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閑話 宰相フォルテ・ランドゥールが語る今昔

 


 *



 先代宰相 ギルバート・フレイメアは変人である。

 話の冒頭から、喧嘩を売っているのかこの男と。そう思われるであろうところを認識しながらもここは素直にいきたい。あえて伝えたい。むしろこれ以外の表現は浮かばないのだと。

 自分がそこまで言い募る、全ての所以は。思い返せば様々ある。

 自分があの人に遭遇し、この国の王宮へと数奇な運命を経て流れ着くまでの数年間。

 その後、後宮焼失に至るまでの怒涛の日々。

 そして後宮が失われた後の二十年余りの歳月。

 自分の生涯における起承転結の内、『転』の部分はおそらくここに集中している。そんな『転』について思い返せば、まずあの人を避けては通れない。

 だからこそ、早々に白旗を上げて記さないことを諦めた。人生は諦めが肝心だ。

 ……王宮における、自身の半生それ即ち。要するに、あの人が変人でありそれ以外の何者でもないという前提から始まって。そんな変人に振り回される過程で、予期せず様々なものを得ることになったという。

 ただそれだけの、話だ。



 *


「――――フォルテ。折角だから、この機会に聞いておきたい」

「何をです、若君?」


 どこかで不吉な予感を覚えつつも、振り返らないわけにもいかなかった。

 宰相 フォルテ・ランドゥールは内心で特大のため息を零しつつ。一見したところは、見事なまでの平静を装ってそう尋ね返した。

 その予感は外れない。まるで初めから的は絞られていたとでも言うかのように、容赦のない言葉が平静を抉る。


「先代宰相殿との、馴れ初め」

「何か嫌な響き! ……わざとですか、わざとでしょう。わざとですよね?」


 白金の髪を揺らして、天使が如く微笑む少年。外見に騙されてはいけない。この少年は年齢に見合わず、既にいろいろな部分が灰色である。


「父上は肝心な部分をぼかすから、色々と未消化な部分が多い。だから、いい機会だと思って。他でもない宰相殿本人から話を聞ければ、余分な脚色も除けて手っ取り早いし……ね?」

「ね、じゃありませんよ。ね、じゃ。そんな子猫がミルクを余分に欲しがるような顔で見上げても、若輩役人ならいざ知らず。私は騙せませんよ。――――リディアム王子殿下」


 宰相からの言葉に、くすくすと楽しそうな声を洩らす彼。そう、彼こそが先代王 リーベル・セストレイ=フレアードの血を引く唯一の子。

 王家の双藍をその目に宿す、御年十二歳になられたこの国の世継ぎだ。


「やれやれ……フォルテは相変わらず真面目で堅物だ。お願い程度じゃ、駄目か。うん。……なら、いっその事、継嗣命令に置き換えたら話し易くもなるのかな?」

「……どうしてそこまで、自分と先代の話を聞きたがるのですか?」


 宰相の、その半ば呆れた声を受けてゆるゆると視線を合わせた白金の王子殿下。徐に破顔したかと思うと、さらりとこう告げる。


「あなた方の歴史が、この王宮の歴史そのものと言って過言ではないからね」


 ふざけているかと思えば、決してそうではないこの王子の本質。それを忘れていた訳ではない。それでも、ふとした瞬間に見せる表情には……時折、はっとさせられることも多く。今回もそうだった。

 正直、歴代の宰相たちの語る史実が全て、王宮における史実であるという認識は過言そのものだ。少なくとも自分はそう思ったが。けしてそれを口に出すことはない。

 国の宰相として、先代である彼の人から席を譲られた際。長きに渡って国を守り続けた当人から、告げられた言葉がある。


 ――――限りなく己を殺し、国にとって、民にとって、必要のない言葉は打ち捨てろ。


 それが国の次席として時に王を諌め、王を助け。民の代弁の役を担う。宰相の存在意義だと。

 まさに両天秤。これほどに厄介で、色々と報われない席はおそらく他にない。少なくともかつての自分は、国の次席を継ぐこととなる『先』など、想像すらしていなかった。しかし、現実はありのままに見なければならない。

 それは昔から変わらない、自分の信念だ。

 こうして次代の王となるべき後継の前で過去語りを求められている現状も。元を辿れば、自分が招いたに等しいのだから。

 経緯はどうあれ、この王宮へ足を踏み入れることを決めたのは他でもない自分自身だ。


「……長くなりますが、本当に宜しいのですね?」

「ふふ。ようやく覚悟を決めたような顔つきになったのに、それでも念を押すフォルテの諦めの悪さ……そこは先代譲りではないものの一つだね?」


 言外に、さっさと話を進めろと告げている眩しいくらいの微笑。

 それを目にして普段は決して零さない(つまり内心に留めている)特大の溜息を吐きながら、宰相 フォルテ・ランドゥールはその重い口を開いた。


 始まりは、まだ彼の人が先々代の宰相の補佐であった時分。かつて豪商 ランドゥール家の次男として生まれ、宰相以前に王宮に籍すら置いていなかった頃。

 ただの、一介の商人に過ぎなかった男の話だ。



 **


 それは、ようやく季節風が凪いで気候が穏やかになり始めた夏の初め。

 波が穏やかになり、商船もようやく本格的に動き始める所謂『稼ぎ時』だ。当然のこと港一帯は一斉に賑わう。行きかう商人たちの顔が生き生きと輝き出すのもこの頃だ。

 しかし、そんな中。

 まるで対照的な一人。齢十六の青年が、港の桟橋で盛大に顔を引き攣らせている光景を見ることができるだろう。

 そう、自分だ。幼少のみぎりから、常に商人としての在り方は骨身に染みるほどに教えられてきた。その点で、顔を引き攣らせている現状は商人として落第点を付けられても仕方がない。

 しかし、である。それでも、だった。


(――――馬鹿にするのも、程度があるだろ)


 そんな内心の声が表情にダダ漏れになったのにも、理由がある。

 主にそれは、目の前の『取引相手』から伝えられた内容が内容であっただけに。咄嗟に取り繕うための表情筋すら放棄した結果だ。

 両親を始め、年の離れたそつの無い兄、ランドゥール家に出入りする商魂逞しい人々に囲まれて育った。それはそれは涙無しには話せない特異な日々の積み重ねだ。

 つまり何が言いたいかと言えば、商家というのは聞こえ程に贅沢三昧な暮らしをしているわけでも、まして安穏と成長してきたわけでもないという。要するに、色々と主張したい年頃なのだ。

 改めて言うのもあれだが、ランドゥール家と言えば大陸中にその名を知られる豪商の一つである。先々代の頃には、港の一角で細々と外国から仕入れた布織物を売るばかりであった弱商家。

 それを先代の父が革新し、一新したランドゥール商家である。

 当時、それはそれは多くのやっかみや、えげつない妨害に合っていたと。豪商として、その才覚をいかんなく発揮した父は寝物語に兄と自分へ語ったものだ。

 そんな毒々しい過去譚を、幼子に詳細を交えてつらつらと語った父。

 その独特の感性については、兄が苦笑に留める程度。そして母が、容赦なく父の脳天へ採寸棒を叩き下ろした一連の流れをみてもらえれば、分かる通りだ。

 さて、そこまで振り返った後に先の男の発言である。


「ランドゥールの若君、契約不履行に関しては、そちらから相応の賠償を求めたい」


 曰く、積荷の内容が事前に送られていたリストとまるで一致しないという。大方、あらかじめ作成されていたであろう偽造文書。それを臆面もなく手渡して来た面の厚さに、どうして笑顔を保ち続ける手間をこちらが払わねばならないだろうか?

 一から、この馬鹿に説明していく時間すらも惜しい。

 仮にも商人ならば、たとえ客であろうと、取引相手であろうと『最低限必要な予防策』を講じているのは当然のことだ。

 ――――契約書と控えのほかに、写しを保管していることくらい予想できるだろう。普通。

 片手の指に数え上げられるほどに限りある豪商の名を、今までも引き摺り下ろそうと画策してきた有象無象はそれこそ数限りない。一々それらと真っ当にやり合っていたら、商業など成り立たないのだから。


 だからこそ早々に面倒になった自分はあっさりと見切りをつけて告げたのだ。それが思わぬ災難を呼び込むことになるとは欠片も予想していなかった。あのころの自分は、大概青かった。若気の至りでは済まされないほどに。


「フェルディナンド氏、昨晩の襲撃もとい侵入者に関しては全てこちらの私兵が処理済です。あなたの元へ届けられた報せは全て、こちらで用意させて頂いた誤報ですよ? どうやら貴方は最後までそれを信じたようですが……正直なところ、貴方に商人の資質はないように思います」

「――――っ、小賢しいランドゥールの子狐が……!」


 一気に青ざめた目の前の男は、しばらくの間何も言葉にならなかった様子だった。しかし、それも一変する。

 いつしかその双眸がぎらぎらとした狂人じみたものへと変貌していた。


(……やばいな、追い詰めすぎたか)


 気付いたところで、後の祭りである。しかし、元より自衛のための体術も身につけている。内心でそう呟きはしたものの、特に焦りも感じていなかった。

 実際のところは、追い詰められた人間の心理に疎かったのだ。だからこそ見誤った。

 そのまま切りかかって来るであろうと、身構えた一瞬の隙。

 しかし、目の前の男が伸ばした手は――――全く見当もつかない方向へ伸びていた。

 少女の、悲鳴。

 丁度通りかかっただけの、無関係の人間へ向けられた刃はその首筋へ紅い筋を作った。

 瞠目し、その狂った双眸と見合った瞬間。

 音にせず、口のかたちだけで男が言った言葉に慄然とする。

 ――――おまえも、道ずれだ。

 理性の残る狂人の恐ろしさを、身をもって知ったところで遅すぎた。この男を追いつめ、凶行へ走らせた経緯。たとえ男に全ての非があるにせよ、無関係な人間を巻き込んで死なせたとなれば、家名に汚点を残すことは避けられない。

