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青白い灯の下で


結界灯が、もう一度だけ大きく明滅した。


白くなる。

細くなる。

戻る。


そのたびに、グレム村の真ん中の空気が少しずつおかしくなる。


戸口から顔を出す者。

上着を引っかけたまま外へ出てくる者。

子どもの肩を抱いて広場の方を見る者。


誰もまだ、何が起きるのか分かっていない。

ただ、嫌な感じだけがある。


冷たい、とは少し違う。

空気そのものへ、見えない重さが混じっていく。

胸の真ん中へ薄い石板を何枚も差し込まれたみたいに、息が浅くなる。


アシュは家の前で立ち止まっていた。


マラが低く言う。


「アシュ、下がりな」


返事をする前に、広場の向こうで女の声が上がった。


「……え?」


驚きの声というより、見間違いを疑う声だった。


みんなの視線がそちらへ集まる。


水路沿いの細い路地。

昼なら子どもが駆け抜けるだけの狭い道の入口に、黒い膜みたいなものが垂れていた。


布じゃない。

煙でもない。

夜の暗さだけを剥がして、そこへ押し込んだみたいな黒だ。


表面がぬるりと脈打ち、石壁と地面の境目をじわじわ飲み込んでいる。


誰かが言った。


「……ヴェイルだ」


その一言で、村の空気が跳ねた。


ざわめきではない。

恐慌の一歩手前だった。


誰かが子どもの名を呼ぶ。

戸が閉まる。

逆に開く。

犬が低く唸り、すぐに尻尾を巻いて下がる。


アシュの背筋が冷えた。


ノクトヴェイル。


聞いたことはある。

町の方でたまに出る。

結界灯の不調のあと、空気が濁って、道が歪んで、人が閉じ込められる災害。

でも、グレム村みたいな小さな場所で、本当に出るとは思っていなかった。


その時、広場の端で小さな影が止まっていた。


トーマだ。


家から飛び出してきたのだろう。

路地の方を見て、半歩だけ前に出ている。


その先、黒い膜の向こうに、さらに小さな影が見えた。


近所の小さな女の子、エナだった。


籠をひっくり返し、芋を散らして、路地の奥で座り込んでいる。

泣いている。

立てない。


「トーマ、戻れ!」


大人の怒鳴り声が飛ぶ。


だが、その声でトーマの足は逆に止まった。


恐怖はそう来る。

走れと言われても、身体の方が固まる。


アシュの頭が、そこで真っ白になった。


助ける。


それだけだった。


一歩、踏み出す。


その瞬間、周りの空気が変わった。


胸を押していた重さが、今度は外へ広がった。


消えたわけじゃない。

怖い。重い。嫌だ。

でも、その重さはアシュを潰す代わりに、路地の入口と黒い膜の周囲へ濃く落ちた。


黒い膜の脈が、目に見えて鈍る。

伸びかけた影が、途中で粘つく。

石畳の上を這おうとしていた黒が、急に足を取られたみたいに遅くなる。


同時に、広場の大人たちの顔が強張った。


一歩出ようとして、膝が止まる。

近いはずの路地が、妙に遠く見える。

左へ寄ろうとしたはずなのに、足の向きがずれる。


村長が顔をしかめた。


「……何だ、これ」


誰かが短く息を呑む。


「重い……」

「道が、遠い」

「何で、あそこまでが……」


黒い膜だけじゃない。

その周りの空気そのものが、他人を拒んでいた。


なのに、アシュだけは前へ出た。


自分でも何をしているのか分からない。

ただ、ここはもう自分の空間だと身体が知っていた。

踏み込めば、止まるのは向こうだ。

怯むのは向こうだ。


《王域》


さっき見た文字が、頭の奥で熱を持った。


意味は分からない。

でも今、広場と路地の境目だけは、明らかにアシュの側へ傾いていた。


「トーマ、動くな!」


アシュが怒鳴る。


その声に、トーマはびくっとする。

でも、今度はその場に踏みとどまった。


一歩出ていたら、膜の脇から伸びた黒に足を取られていた。


アシュは走った。


速いわけじゃない。

けれど、止まらない。


ノクトヴェイルの圧の中で、一人だけ止まらない。


それだけで、十分に普通ではなかった。


路地の入口まで来た時、アシュは気づいた。


切れる場所がある。


黒い膜は壁みたいに見える。

だが、壁じゃない。

表面の揺れの中に、一本だけ脈の薄い線がある。


光の縫い目みたいな、ごく細い筋だ。

そこだけが、変にまっすぐ見える。


「アシュ!」


マラの声だった。

止める声だ。

でも、止まれる状況じゃない。


