残り試合12でマジック12?!
「いみねえーっ!」
と、すらあっーしゅさんとせみころーんさんは同時にSkype会議で言ってました。
はい。ころーんさんです。
残り試合全部勝っちゃうってことはないと思うんだよねえ。確率上ありえないでしょ。
「やったー!のこりのエチュード完全制覇ー!」ってララモエラーならいいそうですね。ちっとも暗譜できてないのに制覇っていうのもねえ。
ん?完全制覇はない?あ、そりゃしつれいしました。
やっぱねー、ヴァイオリンにせよピアノにせよ、練習曲を完全に制覇しました!なんていうのはたいていが詐欺ですね。
そんなことない?バッハのオルガン曲はいくつも全集があるじゃないか、これからもいくらでもあるじゃないかって?
それね、「エクササイズ」じゃないでしょ。
「エクササイズ」ってのをね、一番最初につけたのはドメニコ・スカルラッティさんです。
どうでしょう?スカルラッティさんのソナタ全集を個人で達成したのは、この文章を書いている時点ではたったの3人です。
もう一人達成者が出そうですが、それでも4人。
やっぱね、「エクササイズ」って概念が登場したのは西洋音楽の大きな転換点だったんですよね。
バッハですら、ほとんどの作品を当然練習として使っていましたが、「エクササイズ」とは銘打っていません。
エクササイズだと、どこまで指が強いか、どこまで指が曲がるか、といった競技になっていくんですよ。
ベートーヴェンも競技としての音楽には否定的だったはずです。ところが、クレメンティは競技としての音楽の賛同者だったんですよね。
いまでも競技としての音楽は大流行りです。小さなコンクールはつぶれると思いますが、老舗はくたばらないでしょう。
となるとですね、勝ち負けではない表現としての音楽ってのは、滅びちゃうんでしょうか?
せみころーんさんは「滅びない!」って言ってますが、わたしはちょっとまずそうだなっておもうんですよね。
なぜなら、表現としてのなんとか、というのは商品にならないんですよね。
商品にならないと金銭にならない。
金銭にならないと、生活ができなくなります。
多くのロマン派の作曲家も、相当数が消えたらしいのですが、最も厄介な問題が「学校にも行ってなくて、出版社とも契約がなくて、楽譜が散逸している」というレヴェルの作曲家だそうです。
19世紀は学校に行った人がいる(アルカン)、出版社と契約がある(ツェルニー)、楽譜はすべてアーカイブ化された(ブルックナー)、こういう人はいいですね。
でも、そうじゃない人はいっぱいいるらしいのです。歴史からも消え、事典からも消え、そんな人がいるのです。
この「消えたロマン派」に属していた人は、おそらく表現としての音楽にこだわりがあったのではないでしょうか?もっともロマン派の深い部分だったのかもという疑惑もあります。
表現なのか競技なのかという問題は、なかなか即断できる問題ではありません。
かつてはよく指の回るピアニストを「スポーツライク」といって差別するおかしな日本の評論家軍団がいました。ところが、最近の子供は全くもって指が回らなくなったため、差別しようがなくなったみたいです。
時代が下れば体力が減って、指の運動能力もすり減るとは、だれも予想してなかったでしょう。わたしもせみころーんさんも全く予想してませんでした。
日中韓の音楽家は、ジャンルを問わず音量が小さいです。これも、競技としての音楽を嫌っていた結果ではないか、なんて考えてました。
「21世紀に入って、誰もがコピペするので、世界中のあらゆるジャンルはコピペ選手権になってきている」とそばのせみころーんさんがわたしの作ったうどんを食べながら言ってます。
コピペ選手権といった感じですべての創作がそれに集約される、こんな未来いやーだなー!
でもいやでもこれに立ち向かわなければならないころーんさんのピアノ弾きとしての日常はシビアです。
ピアニストはソロだけではなく何でもできないといけないので、練習即解凍、って感じに持って行かないといけません。
これができないとコンクールで落ちます。考えたら落ちる、ってレヴェルです。考えなくとも、手がすでに、ってのがピアニストですから。
でも、コピペ選手権は嫌です!!
だって!わたしの練習ノウハウまでパクられてしまい、パクったほうがうまいってのはねえ、、、そりゃだれだって怒りますよ。
こういうのは世界中にあるみたいなんですよね。
なので
コピペ不可能の表現ってのを模索しなければならないんじゃないかなー、って思いまーす。
まぁ、いちばんコピペ不可能で変なことやってるのは全員一致ですらあっーしゅさんだと思いますが、ああいうのが一番コピペられずに幸せな生涯を送れるのかもしれません。
すらあっーしゅさんのSkype会議に「やなほめられかただな」ってテキストの走り書きがあったので、きょうはおしまい。