 まして男の望む通りに立ち向かえば。最悪の場合、自分と人質双方の命を奪ったうえでこの男は自死するだろう。

 久しく感じていなかった焦燥が、額を滑り落ちていく滴と共に指先を震わせる。闇雲に動くことはできず、しかしそうしている合間にも少女の首筋に突き付けられた刃から滴り落ちる血はひたひたと地面を湿らせていく。

 周囲の喧騒も、いつしか凍り付くような静寂へ変わっていた。


(――――時間が、ない)


 一か八か、闇雲にでもいい。飛びかかろうと、片足へ重心をのせたその刹那。

 微かな、音。


「……あ」


 男の見開いた目と、力を失って落ちる片腕。痛みに身を折り、蹲る。

 ――――その肩に一本の矢が、刺さっていた。

 矢鳴(やなり)だったのだ、と。気付いて意識を目の前まで戻してくる以前に、自分の愚かさに眩暈がした。片腕を抱え、もはや手負いの獣同然となった男がそのままでいるわけもない。

 気付いた時には、目前に迫った刃。

 憎しみに、濁った双眸。

 一連の流れに呆然としていた体が、回避のために動き出す間もなかった。


(あぁ――――これ、間に合わないな)


 馬鹿馬鹿しいほどに、状況と噛み合わない暢気な内心。


 それを断ち切るようにして。突然、後方から押しのけられた体はバランスを取れる道理もない。

 いっそ、清々しいまでに見事な水音を立てて視界が海面に覆われていた。続いて耳を打つ、喧騒と自分の呼吸。

 沈み込んでいく身体と、沈み込んでいく思考。そうだ。視界の端に過ったのは、黒衣の人物だった。

 鮮やかと言っていいほどに、手際のよい動作で自分を海面へ蹴り落としたばかりか。その動作には、いささかの躊躇も容赦も感じられなかった。……助けられたはずなのに、何とも複雑な心境だ。

 しばらく取り止めのない思考に、ぼんやりとしていたが。いつまでも海中にはいられない。

 水を掻き、何とか水面から顔を出したところで視界に開けた光景に、唖然とする。


「――――王宮衛士? どうしてこんなに手際よく……」

「ランドゥールの二番目だな? お前が余計な挑発をしてくれたおかげで、この騒ぎだ」


 不意に頭上から降ってきた声に、そのまま視線を向けたところで壮絶な微笑に出合う。


(――――あ、これ相当に厄介な人種だ)


 世の中には得てしてさまざまな人間がいるものだが。その中でも、微笑みながらその目が全くもって笑っていないという場面に出くわしたら、それは不運中の不運と言い換えて間違いではない。

 全くもって、過言ではない。


「……助けて頂いて、ありがとうございました」

「勘違いするな、ランドゥールの二番目。今回の衛士の介入は、不運にも巻き込まれた一般市民の救助目的だ。むしろ、自覚しろ。今回は大目に見るが、お前はある意味では加害者だ。状況次第では、そのまま衛士に拘束させていた」


 海水の中にいながら、まるで氷水に付けられているような心境だった。その冴え冴えとした双眸には、軽率な言動に対する純粋な怒りだけが込められていた。

 それに対して、何一つ言葉にならない。

 ただ、それだけだった。


 黒衣を翻らせ、そのまま振り返ることなく立ち去っていく背。何も言えずに、海面で揺られて見送るだけになるはずだった。

 不意に、胸に兆した思いは結局のところ――――何度振り返っても、よく分からない。その時、躊躇わなかった声。

 それが確実に、何かを変化させたのだろう。


「――衛士様! 去る前に、どうか、お名前を伺いたいのですが!」


 上げた声に、歩みを止めた黒衣の青年。

 おそらくその年は、自分よりも少し上くらいだろう。端正な面差しは冷ややかな印象を抱かせ、眇められた視線は刃の如く鋭い。思わず、飲み込みかけた息を辛うじて堪える。

 ひたすらに視線をそらさずに、待った。


 見合うこと暫らく。沈黙は深いため息へと変換されていく。軽蔑だけではない色を、ほんの僅か滲ませた口許がややあってこう告げた。


「……私は衛士ではない。王宮の役人だ。現在は宰相補佐を務めている」


 ……宰相、補佐? あまりに予想を離れた役職名に、束の間思考が止まった。徐々に解凍されていく思考の端で、辛うじて引っかかってきた名前を半信半疑で口にしていた。後になって、その軽率さに後悔することとなったが。


「……史上最年少の、宰相補佐、ギルバート・フレイメア公……! 」

「――――声が大きい!」


 過たず、頭上へ遠慮なく落ちて来た拳によってフォルテが再び海中へと沈んでいったのは言うまでもない。頭を抱えて、再び海上へと浮上してきた時には既にその姿はなく。代わりに後始末を任されたらしい衛士二人によって、ようやくフォルテは地上へと引き上げられた。

 出会いが海だけに、しょっぱい話だ。できればあまり思い出したくない過去の一つ。

 それが、時の宰相補佐 ギルバート・フレイメア公と商人 フォルテ・ランドゥールの初めての邂逅であった。



 ***


「――――何だか、脚色された話よりも実際の方が面白いって珍しいよね」

「……その憐れみに満ちた眼差しは、披露したくもない過去を強制的に開示せざるを得なかった人物に対して、不適当だと思われませんか?」


 海面へ落とされた件を語り始めたあたりから、顔を斜めに逸らしはじめた白金の王子殿下。再び海中へ沈んでいった場面では、もう耐えきれないと言わんばかりに呵々として笑っていた。

 全くもって、残酷な十二歳がいたものである。


「……うーん。確かにそうだね。謝罪するよ、フォルテ宰相。でも、予想を遥かに超えてきたからね。うん、不可抗力」


 最後の四文字で、台無しである。謝罪してないからな、それ。


「さぁ、続きを聞かせて。――――それにしても、ふふっ」

「その含み笑いが収まるまで、断固拒否します」


 その言葉を言い終わるか、言い終わらない内には見事なまでに表情を取り繕って見せる。嫌な十二歳だ。一見しただけでは、何の含みもないような真顔――末恐ろしいばかりだ――を諦め半分で見遣りながら。

 訥々と、宰相は語りを再開する。


 一方は海中へ二度も沈ませ、もう一方は沈められるという。衝撃的な遭遇を果たした二人。

 その二人が、どのようにして再び顔を合わせるに至ったか。言ってしまえば、自分の間の悪さに端を発して生じることとなった再会劇。

 そこに至る経緯と、救いのない顛末を。



 ****


「兄さん……二年前にも言ったはずだよね。王宮は鬼門なんだよ。叶うなら、生きている間は足を踏み入れたくない場所の一つなんだよ」

「愚弟、ならばその時に自分がお前に返した言葉も覚えているだろうね? 言ったはずだよ。商人として生業を立てていく以上、一切の私情は許されないと思えと。お前は頷いた筈だよね?」


 その日も、安定の鬼畜っぷりであった。言葉通り、一切の反論を許さないであろう兄である。そんな兄に、それ以上逆らう気力を失った憐れな弟のいる光景。

 それが展開されているのは、王宮の専用門。通称『碧門(へきもん)』の目の前だ。

 笑っているようで全く笑っていないという、矛盾に満ちた微笑みを常時引き出すことができる七つ上の兄。レイズン・ランドゥール。

 二十代半ばにして、既にランドゥール商会における七割近い業務を父から譲り受けている。その人当たりの良さそうな相貌からは想像もつかないほどに、父に負けず劣らず商魂の塊。いや、むしろ鑑か。良くも悪くも生粋の商人である。

 そんな兄が、丸ごと私情でしかない弟の懇願を聞き入れるはずもない。初めから勝ち目のない会話を終えて、得たのは疲労感だけだ。泣けてくる。

 比喩ではなく、涙目だった。


「嘆かわしいよ、愚弟。お前も一介の商人である自負があったなら、二年前に自らフレイメア家を訪問して謝罪をするのが筋であったろうに。――――いい機会だ。今日は後宮の記念行事で招かれているのだから、お前はフレイメア宰相殿へランドゥール家を代表して挨拶してこい。むしろ改めて謝罪しろ。それを終えなければ、二度とランドゥールの敷地を跨げると思うな」

「……兄さん、分かってたけど鬼だ。あと、口調。口調が中盤から素に戻ってるから」

「……誰のせいだと思ってる」


(――――あ、やばい。久方ぶりに地雷踏んだ)


 特異な家庭環境で育った分、一際空気の変わり目の察知はずば抜けて高い。低められた兄の声に、これ以上の刺激は禁物だと悟った。表情筋を総動員させ、悔恨の表情を形作る。


(俺は役者、俺は役者、俺は役者)


 内心で自身を鼓舞し、痛切な表情で自身の非を全面的に認める。


「ごめん、兄さん。全ては自覚の無さが招いた結果だよ。後悔してる。……兄さんに貰ったチャンスを無駄にしないためにも、正式に謝罪してくるよ」

「――――分かったなら、いい。……兎に角、失礼のないようにな」


 兄は基本的に、非を認めた人間に対して、更に追撃を加えてくるような非道さは持たない。この性質に、過去に何度救われて来たことか。内心の冷や汗を表には一切出さず、安堵のため息を零す。

 もちろん、これも内心の話だ。


 その日は、兄の言うように後宮の記念式典が開かれていた。王宮と後宮の境にあり、湖畔も望める『夏の庭』の一角で華々しい装いの貴族や令嬢が歓談に興じている。

 一見しただけなら、楽しげに見える光景だ。それぞれの装いは品もあり、緻密に計算されたことを窺わせる美しさもある。しかしその実、貴族の集う場所に和やかさや親和といった意図は皆無だと揶揄される。

 テーブルの間を、縫うようにして進む合間にも。漏れ聞こえてくる会話の殆どが、互いの領地に関する腹の探り合いを巧妙に潜ませたものだ。


(案外揶揄も、真に迫っていることがあるもんだな……)


