彼が彼女になった理由5:帰省
自分の実家は、東京都下の私鉄沿線にある。
最寄駅からそこそこ遠く、徒歩なら片道30分はかかるような場所だ。しかも、その道のりの途中には結構な急坂がある。駅までの行きは下り、駅からの帰りは上り。高校・大学時代は自転車を使っていたが、実家を出てからは、バスを利用するようになった。それでも駅まで10分強はかかる。
バスに乗って実家に向かう道すがら、記憶にあった通りの風景が広がっていることに安心する。確かに、自分はこの風景の中を、通学・通勤で毎日駅まで往復していた。
冬の日曜日の昼下がりの路線バスは、ガラガラに空いていた。自分の他には、2名の乗客しかいない。いずれも、シルバーパス利用のお婆さんだ。
実家の最寄りのバス停で下車すると、いよいよ記憶にある通りの道のりを、実家に向かって歩きだす。大丈夫、ここまでは何ともない。
バス停から歩くこと、約5分。いくつかの曲がり角を曲がると、実家として記憶している家が見えてきた。最後に帰省したのは、たしか3年前のはずだ。妹に長男が生まれた時は、病院に直行したので実家には立ち寄っていない。あの家の2階の南向きの部屋で、自分は社会人1年目まで暮らしていた。
Webデザイナーの仕事が忙しくなり、通勤に時間が割かれるのが惜しくなってきた頃に、実家を出て東京都区部にあるマンションに引っ越した。オートロックのある洒落たマンションだったが、Webデザイナーから転職をした時に、心機一転したくて今のマンションに引っ越した。築年数は古いし、オートロックもないが、部屋が広々としているのと、都区部にも関わらず周囲に適度な自然が広がっているのが気に入っている。
あと数歩で実家の前に着くところで、いったん立ち止まって深呼吸する。この先、どんなことがあったとしても、受け入れる覚悟をしなくてはならない。まずは、表札の確認からだ。かつての苗字がわかれば、名前の方も思い出せるだろう。
「あれ?お姉ちゃん!?ここで何やってんの?」
振り向くと、そこには記憶にある通りの妹:瞳美が、買い物袋を下げて立っていた。
「え?ああ、久しぶり!!ここのところ年末年始にも、実家に帰ってなかったから、どうしてるかな?と思って、久しぶりに実家の様子を見に来たところ」
「なんか怪しかったよ。コソコソうちの方を見てたかと思えば、急に立ち止まって深呼吸したりして。髪、伸びてたから気づかなかったけど、お姉ちゃんだったんだね」
「ええ、そうだった?そんなに怪しかったかな。すごく久しぶりだから、なんか照れくさくて」
そう話しながら、横目で表札を確認する。そこには2文字で、こう書かれていた。
『鈴木』
「ねえ、瞳美。あたしの名前って、花子で合ってる?」
「はああああ!?何言ってるの、お姉ちゃん!花子に決まってるでしょ?ちょっと、本当に大丈夫?なんか、前に会った時よりもさらに痩せたみたいだけど、また仕事のストレスで追い詰められてる?」
「ううん、全然!」
「じゃ、早く中に入んなよ。お母さんも居るから。うちの陽介にも会ってやって」
陽介とは、間もなく1歳半になる瞳美の長男だ。自分にとっては、甥っ子になる。生まれた直後に病院で抱っこさせてもらったきりで、会うのは今度で2度目になる。
瞳美は先立って実家の玄関の錠を開けると、自分を招き入れた。
「ただいまー!お母さーん、お姉ちゃん帰って来たー!」
スニーカーを脱ぎながら、瞳美が家の奥に向かってそう声をかけると、奥からパタパタとスリッパの足音が近づいてきた。
「あら、お姉ちゃん!どうしたの?連絡もなしに」
そこには、自分の記憶にある通りの母親が立っていた。腕には、甥っ子の陽介を抱えている。
「ただいまー。しばらく、顔見せてなかったからさ。父さん、母さん、元気かなー?って思って」
「そうなの?だったら、来る前に電話してくれたら良かったのに。お父さん、釣りに行っちゃったわよ」
「ああ、うん、大丈夫、大丈夫。ちょっと顔を見に来ただけだから」
「大丈夫じゃないわよ。せっかくお姉ちゃんが来てくれたのに、会えなかったら後でお父さんが寂しがるじゃない」
「母さん、ありがとう。陽介、ただいまー」
瞳美が母親の抱えていた陽介を、引き取って抱っこする。
「この人が、ママのお姉ちゃんですよう。ご挨拶しましょうね」
甥っ子は、簡単な単語なら、もう話せるようになっていた。生まれた日に産婦人科の病院で、壊れ物を抱くような心持ちで抱っこした時のことを思い出した。ちょっとでも油断したら、取り返しのつかないことになりそうな緊張感と、この小さな生き物が本当に成長して大人になり得るんだろうか?という気持ち。それらがないまぜになった、不思議な気持ちだった。
見慣れない人に見られて泣き出すかと思ったのだが、甥っ子は屈託のない笑顔をこちらに向けてきた。1歳半になると、顔立ちもしっかりしてくる。それは、小学校入学前の小さかった頃の瞳美を思い出させた。
「ああ、お母さん、これ。良かったら、みんなで食べて」
昨日、帰宅途中のデパ地下で買った、評判のバームクーヘンを手渡した。
「あら、なあに?珍しい。いつも手ぶらで来てたのに。お父さんが帰ってきてから、いただくわ」
「お姉ちゃん、時間は大丈夫?晩御飯まで居られる?」
「そんな時間までは…ちょっと部屋で探し物をしたら、帰るから」
「本当に、自分が用事がある時にしか帰ってこないのね、お姉ちゃんは」
母親が溜め息交じりにそう言った。
