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テクノロジーの話は苦手です。なぜなら

電子音楽とともに生きてきた闘士でも何でもないからです。とですます調になってしまったせみころーんさんですとてとてとてとてとてっととと。


もちろんせみころーんさんは電子音楽の否定者ではありません。


しかし、肯定者というわけでもないのです。だからMax/mspのパッチがどーのこーのという話はここではできません。


その一つの理由として、電子音楽アカデミズムがそびえたってしまい、かつての前衛世代がやってたような戯れやフザケが失われたような気がするからです。


江戸時代の絵画が明治時代の絵画に変わるのと似てますね。


でもですね、


ちゃんとふざけることのできる人がいます。それが、Clarence Barlowさんです。


hat hutから出ているvariazioni e un pianoforte meccanico (1986) ってのを聞いてみてください。どうですこれ?


こういうのが喫茶店で流れてるといーなーと思います。大爆笑でしょ。最初は普通にベートーヴェンのソナタ第32番の第2楽章が出るだけ、それが、おや、だんだん、自動ピアノの様子が、、、、、あっっっ!っていう曲です。


Clarence Barlowさんは聞き手の側に立って、これ聞かせたら大爆笑やろ!ってのをわかっててやってるんですよね。しかも作品の後半はインドのターラかなんかかと思うほどに長大なシーケンスが出てくる。それがあまりにも長すぎるので、これはインドから来たんだろうなあ、、、とか考えてしまうんですよ。


「この野郎よくもベートーヴェンをこんなに切り刻みやがって!」っていうひとは、もうそんなにいないでしょう。このベートーヴェンスライスネタに着想を得たと思われるのが三輪眞弘さんの「東の唄」です。


variazioni e un pianoforte meccanico (1986) のすごいところは、最初よりも曲を聴きこんだ13分過ぎに入っても緊張力が全く途絶えない点ですよね。普通電子音楽系の人は10分聞いたらもうええわ、ってのが多いのにこの人は聞かせてくれる。


新しい調性ってのはベストセラー小説のようにほとんどが消えてしまったんですが、これは消えないですね。


ただコンピュータで出力してるだけ?と思ってると、ヤニス・クセナキスさんのエヴリアリすらジョークにしてしまう瞬間があるのも痛快。1980年代、クセナキスのエヴリアリは「そんなのコンピュータでやれ!」って批判がまだ大きかった時代です。その時代にコンピュータで、ほんとにやってしまうこの度胸。


この作品が発表されたのは1986年。「ジャン=イヴ・ティボーデはアルヘリチかポリーニクラスとは思えないので、一位なしの二位にしよう」なんて憎たらしい順位をつけて遊んでいることしかできなかった当時の日本人に、これだけの表現がピアノでできたのか疑わしいです。ああそうだ、1980年代にClarence Barlowはまだ日本に入ってきてなかったんだった。


こういう多様式主義が嫌だ!ってひとのためにもÇOGLUOTOBÜSISLETMESI (1975-1979)があります。


1970年代といえば前衛が一休みした時期と思われていますが、それは根っから白人が一休みしているだけで、混血者や入植者、移民にとってはそうではありませんでした。その良質な典型例です。


何が注目されるかというと、トータルセリーのころには必ずタイミングよく弱音を入れなければならなかったのが、全部強音でもいいって時代に変わったことですね。その喜びがよく表現できてると思います。


よく「四分の一音下げたピアノは、耳の喜びとか全く無視で、手で書いてるだけや」っていう有名な藤枝守さんの批判があります。が、ここで使用される四分の一音下げた音は全音階の変位として強烈に打鍵され、美しくはなくても一つの「架空の旋法」として迫るため問題がありません。原則的に人類の文化は「オクターブを割って音を作る」ため、どんな微分音でもそれなりに頭に入ってしまいます。


Barlowさんが自動ピアノの曲を書くと、くすっと笑えるんですよね。そういうのとっても重要で、それがまったくない人が電子音楽を作ると苦痛なんですよ。Estudio Siete (1995)に至ってはナンカロウの習作を下敷きにするということまでやってのける。「パクりやがった!」という感情はわかず、趣味のよい上質の環境音楽のように聞こえてしまうのが不思議。Fantasia Quasi Una Sonata Con "Mantra" Di Stockhausen (1973)も、シュトックハウゼン講習会に来ている人がどういうのかはともかく、ピアニストにとっては使えるレパートリーだなと思っちゃう。


日中韓勢がピアノ音楽を書いても、この手の面白みがあまり聞こえてこない。教育の問題以前に、ピアノの音のすばらしさに接さずに過ごした大人がモンゴロイドに多すぎるからだと思っています。ころーんさんは反論があるようです。

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