 素知らぬ顔ですれ違いながら、半ば呆れ返ってさえいる。商人としての意識から言わせて貰えれば、まさに道楽じみた応酬に見えて仕方がない。あらゆる情報は金に換えて市場へ流通させればこそ、価値も生じるというものだ。淀ませておくだけなら、害にしかならない。毒も調整すれば、薬になるが。おそらく、ここにいる大半が思い至ることすら無さそうだ。

 つらつらと、まさに毒にも薬にもならぬ考えに傾倒しかける思考。それもこれも、探している人物が一向に見当たらないせいだった。

 王族の傍に控えているかと思ったが、その姿は見当たらず。仕方なく庭を歩き回りつつ、失礼にならない程度に顔を確認して回ったが。


 ――――何で、いない。


 とうとう、庭の端まで来てしまった。ここから先は、後宮の境だ。関係者を除いて、足を踏み入れることは禁じられている。


「……ふむ、とりあえず見当たらない以上はこちらに非はないはずだ」


 兄には正直なところを伝えよう。普段から肉親に対してすら厳しい人だが、理不尽に怒ることはない。

 呟きを風に乗せ、来た道を戻ろうとしたところで。不意に、華やかな場所には似つかわしくない音が耳に届いた。


 ――――聞こえなかったことにしてもいいだろうか。


 割と、切実にそう思った。高まる胸騒ぎに加えて、それがおそらく盛大な『水音』であったことが、その内心に言い知れぬ不安を呼び起こすのだ。しかし、水音は戻っていく道の半ば辺りから上がったようだった。

 逃れられぬ運命を悟ったフォルテは、重い足取りでそこへ向かった。そうして辿り着いた場所で、まず覚えたのは眩暈だ。


「――――宰相殿、経緯を伺っても宜しいですか?」


 他にも色々と言いたいことはあったが、とりあえず無難な問い掛けを選んでいた。振り返ったギルバート・フレイメア公は記憶よりもさらに精悍さを増しており、端麗な面持ちは相変わらずのようだ。

 しかし、その眼光は頂けない。せめてそこだけは、柔らかい方向へ変わっていて欲しかった……。


「……少し、雰囲気が変わったか。ランドゥールの次男坊、どうしてここにいる?」

「兄の付き添いですよ。宰相殿にご挨拶しようと歩き回っていたところ、こうして運悪く、水辺の修羅場に居合わせてしまった次第です」


 そう。まさに修羅場。――もしくは痴話喧嘩の類であろうか。よりにもよって、貴族の令嬢を水辺へ突き落すという暴挙。笑えない。仮にも国の次席が、か弱い婦女子を……恐ろしい現実だ。自分のときがいい例だが、宰相殿は何やら水辺へ人を落とすことに躊躇いを覚えない質らしい。


「……兄と違って表情が取り繕い切れていない。使う言葉も根本から吟味しろ。言っておくが、お前の思っているような経緯はない。それは、自らタイミングを計って落ちただけだ」

「……自ら? え、と……それは何の目的があってわざわざ……」

「大方、騒ぎを大きくして父親経由で娘を娶らせようという、そもそも計画として甚だ疑問の尽きない安易な試みの一つだろう。しかし、過去にも似たような件があったからな」


 ――――捨て身過ぎる。


 流石に声もなかったが、とはいえ溺れてしまっては洒落にもならない。手を伸ばし、引き上げた令嬢は美しかったであろうドレスも装飾品も湖の藻まみれで、とても直視できるような状況ではなかった。それでも、諦め悪く縋り付こうとした令嬢は逞しい。むしろ感心してしまいそうだ。宰相の合図で引き取りに来た様子の女官たちに連れていかれ、不服そうに喚いていたが肝心の宰相は一瞥もくれない。


 ――――この人、本当に揺るぎない。


 しばらくの間、色々な意味で戦慄した思いでいたが。徐々に平静に戻っていくうちに、何やら複雑な心境になってきた。ようやく、目的の人物を探し当てたまではいい。しかし、今はそんなことよりも確認しておきたいことがあった。


「先ほど、以前にも似たような件があったと仰ってましたね?」

「……商人として興味が湧くような話ではないと思ったが。何の意図があっての、問い掛けだ?」


 疲れた面差しは、影を伴う。湖畔に揺らめく光を反射させている双眸は、僅かな警戒を滲ませたままこちらを向いた。

 二年前に会った時よりも、表情が豊かになったように思える。


「……無礼を承知で申し上げれば、知人の一人としての率直な問い掛けです。それ以上の意図はありませんよ」


 僅かに、目を瞠ったようだった。こんな表情もするのかと、些か不思議な気持ちで様子を窺う。別段、お前には関係のない話だと切り捨てられたところで困らない。そんな内心が、伝わっていたのか。

 返って来たのは、苦笑。初めて見る表情に、戸惑いを隠さない自分へ座って話そうと言う。

 湖畔から、テーブルのある場所まではそれなりに距離もある。歩きがてら、話せば良いのではと提案しかけた口が半ばで声を失って落ちる。


 湖畔の淵、草むらに躊躇いもなく腰を下ろし、傍らを指差すのは若き宰相。


「……いいんですか、仮にも国の次席が地べたで」

「そっちが素か。確か、お前の名はフォルト・ランドゥールだったな」

「……微妙な間違いを。わざとですか? わざとでしょう? 故意犯ですよね?」


 間を挟まずに指摘すれば、それはそれは横顔が楽しげであった。間違いなく故意犯であると、続く言葉からも再認識できる。


「フォルテ。国内でも有数の商家の次男坊として、何か効果的な虫除け方法があれば教えてもらいたい」

「……やっぱり故意犯ですか。そうですか……『虫除け』ね。ひとまず、今までの具体例とその都度の対策、予防策、その他諸々を教えて頂けますか?」


 まるでその発言を待っていたかのように、出る出る。微笑ましささえ覚えかけるものから、聞いていて頭を抱えたくなるものまで。選り取り見取り。まさにその七文字が相応しい女難歴の数々。

 詳細は、そのまま一冊の実例集になりかねないと思われるため、省略。しかし、令嬢と言うのも中々に可憐さとは程遠いイキモノであることを知った。少し、夢を壊された気分だ。見るような夢もないが。商人は夢を売る側だ。ある意味、究極の現実主義者でなければならない。

 それはさておき。一通り、虫たちの涙ぐましい攻防を聞き終えた後は、銘々に深いため息が落ちる。おお、夕日が眩しい。


「……苦労しているんですね、貴方も」

「ふ。同情するなら、何かいい対策を考えてくれ。効果が実証されれば、言い値で買ってやる」


 返ってきた言葉が切実すぎた。流石の商魂も若干ではあるが、同情気味になる。


「いえ、まずはお試し期間ということで……お代は要りませんから」

「……恩に着る」


 黄昏時、湖畔を眺めながら果たした再会劇。まさかそれが、後の自分が辿ることになる仕官への道筋の第一歩であったことなど、この時点では予想すらしていない。

 要するに、お試しで提示した案が効果を上げ過ぎたという。一種の弊害に等しい、ただそれだけの話だ。


 その弊害が明らかとなったのは、女難に悩む宰相殿へ幾つかのアドバイス――もとい、予防策――の提示を行って数か月が過ぎようとしていた冬の半ばである。兄が、いつになく真剣な面持ちで帳場へやって来た。


「話がある」


 その一言に胸騒ぎを覚え、何だかんだ理由を付けてうやむやにしようとした弟の苦悩などお見通しであったのだろう。抵抗もむなしく、ずるずると人けのない倉庫まで引き摺って行かれた。


「フォルテ、王宮からお前に仕官の依頼が来ている」

「……兄さん、自分はただの商人ですけど」

「そんなことは知っている。これは正式な依頼書だ。目を通してみろ」


 兄にしては珍しく、顔色があまり良くない。この兆候が示すのは、先行きが見えないという不安に近しい感情だろう。とはいえ、王宮からの依頼書となれば当然のこと無碍にはできない。兄から受け取った文面を、ざっと流し読みした。

 そして、その場で頭を抱える。


「……愚弟、何がどうして宰相殿はお前に目を付けたのか。この兄に分かるように、説明するように」


 後方に兄、正面に書状。逃げ場のない現状に、半泣きの弟は涙声でここに至る経緯を説明することとなった。

 弟が無償で提案した予防策が、ことごとく効果を発揮したという一連の流れに今度は兄が頭を抱えている。兄は基本的に、主体は商魂でできてはいるものの。その性質は善人と言ってよい。従って、弟のした事が人としても商人としても善意から生じた結果になったことを責められない。

 導き出される答えも、苦笑交じりとなった。


「……諦めなさい。愚弟。いや……フォルテ、こうなった以上は仕方ない。お前に王宮でやっていける才覚があるかは疑問だが、見出された以上はランドゥール家の次男として相応の結果を残せるように努めなさい」

「……兄さん、一度は落としておいて相応のプレッシャーを掛けるあたりが安定の鬼畜っぷりだね」


 宰相 ギルバート・フレイメアからの仕官要請により、一介の商人から一介の王宮見習いへと変遷を遂げることとなったフォルテ・ランドゥール。

 王宮は元より貴族出身者の巣窟であり。当初こそ相応の歓待を受けることとなったが、数週間も経つと彼らの顔色は一転して白に近いものとなっていた。

 ――――情報は、金に換わることもあれば使い様で『武器』にもなる。

 仕方がなく、実践することとはなったが。あまりやり過ぎないように兄からも伝えられていた分、手は抜いている。余分な恨みや不安は、買わないに限るからだ。


(しかし……それにしたって、メンタルが弱すぎだろ)


 貴族のボンボンが大半を占めるとはいえ、手のひらを反すように態度を委縮させる様子には溜息すら零れた。宰相殿曰く『害虫』認定を受けている令嬢たちの方が、まだ根性があるように思えてくるから余計に救いがない。

 情報は、武器なり。そんなお試し期間を続けること半年と少し。気付けば、見習い期間を終えていた。その後、当時は『沼色の暗部』とも称されていた王宮監査へ配属されて二年。一転して『無色の内政』と称される事務方で雑務に追われること一年半。

