きょうのテーテーテテーテーは、ちょっと悲しく聞こえた
せみころーんさんですどーもーとててて。
チャンステーマってやつですよね。何回でもなるので誰でも覚える。
こういう「誰でも知ってるメロディー」なるものを定着させようとしたのが、カールハインツ・シュトックハウゼンです。シュトックハウゼンの教えを受けた人はフォルメルはメロディーではない、と強弁しておりますが、実際の彼の音楽で鳴るのはどう考えてもメロディーです。
同じメロディーで25年作るってのもすごいですが、これがボグスワフ・シェッフェルさんだと同じ展開で25年作る(ハープ協奏曲第一番とヴィブラフォン協奏曲の展開は全く一緒。協奏曲だと顕著だがほかはそうでもない。)に変わる。
前衛世代はみんな1979年ごろに曲がり角を迎えてるんですよね。で、独自の道を歩んでいるんですが、、
いったん、個人様式を歩むと、もうだれも止められないのでそのまんま、ってのにシュトックハウゼンの研究者は気付いてほしいですね。だれも止められないってのは危険でね。武満も金太郎飴、と黛敏郎さんがぶっちゃけちゃいました。一柳慧さんが「一回聞いて誰のかわかるってのは、これは実はかなり危険なのではないか?」と述べておりましたが、多かれ少なかれ50歳を回るとなかなか変えられない。
これは日本だけに限った問題ではなく、全世界的にも一緒。どっかで自分を手放せなくなる、んですよね。
今の中堅世代も、自らのスタイルを確立するのが、早くなってきている。これ一番最初にそうだと言えたのはヴォルフガング・リームさんだったような気がしますが、彼はもともと早熟です。で、今早熟でも何でもない人も、もう30歳を回るころには予想がつくんですよ。
世間が作曲家に期待しすぎなんだよね。作家には期待されないのに、作曲家には思い切り期待される。もちろん作曲家は音出しが必要だから、その分期待されるんだと思うんだけれども。
もっと、一作一作全然違うことやっちゃってもいいんじゃねーのって思うんですよね。それが許されない世界なのかな?
作曲家包囲網ってのがすごくせセキュリティ万全!なんてことになっちゃってて、なかなか冗談で作っちゃいましたってのが効かないんでしょうかね。
もともと日中韓はそうなんだけど、いまはヨーロッパも中近東もみんなそうでしょ。作曲家になる連中が増えたからね。
ちょっと前に触れたAnton Badagovって人はさ、もうライブには興味がないとか言って、ずいぶんライブやってなかったんよね。それがまた翻してやりだしたでしょ。そんなんでいいんだと思うんだよね。
またやりだすってのは、非常にまれな人だと思う。
で、バッハのパルティータとか、、ああやって弾けるわけでしょう。音の出し方から全然違うでしょ。日中韓はあまり対位法をやらないから、バッハとか弾いても中途半端だけど、ロシアの彼は違う。
音色に真剣さがあるのか、どんだけおっそくても緊張が途絶えないんだよね。ああいうバッハはなかなか聞けない。そろそろバッハ以外のものも聴きたいけどね。
Batagovさんみたく、こだわりなく何でも弾くって人は今の若い人は少ないでしょう。課題曲が全世界何処でも一緒だからね。それならどこで弾いても全く一緒で。
ほんとジェネリック異世界。後発だろうが関係がない。やってることは一緒なんだから。
でもね、Batagovさんはそうはならないんですよ。絶対に彼の世界しか出現しない。フィリップ・グラスさんも、あんな音色で弾いてのけられると、ほんとにこれグラスかよ?ってくらい深刻に聞こえる。全く別の側面を容赦なく照らす。
ちょっと話が脱線したけど、今日のお題は「Batagov版シンセでバッハのフーガの技法」です。
どうです?高校生以下はびっくりするでしょ。あれ。
そう、「遅い演奏」ってもんじゃない「止まってる寸前演奏」。信じられないくらい遅い。で、ピアノじゃなくてシンセ。
これ以前にもシンセでバッハを吹き込んだのはいっぱいいますが、Batagovさんは全く違います。グレン・グールドさんの遅さとも違う。
カンタービレすらない。ただ単に遅い。ロジャー・ウッドワードさんのような官能的な音色すらゼロ。むき出しのシンセの音だけ。それも強弱がさほどついてるとも言えない。
これで成立しちゃうのが凄かったんですよ。1993年の話です。高校生はまだ生まれてなかったころ。ネットもコンビニもない、そんな時代にここまで掘り下げたすごい人がいたんですよ。よく聞くと、シンセの音に微妙に変調を施してることがある。
イヴォ・ポゴレリチさんも異彩扱いされてるけど、Batagovさんのほうがもっと強烈。寄せ付けないんじゃないかと思う事すらある。
後にバッハ弾きと呼ばれる日中韓勢は出てきたけど、この次元にたどり着いた人はいないみたいですよね。横でごろねしてるころーんさんも「んだんだ」って言ってる。




