第十二話 身の程
モールのステージで見た彼女とは違う。今の馨は表情をなくしていて、目だけがぼんやりと宙を見ていた。
やめて、と叫びたかった。けれど頭と体がばらばらで、思うように動かない。
臆病な私は、血が流れ続けるのをただ見ていることしかできなかった。
一週間ほど前のことだ。
鞄を開けて、馨に借りた野球帽を取り出した。洗って乾かし、袋に入れて用意してあったのに、昨日は持ってくるのを忘れてしまった。馨と瑠々に会うことで頭がいっぱいだったのだ。
結果的には、それでよかった。
昨日の放課後、瑠々は私と馨のことを質問攻めにしてきた。私は用意しておいた小さな嘘で、どうにか乗り切った。生徒会の仕事中に知り合って、そのあとモールで演奏しているのを見かけたのだ、と。
馨の帽子を持って二人の前に出れば、今度はそれを説明しなければならなくなる。だからまた、瑠々には先に行ってもらった。
『十分後くらいに、生徒会室で会いましょう』
生徒会長なら、急な用事ができたと言えば誰も疑わない。一方で、こういう嘘は癖になりかねない。立場を利用するのが正しくないことは分かっている。けれど、この嘘は誰も傷つけない。
ただ、私たち二人を守るためのものだ。
今の私たちの、この関係を。
私は教室の扉の前に立ち、ガラス越しに中をのぞいた。
瑠々が馨の机のそばで、昔からの友達のように喋っている。瑠々が何か言うと、馨が笑った。
作り物ではない笑顔に見えた。
私には、一度も向けられたことのない表情だった。
言い返したときに笑われることはあっても、あんなふうに穏やかに笑う姿は見たことがない。
瑠々は昨日馨と知り合ったばかりだというのに。
二人で、何をそんなに話すことがあるのだろう。
……そんなの、ずるい。
丸山馨。
あなたは、本当にずるい。
気づけば、彼女の帽子を強く握りしめていた。誰かに仕組まれた、悪い冗談のようだった。
あまりに馬鹿げている。
……
やっぱり、そうだ。
私が彼女の事情を知っているかぎり、馨は私を近づけてはくれない。知っているからといって、私に優しくしてくれることもない。
どうして、好きになってもらえないのだろう。
瑠々は、馨にとってほとんど初対面の相手だ。それなのに難なく懐に入り込んで、すぐに仲良くなってしまう。
共通点があるというのは、それほど強いのだろうか。だったら、私も馨の好きなものを知ってみせよう。
二人はもうしばらく話していた。やがて瑠々は手を振り、馨と別れた。
それを合図に、私は生徒会室へ向かった。
「生徒会の仕事で何かあった?」
もっと顔に出さないよう気をつけるべきだった。瑠々に心配をかけてしまった。
いろいろなものが混ざって……分からない。
自分のこの感情が何なのか分からなかった。
瑠々は何も悪くない。
馨だって悪くない。あの笑顔に、私の胸がどれほどざわついたとしても。
「ちょっとしたトラブルがあっただけ。大したことじゃないわ」
中身のない、曖昧な答えだった。それでも口にしたのは、瑠々ならそれ以上踏み込んでこないと分かっていたからだ。
瑠々は、そういう気遣いのできる子だ。
けれど、私は彼女のようにはなれない。
「お疲れさま! 今はゆっくりしよ。ほら、食べて」
瑠々は焼き魚の骨を箸で取り除くと、ひと切れつまんで笑顔で私の口元へ運んできた。
瑠々ったら……
ゆっくりなんて、できるはずがない。
馨のことで、心が休まったことなど一度もないのだから。
屋上のカメラには、今日も誰も映っていなかった。
このところ生徒会室にいると、気づけばモニターで屋上の映像を確かめている。
誰かが映っていたことは、一度もない。
馨はもう、屋上に来ることはなくなっていた。
瑠々が毎日会いに行っているからだろう。瑠々はいつも誘ってくれたけれど、近づくオリエンテーションを口実に断っていた。
二人の前で、いつもどおりに振る舞える自信がなかった。王女である以上、教室で取り乱すわけにはいかない。
それに、馨はもともと私と一緒にいるところを見られたくないのだ。
二人を引き合わせた自分が嫌になった。二人のやりとりを見るのも嫌だった。馨が瑠々に対しても私と同じくらいよそよそしいなら、まだよかった。けれど二人は、気が合っているように見える。私となんかより、ずっと。
それでも、馨と話したくてたまらなかった。けれど、この気持ちをどう言葉にすればいいのか分からなかった。
あえて名前をつけるなら……嫉妬に近い。
なんて醜い感情なのだろう。
嫉妬する理由などないはずだ。それなのに、ほかに言い表しようがなかった。
この気持ちを打ち明けたら、馨はどう受け取るだろう。
安心させてくれるだろうか。それとも、打ち明けたせいで彼女を遠ざけてしまうだろうか。こんな話をすること自体、面倒だと思われるかもしれない。
私たちの関係は、ひどく脆いものに思えた。
友情と呼べるかどうかも怪しい。
私たちは友達ではない。最初から、友達だったことなどない。
馨自身が、はっきりそう言っていた。
だから私は身の程をわきまえて、遠くから見ているしかない。
「はい、一条さん」
タオルを手渡された。
軽音部の部員と瑠々のクラスメイトの何人かで、応援に行くことになったのだ。同じ学校の部なのだから、生徒として学校の代表を応援しようというわけだ。
私も誘われた。瑠々から、直接声をかけてもらったのだ。
もちろん、行くと答えた。
警護の人たちと段取りを詰めるのは少し手間だったけれど、最終的には折り合いをつけることができた。