 ――――まるで初めから、予定されていたかのような周到さでとうとう宰相殿からお声が掛かったのが王宮へ勤め始めて約四年後の、朽ち葉が舞い踊る寒々しい晩秋の一日。


「久しぶりだな、フォルテ・ランドゥール。お前も少し顔色が悪くなったな」

「……貴方ほどではありませんがね、宰相殿」


 湖畔にて、並んで黄昏時を過ごしてからは五年近くの歳月が経っていた。顔色の悪さを指摘し合うのは、王宮における日常的会話の一つと言って差し支えない。何とも泣ける話だ。


「お前にとっては余り嬉しくはない話にはなるが、宰相補佐の椅子を用意してある。ちなみに今回の要請を断っても、次は王命経由で降りてくるだけの話でしかないから、事前に教えておく」

「――――相変わらずですね、宰相殿。私の兄は鬼畜ですが、貴方は故意犯だ。やることなすこと、無駄がない」


 柔らかな語り口ながら、言っていることは不敬で見咎められてもおかしくはない文言を。しかし、どっしりとした樫の机の向こうから苦笑に留める器の大きさに改めて思う。

 ――――この宰相に治められる国は、幸運だ。奇麗事だけでは立ち行かない、国の内政。その根幹に等しい次席の職。まるで死人のような顔色も、その職に身を捧げている証そのものと言っていい。

 一見すると近寄りがたいが、一度懐に入れたものは全て庇護下に置こうと心を砕く性質らしい。口を開けば、厳しい指摘ばかり訥々と並べられると有名だが、それを話す側は大抵苦笑混じりだ。厳しいが、的確であること。厳しいが、決して理不尽ではないこと。


 先代の宰相からその席を引き継いだ際、真っ先に取り掛かった改革。それは能に見合った働きをする者へ、相応の報酬を配分できるように体制を整えることだった。


 親しみやすいかと問われれば、おそらくそれは否だ。けれども、国の根幹を支える人物としておそらくこれ以上は望めない。とはいえ、人の能力には限界がある。どれ程に有能で、優れた人物であろうとそれは変わらない。少なくとも自分はそう思う。その職を、王宮の役人へと変えた後も。

 自分の本質は、商人のままだ。商人であるということは、現実をありのままに直視する姿勢が求められる。

 自分はこの若き宰相殿に助力することを躊躇わない。彼が舵取りをする国の行く末に、少なくとも自分は不安を覚えないからだ。むしろ楽しみでさえある。これはとても、大切なことだ。

『先』を見据えてこそ、商人。その先が明るくあれと、手を尽くすのもまた醍醐味である。


「ささやかではありますが、この身の及ぶ限り――――宰相 ギルバート・フレイメア殿。貴方の、ひいては国の助けとなれるようこの力を尽くすことをお約束いたします」

「……まるで商談が整った時の文句だな。フォルテ・ランドゥール。これから、よろしく頼む」


 宰相が差し出した手を、力強く握り返す。王宮、宰相の執務室。

 宰相と宰相補佐が、初めてその手を固く結び、これからの日々を共に戦ってゆくことを誓った。



 *****


「……フォルテ、虫除けの具体的な方法を」

「言い値で買うと言っても、提示しませんよ。貴方と先代では立場が全く違います」


 小さく舌打ちが聞こえた気がする。とんでもない十二歳がいたものだ。


「どうして人間って、性別が二つに分かれているんだろう……いっその事、雌雄同体のほうが合理的でいいと思わない?」

「……この国の未来が、真面目に不安になる発言です」


 そして妻子持ちに同意を求めるな。少なくとも自分は、そんな究極の意見に賛同はしない。


「……貴方の父君は確かに女性不信気味であったのは否めませんが、貴方はそれに輪をかけて酷いですね……何か理由でも?」

「――――聞きたい?」


 十二歳の少年が浮かべる笑みではなかった。思わず背筋を悪寒が走った。全くもって洒落にならない。

 いったい何があった、若人よ。


「……よし、ひとまずは見なかったことにして話を先へ進めましょう」

「ダダ漏れだよ、宰相殿。それはさておき……どうしたの? いきなりやる気に満ち満ちて来たね?」


 王子殿下の問い掛けに、これまで浮かない顔を隠す気もなかった宰相が破顔する。


「ここから先は、自分の黒歴史というよりか先代の黒歴史ですからね」

「……分かってはいたけど、宰相の性格も大概だよね」


 王子殿下は苦笑を隠さない。

 そして宰相は、今までとは打って変わって軽快な口調で語り始めた。どうやら本来の調子を取り戻しつつあるらしい。「現金だねぇ」と。話に相槌を打ちながらも、横目でそれを観察していた彼。

 こぽこぽと、王子自らがポットからお茶を継ぎ足していく。本来ならば侍女が行うべきところ、重度の女性不信を理由に内々に許されている。


 ふわり、と上がった湯気が傾き始めた日に透かして見えた。



 ******


 あの日々を、おそらく生涯を通じて忘れることはないだろう。後宮を巡る、一連の騒動。燃え上がり、焼け落ちた後宮は時の王と宰相の強い意志のもとで、廃止の道を辿った。愛憎渦巻く、女たちの園。一人の少女の死によって、とある辺境の一家の怒りを買った魔窟は。

 ――――もはや、語り継がれるだけの廃墟と化している。


 時折、懐かしむように妻が口にする名前がある。生涯でただ一人、自分が主と認めた人の名前なのだと。普段から殆ど表情を変えない妻が、その名前を口にするときだけ花のように笑う。きっと『彼女』の姿を見ていなかったならば、自分は嫉妬していただろう。

 けれども、後宮が焼け落ちたあの日。夕暮れを背に、家族と共に笑い、泣き、抱きしめ合った一人の少女の姿を自分は見ていた。『彼女』は確かにあの日、そこにいた。


 宰相の様子がおかしいと気付いたのは、後宮焼失より数日前のことだ。挙動不審と言って差し支えなかった。不可解な暗号文を飛ばして来たかと思えば、駆けつけた後宮で『鴉』を捕らえて護送を命じられるという経緯不明の命令が下った。そもそも、錯乱していた令嬢を余所に、箒を片手に花瓶の掃除をしている宰相の姿に色々と言いたいことを飲み込むのが大変だった。

 その際にはエルトリア侯爵家の令嬢を保護し、医療宮へ送致した。

 思えばあの時、初めて妻を見かけたのだ。宰相の隣にいても、全く動揺する素振りのない様子に内心で感嘆した。

 それはさておき、挙動不審は治るどころか増々悪化の一途を辿った。日々の業務にこそ、奇跡的に差し障りは出なかったが。今まで見た覚えがないほどの、上の空。思わず口にしていた言葉も、今にして思えば核心部ど真ん中だったのだろう。


「恋煩いですか、宰相殿?」

「……だったら、何だ」


 思わず飲みかけのお茶を噴いたくらいは、驚愕した。


(――――いやいや、この人に限って……ないない)


 色々と失礼なことを内心で呟き続けていたのは。その時はまだ、何一つ背景を知らずにいたからだ。背景を知らずに、全体像とそれに纏わる枝葉末節を知り得ることなど人の限界を超えている。


 そして夜半になり、山と積まれた普段通りの残業片付けに興じていた自分。始めは空耳かと思った。時折冗談でも何でもなく、幻聴を経験するのだ。

 しかし、その時は幻聴ではなく。凄まじい勢いで近づいてきた足音と、ノックの一つすらなく開け放たれた扉の先。もちろんこれは、宰相だった。顔を上げて、どうしましたかと問い掛ける前には要件を伝えられる。


「王弟 シャルル・セストレイに関する資料を至急集めろ」


 当然のこと理由を問おうとして、しかしそれは言葉にならない。これまで、決して少なくない年数を共に仕事に明け暮れた。その中で、理由を説明する間もないほどに早急に必要な案件も少なからずあったのだ。

 その時か、それ以上。射すくめられるような、強い双眸の光に無言のまま頷いて踵を返した。


 行く先は、王宮の書物庫。国に関わる、ありとあらゆる情報の集積場所だ。当然のこと、王家に関する門外不出の記述も多数眠っている。

 一切の思索を排し、片っ端から必要とされる情報を手に取っていく。集めたものは全て、執務室にいる宰相の元へと運んでいった。そして、一通り集め終えた後は手分けをして編纂に掛かる。一人の人間にまつわる情報は、大抵の人間が考えている以上に膨大で限りがない。通常ならば、編纂に至るまでにもそれ相応の日数が必要となる。編纂も含めれば、言わずもがなだ。

 ただし、国の根幹を昼夜支え続けるような人間は基本的に、規格外と呼ばれる。そんな規格外が二人揃えば、何が起こるか?


