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判定の日


朝のグレム村は、煙の匂いで始まる。


山あいの冷えは遅くまで残る。

踏みしめた土はまだ硬く、家々の屋根の端には、消え残った白が細く張りついていた。


低い石壁。

細い水路。

薪の山。

傾いた柵。


村の中央には一本だけ、古い結界灯が立っている。

青白い光が、朝の薄明るさの中でもかすかに脈を打っていた。


アシュ・レヴァンは、その結界灯を見ながら坂を下りていた。


十五歳。

少し癖のある黒髪。

まだ大人になりきらない顔立ち。

けれど背は同年代の中では高く、歩き方だけは妙に自信がある。

道の真ん中を当然みたいに歩く。


坂の途中で、薪が崩れる音がした。


「うわ、待て待て待て!」


年寄りの声だった。


見ると、家の前で薪を運んでいた老人が、抱えた束を落としかけている。

縄が緩んで、半分ほど足元へ雪崩れていた。


アシュはため息をつきながら駆け寄った。


「朝から何してんだよ、爺さん」


「お前、判定の日だろ。偉そうな顔で通り過ぎろ」


「通り過ぎたら、あとで母さんに俺が怒られる」


しゃがみ込んで、散った薪を拾い集める。

朝露を吸った木は少し重い。指先に冷たさが張りついた。


老人は鼻を鳴らした。


「そういうとこだけ真面目だな」


「だけって何だよ」


「言うことはでかい」


「実力はある」


「まだ判定前だ」


「関係ない」


拾い終えた薪束を縛り直して渡すと、老人は「ほれ」と干した林檎を一つ投げてよこした。

アシュは片手で受け取り、何でもない顔でポケットに突っ込む。


「ありがとな」


と、アシュ。


「おう。妙なシジル出すなよ」


「無茶言うな」


言い返して坂を下りる。

口ではそう言いながら、少しだけ気分は良かった。


そういう村だ。

狭い。近い。何をしたかすぐ広まる。面倒だ。

でも、嫌いではない。


下から、元気すぎる声が飛んできた。


「アシュー!」


トーマ・エインが坂を駆け上がってくる。

十二歳。息を切らしながらも、顔は朝から全力で明るい。


「今日だよな!?」


「ああ、そうだ」


「何が出ると思う?」


「すげえの」


「なんだそれ!」


「じゃあ、ものすげえの」


「同じじゃん!」


トーマはけたけた笑う。

アシュは笑われても気にしない。むしろ期待されるのは悪くない。


石垣の脇にもたれていたイーナ・フェルが、呆れたように口を挟んだ。


「朝からうるさい。あとアシュ、あんた絶対また大口叩いて怒られる」


「大口じゃない。事実だって言ってんだろ」


「まだ判定前でしょ」


と、イーナ。


「関係ない」


「はいはい」


と、イーナは肩をすくめる。


アシュは鼻で笑って続けた。


「イーナ、お前には《洗濯》とか出そうだな」


「それ、村で一番助かるやつでしょ」


と、イーナ。


「俺は嫌だ」


「私は便利でいいと思うけど」


「俺が?」


「無理ね。あんた、絶対細かい作業向いてない」


トーマがそこで吹き出した。


「分かる! すぐ雑になるもんな」


「お前まで乗るな」


「アシュ、縫い物とか絶対ぐちゃぐちゃ」


「やったことねえよ」


「やらなくても分かる」


と、イーナ。


後ろから、低い声が飛んだ。


「それは分かるねえ」


マラ・レヴァンだった。

アシュの母だ。


働き者の手をした女だった。

背は高い。腕も強い。朝の冷気なんてものともせず、洗い桶を片腕で抱えて立っている。

顔立ちはきつめだが、目の端に残る疲れとやさしさで、怒っている時とそうでない時はちゃんと分かる。


アシュは少しだけ肩をすくめた。


「聞いてたのかよ」


「聞こえるのよ。村が狭いからね」


「都合いい時だけ」


「都合が悪い時もだよ」


マラは桶を地面に置いた。

桶の中には洗いかけの布と、小さな木札が入っている。布からは、朝の水と石鹸草の匂いがした。


トーマが目を輝かせる。


「マラさんの《乾布》、今日も使った?」


「使ったよ」


と、マラが答える。


「干すの速いよなあ」


「便利だからね」


アシュは顔をしかめた。


「絶対やだ」


「何が」


と、マラ。


「母さんと同じの」


「《乾布》の何が不満なの」


「地味」


「朝の洗濯物が一瞬で乾くんだよ」


「地味」


「干した布がふわっとする」


「地味」


「包んだ食べ物が傷みにくい。遠出にも使える」


「それでも地味」


「村じゃ十分当たり」


「絶対やだ」


マラは小さくため息をついた。


「ほんと、見栄だけは立派だね」


「見栄じゃない。もっとこう、あるだろ。強そうなの」


「強そうって何」


「何かこう、どかんって感じの」


「なんだいそれは」


イーナが横で笑う。

トーマも一緒に笑った。


マラはアシュの前髪を指でかき上げた。


「寝癖」


「……うそだろ」


「今日ぐらい、しゃんとしな」


冷たい指先が額に触れる。

その手が、洗濯水の匂いをしていた。


マラはそこで、少しだけ真面目な顔になった。


「いいかい、アシュ」


「何」


「今日は判定の日だ。喧嘩の日じゃない」


「分かってる」


「役人相手に噛みつくな。偉そうにしすぎるな。変な顔するな」


「多いな」


