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勇気なんて、武器にならない


倉庫街の石壁は、夜気を吸って冷たく湿っていた。


ユリスは最後尾を歩いていた。

前を行くレオルたちの背中は、もう角の向こうに消えかけている。

リュカは鉄道局の監督員に呼び止められ、現場に残っていた。


靴底には、まだ送り票が一枚貼りついている。


ユリスはしゃがみ込み、それを剥がした。

湿った紙が指先に貼りつく。


さっき、倉庫の壁越しに聞こえたセレスの声が、まだ耳の奥に残っていた。


『次で切った方がいいわ』


『怖いくせに、ああいう時だけ前へ出る。現場で一番扱いづらいタイプよ』


一言で十分だった。


ずっと薄く引きずっていたものが、腹の底で重く座り直す。


たぶん、自分はもう長くグレイヴァルにいられない。


そう思った時、最初に浮かんだのはレオルの顔でも、セレスの言葉でもなかった。


雨の日の停車場だった。


---


ユリスがヴェイルを嫌うようになったのは、理屈ではない。


もっと前。

もっと小さい頃に、もう決まっていた。


王都へ来る前、ユリスが育ったのは、線路が一本しかない小さな停車場の町だった。


王都の中央駅みたいに、何でも揃っている場所じゃない。

町の灯りも少ない。

停車場の結界灯も少ない。


だから、一つ落ちるだけで空気がすぐ変わる。


地方の停車場は、そういう意味で王都より正直だった。


町外れの停車場。


低い屋根。

短いホーム。

白い壁。


列車は一日に数本しか来ない。

町の人間は、誰がどの時間に来るかを大体知っていた。


ユリスは、あの場所が好きだった。


線路の下から来る震え。

蒸気の匂い。

濡れた鉄の冷たさ。

遠くから近づいてくる、車輪の重い音。


姉のエリナは、もっと好きだった。


ユリスより四つ上。

足が速くて、口が悪くて、でも困っている人を見ると真っ先に走る人だった。


小さな町の停車場なんて、数年もすれば飛び出して、もっと大きな場所へ行く。

本人も、周囲も、それを当然みたいに思っていた。


「エストラって、中央駅の屋根がガラスなんだって」


夕方のホームで、エリナはよくそう言った。


「上を見たら空が見えるらしいよ。雨の日は灰色で、晴れの日は白くて、夜は灯りが映るんだってさ」


「そんなに大きいの」


「大きい。新聞売りも何人もいるらしいし、列車もひっきりなし」


「じゃあ、ずっと賑やかなんだ」


「そ。世界がずっと動いてる感じ」


その言い方が、ユリスは好きだった。


世界が動いている。

線路の先には、自分たちの知らない場所がある。

停車場に立っていると、それだけは分かった。


一度だけ、停車場で荷崩れがあった。


積み替え中の木箱が崩れて、駅員の足を挟んだ。 大した怪我ではなかった。だが男は痛みで動けず、周囲は誰も手を出さなかった。


エリナが走った。


ユリスより先に。 誰より先に。


木箱を一つ引いて、男の足を抜いた。 それだけだった。


駅員は礼を言った。 エリナは「重かっただけでしょ」と笑って、すぐ元の場所へ戻った。


ユリスはその時、自分が動けなかったことの方を覚えている。


姉は走れて、自分は止まっていた。


それが恥ずかしいとか、悔しいとか、そういう整理のつく感情ではなかった。 ただ、姉の背中が遠かった。


あの日までは。


---


倉庫街の石壁が背中に冷たい。

遠くで貨車の連結音がする。


ユリスは一度だけ息を吐いた。

白い息が、旧六番線の暗がりに溶けて消えた。


---


雨だった。


季節はもう春に入っていたのに、風は冷たかった。

停車場の屋根から、細い水が何本も垂れていた。


エリナは午前の荷受けを手伝っていた。

ユリスはその横で、木箱の送り票を読んで遊んでいた。


宛先。

区画。

番号。


読める字と読めない字。

濡れた紙の端を指で押さえながら、声に出さずになぞっていた。


結界灯が落ちたのは、その時だった。


停車場の灯りは少ない。

少ないから、一つ消えるだけで空気が変わる。


誰かが「あれ」と言った。

誰かが「中へ」と言った。


その次の瞬間には、もう遅かった。


ホームの先が伸びた。


線路の上を霧が這う。

雨雲より低い暗さが、屋根の向こうへ降りてくる。

人の声が遠くなる。


ノクトヴェイルだった。


小さな町では、まず駅員と町の巡邏が外へ人を逃がす。

ヴェイルの中へ踏み込む本職は、王都から呼ばれる。

その遅れが、子どもの目にはひどく長く見えた。


ユリスは、その時初めてヴェイルを見た。


怖い、と思う前に身体が止まる。

走れと叫ばれているのに、足が床から剥がれない。

息を吸っているはずなのに、胸の途中で止まる。


エリナがユリスの手を掴んだ。


痛いくらい強く。


「走って!」


最初の言葉は、それだった。


ユリスは動けなかった。


霧の向こうで何かが立ち上がる。

