第十三話 わたしを見て
「馨、一条って人が会いに来てるけど」
部屋がしんと静まり返った。
詩保理と侑子と史恵が顔を見合わせる。その名前に心当たりのある人間が、この中にいないかを探っているらしい。
もちろん、知っているのはわたしだけだ。
あいつがとうとう、会いに来たということを。
「……久しぶり、一条さん」
「ええ、本当に」
王女は帽子を脱いで、マスクを下げた。髪が乱れている。さっきまで客席で飛び跳ねていたせいだろう。
「そうだわ、野球帽をまだ返していなかったわね」
「へえ。この一週間、一度も顔を見せなかったのに。大村さんのバンドのときは、ちゃんと見に来て飛び跳ねてたわけだ」
そんなつもりはなかったが、責めるような言い方になってしまった。
「あなたも出ると知っていたら、私だって――」
視界の端で、華姫が包帯を巻いたわたしの指を見ているのが分かった。彼女は手を伸ばして、人差し指をそっとわたしの手に乗せた。
虫でも追い払うみたいに振り払ってやりたかったが、疲れきっていて体が動かない。
「すごいステージだったでしょ。どう思った?」
「そうね。ずいぶん血まみれだったわ。でも、あなたのバンドの雰囲気には合っていたと思うけれど」
そう言って、わたしの首にある棘のついたチョーカーを指し示した。
首の動かし方しだいでは、これで自分を傷つけることもできる。
こんなものに、よくメンバーが首を縦に振ったものだ。
「こっちは心配して駆けつけたのよ」
華姫の指先が、わたしの指をなぞっていた。包帯が厚いうえに触れ方があまりに優しいせいで、指には何も伝わってこない。
「全部、あんたのせい」
わたしの返事に、指の動きが止まった。華姫が何度もまばたきをする。説明を求めているようだった。
わたしは何も言わなかった。
「瑠々と一緒に来なかったことを怒っているの?」
「違う」
「じゃあ、何?」
「……」
王女がわたしの正面に回り込む。わたしはゆっくりと目をそらした。
壁が、やけに気になりだした。へこみや引っかき傷だらけだ。たぶん、楽器ケースが雑にぶつかってできたものだろう。何年もの――
「こっちを見て」
両手で頬を挟まれ、ぐいと正面へ戻された。痛くはない。だが、わたしの視界に華姫を戻すには十分な力だった。
彼女の部屋にいたときと同じように、目が合った。
王女はただ、わたしの前に立っていた。
そのまま、わたしの顔を上に向けさせた。チョーカーの棘が後頭部に食い込むのが分かった。
まだ足りない。
「私に会いたかったのね」
華姫の指が、わたしの喉元へ向かって動きはじめる。わたしは力を振り絞って包帯だらけの手を持ち上げ、その手を掴んだ。
「馬鹿なこと言わないで」
華姫の手とわたしの手が、押し合いになる。どちらも本気で力を入れてはいない。彼女の顔に、笑みが浮かびはじめる。
「こんなの、本当に馬鹿みたい」
「はっきり言ってよ、王女さま」
「私が気に入らないのは、あなたが一度も本物の笑顔を見せてくれないことよ」
「あんたは、わたしが笑うようなことを何もしてないでしょ」
「瑠々はしたというの?」
「……は? あいつが何か言ったの?」
「自分の目で見たの」
「見てたのに、顔を出さなかったんだ」
「あなたって、本当にずるいのね」
気づけば、わたしたちは質問を投げ合うばかりになっていた。
そんなことで避けられる理由が分からない。笑顔ひとつが、そんなに問題なのか。
華姫はわたしの顔をじっと見つめていた。そして、ようやく答えを口にする気になったらしい。
「あなたについて、私がまだ知らないことはたくさんあるのだと気づかされたの。ステージの上のあなたも含めてね」
「……どうしてそんなに、わたしのことを知りたがるの?」
「誰にも見せたことのないあなたを、見てみたいから」
それで、ずるいのはわたしのほうだと言う。
身勝手な要求をしているのは、どっちだというのだ。
何か言い返す前に、華姫がわたしの手を完全に離した。そして左腕をわたしの背に回し、抱きしめる手前で止める。わたしは身動きひとつ取れずに座っていた。
