ララモエラーは後期カーターはわかるが中期カーターはわかりません。
きょうはながーくなりそうなのでつづきです。(めずらしいでしょ。あ、まえにもあったわ)
わたくしはですね。エリオット・カーターさんの、売り出された後の、ヨーロッパ人向けにレヴェルを落として勝った作品の信奉者ってことになってます。
ここらへんですね、せみころーんさん、ころーんさん、すらあっーしゅさんは「えーーーーーぇーーーーーーーーーぇっ」っていうんですよ。
でもお、、Xさんはあ、、
「わかる」って言ってくれるんです。だから一緒に住む予定なんですはあと。
なんででしょう?
それはですね、後期カーターは普通に三和音の残滓がいっぱい聞こえるからです。
つまりよくハモルんですよ。(ハモるって死語かなあ?)
ララモエラーの鳥頭では創作の全盛期のピアノ協奏曲や二重協奏曲、管弦楽のための協奏曲を聴いても何のことかさっっっっっっっっぱりわかりません。
最初Jacob Lateinerの弾くピアノ協奏曲のディスクをXさんからもらったときは、この人は一体何がしたいのかさっぱりわかりませんでした、を通り越してディスクそのものを捨てようかと思いました。それくらい間違いだらけでした。つぎはぎライブだから仕方ない。
しかーし!
ピアノと室内オーケストラのための「ダイアローグス」は違いました。わたくしみたいな鳥頭でもすっごいわかりやすく、別人が書いたかと思うほどに通俗的。リズムも一つしかない瞬間があって、聴いてて苦痛でもなんでもありません。
これって、お金に満ちた、正当な音楽、なんじゃないの?と。
で、カーターの後期だけ聞くというと、すらあっーしゅさん、せみころーんさん、ころーんさんは、全員が口をへの字にします。
なんででしょうねえ(ぷっくくく)。
これはちゃんと理由があるのです。
すらあっーしゅさんは『管弦楽のための協奏曲』をほめる原理主義者です。こわー。いつきいてもあのきょくこわいですよねえ。曲の途中に、まるでビルダーマリオになったキノピコのようにハンマーで思いっきり殴りつけたような音が出てくるのを聴くと毎回嫌だなあって思います。
せみころーんさんは『祝日序曲』をほめるナディア・ブーランジェの指導をたたえるひとです。
ころーんさんは『見つめる鏡』をほめるメトリックモジュレーションの正確さを評価する人です。
このように誰もが評価する作品が違います。
Xさんはあ、こういってくれるんです。「評価する作品というものはないが、創作態度が良かった」「だから後期カーターが好きでもいいじゃないか」って。
えへ。
つまり、ヨーロッパ人向けに密度を下げ、三和音でハモるシーンをふんだんに入れ、なおかつコントラストを必要最小限入れる。
こうすると信じられないくらいの大成功でした。今となっては創作初期から尽くしてきたチャールズ・ローゼンやポール・ジェイコブズを支持する人はいなくなり、ウィンストン・チョイ、ニコラス・ホジェス、ピエール=ローラン・エマールといった名手にとってかわられてしまい、その時代しか知らないという人すら出ます。
これをころーんさんを含めた三人は「商業主義!」っていって怒ります。
でもおおおお、
ヨーロッパ人向けに手を曲げて、売れた。それでよかったんですよ。
このですね、人種に関係なく手を曲げて売れた作曲家ってのを調べてみましたん。
ルトスワフスキ、ドナトーニ、武満、ペルト、グレツキ、ペーター・ミヒャエル・ハーメル、、、
これってね、前期と後期で色合いが違う人って、最初から売れるためにやっさしい曲を書いてた人、じゃないでしょ?
もともとどろどろどろどろどろの原液だった人が、それを薄めて受けたわけでえ、、
最初に原液がなければ作れない人ばっかりなんですよ!よっ!
だから最初っから薄い密度のまんまで死ぬまでそのまんま、って人はこのリストの中には入らないんですよ。
だから後期カーターでもいいや、ってことなんですのんのんのんのん。
後期カーターでもなめてかかるとえらいことになる、その大惨事を収めたディスクもあるんです。
103rd Birthday Concert (NMC)ってのがあります。
「あぁあぁあああぁああっ!」と思い切り音を外す歌手、どこを吹いてるのかわからなくなるトロンボーン、苦しい音質のヴァイオリン。103歳の音楽にここまで悪戦苦闘する演奏家は見ものでした。103歳になってもここまで正論で押し切ってしまうカーターおじいさん。
カーターは、実は三和音を入れると客が喜び、あっという間に売れることを、最初から分かっていたのではないのか?だからマリンバの使用には死の直前まで慎重だったのでは、と勘繰ってしまいました。
この確信犯のピアノ協奏作品が、国際ピアノコンクールの課題曲にはやくなってほしいものです。中期はともかく後期が理解できない、聞き苦しいってことは、ないんじゃないでしょうか?