人の形に似ていて、人ではない。

長い腕。

黒い布。

濡れた紙。


どれも違って、どれも同じだった。


エリナがもう一度、ユリスを押した。


「走れ、ユリス!」


「でも――」


「いいから行け!」


その声が怒鳴る形になるのを、ユリスはその日初めて聞いた。


次の瞬間、影が来た。


腕だったのか、紙だったのか、今もよく分からない。

ただ、エリナの肩がそれに押されたのだけは覚えている。


ユリスは転んだ。

そのまま誰かに引かれた。たぶん駅員だった。


立ち上がった時には、エリナとの間に霧の暗さが入り込んでいた。


まだ見えていた。

見えていたのに、遠かった。


「先に行って!」


それが最後だった。


ヴェイルがどう閉じたのか、ユリスはちゃんと覚えていない。


あとからヴァンガード――ヴェイルの中へ踏み込み、救助と討伐を担う公認の現場職――が来たこと。

生き残った人たちが互いの名前を呼んでいたこと。

ホームの端で誰かが靴を拾っていたこと。


残っているのは、そのくらいだ。


エリナは戻らなかった。


靴だけが残った。


片方だけ。


それからだった。


片方だけの靴を見るたびに、胸の奥が縮む。

理由は考えないようにしていた。


ヴェイルを壊したかった。


壊せる側へ行きたかった。

あの日、ただ置いていかれるしかなかった自分と違うものになりたかった。


---


ユリスは目を開けた。


まだ、倉庫街の石壁に背中を預けていた。

送り票がまだ手の中にある。


---


だから十五になった時、ユリスは本気で願った。


攻撃のシジルが欲しい。


シジル。

人が十五の頃に一つだけ得る、生涯固定の力。

それはこの世界で、才能であり、値踏みであり、人生そのものだった。


《断光》でも、《火槍》でも、《鉄壁》でもよかった。

前に立てるものが欲しかった。

ヴェイルの中へ踏み込める力が欲しかった。


判定所は、町に一つしかない白壁の古い建物だった。


朝から同年代の子どもたちが並ぶ。

一人ずつ呼ばれ、ルーメン板へ手を置き、記録係が結果を書き取る。


「《火花》」

「《保存》」

「《測量》」


生活に役立つシジルが多かった。


たまに空気が変わる。


「《火槍》」

「《鋼腕》」

「《遠視》」


そういう名が出ると、待合のざわめきが一段だけ上がる。

羨望と納得が混じった、あの音。


ユリスは拳を握ったまま順番を待った。


呼ばれて中へ入る。

判定官が二人。

補佐が一人。

記録係が一人。


古いルーメン板の前に立ち、手を置く。


灯りが鈍く光る。


そこまでは普通だった。


判定官の目が紙へ落ちる。

補佐も覗き込む。

記録係のペン先が止まる。


嫌な沈黙だった。


「……ユリス・レイン」


「はい」


「発現したシジルは――」


そこで判定官は一拍だけ黙った。


本当に短い間だった。

だが、その一拍で十分だった。


「《勇気》」


意味が分からなかった。


「……は?」


口から出ていた。


《勇気》。


武器の名前ではない。

属性でもない。

何かを壊す言葉でもない。


ただの、曖昧な二文字だった。


たった二文字。

それなのに、あまりにも武器の名前に見えなかった。


この国では、武器に見えないシジルは、それだけで半歩ぶん後ろへ置かれる。


補佐が困ったように言う。


「補助系、でしょうか」


判定官も歯切れが悪い。


「条件型の、精神補助……かもしれませんな」


かもしれません。


分かっていないのだと、ユリスにも分かった。


「何が……できるんですか」


判定官たちは視線を交わした。


「それは今後の訓練と実地で――」


「発現初期には詳細が不明な例もあります」


「少なくとも、判定名は《勇気》です」


名前だけが先にあって、中身が分からない。


そんなものがあるのかと、ユリスは思った。

あるのだとしても、どうして自分がそれなのかと。


判定所を出ると、待合の空気が変わるのが分かった。

結果は外まで漏れていたらしい。


最初に声を上げたのは、前の組にいた背の高い少年だった。


「勇気だってよ」


「勇気?」


「それ、シジルなのか?」


「性格の話じゃないの?」


笑う声。

首をかしげる声。


その中に一人だけ、何も言わずに目を逸らした子がいた。

その目の逸らし方が、笑われるよりきつかった。

可哀想だと思われている、と分かったからだ。


殴りかかれたらよかった。


でもユリスは、そういう時に殴れる人間ではなかった。


その夜、判定票を机に置いて、何度も見た。


《勇気》。


短い。

軽い。

どう見ても武器じゃない。


紙を握り潰そうとして、できなかった。

潰しても結果は変わらない。

シジルは変わらない。


自分はまた、戦える側へ行けない。


その絶望が、一番きつかった。


---


それでも、ユリスはヴァンガード候補課程――ヴェイル災害の現場へ出る公認職を育てる訓練課程――を辞めなかった。