バニラの匂いがした。
「あなただって、私のことを知りすぎているわ」
耳元でそう囁かれる。
「その気になれば、私の立場を危うくできるくらいには」
腕に鳥肌が立つのが分かった。幸い、ジャケットのおかげで気づかれずに済んだ。
別に、怖かったわけじゃない。
ただ、耳元で喋られるのがくすぐったかっただけだ。
「でも、あなたはそうしなかった」
華姫は右手をチョーカーに添えて、その縁をなぞりはじめた。
「私が生徒会室でのことを、誰にも言わなかったのと同じ」
息が、耳をかすめる。
心臓の音がした。
鼓動は速く、ひどく乱れている。
それがどちらのものなのか、わたしには分からなかった。
「私たち、お互いにずいぶん口が堅いのね」
息が、耳に。
これ、は。
……んっ。
「いいから離れて」
左足を上げて蹴ろうとした。だが読まれていたらしく、華姫はさっと後ろへ下がった。
華姫は降参というように両手を上げてみせる。それでいて、目にはからかうような色が浮かんでいた。
「一言も言い返さないで、耳まで真っ赤にして」
「……門限があるんじゃないの?」
「その門限を、あなたのために破っているのよ。大スターさん」
どうやら、わたしの悪い癖がうつったらしい。人の神経を逆撫でする方法を、次々に覚えていく。白々しい笑みを見るかぎり、本人もそれを分かってやっているようだった。
華姫は帽子とマスクをつけ直して、じゃあね、とばかりに手を振った。扉へ向かう背中を見ていたら、このまま終わらせるのが急に癪になった。
「言っとくけど、あの笑顔は本物じゃないから。大村さんが音楽の駄洒落をわざわざ解説してきたから、愛想笑いして頷いただけ」
「……」
華姫は一度も振り返らずに、扉の外へ出ていった。
マネージャーは主催者と話をしに行っていた。メンバーがわたしを囲むように座っている。何を考えているのかは読めなかった。
「馨、なんか様子がおかしいよ」
侑子が椅子の背にもたれた。
「どういう意味?」
「ステージでのあの様子……それに、あの子」
「あんな子、初めて見たけど」
詩保理が眉をひそめて言った。
「ただの知り合い」
「ほんとに?」
今度は史恵が口を挟んだ。
「……分かったよ。ただの同級生」
「うまく紛れてたけど、護衛みたいな人たちが付いてるのは見えたよ」
「……ほら、貴族って変わった人が多いから」
客が音楽に乗って騒いでいる、よくあるライブだ。そんなところに護衛をぞろぞろ連れてくる人間がどこにいるというんだ。そもそも、彼女の素性は世間に知られているんだろうか。まあ、用心するに越したことはないのだろう。人混みで王女が押し倒されでもしたら、ただ事では済まない。
どちらにしても、三人ともわたしの言葉を信じていなかった。侑子が黙っているのが、いちばんまずい。その表情からして、言いたいことは聞かずにおいたほうがよさそうだった。
「何日か前、機嫌が悪かったんでしょ。史恵から聞いてる」
詩保理が続けた。
「もう平気だから」
「じゃあ、ジャケットを脱いで腕を見せてくれる?」
沈黙が、そのまま答えになった。
この人たちに嘘はつけない。
この人たちとの関係は、わたしにとってありがたいものの一つだ。だからこそ、厄介でもある。
もう何年になるんだろう、わたしたちは……
みんな、わたしを知りすぎている。もう嘘をついても意味がない。
「馨、こっちを見て」
とはいえ、こっちが黙り込んでしまえば、誰にもどうにもできない。前にも同じようにやり過ごしてきた。みんなも分かるだろう。これは話せないことなのだと。
わたしは黙ったまま、床を見つめていた。
侑子がため息をついた。何か言いたいのを抑えているようなため息だった。
だが、侑子ももう分かっているだろう。何を言っても無駄だということは。
「お腹すいた人! 片づけて、ごはん食べに行こ」
やはり、沈黙を破ったのは史恵だった。この中でいちばん優しくて、空気が張りつめるとそわそわしてしまう人だ。こうなれば史恵がつらい思いをすると分かっていた。それでも、何かを言う勇気はなかった。
