彼が彼女になった理由2:日常
寒さと混乱で震える手で、どうにか部屋の鍵を取り出すと、玄関のドアを開錠して部屋の中に滑り込んだ。軽装で雪の積もった道を1時間以上歩いてきたため、身体が冷え切っている。エアコンを切らずに出たのは正解だった。
目に飛び込んできた部屋の光景は、見慣れたいつもの自分の部屋ではなかった。
まずは壁に向かって置かれたドレッサー。化粧品やメイク道具一式が並べられている。
その反対側にはベッド。枕やシーツ、ブランケット、布団カバーといった寝具一式が、女性らしいデザインのものになっている。
部屋の中央にはローテーブルがあり、その前には厚手のクッションがフローリングの床に置かれてあった。ローテーブルの上には、ノートPCが置かれてあったが、それまで自分が使ってきたものは別のモデルだった。
つまり、借りている部屋こそ同じものの、その内部は記憶にある自分の部屋とは、まるで異なっていた。
冷蔵庫を開けてみる。
記憶にある自室の冷蔵庫は、缶ビールといくつかの調味料くらいしか入ってなかったが、この冷蔵庫には飲みかけの赤ワインくらいしかアルコールが見当たらない。あとは、タッパーに収められた食材や、作り置きの総菜などが詰まっていた。冷凍庫も確認したが、こちらも冷凍保存した食材や、市販の冷凍食品が詰められていた。
つまり、正月3が日くらいは、買い物に行かなくても済むくらいの備えがなされていた。
ドレッサーに映る自分の姿をあらためて確認してみる。
「痩せぎすで不健康そうなアラサー女」
そんな言葉が、まず頭に思い浮かんだ。背は女性にしては高い方かもしれない。胸はとても豊かとは言えず、インナーの隙間から覗いた胸部には、あばらが浮かんでいるのが確認できた。
身長相応に手足は長く、脂肪も筋肉もあまりついていない感じがした。
顔つきは、人生で初めてみる顔だった。少なくとも、これまでの人生で見知ったことのある顔ではなかった。
「誰なんだ、あんた」
ドレッサーの鏡に映る自分の顔を見てそう言った。
こういったことをあまりやると、自身のアイデンティティが保てなくなり、精神的に不安定になるという話を聞いたことがあるのを思い出し、ドレッサーの鏡を閉じた。
続いて、今の自分が誰なのかを確認するために、身分が証明できそうなものを探した。運転免許証、保険証、社員証、定期券…なんでもいい。まずは、名前が知りたい。
さっきから握りしめていた財布は、記憶にある自分の財布ではなく、見慣れない女性物の長財布だった。それが自分の物とは思えなかったため、開くことに多少の躊躇を要したが、意を決して財布の中身をローテーブルの上に広げた。
運転免許証はすぐに見つかった。
「鈴木 花子」
そこには、そう書かれていた。一瞬、ダミーの免許なんじゃないかと疑うような名前だった。ただ、その横にある写真は、今よりも幾分ふっくらとしているものの、明らかにさっき鏡で見た今の自分の顔だった。少なくとも、頬がこけて大きな目ばかりが目立つ今の顔よりは、その写真の顔つきは健康そうに見えた。
まだ、情報が足りない。いったい、今の自分は誰なのか?財布の中身だけでなく、預金通帳など大切なものをしまってありそうな場所を、物色することにした。
玄関近くにあったショルダーバッグには、社員証と通勤定期券が入っていた。社名は記憶にある自分の勤務先だったが、部署名が違っていた。ここにも「鈴木 花子」と書かれている。
通勤定期券も記憶にある通りの区間で、期間は6か月間。有効期限は3月31日、つまり年度末までとなっていた。記憶と異なっているのは使用者の氏名だけだった。
どうやら勤務先は男性だった頃に記憶していた通りの会社で、そこに勤務しているのは確かなようだった。新年の仕事始めは例年1月4日だが、今年は4日が日曜のため、5日が新年初出勤、つまり仕事始めの日になった。社員証が確認できた以上、記憶にある通りいつもの勤務先に出社すれば良さそうだ。
続いてスマートフォンを確認する。ロック解除の暗証番号に不安があったが、顔認証で難なくロックは解除できた。
メールの履歴、LINEのトーク履歴を確認する。メールの方は、通販サイトのDMが数件残っているのみだった。どれも新年になってから受信したものだ。LINEの方は、けっこうなトーク履歴が残っていたが、相手は記憶にない名前ばかりだった。そもそもあだ名やハンドルネームで登録されているものが多く、たとえ面識のある人物だったとしても、特定は困難だった。
トークの内容を全て確認しようかとも思ったが、知らない女性のトーク履歴を勝手に覗き見るようで気が引けてしまい、その気になれなかった。
親しい友人と思われる人に「わたしってどんな人ですか?」とメッセージで聞いてみることも考えたが、なんでそんなことが知りたいのか?と、この状況を冷静に説明するのが難し過ぎて、断念した。
ひとまず、仕事始めの日までの残り3日間は、社会との接点を絶ち、この部屋に籠ったままでも大丈夫そうだ。こうなったら、仕事始めの日に出社してみるしかない。勤務先が同じなら、記憶にある同僚もいるだろう。
そこで、この部屋に戻ってきた時のことを思い出した。部屋の場所や間取りは自分の記憶にある通りだったが、インテリアや持ち物は何から何まで異なっていた。それと同じことが、勤務先でも起きるかもしれない。事実、社員証に記載されていた所属部署は、自分の記憶にある部署とは異なっている。
「明日、目が覚めたら元通りに戻ってないかな」
これが悪い夢であって欲しい。以前の生活に100%満足していたわけではないが、この状況は不安過ぎる。鈴木 花子、あなたは一体、誰なんだ?