 結論として、明け方までには王弟に纏わる概要と指定された二年間の詳細な情報が歴毎に積み上げられた。それら全てを無造作に綴じ、ざっと目を通した後は。まるで疾風が如く、王の元へ駆け出して行った宰相。

 その背を見送った後、昏睡するようにしばし眠りについたのは言うまでもない。ただしそれも、再び戻った宰相に揺さぶり起こされるまでの短時間ではあったが。ああ、時間とはなんと儚いものか。


「おそらく今日、王宮と後宮双方で火種が付くはずだ。今朝の時点で、王弟が王宮内から姿を眩ませている。エルトリア侯爵家の粛清も近い。場合によっては、同時に捕縛を掛ける」

「……知らない内に、ものすごい勢いで話が進んでいますね……」

「フォルテ、遠い目をしている暇はない。私はこれから、リーベンブルグ候の屋敷へ状況を話しに王宮を出る。お前には、王宮に残って引き続き情報を集める役を任せる。捕らえた鴉からも目を離すな。エルトリア侯爵令嬢からもだ。それと、お前が信頼のおける衛士を何名か選んで、失踪している侍女の捜索を並行して進めろ。名前はクリスタ・エルトリア。知る者は少ないが、エルトリア家の落胤のひとりだ」


 それだけを言い置いて、王宮を後にした宰相。その背を見送る暇もなく、捜索用の衛士を手配し、続いて医療宮と警備塔双方へ足を運んで厳重な警備体制を敷くように厳命して戻った。引き続き情報を集めると共に、日常の業務も並行して進めていく予定でいたのである。

 だが、それも執務室へ届けられた一通の封書によってままならない事態へと一変した。差出人は、フランティーヌ・エルトリア。エルトリア侯爵家で唯一の純血を引く令嬢だ。彼女は、王弟と侍女の身柄の返還の交換条件として、異母妹の引き渡しを求めている。

 奇しくも文面を目にすることとなったフォルテはそのまま天を仰いだ。宰相から伝えられた事実と照らし合わせても、この封書は真実である可能性が高い。未だに全貌を明らかにされていない時点では、把握するにも限りがある。

 宰相は、出ていく時にもう一つ言い置いていた。それは、王宮へは戻らずにそのまま後宮へ向かうという予定だ。

 一か八か、後宮へ戻っていることに掛けて走り出したフォルテ。その行動が、結果として侍女の命を救う一助となることなどその時点では考え及ぶはずもない。広大な後宮に溜息と舌打ちを交互に繰り返しながら、手当たり次第に扉を開けて回った。見知らぬ令嬢たちの驚愕を余所に、闇雲と言っていい奔走を続けて。

 とうとう『彼女』の私室へ辿り着いたフォルテは。意図せず、無人の部屋を見渡して呟いていた。


「っ、こんな時に限ってあの人……このままだとあの侍女殺されるっていうのに……」


 一際目を引いたのは、凛と伸びた美しい背筋。国の次席を前にしても、物怖じしない様子が忘れられない。経緯は分からないが、執務室で宰相としばらく話をしていたようだ。宰相の命で紙鳥を手配した際には、彼女は信頼のおける協力者だと伝えられた。

 彼の人がこれまで協力を仰いできた人物のなかに、本質的な悪を持つ人間はいない。だからこそ、彼女を死なせるわけにはいかない。犠牲になど、させるわけにはいかない。そんな思いが、零れ落ちた刹那。


 ふわり、と頬を掠め、何かが扉を開けて駆け出ていった音がした。

 思わず、そのまま回廊へと飛び出した。その視線の先には――――亜麻色の髪を靡かせて、空に浮かんだ一人の少女が映る。しばし呆然と、空に浮かぶ少女を見つめていたフォルテ。彼の視線の先で、少女はほんの僅か静止したと思えば。突如として、東の方角へとまさに空を駆けるようにして去ってゆく。


(――――後宮の、幽霊……か?)


 宰相を探していた理由さえ、この一時だけは霧消する。徐々に思考を取り戻して来た後も、再び後宮内を駆けまわっている合間も常に脳裏を過るのは。あの幽霊が、東へ向かった理由だった。それはまさに、核心そのものであったのだが。残念なことに、フォルテの元にはその結論にたどり着くための情報と時間。そのいずれも、残されてはいなかった。


 時が、来たのは。再び走り始めて間もなくのことだった。


 鼻を掠めた何かが燃える臭いと、視界の端を掠めた紅蓮。


「――――っ、いったい全体、何が起きてる!」


 窓から、視線を向けた先。後宮でも、一際異彩を放つ『月の宮』の東側から燃え盛った炎は。風の勢いを受けて、後宮全体を覆いつくすまでその勢いを弱めることはなかった。


 火の手を、早々に発見したことが幸いしたのだろう。王宮から駆けつけた衛士たちも動員し、後宮内の令嬢と侍女たち、上位女官、他の使用人も含めた避難を見届けたその後。必要な指示を残し、再び駆け出した自分の視界に待ち望んでいた人物が駆け込んでくる。やはり宰相はまだ、後宮へ戻っていなかったらしい。今に至るまで駆け回り続けた自身の苦労に、報われない眩暈を覚えつつ。宰相と共に駆けつけて来たらしい面々に、思わず目を瞠る。

 かつて、西の獅子と呼ばれた傑物を始めとして。王宮にいた頃は鬼才として名を馳せた、オーディス辺境伯とその家族。

 彼らは一様に、焦燥にかられた表情を隠さない。一体今、何が起こっているのか。まるで掴めない状況ではあったが、宰相が走り出すその背に付き従うようにして。燃え落ちる後宮の周辺を、ひたすらに走り続けた。


 そうしてようやく、辿り着いた先。燃え落ちる後宮を前に、嗚咽を零す一人の侍女。駆け寄った宰相に、何かを訴えかける彼女の声。それを聞き終えた宰相が、顔色を一変させて向かおうとした先。

 それを悟った自分が、慌てて止めに入ったのも当然だった。


「ちょ、駄目ですって!! 死にますよ?!」

「離せ、フォルテ!! これは上官からの命令だ!!」

「……勘弁して下さいよ。どの世界に上官を見殺しにする命令があるんですか?!」


 本心から、気が狂ったのかと疑った。声を荒げるのも当然で、それもその筈。あんな大火へ飛び込んでいくなど、自殺行為に等しい。生涯でもあれほど怒鳴った記憶は、他にない。今にも殺されそうな視線を受けてもなお、引かなかった自分を褒めたいくらいだ。

 そうして怒鳴り合っている最中に、遠方で何やら悲痛な声が響く。どうやらオーディス家の長子が制止も聞かずに炎へ飛び込もうとしたらしい。

 ――――何なんだ一体。宰相も含めてどうしてそこまで死に急ぐような真似をする?


 そんな内心の声に応えるようにして、炎の中から現れたのが『彼女』だった。そう。後宮で見かけた、あの幽霊少女だ。亜麻色の髪と空色の双眸は、炎の中を彷徨ってきたであろうにも拘らず、既に人の世のものではないからだろうか。少しも焼けた様子がない。

 困った様子を隠さずに、長子を諌めた彼女。その後ろ背には、失踪していたはずの王弟の姿があった。

 途端、張りつめた空気は炎を前にしても凍り付きそうなほどの殺気だ。思わず視線を向ければ。宰相も含め、集まった面々は一様に王弟に対して憎悪に等しい表情を浮かべていた。特に炎の中へ飛び込んでいこうとした長子は声を荒げ、王弟を助けたことへの非難を表していた。それを、真正面から受け止めた少女。

 その双眸は、愁いと怒りに満ちていた。思わず身が震えるほど、それは純粋で恐ろしいものだった。そうして『彼女』が語った、祈りのような言葉は。

 事情を殆ど知らない自分にさえも、心の奥底まで揺さぶるような『懺悔』。そして、残される家族への願い。

 その声は半ばで途切れ、長子は少女を抱き寄せた。兄の腕の中で幸せそうに、微笑む少女。それは、胸が締め付けられるような光景だった。そこに集まる少女の家族たち。彼等は皆、幸せそうに抱き合っていた。


 そこにあるのは、穏やかで幸せな時間。それは、けして取り戻せないことを知っている家族たちが紡ぐ最期の時間でもあっただろう。

 宰相の傍らで、ひっそりとそれを見守っていた。家族一人一人に言葉を残し、そして最後に彼女が向き合った人物。それを見て、自分はようやく上の空の理由に思い至ることとなった。

 思いがけず、頬も緩む。

 ただ、愛おしい者を見つめる一人の男の横顔。今まで見たことがないほどに、柔らかな表情。言葉にせずとも、雄弁に物語るそれは。ままならぬ、恋。きっと双方がそれを知りながら、それでも夢見た先に、叶った一時。

 あの宰相が心を捧げると誓約した以上、おそらくそれは生涯に渡る決意そのものと言って過言ではなく。その表情を見る限り、彼女はその心を十分に知っていたことだろう。

 そうして、彼女が何かを言い紡ごうとした刹那――――。


 語られるはずであった少女の言葉は、途切れる。誰もが、それに対して反応できなかった中で。閃いた銀の軌跡に思考が追い付く、その前に。ただ唯一、身を呈した『彼女』が刃を受けてそのまま崩れ落ちてゆく。


 誰のものかも分からない、複数の悲鳴と怒号。視界の端に、取り押さえられる王弟の姿が映る。少女を抱き寄せた宰相が、声もなく嗚咽を零す背と。彼らの元へ駆け寄る家族たち。


 全てが、まるで色のない光景のようだった。


 少女が残されていた力を振り絞って告げた、最期の言葉。それすらも掻き消すようにして、焼け落ちた後宮を背に、宰相の慟哭が響き渡っていた。



 *******


「……それがフォルテの視点から見たオーディスの軌跡と、その顛末なんだね」


 ぽつり、と呟いた王子殿下の目には憂いが籠っていた。王家に連なる者は皆、後宮焼失に纏わる背景を知っている。『オーディスの軌跡』を、決して忘るることなかれ。今代においてもそれは例外ではなく。

 取り分け、この王子殿下は必要以上に背負い込むきらいがある。その理由は、おそらく。


「……リディアム王子殿下。貴方と王弟は姿形こそ似通ってはいても、けして同じものではありませんよ」


 この声が、どこまで彼の凍り付いた心へ届くかは分からない。むしろ、ほとんど期待できないだろう。それでも、伝えずにはいられない。

 まだ、十二歳。若い心はまだ、取り返しがつく。自虐と諦念に傾くには、まだ早すぎる。

 しかし、そんな内心を知ってか知らずか。あえてそこは読まなかったのか、それとも別の意図があったのか。夕暮れに染まった室内に、靴音が響く。


「――――フォルテ、あまりそれを甘やかさないでおくれ」


 夕刻を迎えた室内へ、影絵のように佇むその人は。この王宮の主にして、十二歳の息子を持つ一人の父親。

 リーベル・セストレイ=フレアード。

 もはや壮年に差し掛かったその容貌は、しかし歳月を経ても枯れ落ちることのない薔薇の如く。白皙の横顔は、父と子でそっくりそのまま重なりそうだ。


「……陛下。それは執務帰りにわざわざ顔を見に寄るくらい、気に掛けているであろう愛息子へ言う言葉ではありませんよ」

「君は相変わらずだね、フォルテ。……思ったことをそのまま口に出す癖は、やはりそう簡単には治らないのだろう。更に付け加えるとすれば、王の位を既に降りている私を陛下と呼ぶのは控えるようにと、先立って伝えたはずだよ」


