保護という名前の手
朝、グレム村へ来たのは、役人ではなかった。
馬の音が、坂の下から上がってくる。
乾いた蹄。
車輪。
金具の鳴る音。
村の朝には、重すぎる音だった。
アシュは家の窓布の隙間から、それを見ていた。
空はまだ薄い。
山の端に白い光が引っかかっている。
けれど、村の真ん中だけは昨夜の続きを引きずっていた。
結界灯は戻っている。
青白さも、見た目だけなら普通だ。
だが、広場の石畳にはまだ浅い裂け目が残っている。
木箱の切れた角も、そのままだ。
昨夜、何も起きなかったことにはできない形だった。
坂を上がってきたのは三組だった。
先頭は、濃い灰の外套を着た男たち。
馬上が二人、徒歩が三人。
剣帯。短銃。揃いの腕章。
王都の正規でも町役場でもない。
地方貴族の私兵だと、見れば分かる下品な整い方だった。
その後ろに、黒い幌馬車が一台。
飾り気はない。
だが車輪だけ妙に高い。
荷を積む箱に見せかけた、人を入れるための形だった。
最後に、細身の男が一人、馬も使わずに歩いてくる。
黒手袋。細い杖。眼鏡。
村の土が靴につくのを嫌がる歩き方をしていた。
マラが小さく息を吐いた。
「……早すぎる」
アシュが振り向く。
「知ってたのか」
「知るわけないだろ」
「じゃあ何で」
「昨日のうちに報せが走った。来るなら、こういう手合いが一番早いってだけだよ」
声が低い。
怒っているというより、もう嫌な予感が当たったという顔だった。
家の戸を叩かれる前に、村の方がざわめき始めた。
窓が少し開く。
すぐ閉まる。
水路の向こうで、誰かが子どもを家へ入れる。
「出るよ」
マラが言う。
アシュが何か言う前に、もう扉へ向かっていた。
「俺も」
「だめだ」
「母さん」
「今はまだだ」
その「まだ」が嫌だった。
まるで、出る時は来ると決まっているみたいで。
とにかく、アシュも外へ出た。空気は冷たかった。
でも昨夜みたいな重さはない。
代わりに、人間の嫌な匂いがした。
革。油。馬。煙草。香の強い整髪料。
村にない匂いばかりだ。
村長が広場の中央へ出る。
その背中へ続くように、マラも歩く。
アシュは半歩遅れて出たが、すぐにマラの腕で制された。
「後ろにいな」
先頭の男が馬を止める。
三十代半ばくらい。顎が太く、目だけが細い。
腕章の縁に、崩した紋章が刺繍されている。
私兵隊長 バルク・デーヴ。
名乗る前から、力で押す種類の男だと分かる顔だった。
幌馬車の脇へ回った痩せた中年男が、ゆっくり手袋を直した。
服はいい布だが、村の空気に合わない。
口元だけ丁寧に笑っている。
黒市場回収屋 ユーノ・マスカ。
人を見る目ではなく、値札を見るような目をしていた。
細身の男は、広場の端で足を止め、結界灯と石畳の裂け目を順に見ていた。
こちらにはまだ視線を寄越さない。
一番気味が悪いタイプだった。
村長が口を開く。
「グレム村に、何の用だ」
バルクが馬上から広場を見回した。
見回すというより、数えた。
戸数。男手。逃げ道。広場の広さ。
そういう見方だった。
「昨夜、異常判定と小規模ヴェイル発生の報せがあった」
声が大きい。
広場全体へ響かせるための声だ。
「我々は保護と確認に来た」
その「保護」で、村の空気が少しだけ冷えた。
ユーノがすぐ横から、柔らかく口を挟む。
「ご安心ください。危険なことをしに来たのではありません」
「危険じゃないなら、その人数はいらないだろ」
と村長。
「念のためですよ」
念のため。
昨日から嫌いな言葉だった。
細身の男が、そこで初めて口を開いた。
「結界灯の記録を見ます」
声が薄い。
人と話している感じがない。
物の状態を読む時の声だった。
村長が眉をひそめる。
「誰だ」
「観測補助です」
「どこの」
「それは本題ではありません」
答えない。
それだけで十分に嫌な感じがした。
ユーノが、そこで初めて視線を動かした。
まず判定官を見る。
判定官は広場の端にいた。朝から顔色が悪い。
ユーノと目が合うと、露骨ではないが、ほんの一瞬だけこちらへ視線を滑らせた。
次にユーノは、広場の視線の集まり方を見た。
村人の目は、誰も同じ一点を避けている。
避けているくせに、そこから離れない。
その中心で、マラが半歩かばうように立っている。
それだけで十分だった。
ユーノの笑みが、少しだけ深くなる。
「アシュ・レヴァン君ですね」
その言い方に、アシュの背中がざらついた。
答えない。
ユーノは気にせず続ける。
