶりな一言だけだった。
何か言い返そうかと思ったが、今は引き下がっておくことにした。屋上をあとにして階下へ向かい、教室へ戻る生徒たちの波に紛れ込む。授業がいつもどおり過ぎていく間、華姫とのやりとりが何度も頭の中で繰り返された。
わたしだけの世界に、生徒会長という名の侵入者が入り込んできたのだ。
学校という場所が嫌いだった。誤解しないでほしいのだが、特待生の枠に応募して自ら入ったのは事実だ。ただ、とにかく騒がしい。周りはみんなよく喋るけれど、その中身は、こっちの知らない話か、どうでもいい話のどちらかだった。家庭環境も、服装も、金銭事情も違いすぎて、共通点なんてほとんどない。おかげで学校の課題やグループワークは、わたしにとって苦痛以外の何物でもなかった。世間話を振ってくる人間が、こっちを憐れんでいることだけはわかった。
それが、どうしようもなく嫌だった。
屋上だけが、値踏みするような視線に晒されずに――ただ息をしていられる場所だった。
なのに今、そこに厄介な要素がひとつ増えてしまった。
華姫は読めない。わたしの隠れ家をどうやって突き止めたのかもわからない。屋上で騒いだ覚えはないし、生徒会にはもっと大事な仕事があるんじゃないのか。それなのに、会長さまはわたしに目をつけたらしい。
「明日、か……」
どうせ間に合わないと思っていた。だから教室に着いて五分前だと気づいたときは、自分でも驚いた。
セーフ。
今日はバンドメンバーの詩保理が、車で学校まで送ってくれるはずだった。
だが、七時四十五分になっても玄関先に姿が見えない時点で、何かおかしいとは思っていた。詩保理の部屋のドアをノックして、そのままノブを回す。すると案の定、まだ死んだように眠っていた。
どうせまた遅くまで飲んでいたんだろう。
苛立っているような時間はなかった。靴紐を結び、最後にもう一度鏡で、インナーが腕と首をきちんと覆っているかを確かめる。
学校までの全力疾走で、ただでさえ少ない体力を使い果たしたせいか、授業はどれも頭を素通りしていった。それでもチャイムが鳴った瞬間、わたしは反射的に立ち上がり、まっすぐ屋上へ向かった。
屋上の入口に着いて、ざっと辺りを見回してからドアを引く――そこで足が止まった。
王女さまが、いつもわたしが立っている場所に立っていた。柔らかな風がスカートの裾をふわりと持ち上げ、きれいに結ばれたポニーテールが揺れている。
……その、気品。
これまで気にも留めていなかったが、周りの生徒と比べると、華姫の身なりはむしろ質素だった。ポニーテールに結んだリボンを除けば、王女らしい豪華なアクセサリーもなければ、制服を着崩したりもしていない。それでも彼女は、姿勢も所作も端正だった。ただそれだけのことで、彼女は他の生徒たちから際立って見えた。
あと一歩を踏み出す前に、向こうがこちらに気づいた。
「本当に来たのね」
「待ってたの?」
「曖昧な返事をしておけば、怖がって来ないと思っていたんだけど」
華姫は一拍も置かずに答えた。
つまり、何の考えもないまま、その場しのぎの一言でごまかしていたと自分から認めたわけだ。しかも、そのはったりが効いたかどうかを確かめに、わざわざここまで来ていたことになる。生徒会長ともあろう人物の言動としてあまりに間が抜けていて、笑ってしまいそうになったが、なんとかこらえた。
わたしは彼女の隣に並び、手すりに寄りかかった。名門と呼ばれるこの学校は、ごく普通の住宅街と隣り合って建っている。目を凝らせば、わたしとバンドのみんなが暮らすアパートも見つけられた。
あの三人はいつだってわたしを守ってくれる。まあ、今朝の一件は数に入れないでおくとして。わたしは彼女たちが好きだった。この招かれざる客に対しては、まったく抱いていない感情だ。
ひとつ気になっていることがあった。
「あんた、王女さまなんでしょ。こんなとこにいないで、好きなことでもしてればいいじゃん」
わたしの言葉を聞いて、華姫がこちらに顔を向けた。それから数秒――人生で最も居心地の悪い数秒間、彼女は一歩距離を詰め、身を乗り出し、読み取れない表情でこちらをじっと見つめていた。
突然の動きに驚いて、わたしは思わず身をすくめ、悲鳴を噛み殺す。
「学校では生徒会長よ。だから、その肩書きで呼んでもらえると――」
「王女でいるのが嫌なの?」
口が勝手に動いていた。
今度は、表情が読めた。ゲームで選択肢を間違えたときの、あの感覚だった。
わたしが何か言う前に、華姫は首を振り、また落ち着きを取り戻した。
「教室に戻りなさい、丸山さん。明日また来たら、罰点を二点つけるから」
「あんた……」
必死に頭を回して、何か言い返そうとした。一点でも十分まずいのに、二点となると本当に後がない。この学校は、罰点が三点たまると退学という古い制度を採っている。
つまり、これは脅しだ。
脅しをかけられるのは、どうしても我慢がならなかった。本当に、どうしても。
華姫は自分を何様だと思っているんだろう。
王女で、しかも生徒会長だからといって、人の将来を好きに弄んでいいと思っているのか。
自分の未来が保証されている彼女にとっては、全部ゲームみたいなものなんだろう。この時点でかなりの決めつけをしていたと思うが、頭が勝手に先へ先へと進んでいた。勢いがついてしまった以上、こっちが何かして止めるしかない気がした。
そのとき、風が強くなって、華姫の髪が目の前で舞った。それで、わたしは思考から引き戻された。
……ふうん。
彼女はこんなに近くに立っていて、その存在には途方もない重みがある。王家の王女とこれほど近い距離にいられるなら、何を犠牲にしてもいいと考える人間は山ほどいるだろう。
だが、わたしは何もしていない。それなのに、彼女はここにいる。
知りたくなった――もし今、手を伸ばして、ただ――
ただ……
「……ごめん」
結局、口から出たのはそれだけだった。
どうせわたしは、臆病者なのだ。
思考の渦から浮かび上がると、わたしは唸りはじめた屋上の風を背に、いつもどおりの一日が続く廊下へと降りていった。