 溜息を隠さない先王から向けられる、無言の圧力。早々に屈した宰相は、頭を抱えて明後日の方向へ向いた。図星を指された人間が、大凡辿るであろう一連の流れだ。そしてそのまま、散開の方位へ舵を切る。


「リディアム王子殿下、一先ず今日はこれにてお開きといたしましょう」

「……フォルテ。一先ずと言いながら、これ以上は語る気はないね? 君のその、表情が読み易すぎる傾向は国の次席としては不安が残るよ」


 ――――十二歳に指摘されるには、色々と痛すぎる推察だった。


「それくらいにしておきなさい、ディア。仮にもそれが、この国の宰相の位に在ることを忘れてはいないかい?」

「……忘れていないからこその指摘ですが。父上」


 どっちもどっちだ。というよりか、似た者親子だった。これ以上、同じ空気を吸い続けることは、それ即ち明日以降の自身の士気にも関わると察したフォルテ。

 兎にも角にも、癒しのわが家へ帰りたい。英気を養わずに、この心の傷は乗り越えられないだろう。


「まぁ、まぁ。お二方ともそろそろ空をご覧ください。これ以上の応酬は、ご家族の団欒の席でどうぞ。――それでは、私はまだ仕事が残っておりますので」


 これにて失礼、の態である。嘘を付くときは半分を事実、もう半分を偽りで割合を固めると良いらしい。早速実践してみたものの、しかし現実とは往々にして期待通りには進まないものだ。


「フォルテ。この国の宰相としての君の熱心な仕事ぶりは、日ごろからジルも頼りにしている。今後とも、愚息共々宜しく頼むよ」


 最後にさっくりと、次代も含めた諸々を投げ入れてくる辺り。先代の王たる人物の底意地の悪さを再認識せざるを得ない。先代の宰相であったからこそ、この王を支え得たのだ。少なくとも自分では、支える以前に胃痛で倒れて政務も儘ならなかったに違いない。このタイミングで、その名を挟んでくる意図。それ即ち、釘を刺しているということに他ならず。

 つまりは、この場を離れるのは構わないが仕事は先送りにするなよお前――という遠回しな牽制である。いやはや、恐れ入る。本当に読心術でも使えるのではないか。


 ――現王、ジルフェ・クレイル。王国に現存八つある、公爵家の筆頭クレイル家の現当主の実兄にして。おそらく今代で、最も不運な役割を押し付けられている人物の一人。そんな彼は、この王宮における戦友といっても過言ではない。

 元より、彼はたとえ『代理』であれども、王の席に着くことなど真っ平御免だと思っていた節がある。

 そもそもの起こりは、後継が成人を迎えるその前に隠居を宣言した王が存在したことに起因する。普通はあり得ない。起こり得ない。承認されない。ないない尽くしの三拍子だ。しかし、一人の生贄(もとい王候補)と周囲への事前の根回しによってそれが起こり得た現実。それが、紛れもない現状。内乱に発展しなかっただけでも御の字である。

 しかし。それによって一時的とはいえども、王宮は未曾有の恐慌へと陥りかけたのだ。結果として、あらゆる可能性が杞憂に終わったのは。結論から言おう。先代の宰相が、クレイル家の子息を一時的な王座に据え置いた結果だ。

 あれに目を付けられた時点で、彼も大概不運の部類に入るだろう。どこか似たような境遇を引き摺る者同士、どうして共鳴せずにいられようか。年齢もそれほど離れていないこともあり、元々の身分はそれこそ天と地ほどにかけ離れたものではあるものの、家族ぐるみの付き合いを続けている。

 仮にこの先、王座の交代が現実となる日が来ても。おそらく彼との関係性は、それほど大きくは変わらないのではなかろうか。

 疲れ切った精神を鼓舞しつつ、フォルテは内心の溜息を奇麗に覆い隠して一礼した。


「身に余るお言葉、謹んで頂戴いたします」


 言い置く言葉は、端的に限る。そのまま身を翻し、今度こそ室を後にしたフォルテ――現宰相の後ろ背を見送った王家の二人。


 静けさの残る室内で、幾分唐突に口火を切ったのはリーベルであった。


「ディア。以前から伝えている通り、その呵責は全くの見当外れも甚だしいものだよ」


 ――――幾つかの偶然が重なり、幽閉塔の『彼』に邂逅することとなって以来。双藍の瞳を持って生まれた我が子は、本心からの笑みを浮かべることが少なくなった。一時期は皆無といっていいほど、表情も感情も失った。

 当時、それを掬い上げたのは父親である自分ではない。自分の言葉は、掠めることすらなく。その欠け落ちた心には、届かなかったのだ。

 唯一、先代宰相の言葉だけが、虚になりかけた心を辛うじて現世へ繋ぎ止めたのだと。後に、経緯だけを知らされた折。これもある意味では数奇な巡り合わせだと、思わず虚空を仰いだものである。

 実際に、どのような会話が交わされたかは当人同士以外に知る者はいない。宰相は語らず。当人もまた同じだった。望めば、明かされたのかもしれないそれを。王として、父としても。結局、彼はひとえに聞くことを望まなかったのだ。それを聞く資格すら、自分にはないことを知っていた。昔も今も、傍観に終始してきた自分こそが本来の意味での『罪人』であることを知っていた。


「父上、私はもう二度と同じ誤ちを繰り返したくはないのです。そのために必要とあらば、生涯この心を凍らせておこうと思いました。――――誰かを慕う心は、裏返せば周囲の無関係な人間さえも傷つける諸刃の刃になることもあると、幽閉されていたあの人を見て知ったからです。けれども、彼の人はそうして目を背けようとした自分を真っ向から否定した」


 夕暮れは闇に変わり、互いの顔を辛うじて二つの燭台が照らし出す室内。ぽつりぽつりと本心を口にしたリディアムの頬に、いつしか涙が筋を引く。


「この目が、この顔が――忌まわしい記憶を甦らせるかもしれない。そう思ったら、恐ろしくて周囲を見渡すことさえもままならなくなった。そう告げた時、あの人は何と言ったと思います?」


 震える声で、それでも言い紡ぐ。


「恐れるだけで何もしないなら、それこそが『命』への冒涜だと――――ギルバート・フレイメア宰相は、それだけを言い残していきました」


 明かされた、回答。かつて抱いていた、思い。今に至るまで、聞くことを躊躇っていたそれは。まさに、父子共に共通した思いであった。この王宮にあって、誰よりも『死』を身近に知っていた彼であったからこそ言い得た言の葉。リディアムを介して伝えられることとなったそれに、束の間、瞑目する。


 ――――後宮焼失後。

 オーディス家の面々は一度ならず二度までも、目の前で愛しいものを奪われた喪失感を抱えたまま、自領への帰路へとつくこととなった。その心情がどのようなものであったかは、察するに余りある。ただ『彼女』の意思を汲み、それぞれが抱く復讐心を辛うじて繋ぎ止めていたのだ。

 そして、残された者はもう一人いた。今までに見たことがないほど、鋭く歪められた双眸。周囲にいた衛士たちですら、直視することを躊躇うほどの殺意を纏いながら。

 王宮へ参じたギルバート・フレイメアは、開口一番にこう告げて来たのだ。


「王弟に纏わる全ての処置に、今後一切自分を関わらせないことを厳命してください」


 もし、関わることがあれば――――おそらく自分は『役人』として対面できないと。迷いなく言い切ったその目には、今にも崩れ落ちそうな脆さが垣間見えた。これに限って、と多くが思うような人物であっても。痛みは例外なく、その心を揺らがせる。愛するものを失えば、揺らぎもまた、相応のものとなるのだ。

 目を合わせ、父として子へ問い掛ける。


「ディア。君が痛みを抱えたまま生きていくというのなら、私にもその半分を背負わせてくれないか?」


 涙にぬれた双眸が、驚いたように丸くなる。その頬に手を添わせ、ずっと苦しみを背負わせ続けていたことに。その遅すぎた後悔に、震えた父の手を。そっと、握り返した手のひらの暖かさ。


「父さん――と、今だけはそう呼んでも構わない?」


 声にならない声も、聡い子は知らず知らずに読み取ってしまうものだ。

 久方ぶりに抱きしめ合った父子を、月明かりが柔らかく照らしている。



 *


 ――――全ての傷が、歳月を経て癒されるという保証はない。それは先代の宰相の背中を見て、他ならぬ自分が感じたことだ。

 月明かりの道を、馬車に揺られながらようやく邸へ向かう深夜。窓から見上げた月の輪郭は、淡い。


 室を出た後は、ジルフェの顔を見に行った。普段と全く変わらない『もうすべて投げ出したいです』という表情を前にして、色々と頭を抱えたくなった自分は、おそらく疲れていたのだろう。そっと差し入れの菓子(対外的にはあまり知られていないが、現王はかなりの甘党である)を

 机の四方に配してきた後は何も言わずにその場を去った。言葉が全てを掬い上げる保証は、どこにもない。せめても、王宮御用達の品質最高ランク菓子でもって明日への英気を養ってもらえればと願うばかりだ。

 王の執務室を出た後は、自らの部屋へ戻った。相変わらず『山』が如き書類を前にして、とうとう内心に留めていた溜息も零れ落ちる。そんな宰相に気付いてか、その山の中腹あたりからひょっこりと顔を覗かせるのは彼の補佐である。勿論ここで言う補佐とは、王宮においては『花焔』とも称される彼女。


