いつになっても恋愛ものばっかり!
それでも質が高ければそれでもいいんじゃないかって思っちゃったせみころーんさんですどーもーとってとてとてとて。
「いくつになっても○○ばっかり!」ってのは耳の痛い話ですよ。そりゃ。
そばで「いくつになってもポテイトゥチップスばっかり!」ところーんさんに言おうものなら、げんこつがとんできそうです。あっっ、今日は珍しくなーんも食べてないですねころーんさん!
とにかく幅広く作れと。
それってね、現代社会で可能ですかね?
西洋音楽史を見ても、チェンバロソナタばっかりの人もいれば、ピアノソロばっかりの人もいるし、オペラばっかりって人だっていたし、交響曲ばっかりって人もいるじゃないですか。
現代社会どころか、近代以前ですらみんな偏ってるんですよ。
人の命は有限ですので、限られた時間しかありません。
ローベルト・シューマンさんは「またピアノばっかり作って!」って言われると、今度は歌曲になる、といううまい方でした。ああいうのを見てて、優秀な人は何でもできるって思ってました。でもこれは非常に稀有な例なのです。
大編成で威力を発揮する方は独奏曲が手薄になります。逆もしかりです。
大体、もともと交響曲は大編成を示す記号でも何でもありません。ハイドンは13人ほどで作ってたようですし、ベートーヴェンの第9のオーケストラパートは48人ほどで演奏可能です。
それがオーケストラというと80人を指す記号として定着してきて、そっからおかしくなったんですよねえ。
だいたい、こんなに人数が多いとパート譜の紙数が問題になります。バロックのころはパート譜部隊が待機していたなんて話もあります。バロックのころからパート譜と譜面台の数は相当問題だったらしく、バッハも宮廷に譜面台が何台あるのかなんて話をしている。当時暗譜演奏なんてものはありませんから、見て弾くしかありません。それでもバロックのころは一楽章ワンシートでよかったのかな。
それが古典派に入ると譜をめくらなければならなくなるため、V.S.(すぐめくれ、というイタリア語)をつけなければならなくなる。ペラペラ紙の音ばっかり聞こえてくるようになる。ロマン派のころになるといちいちパート譜を回収する作曲家なるものもあらわれました。
オーケストラが大変な段数になったのはワーグナーあたりからじゃないでしょうかね。段数も多けれりゃ紙数も多い。キロ単位の楽譜の運搬は大変だったと思われます。コピー機もない当時すべての楽団員にフルスコアがいきわたっていたとは、考えられないんですよね。全く渡さないなんてことはなかったと思うけれど。
こうなると、演奏家と作曲家の頭の中身に入っている音の情報に格差が生まれてきます。よく分業化が進んだとか言われてますけど、その分業化はオーケストラの情報量にあったと考えてます。
このように高度化すると、「それしかできなくなる」ってのはどうしてもついて回ったんじゃないでしょうか?
北野武さんでも、彼が映画監督になったときに一斉にたたいたでしょう?芸人ごときが監督やりやがってってのばっかりで。一般人のほうが「そればっかりやってろ!」って人が多いんですよねー。
こういう「そればっかりやってろ!」って一般人が、都合が悪くなると今度は「いつになっても恋愛ものばっかり!」という。ずっるいずっるいダブルスタンダードですけど、一般大衆はいくつになってもこのレヴェルです。
で、最初の話です。「いくつになっても恋愛ものばっかり!」って。
これってね、正しいことなんだろうなと思います。
恋愛があるということはその先に性愛があり、その先には新しい家族がある。それを構える体力があるということ。体力がなければ人類の文化はない。大切なことなんじゃないかと思います。
三和音は恋愛だが、不協和音は家族の離別だっていう意見も、正当性を持って迎えられてた時代がありました。今もそういう人はまだいます。
「いくつになっても恋愛ものばっかり!」を否定することから現代芸術は産声を上げた。一番これがよくわかっている作家は村上春樹さんでしょう。しかし、それは危機に瀕しているというのなら、否定していた連中に責任があるのではないでしょうか。
そもそも
「いくつになっても恋愛ものばっかり!」はなぜ否定されるのでしょうか?日本だととくに否定する人間が多い。
これはね、お見合い文化が元凶だったと思ってます。結婚相手は自動的に決まる。それが決まらなくなったとき、恋愛強者ばかりが勝つ。その強者を批判することが現代芸術の根幹にあったんですよ。
だから強者を引きずり下ろすのが楽しく、「いくつになっても恋愛ものばっかり!」といって批判する文化は隆盛を極めました。
そしたら少子化、高齢化社会が始まった。
だれの責任なんでしょうか?ひょっとすると、時代が一周して元に戻り、人権や自由のない時代が返ってくるのかもしれません。自由のない時代のほうが、人口は安定していたというのは事実ですから。
最近のなろう系も男主人公はモブキャラ、ヒロインキャラと(いろいろな意味で)なかよく暮らして、ってのは、文化の原点回帰で、貴重な現象であることは間違いがありません。