※
1月5日の仕事始めは、案外早くやってきた。
結局、2日目からは1歩も外に出ず、部屋で過ごした。買い物せずに済ませられるほど食料は準備されていたし、この身体は男性だった時よりも、ずっと少量の食べ物で空腹を満たすことができた。
アルコール耐性については、男性だった時よりも若干弱くなったと感じる程度で、元日の夜に恐る恐るワインを口にしたら、難なくボトル1本を空けてしまった。翌日に二日酔いになるようなこともなかった。室内には4本のワインが備えられており、鈴木 花子は年始の休暇中、ワインを1日1本空けるつもりだったのではないか?と邪推もした。
通勤は記憶にあった通りで、何の問題もなくできてしまった。問題はその前の出勤の身支度だった。
まず、服装。記憶にある限り、勤務先の会社の仕事始めは、普段よりもキレイ目の服装で出社するのが習わしだ。ここは、スーツで出社するのが無難だろう。クローゼットを開けると、何着かのスーツを確認した。どれもパンツスーツだったのは、有難かった。
3日前、自分が女性になっていたことに気が付いた時の服装はミニ丈のワンピースだった。あの下半身がスースーするような心許ない感じは、未だに忘れられない。この4日間は部屋で過ごしたので、ずっと部屋着のスエット姿だった。鈴木 花子の持っているスーツが、短めのタイトスカートだったりしたらどうしようと思っていたところだった。
スーツの下に何を着るのかについても一瞬、迷った。女性はスーツのジャケットの下に何を着用しているのか?これまで考えたこともなかった。これもクローゼットを開けたら、すぐに解決した。
そこにはパッと見、男性物とあまり変わらないデザインのシャツが並んでいた。スーツが全てパンツスーツだったこともそうだが、どうやらこの鈴木 花子という人物は、あまりフェミニンな服を着なかったようだ。試しに服が収められている衣装ケースを片っ端から確認したら、むしろ元日に着ていたミニ丈のワンピースが例外だったようで、スカート自体、数えるほどしか持っていなかった。
下半身は細身のパンツが中心で、それも黒やネイビーなど地味目の色が多かった。一方で、ショートパンツも多数見つかった。夏場は部屋着や私服としてショートパンツを多用しているようだった。
気が引けたが、下着類も確認した。実用性重視のシンプルで飾り気のないものばかりだったので、これまた安心した。ブラジャーはBカップらしいということもわかった。生まれて初めて着用するので、最初は苦戦したが、女性用下着メーカーが公開しているネット動画などで学習して、どうにか着用できるようになった。
衣装ケースの一番奥に、1組だけ上下お揃いのデザイン性の高い下着を見つけた。
「これ、勝負下着っていうやつ?」
ほぼ新品で、あまり着用された形跡がないことが、触った感じでわかった。これを身に着けることは今後もないだろうと、元あった場所にそっと戻して、衣装ケースの蓋を閉じた。
服よりも問題だったのが、メイクだった。いっそのことノーメイクで出勤してしまおうかとも思ったのだが、鏡に映し出される自分の顔色があまりにも不健康そうなので、思いとどまった。部屋の照明のせいかとも思い、外に出てハンドミラーで確認したのだが、昼間の陽光の下で見る自分の顔色は、さらに悪かった。先ほどの自分は、あれでもまだドレッサーの照明による補正が掛かっていたのだなと思い知った。
仕方なくこれもネット動画で学習した。まず持ってるコスメやメイク道具を一つずつ、メーカーや商品名から検索し、その情報をもとにアラサーの社会人女性として相応しいメイクを探っていった。盛りやら、モテとかどうでもいい。目の下のクマの目立つ、この青白い顔をどうにかビジネスの場に耐え得る顔にするのが最優先だった。
その結果。
起床してから身支度を整えて部屋を出るまで、1時間以上かかることが分かった。それも朝食の時間を含めずにだ。慣れてきたら、もっと短縮できるのかもしれないが、仕事する前から大変な労力だ。
前日からリハーサルしていたから、今日は1時間ちょっとで身支度が完了したものの、仕事がある日は、これを毎日続けなくてはならないかと思うと、ちょっと気が遠くなった。
顔を洗ってヒゲを剃って、軽く化粧水をはたいたら、シャツを着てネクタイを締めて、スーツを着たら一丁上がりだった頃が懐かしい。
そんなわけで、仕事始めであるにも関わらず、「鈴木 花子」の顔には出社早々から疲労の色が浮き出ていたのだった。