王都の軍に入る道も、騎士団へ行く道も、ユリスには最初から遠かった。

ああいう場所は、まず分かりやすく強い者を取る。


だからヴェイルの現場へ残る道は、結局ヴァンガード候補課程しかなかった。


《勇気》がどれだけ訳の分からないシジルでも、ヴェイルの現場から離れる方がもっと嫌だったからだ。


遠くから見ているだけでは駄目だった。

誰かが取り残される場所に、自分がいない方がもっと嫌だった。


だから訓練場へ通った。


評価は低かった。


模擬戦では目立たない。

火力もない。

防御も薄い。

《勇気》なんて名前は、それだけで笑われやすかった。


けれど、救助訓練だけは落とさなかった。


負傷者の搬送。

導索の補助。

応急灯の扱い。

崩れたルートからの退出。

瓦礫の下に人がいる想定の手順。


そういう地味な科目だけ、ユリスは真面目だった。


真面目というより、そこを抜くと本当に何も残らなかった。


教官の一人が、訓練後に言ったことがある。


「お前、戦闘成績は下の中だが、救助手順だけは変に投げないな」


褒め言葉ではなかった。

分類の言葉だった。


下の中。


その程度。


それでも、課程の終わりに王都から人員照会が来た。


公認パーティ、等級サードの「グレイヴァル」が補助枠を一人探している。


前衛ではない。

戦闘の主力でもない。


荷運び。

予備導索。

記録補助。

現場搬送。

補給。


危険度は高いが、雑務を嫌がらない人員が欲しい。


教官は書類を机に置いて言った。


「正直、お前に来る話としては悪くない」


その言い方の意味は、ユリスにも分かった。


《勇気》なんて曖昧なシジルの人間に、前衛の席は来ない。

戦力として欲しがられることもない。


それでも王都行きの口があるなら、断る理由は少ない。


「……補助枠、ですよね」


「そうだ」


「戦闘員ではなく」


「普通はアプレンティス(見習い)から現場になれていくものだが、補助ならサードでも大丈夫だろう」


教官は少しだけ声を落とした。


「グレイヴァルは最近名を上げてきた期待の新鋭だ。現場経験は積める。合うかどうかは別だが、お前がヴェイルの現場に残りたいなら、たぶんここしかない」


ここしかない。


その一言で十分だった。


ユリスは書類に名前を書いた。


嬉しかったわけではない。

むしろ屈辱の方が大きかった。

戦う側としてではなく、雑務として必要とされたのだと分かったからだ。


それでも王都へ行ける。

ヴェイルの現場に立てる。


それだけで、手は止まらなかった。


王都に来てからのことは、もっと単純だった。


グレイヴァルは最初から、ユリスを戦力として見ていなかった。


荷物持ち。

補助。

予備。


いても困らないが、前にはいらない。

そういう位置だ。


それでも、結果だけ見れば、グレイヴァルは勝った。

危険度の高い案件も越えた。

レオルは上へ行き、セレスもグレンダルもリュカも、それぞれ実績を積んだ。


だからユリスは、自分が役に立っているのだと思いたかった。

荷物持ちでも、補助でも、雑務でも、現場に残れる理由になるならそれでいいと思った。


思っていた。


ついさっきまでは。


---


倉庫街を抜けると、グレイヴァルの宿舎が見えてきた。


灯りのついた窓。

三階の角部屋だけ、少し明るい。

レオルの部屋だ。


先に歩いていた三人は、もう扉の中へ入っていく。

ユリスだけが石段の前で数歩止まった。


手の中の送り票は、汗で少し柔らかくなっていた。


『次で切った方がいい』


セレスの声が、もう一度だけ頭の中で鳴る。


たぶん本気だ。


軽口ではない。

レオルも否定していなかった。


次の案件で、本当に切られるかもしれない。


そう思った時、胸の奥に浮かんだのは、怒りでも悔しさでもなかった。


先に来たのは、空白だった。


切られたら、どこへ行く。

何になる。

《勇気》なんてシジルで、どこに残れる。


答えはない。


それでも、頭の奥には別のものが残る。


旧六番線の貨車。

倒れていた二人。

手を伸ばしていた見習い。

あのまま自分が動かなかったら、どうなっていたか。


ユリスは指を握った。


まだ少し震えている。


怖い。

次も、たぶん怖い。

切られるかもしれない。

邪魔だと思われている。


それでも、あの場所に人が残っていたら、たぶんまた行ってしまう。


それが一番、嫌だった。


嫌なのに、そうなると分かってしまっていることが。


宿舎の扉の向こうで誰かが笑った。

たぶんグレンダルだ。

そのあとにセレスの低い声。

レオルの声は聞き取れない。


ユリスは送り票を握り潰した。


紙は柔らかく潰れた。


《勇気》。


勇気なんて、武器にならない。


そう思ったまま、ユリスは扉を開けた。


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