「……なんだか、二割増しで顔色が悪いように見えますが……」

「カタリナ。兎にも角にも今日は早く帰宅したい。ない力を振り絞ってでも……この山を平地に戻そう」


 宰相の執務室にて、どのような経緯があってか土気色を通り越して青白くなった宰相を迎えたカタリナ・オーディス。彼女は据わった眼をしている上官を確認し、山の中腹でやれやれと疲れ目を擦った。こうなった以上は、限界を超えて山の平地化に取り掛かるほかない。うら若き乙女(精神はいつもここ。年齢云々については除外)とは思えぬ、深い深いため息を零しながら、青白い宰相の横で再び仕事に取り掛かるのだった――。


「もう、燃え尽きました……明日、灰から脱せるかどうかは未定です」


 そう言い残し、ふらふらとした足取りでカタリナが執務室を出る際には既に迎えが到着していた。今も昔もオーディスの苦労人と名高い『黒縄の監査』ことミスティ・オーディスである。おそらく彼も、常人の想像を超える激務を終えたばかりだろう。三人が三人とも極限の顔色をしている。それでもこうして大切な妹を迎えに来るのだから、その強靭な精神力と家族愛には尊敬すら抱くところだ。


「……お互い様ですが、尋常ではない顔色ですよ。宰相殿」

「ははは。……違いない。商人時代がぬるま湯のように思えてくるのだから不思議だよ」

「……互いに死因を過労死と表記されない程度に、努めないとな」

「おやおや、猫が剥がれかけているよ。黒縄殿」

「それはお互い様だろう」


 二人顔を見合わせれば、猫被りもいい加減に馬鹿馬鹿しく思えてくる。現王と宰相の不遇同盟が存在するように、現監査のトップと宰相もそれなりに気心の知れた関係性を持っている。彼らは王宮においては数限られた戦友も同然。互いに信頼を置けるという事実は、こと王宮においてこれ以上に得難いものはない。


「では、また明日」

「ああ。夜の間くらいは、互いを労わろう」


 半分以上意識が飛んでいる状態の妹を抱え、颯爽とその場を後にする兄の後ろ背。基礎体力からして、違いすぎる。


「……今から鍛えるのは自殺行為だよなぁ」


 誰もいなくなった執務室で、思わず零した呟きに言っている当人が空しさを覚えるという悪循環だった。

 その後は、馬車に乗って現在に至る。柄にもなく昔語りなどに興じたせいか、思考がいつになく感傷的だ。月を見上げることなど、普段は殆どないのがいい例だ。自己を俯瞰で見る癖は、商人になる過程で自然と身に着いたものである。王宮に在って、心身ともに健全であり続けることのむずかしさ。身をもって知ることとなったこの数年間で、改めて考えさせられる。


 ――――先代は、稀に見る変わり種だ。


 後宮が廃止された後でこそ、思う。自分が補佐を務めていた当時は、今と比べることすらおこがましいほどに、王宮には様々な急務が渦巻いていた。その渦中においても、見事に舵取りをしながら国ひいては民のために僅かの妥協も許さなかった彼の人は、果たして同じ人間の分類に入るのかと。

 その隣で仕事をし続けていた間も、王宮を去った後も。ふとした瞬間に、それこそ幾度となく浮かんでくるその問いに苦笑を覚えつつ。それでもやはり、畏敬の念を抱かずにはいられない。

 あの人は、そういう人だ。

 けれども、後年になってそれが一面に過ぎないことも分かってきた。

 ――先代にとっての、転機と呼べるもの。それは自分が知る限り二つある。そのうちの一つは、言うまでもなく『彼女』メリア・オーディスとの出会い。そしてもう一つは、フレイメア家の忠実なる執事 アルフレイドの死である。


 その死が自分の耳に届いたのは、一夜が明けた後だ。朝焼けに染まる湖畔に、佇む背があった。いつか、再会を果たした時と同じように。振り返ったその双眸は、けれども以前のような強い光を湛えることはなく。静まり返った湖底のような静けさと深い憂いに満ちていた。


「――何の確証があったわけでもないが、あれが逝くのはもう少し先の話だと思っていた。無意識に考えないようにしていた事柄ほど、何故だろうな……現実では早々と突き付けられることになるものだ」


 口を開けば、おそらく当たり障りのない言葉しか出ないことを知っていた。だからこそ沈黙を選んだ補佐に、宰相は微かに微笑んだ。


「あれは、最後まで執事であり続けようとした。歩くことすら、本来ならばままならなかっただろう体を自ら偽り続けてまで――――……」


 草むらに腰を下ろし、どうぞと隣を示せば。ほんの僅か目を瞠って、何も言わずに宰相は傍らに腰を下ろした。


「アルフレイドさんは、きっと最後まであなたに執事として接して欲しかったんですね」

「自分もそれなりに頑固だと思っているが、あれは筋金入りだった……父も時折苦笑していたが、今ならその苦笑に全面的に賛同できる」


 さわさわと吹きわたる朝風に、舞い上がる黒髪。束の間、その表情を隠した。ほんの少しの沈黙の後に、まるですべてを悼むように紡がれる声は。大切なものを失った痛みを堪えているのだろう。所々が掠れていた。


「とうとう病の影響を隠し通せなくなった時、あれは寝台の上で私に謝った。怒りを買うことを知っていながら、直前まで何一つ零さなかったあれに……怒り以上にやるせなさを感じた。それ程に自分は、主として未熟であったかと……」


 だが、と続ける。そこには微かに苦笑すら滲んでいた。湿り気を帯びた声に、まるで気付かないふりをするように。


「――そんな自分の内心など、あれには筒抜けであったのだろう。逆にあれを怒らせてしまった。たとえ寝台に伏しても、あれは最後の最後まで執事として在り続けた」


 主として認めればこそ、己の不調など決して見せてはならないと。フレイメア公爵家に仕え続けた執事の矜持であると同時に、自らの意思でもあったのだろう。たとえ主であるあなたであっても、それを誤った認識で捉えることは看過できない。と。


「……アルフレイドさんは、まさに執事の鑑と称するにふさわしい方ですね」

「……そう、だな。思い返せば……あれが屋敷の管理を一手に担っていたことで、初めて自分は次席として在り続けられたのかもしれない」


 明けた空に、覗く蒼穹。それを見上げたまま、その口許に微かでも笑みが戻って来たことに安堵を覚えながらも。しかし、この痛みは覆い隠されただけで――――本来の意味で癒えるのに、いったいどれ程の歳月が必要になるのかと。そんな思いが、脳裏を掠めていた。

 そんな考えを見抜いていたのかは、今となっては分からない。けれども、その双眸を空へと向けながら時の宰相は言った。


「……あれは最後に、約束を残していった。後宮焼失からずっと、自分の不安定さにあれは気付いていたのだろうな――。


『親愛なる坊ちゃま、主よりも先に逝く不義理を寛大なるお心でお許しください。先代の父君様、坊ちゃまと共にこの屋敷で過ごした日々は私めにとって生涯に渡る宝物でございます』

『これより私は一足先に、あちらへ赴きます。ふふ、実は少し楽しみでもあるのですよ。未知の領域というものを前にすれば老いも若きも、等しく心躍らせるものでございます。叶うならば、あちらで坊ちゃまが生涯に渡って心を捧げることを誓ったご令嬢と語り合いたいものです』

『そう嫌な顔をなさらずに。主にとって不利になるようなことは、誓って申し上げません。ご安心なさいませ。ギル坊ちゃま。ですからどうか、そんなに悲しそうな顔をなさらないでください』

『大丈夫ですよ。私がいなくなっても、貴方の傍には、貴方自身が考えているよりも遥かに多くが寄り添い続けてくれるはずでございます。貴方はそれだけの器を示してこられました。一執事として、それを心から申し上げられる貴方は私にとっての誇りそのものでございます』


『――――どうか、その心を強く持ち続けてください。約束ですよ。分かり難いことこの上ない貴方の優しさを、周囲は必ず認め、そしていずれはその優しさが周囲も貴方自身も幸せにしてくれることでしょう。もし、坊ちゃまがその心を持ち続けて生涯を全うできたその際には、貴方が愛した令嬢と共に私もお迎えに参ります。フレイメア家の執事 アルフレイド・ボルト―の名のもとにお約束申し上げます』


 ――――最後の時まで。あれは、終生坊ちゃま呼びを変えないままで、……逝った」


 空から視線をおろし、湖面へ向けられた双眸からその頬を伝った涙に。あえて気づかないふりをしながら、そのまま寝転がった草むらから見上げた青。


(……今日も晴れそうだ)


 天候を予測する一方で、兆した感傷。それは、おそらく王宮に来る前の自分にはなかった感覚だ。

『死』によって生じる傷跡は深く、残されるものに痛みを残す。喪われたものは同じ形で戻ることは二度となく。空白の部分は、他の何かで補えるものでもない。

 それでも残された、想いは。愛した人たちと過ごし、残し遺された記憶と共にあり続ける。

 交わされた、約束は。正直なところ、叶うかどうかも分からないものだ。けれども、あるいは。


 ――――もし、本当にこのまま彼が彼のままで生き続けた先に『約束』が存在するならば。


 それを、見てみたい気がした。一人ではままならないことも、周囲の助力を得ればより確実な道筋になるだろう。その一助として、自分も『先』へ至る道を守ればいい。


 湖畔の傍ら、草むらの合間より。生涯を通じて最も不確実といえる、一種の賭けにも似た想いで心を決めたあの日から、既に長い年月が過ぎた。

 ――――その賭けの顛末もまた、既に見届けて久しい。


 ガラガラと音を立て、邸の前に辿り着いた馬車から降りて正面の扉へ続く小道を辿る。仄かに白い月明かりが、庭と視線の先に佇む彼女を照らしている。


「……起きていたのか、クリスタ」

「月が奇麗でしたから。貴方を迎えたのは(ついで)です」


 日の下では微かな影を纏う彼女も、月明かりの下では心穏やかに笑う。二年余りの攻防の末に、ようやく妻になることを承諾に至ったあの日々が懐かしい。あれから、思えば長い時間を共に過ごして来た。

 仕事柄、一般的なそれよりか遥かに短い時間ではあるかもしれないが。それでも共に。ずっと傍らで支え続けてくれる存在があればこそ、王宮の地獄のような日々にも耐え得るのだ。