嘘をついてごめん、史恵。
夕飯は、いつものファミレスだった。深夜の曲作りも、たいていここでやってきた。だから本来なら、気の休まる場所のはずだった。それなのに、空気は重いままだった。
答えたくないことを掘り返してきたのは、あっちだ。わたしは悪くない。
ボックス席に座る。隣には史恵がいる。
向かいに侑子、その隣に詩保理が座っている。
侑子とはしょっちゅう言い合いをしているので、喧嘩中でも向かい合わせで座るのは気にならなかった。
詩保理がスマートフォンを取り出して、テーブルのQRコードを読み取った。
ここが悩ましいところだ。メニューを見るためにQRコードを読まされるのは好きじゃない。だが、店員と話さずに済むのはありがたい。紙のメニューを置いておいてくれればいいのに。そうすれば、どっちの問題も解決すると思うんだけど。
どうでもいい考えごとは、店員がビールを置いた音で途切れた。この中で二十歳を超えているのは詩保理だけだ。そしてわたしは品行方正なので、一口欲しいと頼んだことは一度もない。酒はいつも嫌な匂いがする。どうしてこんなものを美味しそうに飲めるんだろう。
「ちょっと、一緒に注文するんじゃなかったの?」
史恵がその手からスマートフォンを取り上げた。
「どうしてもビールが飲みたくてさ。先に頼んだだけ。みんなはゆっくり選んでいいよ」
詩保理が、どうぞとばかりに手を振った。
わたしたち三人は画面を覗き込んで、結局いつものメニューを頼んだ。
そうしているうちに、詩保理がスマートフォンを取り返していた。
向かいの侑子は、何かを考え込んでいるようだった。やがてその目が動く。どうやら、心を決めたらしい。
「なんであの子のこと、嘘つくの。何か厄介なことになってるの?」
正確に言えば、そうだ。思っていたよりずっと厄介なことになっている。
もっとも……
それほど嫌でもなかった気がする。
「ただの同級生だよ」
華姫と交わした取り決めのようなもの。それを説明するのはあまりにも面倒だ。そもそも、この関係には呼び名すらない。
友達でもなければ、敵でもない。
それに、王女がうちの学校にいることは、人に言っていいことではないはずだ。校則で決まっているわけではない。だが、校内に留めておくべきだという空気は濃厚にあった。
「もっと親しい相手だと思うけど」
侑子はまだ引き下がらない。
苛々する。
「何回聞いても答えは同じだよ。ないものはないんだから」
「わたしたちはもう六年の付き合いなんだよ」
「だから?」
「馨は嘘が下手なんだよ」
言い合いが続くあいだ、史恵はテーブルを指で叩いていた。その動きから、落ち着かない気持ちが伝わってくる。反対に、詩保理はビールをあおりながら、どこかぼんやりしていた。
「指から血が出るまで弾くなんて……」
「分からない」
「その前に、何か嫌なことがあったんでしょ」
「いいから、もうやめて――!」
周りの客が一斉に話をやめ、声の主を探してあたりを見回した。
自分がどれだけ大きな声を出したのか、喉の痛みでようやく分かった。痛みが来るまで、ほんの一瞬だった。
わたしの剣幕に、侑子の怒りのほうが引いたようだった。
人前で騒ぎを起こすのは大嫌いだ。そんなわたしが怒鳴ったのだから、よほど追い詰められていたということだ。
「失礼いたします。お話し中に申し訳ありません。少しご挨拶をさせていただいてもよろしいでしょうか」
別のボックス席から出てきたらしい男性が、すぐそばに立っていた。全員が固まる。男性はポケットから名刺を取り出して、こちらに差し出した。
「A&Rの者です。先ほどのバンドコンテストに出ていらっしゃいましたよね?」
「はい。血まみれになってたほうです」
わたしがそう答えると、侑子が突き刺すような目をこちらに向けた。
男性はわたしの答えに動じるどころか、感心したような顔をしていた。
「メタルバンドとしてやってみる気はありませんか?」