「あと、終わったらちゃんと家に戻ってきな」


「子どもかよ」


「子どもだろ。十五だよ」


言い返しかけて、アシュは口を閉じた。

母が本気で心配している時の声だったからだ。


その代わり、洗い桶をひょいと持ち上げる。


「運べばいいんだろ」


「珍しいね」


「今日ぐらいは」


「毎日やりな」


「それは別」


マラが少しだけ笑った。

イーナも笑う。

トーマは「優しい!」と勝手に感動している。


アシュはうるさい、とだけ言って桶を数歩運び、家の前へ置いた。

やっていることは小さい。

でも、小さいことを当たり前みたいにやる人間だと、この村ではすぐ知られる。


村の中央の広場には、もう人が集まり始めていた。


井戸の脇。

水路の曲がり角。

結界灯の下。

畑帰りの男。

小さな子を抱えた女。

山へ入る前の猟師。

腰の曲がった年寄り。


みんな、仕事の手を少し止めて広場を見ている。


十五の判定日は、村にとって少し特別だ。

大きな町みたいに祝宴があるわけじゃない。楽隊も旗もない。

でも、その子のこれからが少しだけ変わる日ではある。


畑を継ぐか。

山へ入るか。

村に残るか。

外へ出るか。


アシュは、そのどれでもいいような、どれでもよくないような顔で広場を見た。


判定台は、結界灯の脇に置かれていた。


古い石台に、薄い金属板。

その前に掌を置くための輪。


麓の町から来た巡回判定官が、その後ろに立っている。

灰色の外套。革鞄。几帳面な記録札。

いかにも役所の人間という、硬い立ち方だった。


アシュは、ああいう立ち方が少し嫌いだった。

まだ何も起きていないのに、最初から「書類の順番」で人を見る顔が嫌いだ。


判定官は紙をめくり、顔も上げずに言った。


「アシュ・レヴァン」


「はい」


広場の空気が、ひとつぶん静かになる。


アシュは前へ出た。

結界灯の青白さが、近づくと少し冷たい。

朝の光とは違う、薄い骨の色みたいな光だ。


判定官が事務的に告げる。


「掌を置いてください。深呼吸を」


「はい」


「余計な力は入れないように」


「余計な想像は?」


「不要です」


「無理だろ」


つい口から出た。


後ろで、トーマが吹き出した。

イーナが「静かに」と小声で言う。

マラは何も言わなかった。ただ、広場の端から一歩だけ前へ出た。


アシュは掌を置いた。


冷たい。

石の冷えとは違う。

金属の輪が、皮膚じゃなく、その下にある何かへ触ってくる感じがした。


息を吸う。

肺が少し狭い。

吐く。

指先に細い痺れが走る。


結界灯の光が、ひとつ脈打った。


判定台の金属板へ、細い線が浮かび始める。

古い王国式の記号。擦るような音を立てながら、表面に文字が刻まれていく。


ざわ、と広場が揺れた。


判定官が読み上げる。


「――《王域》」


広場が、しんとした。


誰も、すぐに反応できない。


トーマが一番先に小さく言った。


「……なにそれ」


「聞いたことない」


と、イーナも言った。


広場の後ろで、誰かが「王?」と呟く。

別の誰かが「王ってついてるな」と返した。


「すごいのか?」

「さあ……」

「でも、なんか、すごそうではある」

「すごそうっていうか……嫌な響きだな」


ざわめきはある。

だが、それは理解から来るざわめきではない。

分からないものが出た、という種類のざわめきだった。


アシュ自身も分からなかった。


《王域》


王、という字面だけがやけに強い。

強そうだ。でかそうだ。派手そうだ。

でも、それ以上は分からない。


判定官だけが、紙へ落とす視線を一瞬止めていた。

ほんの一瞬。だが、止まった。


普通なら、ここで終わりのはずだった。

一人一つ。それがこの国の前提だ。


だが、判定台の光は消えなかった。


むしろ、次は強くなる。


金属板の上を走る線が、今度はさっきより深い。

音も違った。擦る音ではない。

もっと細い。もっと鋭い。

内側から板を、刃でゆっくり引いたような音だった。


アシュの掌の下で、何かがもう一段冷えた。


指先が痛い。

痺れじゃない。

切れる前の皮膚みたいな、薄く鋭い痛みが手のひらの中心へ集まっていく。


判定官の顔色が変わった。


「……まさか」


浮かび上がる。


二つ目の文字が。


今度は誰が見ても分かる形で、広場の空気が凍った。


「《天断》」


判定官の声が、最後だけ掠れた。


静かになった。


さっきまで聞こえていた鶏の声も、風に鳴る柵の音も、急に遠くなったみたいだった。

結界灯の青白い光だけが、広場の真ん中で異様に冷たい。


アシュは、自分の手を見た。


《王域》

《天断》


二つ。


意味は、まだ頭が追いつかない。

でも、周りの顔が先に答えを出していた。


トーマは口を開けたまま固まっている。

イーナは、初めて言葉を失っていた。

マラは一歩前へ出た姿勢のまま、動かない。


そして、判定官の顔。


それが一番はっきりしていた。


役人の顔じゃない。

巡回役の顔でもない。

分からないはずのものを、分かってしまった人間の顔だった。


その表情を見た瞬間、アシュの胸に小さな棘みたいなものが刺さった。


祝われるはずの日の、最初の冷たさだった。


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