「母さん、あたしの子供の頃の家族写真って、どこかにある?」
「中学校に上がる前までの写真なら、アルバムにしてあるけど。中学生になってからは、デジカメで撮影するようになったから、お父さんのパソコンを立ち上げないと見られないけど」
「アルバムの場所、教えて。久しぶりに見てみたい」
ここ20年くらいの家族写真はプリントアウトしてなくても、中学・高校の卒業アルバムはあったはずだ。階段を上って、2階の自分の部屋に向かった。
7〜8年ぶりに入る実家の自分の部屋は、なんだかとても他人行儀な気がした。
実家を出る時に、これから先の生活に必要なものと、不要なものを分別して、不要と思われたものは、その時に全て処分したので、部屋の中は驚くほどガランとしていた。
マットレスがむき出しになったベッド。
ほとんど中身の入っていない本棚。
薄く埃の積もった勉強机。
そう、自分はもう2度とここへは戻って来ないつもりだった。中学・高校時代の制服やカバンなども、その時に全て処分した。あまりにも、容赦なくバンバン仕分けして処分しようとしたので、母親から
「ちょっと!ここは、私たちの家でもあるんだから。うちの長女の思い出を、そんなに何もかも消そうとしないでよ!」
と怒られたのを覚えている。
かつての自分の部屋に来てやっと1人になれたので、ここで少し状況を整理してみる。
・実家は記憶にある通りの実家で、母親も妹も、記憶にある通りの母親と妹だった
・自分のファミリーネームは「鈴木」ファーストネームは「花子」
・母親も妹も、自分のことをお姉ちゃんと呼んでおり、女性である自分のことを当たり前に受け止めていた
これらのことから導き出されるのは、やはり自分は「鈴木 花子」で、ここは「鈴木 花子」の実家なのだ。そして、それらは自分の記憶にあった通りだった。
ただ一つ。自分が女性であるという点を除いては。
中学・高校の卒業アルバムは、あっけなく見つかった。本棚には、もうこの2冊しか書籍が残っていなかった。
これらの卒業アルバムも、もう見ることはないだろうと思い処分しようとしたのだが、これも母親に止められた。
「お姉ちゃんが要らないのなら、うちで預かります!」
この時、母親は本気で呆れているようだった。
あれ?この記憶はなんだろう?
自分は男性として生きてきたはずだ。
これは、「鈴木 花子」の記憶?
これまで自分が抱えてきた記憶が、「鈴木 花子」の人格に飲み込まれようとしている?
2冊の卒業アルバムを持ってきたトートバッグに仕舞うと、部屋を出て1階のリビングに戻った。
「母さん、卒業アルバム、借りてくね」
「貸すだけよ!ちゃんと返してね。処分しちゃダメよ」
母親は怖い顔をして、こちらを睨んだ。
リビングのテーブルでは妹の瞳美が、家族写真を集めたアルバムを開いていた。
ちょうど「鈴木 花子」が小学生に上がった頃のページだった。幼稚園の制服姿の瞳美と、ランドセルを背負った鈴木 花子が、玄関の前に並んで写っている。子どもらしい表情をした瞳美と比べると、「鈴木 花子」の顔立ちはやや大人びている。そのせいか、見た瞬間に「鈴木 花子だ」とすぐにわかった。
「このランドセル…」
「そう、お姉ちゃんが気に入ってこれを選んだの。他に可愛らしい色のランドセルはいくらでもあったのに、あなたはこのキャメル色を選んだのよ。これがいい!って。買ってくれたお義母さんも、なんだか期待外れみたいな顔してたわ」
ページをめくっていくと、今度は瞳美と2人揃ったランドセル姿の写真があった。瞳美のランドセルの色はパープルだった。ややマゼンタが強めの明るいパープル。
「瞳美は、女の子に一番人気の色を選んだのよね」
「なんか、沢山ある色の中から選ぶのが難しくて、友達とおんなじの選んじゃった」
「お義母さんは、お姉ちゃんが初孫だったから、すごく可愛がってたのよ。お姉ちゃんの名前を決めたのも、お義母さんだったし。せっかくランドセルを買ってくれたのに、お姉ちゃんが小学校に入学する前に亡くなっちゃったから、ランドセル背負った姿を見せてあげられなくて残念だったわ」
父方の祖母については、全くと言っていいほど記憶にない。ただ「花子」という古風な名前の名付け親が、祖母であったことには納得した。
「あたしの名前は?」
「瞳美は、もともとお姉ちゃんのために用意してた名前だったの。でも、せっかくお義母さんが『花子』って名前を用意してくれてたから、お姉ちゃんの名前はお義母さんに譲ることにして、妹のあなたが『瞳美』になったの」
「ええ、名前もお姉ちゃんのお古だったんだ」
「何言ってんの、お姉ちゃんのお古なんて、着せたことないでしょ。あんたたち、服の趣味が全然合わないんだから。同じだったら、どれだけ助かったことやら」
「でも、最後はあたしお姉ちゃんのランドセル使ってたじゃん」
「それは小2の時に、あなたが自分のランドセルを壊しちゃったからでしょ。だって帰宅するなり、ランドセルをポーンと放り投げて遊びに行っちゃうんだもの。お姉ちゃんはきれいにランドセル使ってたのに、渋々あんたに自分のランドセル譲ってくれたのよ」
「ええ、そうだっけ?」
「そうよ。そこから、お姉ちゃんは手提げカバンになったんだから」
目の前で繰り広げられる、妹と母親のやり取りを見ながら、これが「鈴木 花子」にとっての日常だったのか、かつての自分にとっての日常だったのか、その境界線が不明瞭になってきているのを感じ始めていた。