「今日は一段とお疲れのようですね?」


 彼女が気遣わしげにそう囁いた声に、今日一日の王宮におけるあらましを語った。途中遠くを見つめるような様子が何度かあったものの、最終的にはどこか切なげな表情を浮かべて見せる。


「王子殿下は、母方の繊細さを余さずに継がれたのでしょうね……あの先代とは違って」

「……クリスタ、全く目が笑っていないね。確かに先代が長きに渡って後宮を放置してきたことは、今もって許せないのだろうけれど、ね」


 ――――でも、おそらくあの王もまた自らの罪を認識している。

 妻の怒りは十分すぎるほどに、理解できる。同時に、先代王が玉座を降りた理由も知っている。どちらの意思も知り得ればこその、非常に複雑な心境といえばそのままだ。そしてそれは、例の如く筒抜けであったのだろう。


「今更、先代王を責める気はありません。あの方が長きに渡って他ならぬ後宮で辛酸を舐め続けて育った経緯を、私もまた知っていますから。――――ただ、時折どうしようもなく込み上げる気持ちは、生きている限りは失われないものなのでしょうね……」


 クリスタもまた、後宮焼失に伴って心に深い傷を残した一人だ。オーディス家の面々と同様に、大切な人を再び目の前で奪われた。加えて、彼女は王宮で過ごした日々と『彼女』が殺された経緯に対して今もなお、自らを責め続けている。

 心では、分かっていても。割り切れないものは、割り切れないのだと。それが生きているということなのだと。

 もう、自分を責めるのは止めるようにと願った自分に、そう言って涙を零した彼女。時によってすべてが癒されるわけではないのだと、その涙を見て知った自分。改めて思い返しても愚かだったと思っている。


 傷を負いながらも、そうして生きて来た彼らは一様に強く、優しい。時が癒すのではなく、抱えて来た日々が彼らの心を少しずつ包み込んでいくのだと。先代の傍らで、過ごして来た日々の中で知った。

 カタリナや、ミスティを始めとするオーディス家の人々。先代の王を含めた、王家の面々。自分の妻であるクリスタ。そして、先代宰相殿。痛みから目を逸らすのではなく。痛みを糧に、その先へと進むことを選択した彼ら。忘却に身を委ねることもできただろう。しかし、選ばなかったその強さ。

 ――それは何にもまして、尊い。


「失われないものならば、それとともに歩ける道を共に行けばいい……貴方がそう言ってくれたので、私はこの先も貴方と共に見守っていきたいと思ったのです」

「……本当に君には敵わないよ。こちらこそ、今後ともに宜しくね。愛しい奥さん」


 淡い月あかりを二人並んで見上げれば、いつしか優しい記憶ばかりに囲まれている自分に気付いた。もしかしたら、自分の『先』にも迎えに来てくれる誰かがいるかもしれない。妻よりも先に逝こうとは思わないが、後において行かれるのも正直辛い。それでも、生きている以上は『先』からは逃れられない。同時に、逃れる必要もない。


 ――――死の先にいる人たちを知っている自分が、どうして恐れる必要があるだろう。


 *


「ふ……相変わらず酷い顔色だ」

「貴方にだけは言われたくないものです、先代殿」


 柔らかな風が窓から吹き込む夜半、彼の人は臨終の時を迎えようとしていた。思えば、長い付き合いになる。一番初めの遭遇があまりに衝撃的だったことはさておき。傍らで過ごした日々は、もう自分の半生に切っては切り離せないものになっている。


 王宮を離れ、穏やかな日々を過ごしていたであろう後年。ようやく顔を合わせたのが、臨終の時であったことが惜しまれてならない。


「王宮はどうだ?」

「そうですね……ジルフェは優秀ですから。自分とカタリナもいますし、今後数年は何事もなく過ぎていくだろうと思いますよ」

「そうか……奥方は元気か?」

「ええ。クリスタは最近、息子と一緒に家庭菜園に凝っていますよ。ついでにグレイスも巻き込んで……収穫高、昨年比三割増しを目標に据えて頑張っています」

「……異母姉妹同士、少しでも和やかな関係性を取り戻せているなら何よりだ」


 グレイス・エルトリア。かつてエルトリア家の令嬢であった彼女は、今はもう家名に縛られることもない。一度は自死を図った彼女を、強かに頬を張って止めたのはクリスタだった。

 思えば、おかしな巡り合わせだ。襲い、襲われた経緯を持つ彼女たち。最後には、他でもないクリスタがその命を掬い上げた。


「人生は長いようで、短い。……そういえば、お前を王宮へ強制的に引き摺りこんだ咎もあったな。今更ながら、赦せとは言わない」

「言わないんですね。……全く。最後の最後まで、貴方らしい」


 苦笑したフォルテを寝台から見上げる顔に、かつて纏っていた鋭さは見えない。まるで長い安息を前にして、ひっそりと安堵を覚えているかのように穏やかな表情は柔らかい。


「――――フォルテ、他でもないお前に託したい願いが一つだけある」

「……貴方はどれ程の歳月を経ても、芯だけはまるで変わりませんね」


 なんとなく、だが。きっとこの人は自分にその役割を残していくような気がしていた。ただ、ここで一つ予定外があった。

 今も昔も。彼の人が自分に何かを伝える時は、そうじて命令か指示ばかりだった。しかし、死を前にした彼の人が最後に選んだのは『願い』の形。生前に唯一、口にした願いは最初で最後。それをあえて願いに留めた彼の人の意図するところに、気付いた自分が首を振る道理はない。


「他でもない先代宰相 ギルバート・フレイメア公の願いとあらば」

「……やはり、お前を補佐にしたことは間違いではなかったな」


 会心の笑みを浮かべた彼に、微笑みを返した。本当に、この人に出会ってからの人生はあっという間に過ぎ去った。

 あらゆる人と関わり、思い出したくもないような失敗も幾度も経験しながら。それでも、最後には必ず彼の人の支えがあった。それを支えにこれまでも、これからも進んでいくことができる。兎に角厳しさには定評があり。時に冷酷かつ容赦もない。愛想も、皆無とまではいわないが偏りがある。ただ、一度懐に入れた人間をどこまでも信じ抜く強さがあり。時に自らを省みないような、面倒なやさしさを持つ。周囲の挙動をよく見ており、懐の広さも備えている。マイナスを補って余りある、できた人。同時に、王宮における稀代の変り種でもあり。盟友兼上司兼今まで出会ってきた誰にもまして、比類なき変人。

 情に厚く、得難い人だ。


「一度くらいは、同じ目線で語り合ってみたいものだと思っていました。けれども、実際に対面すると駄目ですね。私では、とてもあなたと同等には話せない」

「そうか? その割にお前は遠慮なく口を開いていた気がするが……。 今更隠す必要も覚えないから言うがな。私は退官した後も、お前のことを王宮における盟友同然だと思ってきた」

「……もうやだこの人。何ですか。天然ですか。それとも故意犯の再来ですか?」


 必死に涙腺を留めていることを知っていて言っているとすれば、この人も大概だ。若干の涙目で、見据えた先。やはり笑っている。


「本心だ、フォルテ。お前は私にとって掛けがえのない副官であり、腹心であり、信頼のおける配下であり、同時に支えでもあった。――――あの混乱期を乗り越えられたのは、お前が補佐の椅子を蹴らずに王宮に残ってくれたおかげだ」


 やはり、この人は変人だ。これ以上の変人に、この先自分が出合うことがあるとは思えない。その感性の違いに、真面目に頭を抱えたい。そう、けして涙に濡れた顔を全面的に隠すためのカモフラージュ等ではない。


「フォルテ、カタリナと共に王宮を守れ。これは先代からの命だ」

「……願いの形にするのではなかったですか?」


 自分の掠れた声に、静かに笑った気配。顔をゆっくりと上げた先で、彼の人が自分に向けて伸ばした手を取った。痩せ細ってはいるものの、その先の目は刹那かつてのような力を宿した。


「――――願いだ。 フォルテ。私が向こう側へ行った後も、オーディス家の軌跡を見届けて欲しい。自分では見ることの叶わないその先を託したい。……頼めるか?」


 答えなど、とうに決まっていた。それを聞き終えた彼は、その手を伸ばしてくる。それはまるで、かつてと重なる。けれどもそれは、全く同じというわけでもないらしい。

 触れたぬくもりに、同じだけのぬくもりを返した。


 ――――ありがとう、フォルテ。

 ――――どういたしまして、ギルバート。


 淡い月あかりに、照らされた横顔はこれ以上ないほどに穏やかなものだった。駆けつけたカタリナと、並んで見守る中で。柔らかな、ひとひらの風。


 年老いた宰相は、その一時若々しく微笑んだ。



 *


 大切な誰かを失ってもなお、自分たちは傷を抱えて生きていく。果たすべき何かを、支えに。託された道のりの半ばから、その先を見届けるために。


 ――そう。

 本当は、きっと誰もが誰かが願ったその先にいる。託された道の先で、生きている。その過程で出会い、別れ、そして最後に辿り着く先。

 その先で、再び全ては巡り合うのだろう。

 らしくない話だ。現実主義が、聞いて呆れる。だが、それもまた悪くないと思う。そう思えるようになった自分は、考えていた程悪くない。

 自分の『先』が今から何年後になるかは分からない。彼の人と違い、自分には普通に見えるものしか見えないのだから。いや、訂正しよう。おそらくは彼の人でさえ見えなかったであろう先。それを見通せるわけもない。

 けれども、確かなこと。誰しも『先』があることだけは確かなのだ。それだけ分かっていれば、進むことに躊躇はない。

 変わったもの。変わらないもの。喪われるもの。遺されるもの。全てをひっくるめて、今の自分がある。その先まで。再び巡り合う、その時まで。

 遺された奇跡の途上を、今日も歩き続けていく。


 *fin*


ここまでお読み頂いた全ての方へ、感謝を込めて。

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