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前に立つ名


朝のルーメン庁は、今日も静かな顔で回っていた。


石床。

机。

判。

有線鍵盤。

報告書。

革靴の音。


見た目は何も変わらない。

けれど、紙の上では、昨日までの評価がもう動き始めていた。


オスカーは、自席の上に報告書を三つ並べていた。


現場統括局の記録。

燈衛騎士団の現場証言。

王都日報の抜き刷り。


旧避難通路。

待避所側排出。

前列停止二度。

退却判断一度。

単独突破試行、失敗。

ユリス・レイン前進時、前列・中列・停止者、全て動作再開。


オスカーは一枚ずつ紙をめくる。

その横で、淡い光が文字の縁に薄く滲んでいた。


《記録》。


見聞きした事実の時刻、位置、順序、人数。

そういうものを紙の上へ、きっちり固定するシジルだ。


人の感情までは写さない。

だが、順番は誤魔化しにくくなる。


誰が先に止まり、どこで戻り、何が遅れたのか。

その帳尻だけは、嫌でも揃ってしまう。


オスカーは、別の古い書類を開いた。


旧六番線。

旧工区。

第三避難路。

南水路裏手。


書式も、時期も、担当官も違う。

それなのに、《記録》を重ねると似すぎていた。


ユリス・レイン前進時――


そこから先だけ、場が戻っている。


オスカーは小さく息を吐いた。


「……帳尻が合ったな」


独り言だった。


前は合わなかった。

派手な方の報告書と、地味な方の報告書。

顔のある功績と、名前の出ない功績。


どちらも紙に残っていたのに、並べるには材料が足りなかった。


今は違う。

揃った。


オスカーは新しい用紙を引いた。

《記録》の光が、まだ薄く指先に残っている。


再評価対象、グレイヴァル。

適格上申、アークライト。

ユリス・レイン、補助扱い見直し。


そこまで書いて、ペン先が一度止まる。


役割欄。

補助。

前衛。

中衛。

後衛。


オスカーは少しだけ考えた。

それから、はっきり書く。


前衛適格。


紙の上で、位置が変わった。


オスカーは判を押す。

乾いた音が、朝の机に落ちた。


---


旧郵便庫の朝は、妙に静かだった。


昨夜の記事が回ったせいかもしれない。

南水路でも、旧工区でも、駅区でも、もう名前が出ている。


グレイヴァル。

アークライト。

ユリス・レイン。


長机の上には、薄い紙が一枚置かれていた。


ルーメン庁式の、硬い書式。

仮加入ではない。

正式登録の書類だ。


ユリスは、その紙をまだ触れていなかった。

触ると、本当になる気がした。


ミレナが机の向こうで言う。


「書いて」


短い。

でも、今日は少しだけ声が軽い。


ユリスは紙を見る。


『公認パーティ《アークライト》正式登録届』


その下に、役割欄があった。


前衛。

中衛。

後衛。

補助。


そして、もう印がついている。


前衛。


ユリスは顔を上げた。


「……間違ってます」


ミレナは首を振らない。


「間違ってない」


「いや、俺……補助で」


ミレナが紙の端を指で押さえる。


「補助の人が前に出てるんじゃない」


ユリスの目を見て続けた。


「前に立つ人が、救助もしてるだけ」


静かな言い方だった。

でも、言い切っていた。


フィオナが先に口を開く。


「補助が、あんな位置まで行って前を立て直してくるわけないでしょ」


椅子の背にもたれたまま、でも目は紙から外していない。


ガルドも低く言う。


「後ろじゃない」


盾の縁を拭く手を止め、まっすぐ役割欄を見る。


「お前が前に立つと、力が出るんだ」


ノエルがすぐ頷いた。


「僕もです」


札束を抱えたまま、少しだけ笑う。


「後ろにいると安心、じゃないんです。前に見えてると行けるんです」


ユリスは何も言えず、もう一度役割欄を見た。


前衛。

その二文字が、まだ自分の名より遠い。


「……俺、強くないです」


言ってしまってから、少し遅いと思った。

でも、本音だった。


フィオナが鼻を鳴らす。


「今さら」


ガルドは否定も肯定もしない。


「強いかどうかで決めてねぇ」


ノエルが小さく笑う。


「怖いのに前に行く人、あんまりいません」


ミレナだけが最後に言った。


「うちは、前衛で出す」


短い。

そこに迷いはなかった。


ユリスはしばらく黙っていた。

それから、ようやく紙を取る。