本当は、人混みの中まで警護についてきてほしくはなかった。けれど、王家の人間が外出するときの決まりなのだから仕方がない。
何より、私は瑠々を応援したかった。
数日経って、心のささくれも幾分収まっていた。
みんなと一緒にライブの空気に浸れば、気も紛れるかもしれない。
私は我を忘れて跳びはねた。周りの熱気に飲み込まれて、疲れを感じる暇もない。
ライブというのは、やはり格別だ。軽音部の演奏も、学校の部活とは思えないほど見事だった。どう審査されているのかは分からないけれど、審査員まで楽しんでいるのが見て取れた。
曲が終わりに近づいてきたので、少し息を整えることにした。
司会が次のバンドの名前を告げた。嫌というほど聞き覚えのある名前だった。さっきまでの高揚が、すっと引いていく。
ずっと避けていた彼女が、ステージに現れた。
馨……息をのむほど綺麗だった。
化粧は薄く、髪はいつもどおりぼさぼさなのに、まとっている雰囲気がまるで違う。黒い革のジャケットに、グレーのデニムスカートとストッキング。首にはチョーカーを巻いている。
どうして、彼女が出るかもしれないと考えなかったのだろう。
馨のバンドが出るのは、当たり前のことだった。県内のバンドにとっては大きなコンテストだと、瑠々も言っていた。
馨が出ると知っていたら、私はそれだけでもここへ来ていた。
ステージの彼女は、私からそれほど遠くない。ほんの少し視線を動かしてくれれば、私に気づくはずだ……
お願い、こっちを見て。
そんなことを願っても無駄だと、よく分かっていた。
すると本当に、彼女が顔を上げた。
その目に浮かぶものが何なのか、私には読み取れなかった。本当に私を見たのかどうかも分からない。これだけ大勢の観客がいるのだから。
ほどなくして、サウンドチェックが始まった。
野外のステージでは、楽器の音の響きが風にさらわれていく。そのかわり、風は肌に浮かんだ汗を少しだけ引かせてくれた。
ほんの少しだけ。
曲は印象的なイントロで始まった。けれど途中で、私は目を疑った。彼女のギターのピックガードに、赤い汚れがついている。
汚れは、見る見るうちに増えていった。
演奏が乱れていく。次第に、観客にも気づかれるほどになっていった。客席がざわめき始めても、彼女は手を止めなかった。
弾き続けている。いや、弾こうとし続けている。無表情だった顔に、別の何かが浮かんでいた。
あんな顔も、私は見たことがなかった。
やがてメンバーが、何人かのスタッフと一緒に駆け寄って彼女を囲んだ。
今夜、ステージの上で見たあの姿……
あれもまた、馨の一面なのだ。
彼女という人間の底は、いったいどれほど深いのだろう。
メンバーの一人が、馨の肩を抱いて歩き出した。馨は顔をしかめたけれど、抵抗はしなかった。そのまま舞台袖へ連れていかれ、ほかのメンバーもあとに続いた。
私が知っている馨というのは、そのほんの一部にすぎなかったのだ。
楽屋へ続く通路は、人と荷物でごった返していた。
私たちは、ほかのバンドやスタッフの邪魔にならないよう気をつけて進んだ。
王家の警護が二人、少し離れて後ろをついてくる。みな私服だ。私の前には、担当の塚本さんがいる。安全確認もしていない楽屋へ行きたいと私が急に言い出したので、彼女は渋い顔をしていた。けれど、今回だけは目をつぶってほしいと私が頼み込んだのだ。
それに加えて、主催者側とも話をつける必要があった。どんなやりとりがあったのかは知らないけれど、最終的には楽屋へ通してもらえた。
塚本さんが、ある部屋の前で足を止めてノックした。
少し待つと、扉がわずかに開いた。隙間から、警戒した目がのぞく。
「はい? どういったご用件ですか?」
「丸山さんに、一条さんが会いに来ているとお伝えいただけますか」
「え? ……ちょっと待っててもらえますか」
壁も扉も防音になっていた。演奏者のための会場なのだから、当然といえば当然だ。中で話し合っていたとしても、声はまったく聞こえなかった。
私たちは何分か、扉の前に立ち尽くしていた。
来るべきではなかったのかもしれない。そう思って踵を返しかけたとき、扉が大きく開いた。
中にいたのは、馨以外のメンバー三人と年上の女性だった。いちばん背の高い子が、興味深そうに私を見ている。頭の先から足元まで、じろじろと見られた。ほかの二人は、遠慮がちに微笑んでくれた。年上の女性は、おそらくマネージャーだろう。
マスクをしていたのも、怪しさに拍車をかけたに違いない。
気まずい空気が漂う中、ありがたいことにマネージャーが先に口を開いてくれた。
「馨が、あなたと二人で話したいって言ってるの。だから……」
二人で。
心臓が跳ねた。
「分かりました。塚本さん、少しのあいだ外していてもらえるかしら」
言うまでもなく、塚本さんは不服そうだった。
うちの学校の生徒は、入学時に身元を確認されている。けれど、警護の人たちが全員の名前を把握しているわけではない。彼らからすれば、馨は素性の分からない相手でしかない。
そうだとしても、私は王女だ。
私の言うことには、従ってもらわなければならない。
全員が出ていくのを待って、私は部屋に入り、後ろ手に鍵をかけた。
馨は折りたたみ椅子に腰かけていた。指には包帯が巻かれている。そばに立てかけたギターには、血の跡がまだ残っていた。
彼女はこちらを見ようともしない。その姿は、どこか打ちひしがれて見えた。
「……久しぶり、一条さん」
柔らかな声だった。
この声を聞いたのは、前に一度だけ。彼女が私の部屋に来た、あの日だ。
「ええ、本当に」