アシュは広場の脇の薪束から、薪割り斧を掴んだ。


柄はざらついている。

冷たい。

手に合わない。

でも、今はそれでいい。


膜の前へ出る。


近づくと分かる。


黒い。

深い。

ただ暗いだけじゃない。

その奥に、別の空気がある。

湿っていて、古くて、息を詰まらせる圧がある。


普通なら、子どもが近づくだけで足が竦む。


でも今のアシュには、怖さと一緒に、もう一つ別の確信があった。


――そこだ。


斧を振り下ろす。


重さは、ほとんど感じなかった。


木を割る感触じゃない。

空気の中へ混じっていた見えない一本を、刃先がぴたりと捉えて、そのまま世界ごと引き裂いた感触だった。


次の瞬間、黒い膜が裂けた。


音が遅れて来る。


布を裂く音じゃない。

もっと高い。もっと嫌な。

薄いガラスを何枚も重ねて内側から割ったみたいな、細く鋭い破裂音だった。


膜だけでは終わらない。


その奥の暗さごと、まっすぐ割れた。


路地の入口から奥まで、黒が左右へ押し分けられる。

石壁に白い線が走る。

散っていた芋の上を、見えない刃が一直線に通る。

路地の隅に置かれていた木箱の角が、遅れてすぱっと落ちた。


広場の誰かが、息を呑んだ。


アシュ自身も、目を見開いていた。


今の何だ。


斧で切ったんじゃない。

木箱まであんなふうになるはずがない。


でも考えるより先に、身体が動いた。


エナのところへ走った。


重さが薄い。

完全に消えたわけではない。

けれど、さっきまで路地を塞いでいた圧が薄れていく。


エナを抱き上げる。


軽い。

震えている。

頬が冷たい。


「掴まれ!」


自分でも驚くほど、声はぶれなかった。


戻る時、裂け目の左右で黒い影が蠢いた。

だが、その動きさえ遅く見える。


広場へ跳び戻る。


マラがエナを受け取った。

《乾布》が走る。

濡れた頬と上着の冷えがふっと抜ける。

エナの呼吸が少しだけ戻る。


「エナ! エナ!」


母親が泣きながら駆け寄る。


その声で、広場が一気に動いた。


「今のうちだ!」

「広場へ寄れ!」

「散るな!」


村長が怒鳴る。

トーマの父が荷車を引く。


さっきまで足の止まっていた大人たちが、今は動けている。


さっきまでの重さが消えたわけじゃない。

でも、路地の黒は裂かれ、伸びが止まり、村を飲み込む勢いを失っていた。


小規模。


そう呼ぶしかない程度のヴェイルだった。

だが、その小規模を、一人の十五歳が真正面から切り裂いた。


判定官が数歩前へ出て、止まった。


顔が真っ青だった。


「今の……」


その先が続かない。

言葉にすると、本当になってしまうみたいな顔だった。


村長が低く問う。


「何だ」


判定官は、アシュの手、斧、裂けた膜、落ちた木箱の角を順に見た。

喉が鳴る。


「……ヴェイル膜を、断ちました」


答えになっていない。

でも、その場にいる全員にとっては十分すぎた。


トーマが近づいてくる。

顔はまだ青い。

なのに、目だけが変に明るい。


「アシュ」


声が少し上ずっている。


「今の、すげえ」


アシュはすぐに答えられなかった。


すごい。

そうかもしれない。

でも、気持ちは全然よくない。


広場の空気が変わったからだ。


さっきまでの怯えだけじゃない。

そこへ、別のものが混じった。


助かった子を見る目。

アシュを見る目。

ありがたい、だけでは終わらない目。


救った。

そのはずなのに、余計に遠くなった気がした。


マラがそばへ来る。


「手」


短く言う。


アシュが右手を出すと、掌の中心に赤い線が一本走っていた。

切れてはいない。

でも、皮膚の内側へ刃を押し当てたみたいな痕だ。


マラの顔がさらに険しくなる。


「家に入るよ」


「でも」


「入るんだよ」


その言い方に逆らえなかった。


広場の端では、結界灯がまだ不安定に明滅している。


青白い。

細い。

何かを言いかけて、言わない光だ。


判定官はもう記録札へ何かを書いていた。

さっきより速い。

今度は迷っていない。

震えながら、急いでいる手だった。


それを見た瞬間、アシュは分かった。


今ので終わらない。


助けた。

でも終わらない。

むしろ、今ので始まった。


グレム村の夜は、まだ浅い。

なのに、広場の真ん中だけが、もう別の場所みたいに冷えていた。


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