指先が少し震える。

でも、名前は書けた。


ユリス・レイン。


その瞬間、旧郵便庫の空気が少しだけ変わった。


仮ではない。

居候でもない。

正式だ。


しかも、前衛で。


その時、ノエルが机の横の封筒を持ち上げた。


「これも来てます」


ルーメン庁の小さな補記用紙だった。

封を切る。

中の短い一文を、ミレナがそのまま読む。


「現場統括局補記。ユリス・レインの役割見直しを受理。前衛適格として記録更新」


ユリスは顔を上げる。


下に、署名がある。


オスカー。


フィオナが片眉を上げる。


「へえ。あの人、ちゃんと書いたんだ」


ガルドが短く言う。


「紙で残したか」


ミレナは、その紙をもう一度だけ見た。


「これで戻らない」


それは、正式登録届より少しだけ重い一文だった。


紙に残った。

もう、なかったことにはできない。


---


その時、別の封筒が机の端に置かれているのにユリスが気づく。

煤が少しついた、旧工区の工房紙だ。


ミレナが言う。


「あと、旧工区」


「旧工区?」


「ベルンから呼びが来てる」


フィオナが口元を少しだけ上げる。


「完成したってさ」


ユリスは一瞬、意味が分からなかった。

でも、次の瞬間に胸の奥が少しだけ熱くなる。


ベルンの剣だ。


---


旧工区の朝は、白いというより煤けていた。


湿った石畳。

細い路地。

高い煙突。

鉄を打つ音。

火の息みたいな低い音。


ベルン・ハルヴァの工房は、相変わらず飾り気がなかった。

扉の横に、使い終わった剣身と割れた鍔が掛けてある。

見せ物じゃない。

使い終わった道具を、ただ寄せてあるだけの掛け方だった。


ガルドが先に扉を押す。


工房の中は、いつもの熱さだった。

炉の赤。

油の匂い。

焼けた鉄の匂い。

道具を使う場所の熱さだった。


ベルンが奥から一本の剣を持ってくる。


「出来た」


布を外す。


そこにあったのは、仮剣と同じ系統の片手剣だった。

だが、仮とは違う。


鍔の返しが仮より精密だ。

浅いが、角度が一段きつい。

引っかけた時に逃げにくい形をしている。


刃は細いが、仮剣にあった頼りなさがない。

芯に向かって厚みが整っていて、叩いても折れそうにない。


背の溝は仮より深い。

引っかけた物が逃げにくい。


柄の革が新しい。

手のひらに吸いつくように巻かれていた。


ユリスは受け取る。


握った瞬間に、仮剣との差が分かった。


重さはほとんど変わらない。

なのに、手の中で迷わない。

前へ倒れようとしない。

振っても暴れない。

少し返すだけで、次の構えへ収まる。


仮剣は「支給剣より良い」だった。

これは違う。

最初から、自分の手に向けて作られている。


ベルンが鼻で息を吐く。


「仮で使い込んだ分、癖が読めた」


短いが、職人の声だった。


「それを入れてある。引っかけて、こじって、剥がして、戻す。全部が仮より一拍早く入るはずだ」


ユリスは剣を見た。


確かにそうだった。

引っかける動き。

こじる動き。

剥がす動き。

戻す動き。


全部が、仮より一拍早く手の中で終わる感覚があった。


ベルンは仮剣を台へ置いた。

完成した救助剣だけが、ユリスの手に残る。


「本打ちだ。折るな」


それから、ユリスの足元をちらりと見る。


「前衛適格の紙が来たらしいな」


ユリスは少しだけ目を見開く。


「どこから」


「工房筋は早ぇんだよ」


ベルンはそれ以上言わなかった。

だが、仮剣ではなく本打ちで仕上げた理由が、その一言で繋がった。


「あと、もう一人来てる」


ベルンが顎で工房の奥を示す。


炉の赤から少し外れた場所に、男が一人立っていた。


濃紺の上衣。

銀の縁。

王都燈衛騎士団の肩章。


背は高い。

でも、無駄に大きくはない。

立っているだけで、剣を知っていると分かる。


腰の剣は飾り気がない。

実戦で擦れた鞘。

手入れだけは異様に丁寧な柄。


ユリスは足を止めた。


ガルドが先に言う。


「……副長」


男は短く名乗った。


「ダリオ・ヘルツだ」


部屋の空気が一段で変わる。


王都燈衛騎士団副長。現場を知る者で、その名を知らない者はいない。


《歩測》。


本来は戦闘向きではない。

何歩で届くか。

どこで詰まるか。

どこへ出れば避難流が切れないか。

距離と歩幅を、一目で測り切るだけのシジル。