「昨日、判定で二種発現。その後、小規模ヴェイル発生。さらにヴェイル膜切断」
「確認だけです。怖がることはありません」
その言葉の中で、一番信用できないのが最後だとすぐ分かった。
マラがアシュの前へ半歩出る。
「この子は村の子だよ」
「もちろん」
「確認なら村長だけで足りる」
「足りません」
「何で」
「珍しいからです」
ユーノはそれを、悪びれもせず言った。
珍しい。
アシュの胸の奥に、昨日から刺さったままの棘が少し深く入る。
普通じゃない。分からない。珍しい。
人ではなく、先にそっちで呼ばれる。
トーマが水路の向こうから顔を出していた。
父親に肩を掴まれて、引っ込められる。
その動きまで、今日はやけにはっきり見えた。
バルクが馬から降りる。
靴が石畳へ乗る。
それだけで、広場が狭くなった気がした。
「さっさと済ませる」
「何をだ」
と村長。
「確認だ。危険物かどうか」
「危険物?」
マラの声が低くなる。
バルクは少しも引かなかった。
「二種発現だろう。異常だ。昨夜もヴェイルに干渉している」
「助けたんだよ」
とマラ。
「結果がどうあれ、異常は異常だ」
その言い方で、村の大人たちの顔がまた変わった。
助けた。
でも異常。
その二つを並べられると、みんな少しずつ口を閉じる。
アシュは、その沈黙が腹立たしかった。
「危険物じゃねえよ」
広場の空気が止まる。
マラが小さく「アシュ」と言った。
止める声だ。
でも、もう出た。
バルクがゆっくり視線を落とす。
「ほう」
「助けただけだ」
「昨夜の話なら聞いている」
「じゃあ分かるだろ」
「分からん」
バルクはそこで笑った。
笑っても、目だけは冷たい。
「助ける時に強い化け物ほど、その後が面倒なんだ」
その一言で、アシュの背中に熱が走った。
一歩、前へ出る。
村の空気が、ぴり、と張る。
昨日と同じだった。
自分が前へ出た瞬間、広場の端がわずかに遠くなる。
馬の耳が不安そうに動く。
バルクの後ろに立っていた私兵の一人が、無意識に足をずらした。
《王域》
まだ制御なんて分からない。
でも、怒りと一緒に何かが広がる感覚だけはある。
バルクの眉が初めて動いた。
「……今の何だ」
アシュは答えない。
代わりに、バルクの後ろの私兵たちの足が鈍った。
馬が鼻を鳴らし、半歩だけ下がる。
剣の柄に手をやった男が、そのまま少し止まる。
距離の測り方が狂う。
たった数歩のはずなのに、アシュまでが妙に遠い。
ユーノだけが、その変化を見て口元の笑みを深くした。
「興味深いですね」
その一言が、気持ち悪いくらい静かだった。
「バルク隊長、刺激しない方がいい」
「子どもだぞ」
「だからです」
ユーノの目は、もう完全にアシュを物として見ていた。
珍しい道具。
高く売れる危険物。
そういう目だった。
マラが言う。
「帰りな」
「帰りません」
とユーノ。
「必要な確認が終わっていない」
「何を確認する」
「移送可能かどうか」
移送。
今度は、はっきり言った。
村のあちこちで息を呑む音がした。
トーマの父が、さっと子どもを背に回す。
イーナの家の窓布が、ほんの少しだけ開いて、すぐ閉じた。
アシュの声は、自分でも驚くほど低かった。
「行かねえよ」
「まだ決まっていませんよ」
「今、言っただろ」
「選択肢の話です」
ユーノは丁寧に言う。
丁寧なのに、内容だけが最低だった。
「村に残して、次にまたヴェイルが開いたら誰が責任を取るんです」
「――」
誰もすぐに返せない。
ユーノはそこへ畳みかけた。
「町預かりならまだまし。王都移送なら安全性は高い。そういう整理です」
「物みたいに言うな」
言ったのは村長だった。
ユーノは笑みを崩さない。
「違いますか」
「違う」
「では、次の異常が今夜起きたら、誰が責任を取るんです」
「……」
「この村で」
「……」
「この規模で」
その沈黙が、嫌だった。
理屈の形をしている。
でも、中身は脅しだ。
アシュはそこで初めて、はっきり思った。
怪物より、人間の方が嫌だ。
ヴェイルは黒い。
重い。
怖い。
でも、何をしようとしてくるかは見える。
こいつらは違う。
保護と言う。
確認と言う。
移送と言う。
きれいな言葉を使って、最初から奪うつもりで来ている。
細身の男が結界灯の根元へしゃがみ込み、石畳の裂け目をなぞった。
「膜断面が残っています」
誰にともなく言う。
「深層反応は浅い。だが、切断は明瞭」
「持てますか」
とユーノ。
「十分に」
