暑くなってきたけど、音楽業界は
依然としてちっとも熱くならないのはまずいと思うせみころーんさんですどーもーとてとてとてとて。
今日は杉本拓作曲オペラ南十字星の音源がアップロードされたので、それについてなんか言ってみたいと思いますー。
発表当初、そのですね、ジョン・ケージの手のひらではないかという批判があったことは知っています。でも、これ、、、ケージって枠じゃないよね。
ころーんさんはこのテイクを聞いて「今日はお菓子すら食べたくない」とかき氷を冷蔵庫から出しに行きました。減量にもよさそう。
24分3楽章で朗読に音楽(せみころーんさんの見方では音響に近い)をつける、それを沈黙が遮るという形のオペラで、これがケージのユーロペラとそっくりとかいうアレですね。これを、3楽章、ってやってる時点でケージの4'33''に乗じてるのは明白ではありますが。
ケージのユーロペラは生のパフォーマンスを前提とした音楽を沈黙でわざわざ切り取る。そのため、切り取られたなんもない瞬間も常に音楽が動いており、その動きを聴衆が渇望している。
でも、この「オペラ南十字星」は全くそれがありません。
常に、開陳される音楽はすべて別ですので、それらの音楽同士にはなんもかかわりはない。まるでスーパーマリオメーカー2のONOFFスイッチのように、スイッチが付いたら別の風景になる。ただそれだけ。
この沈黙はものすごく涼しい。いま部屋の冷房のスイッチを切ってみましたが、ほんとに冷えました。夏に上演したら客も涼しくなっていい効果なんじゃないかと思う。冬に上演すると寒くて困りますが。
個々の音響は2006年までに作られており、ところどころ懐かしく感じますが、今聞いて古臭いってことはないですね。
全部聞いてわかるのは、ヨーロッパ人はこの手の沈黙には、耐えられないんだろうなってことです。ヨーロッパの音楽業界の沈黙の受容はダルムシュタットにおける長年の怒号の聞こえる議論を経て、数秒から10数秒の沈黙は許容したように思いますが、30秒以上ってのはやっぱりだめでした。
30秒以上やっちゃうとほらみろまたケージだ、って言われちゃうんですよね。だからだれもやらなくなってしまいまして、30秒以上PPPPってのが幅を利かすようになってきました。
ヨーロッパの音楽イディオムは妥協の末の産物なんですよね。でも、南十字星の上演は日本なので、そんなことを気にしなくても大丈夫です。
今の杉本さんがやってる純正律を考慮した音律で2019年に音響群を設計し、それをサウンドファイルにして、ノイズも極力とって、一楽章で上演してしまうといまやどこの世界でも大絶賛でしょうね。
なんでそーなるのかというと、客がもう進化した、というよりは変化した。お客さんも、この手の試みにはしっかりついていくので、怖がることないってことなんですよね。
いま2006年版を注意深く聞くと、「ポン」とか「コン」とかすぐ消える短い音が耳につく。これってSciarrino のInfinito Neroっぽいなあ。短く消える音ってのが流行りだしたのは少なくとも1990年代ですよ。南米系が多いんだよね。すぐ消える音って。
そんで、高橋悠治さんが「翳り」で全編短い音ばっかりってのをやったのが1993年。まだガウデアムスやダルムシュタットでは、この手の短くなんも響かない音は少数派だったはず。
それがですね、Eduardo Moguillanskyがダルムシュタット講習会に乗り込んできて、「ペッ」とか「パッ」とかすぐ消えてしまう音ってのがヨーロッパに上陸します。Eduardoさんはよい結果をたくさん残し、一番収穫だったのは幸か不幸かよく響く木管トリオだったと思いますが、これが転換点だったと考えております。
Eduardoの受けが、審査員勢に受けが良くなかったのも、これだったんだろうと思いました。やはり、すぐに消え、見えなくなる音ってのはまだまだ評価の枠外なんですよね。彼が年齢を加えて、ヨーロッパでだれも知らないものはいないって段階にならないと、受容されないんでしょうねえ、、、。
ピアノ業界と一緒でしょ。最初認められない作曲家のレパートリーってのがあって、20-30年たってようやくセーフになるってのを作曲業界も即興業界もやってる点で何も変わってないんですよね。
逆に考えると、1970年までの前衛の時代の音楽ってのはノイズがどっさりと添付されても、よく響いてた、ってことなんでしょうね。
日中韓も前衛時代の作曲家はいましたが、響かない音を並べただけって人はびっくりするほど少ない。ステレオにレコードを載せてぐるぐる回る時代では、響かない音は発想し難かったんでしょうね。「僕の音楽は響けば響くほど良いと思っている」と発言したのは近藤譲さんです。まだ前衛時代を生きた闘士は、音を響かせている。
響かなくてもいいじゃない、ってのを最初にやったのはホセ・マセダさんだと思いますが、ほんとに響いてなかったのはフリオ・エストラダの1990年代の作品群からですよ。デジタル文化が一周してからかな。
「馬鹿丸出しなーんも考えてない」音楽ではないが、「なーんも考えてない音楽」ぎりぎりの表現にしたのは見事。2019年ヴァージョンで聞いてみたいです。