それだけで、王都でも屈指の剣士になった男だ。


間合いを外さない。

踏み込みを誤らない。

だから、剣が異様に強い。


ダリオはユリスを見た。

一度だけ。

でも、その一度で足元まで見られた気がした。


「報告書は見た」


短い。


「それだけじゃ来てない。ベルンが動きの話をした」


ベルンは壁にもたれたまま、何も言わない。


ダリオが続ける。


「お前、前へ出ても、踏み込み切らないな」


ユリスは黙った。


「切ることだけ考えてるやつは、届くところまで体を全部入れる。お前は違う。前へ出ても、もう片方の足が残ってる」


ユリスは、ようやく少しだけ分かった。


全部を前へ投げていない。

だから、相手に触ったあとも、自分の位置が残る。

助けた相手を、その場で支え直せる。


ダリオの目が、そこでほんの少しだけ細くなる。


「俺の《歩測》もそうだ」


静かな声だった。


「戦闘向きのシジルじゃない。何歩で届くか、どこで詰まるか、それが分かるだけだ」


腰の剣へ手を置く。


「でも、歩幅を間違えなければ、剣は外れない」


一拍。


「お前も似てる。戦うためだけの形じゃないものを、前で機能させてる」


ユリスは息を呑む。


ダリオは木剣を二本取り、一本をユリスへ投げた。


「外へ出ろ」


---


工房の裏庭は相変わらず狭かった。


煉瓦壁。

木箱。

鉄杭。

人一人の踏み込みを見るには十分な広さだった。


ダリオは土の上へ白い石灰で短い線を引く。

二本。

三本。


間隔は全部違う。


「そこに立て」


ユリスは木剣を持って立つ。


ダリオはまだ構えない。


「来い」


ユリスは一歩出る。

二歩目。

三歩目で、喉元に木剣が来ていた。


見えなかった。

いや、線は見えていた。

でも、身体がそこまで追いつかなかった。


ダリオは木剣をどける。


「遅い」


「……はい」


「だが、悪くない」


ユリスは顔を上げた。


ダリオは地面の線を示す。


「もう一度」


今度はユリスも足元を見る。

一歩。

止まる。

もう一歩。

踏み込み切らない。

でも、残しすぎない。


また木剣が来る。

でも、さっきより少し遅い。


ダリオはそこで初めて、ほんの少しだけ頷いた。


「そうだ」


ベルンが壁にもたれたまま言う。


「そいつ、切るつもりだけで前へ行ってねぇ」


ダリオは木剣を肩へ乗せた。


「それは逃げ腰じゃない。人を助けたあと、もう一回前を押すための立ち方だ」


その言い方は、今まで聞いたどの評価よりも深く入った。


ダリオは救助剣を見る。


「ベルンの剣は、お前の動きに噛んでる」


ベルンが短く返す。


「当たり前だ」


「引っかける、ずらす、支える。その動きに合わせてある」


ダリオはまた白線を引く。


「だが、剣だけじゃ足りない。足を覚えろ」


ユリスは木剣を握り直す。


「俺、強くないです」


ダリオは頷きもしない。


「知ってる」


あっさりだった。


「だから鍛える」


短い。

だが、その短さが逆に強い。


「強いやつを磨くのは、誰でもやる。怖くて、弱くて、それでも前へ行くやつの方が、面倒で、手間がかかって、価値がある」


ユリスは息を呑む。


その価値を、自分ではまだ言えない。

でも、今、他人の口からはっきり言われた。


ダリオは言った。


「明日から来い。日の出前。東訓練場」


それだけで十分、という顔だった。


風が少しだけ動く。

裏庭の白線の上を、朝の光がずれていく。


ユリスはようやく、声を出した。


「……はい」


ダリオはそれで十分だったらしい。

もう次の顔をしている。


ダリオが白線の先を示す。


「じゃあ、まず十歩」


決めた歩数で、決めた位置へ入れということだ。


「外すな」


工房の入口のところで、ミレナたちが見ていた。


ガルドが腕を組み、フィオナが壁にもたれ、ノエルが少し身を乗り出し、ミレナだけが静かに立っている。


ユリスがそちらを見ると、ミレナは小さく頷いた。


それで十分だった。


ユリスは白線の前へ立つ。


補助ではない。

正式なメンバー。

しかも前衛。


まだ剣は下手だ。

まだ怖い。

まだ、自分が何者かも言い切れない。


でも、前へ立つ名だけは、今日ここに置かれた。


十歩。


一歩目を踏み出す。


---


第一章 完


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