持てる。
その言葉に、アシュはぞっとした。
何を、ではない。
自分をだ。
マラの手が、そっとアシュの腕を掴む。
強くはない。
でも、離す気がない手だった。
「帰りな」
もう一度言う。
今度は、広場全体へ向けてだった。
「この村で、昨日、何が起きたかはこの村が知ってる。助けた子も、見た人間も、ここにいる。あんたらの紙より先に、こっちには目がある」
バルクが鼻で笑う。
「目だけじゃ王都の命令は止まらん」
「王都の命令かどうかも怪しいね」
「言うじゃないか」
「分かるさ。王都の人間は、もっと面倒でも手続きをつける」
それはたぶん正しかった。
こいつらは速すぎる。
速すぎて、正式な匂いが薄い。
ユーノの笑みが、そこで少しだけ消えた。
「では、町まで同行してもらう形で――」
「断る」
「本人の意思だけで済む話では」
「断るって言ってる」
アシュは一歩、さらに前へ出た。
広場の空気が沈む。
今度ははっきり見えた。
バルクの後ろの私兵たちの足が鈍る。
馬が嫌がる。
石畳の上の距離がわずかに狂い、踏み出しかけた靴先が迷う。
バルクの顔から、笑いが消えた。
「本当に子どもか、お前」
「うるせえよ」
「昨夜の膜切りも本当らしいな」
「だから何だ」
「面倒だと言ってる」
そこで、バルクの後ろの一人がしびれを切らした。
「隊長、話が長い」
若い私兵だった。
苛立ちが先に出る顔をしている。
「引っ張って行けば済む話だろ」
そう言って、一歩前へ出る。
マラが動くより先に、その手がアシュの肩へ伸びた。
その瞬間だった。
広場の空気が、どん、と沈んだ。
馬がいななき、後ろ脚を跳ねる。
私兵の足が止まる。
伸ばしかけた腕が、あとわずかのところで進まない。
本人も驚いた顔で、肩から先を見た。
重い。
それが顔に出ていた。
たった一歩が遠い。
たった一人の子どもが遠い。
距離感が狂っている。
アシュは動かなかった。
動かないまま、その私兵を見ていた。
黒くはない。
怖くもない。
それでも、広場の中心だけはもうアシュの空間だった。
「触んな」
短く言う。
その言葉で、私兵の喉が鳴った。
ユーノの目が細くなる。
今度は笑っていない。
値踏みの目だけが残っている。
その時だった。
広場の端で、イーナの母が叫んだ。
「イーナ!」
みんながそちらを見る。
家の陰から、イーナが出てきていた。
顔色は悪い。
でも、両手を強く握って、広場の縁に立っていた。
「連れてくの?」
ユーノが目だけでそちらを見る。
「場合によっては」
「昨日、助けたのに」
「だから確認です」
「確認じゃないでしょ」
声は震えていた。
でも、引かなかった。
「怖いから判定やめた。巻き込まれたくなかった。……でも、連れてくのは違う」
その言葉で、広場の空気がもう一度変わった。
小さい変化だった。
でも、村の側へ少しだけ戻る変化だった。
トーマも、父の後ろから顔を出す。
「アシュは助けた」
誰かが続く。
「エナもな」
「見た」
「昨日、あれを切った」
「切らなきゃ、路地ごと飲まれてた」
小さな声だ。
強くはない。
でも、一人じゃない声になり始める。
ユーノはその気配を感じて、表情を薄く戻した。
「……今日はここまでにしておきましょう」
バルクが不満そうにそちらを見る。
「いいのか」
「村の熱が残っています。今は無理をしない方がいい」
「逃がすのか」
「逃げませんよ」
その言い方が、ぞっとするほど自信に満ちていた。
「報せはもう走っています。町も、王都も、いずれ動く」
ユーノは帽子も取らずに、ほんの少しだけ頭を下げた。
「本日はご協力感謝します」
誰一人、感謝された気はしなかった。
バルクたちは馬を返す。
幌馬車もゆっくり向きを変える。
細身の男は最後まで結界灯を見ていた。
去っていく音が坂の下へ消えるまで、村の誰も動かなかった。
アシュは握っていた拳をゆっくり開く。
掌の中心の赤い線が、昨日より少しだけ濃くなっていた。
マラが低く言う。
「見ただろ」
アシュはユーノから目を離さすに言った。
「怪物の方が、まだ分かる」
自分でも驚くほど自然に、その言葉が出た。
マラは何も言わなかった。
ただ、その横顔だけが少し苦かった。
広場にはまだ、馬の匂いと嫌な言葉だけが残っている。
保護。確認。移送。
全部、人の言葉だった。
そしてアシュは、その日初めてはっきり知った。
黒いものが来る夜より、
笑って近づいてくる人間の方が、ずっと嫌だ。




