彼が彼女になった理由1:異変
目を覚ましたら、部屋の中は白々と明るく、夜はとっくに明けていた。
目の前にはスリープ状態になったノートPCの画面が広がっている。どうやら、デスクに突っ伏したまま、寝落ちしてしまったらしい。
脇にあるグラスには、氷が解けてできた水が、底の方に残っている。昨夜、ウィスキーのソーダ割りを飲みながら、延々とPCで動画を見ていたことは覚えている。
20代最後の大晦日だった。
28日で仕事を納めるはずが、翌29日も出勤する羽目になり、帰宅したのは22時過ぎだった。年末進行で疲れ切っていたせいか、翌日の30日は思うように身体も頭も働かず、1日寝て過ごした。
そして、大晦日。大掃除とは名ばかりの、おざなりな掃除を済ませたら、午後から正月用の食料を買い出しに、近くのショッピングモールまで行くつもりだった。
そして、いざ部屋を出ようとしたその段になって、大粒の雪が降り始めた。
「これは積もりそうだな」
間もなく、湿った重い雪は街を包み込み、道路の積雪はすぐに足首が埋まるほどの深さになった。
近所のショッピングモールは、自転車なら7~8分ほどで着くが、徒歩だと25分はかかる。しかも、この雪だ。さらに正月3が日分の食料ともなると、それなりの量になる。
この悪天候の中、ショッピングモールまで買い出しに行くのは現実的ではないと考え、徒歩10分圏内にあるコンビニエンスストアまで、ひとまず今日・明日分の食料を買いに行くことにした。
徒歩10分圏内とは言え、足首ほどの深さのある積雪の中を、コンビニエンスストアまで行くのは、なかなかに大変だった。湿った雪は傘に重くのしかかり、時々払ってやらないと雪の重みで傘が傾いた。雪道に備えて学生の頃に買ったワークブーツを引っぱり出してきたのだが、歩き出してから程なくしてブーツの中にまで水が染みてきた。
昼下がりのコンビニエンスストアの店内は空いていたが、商品も少なかった。雪のせいで、商品の到着が遅れているのだろう。かさ張るうえに割高な弁当類はやめて、乾燥パスタや食パンといった、実用性の高いものを買い物かごに放り込んだ。
アルコール類は、前もって補充しておいたので、この正月に飲むくらいの備えは充分にある。ビール、日本酒、ウィスキーに、奮発して買ったクラフトジンもある。あとは、酒のアテとなる乾き物、チーズ、スナック類を多めに買い込む。スーパーで買うよりも割高だが、種類は豊富だ。
買い込んだ食料をバックパックに詰め込むと、部屋への帰路を急ぐ。来た時よりも雪は大粒になっており、積雪はさらに進んでいた。往路では、まだクルマの車輪の轍に沿って、道路の路面が見えていたのだが、今はそこもシャーベット状の雪に覆われている。
結局、コンビニエンスストアへの買い出しには、往復で1時間近くかかった。雪に濡れたワークブーツは重く、染み込んだ水は靴下まで濡らしていた。ダウンジャケットの撥水加工も、この湿った重い雪ではあまり役に立たず、雪に濡れた部分の色が変わっていた。
冷え切った身体を温めるべく、早めの入浴を済ませると、時刻はもう夕方になっていた。PCを立ち上げ、SNSをチェックしたり、動画サイトで動画を見ているうちに、気が付けば時刻は19時を過ぎていた。冷蔵庫から缶ビールを持ってくると、先ほどコンビニエンスストアで買ってきたアテを開封して、飲み始めた。
20代半ばくらいまでは、正月は律儀に実家に帰省していた。20代も後半になった頃から、母親が結婚を急かすようになり、それが鬱陶しくて自ずと実家から足が遠のいていった。正月に帰省しないことについて、最初はグチグチと嫌味を言っていた母親も、一昨年結婚した妹に長男が生まれてからは、何も言ってこなくなった。
初孫ができて、こちらへの関心が薄れたことは有難かった。ちゃんと結婚して子どもを生んでくれた妹には感謝している。それでも、顔を合わせれば結婚しろと言われることは必至だったので、帰省する気にはなれなかった。間もなく1歳半になるという甥っ子の顔も、別にわざわざ見たいとは思わない。
この年末年始は、20代最後の大晦日と正月を部屋でじっくりと噛みしめようと、敢えて1人で過ごすことを選択した。そのために各種アルコールも前もって買い込んでおいた。大晦日の降雪だけは、想定外だったが。
映画の解説動画、アニメの考察動画、ゲーム実況、ライブ配信と、興味の赴くままに動画を流し見しながら、次々とアルコールを空けてゆく。飲酒が進むにつれビール、日本酒、ウィスキーと、アルコールの度数が上がってゆく。比較的早い時間から飲み始めたので、酔いが回ってくるのも早かった。せめて年越しの瞬間までは起きていようと思ったのだが…。
当然ながら、寝落ちした瞬間は覚えていない。まだ去年だった気がする。気が付けば、そのまま元日を迎えていた。
エアコンを点けっぱなしにしていたので、部屋の中は生暖かい。差し込んでくる陽光が、ビールの空き缶や、空になった日本酒の瓶、残り半分ほどになったウィスキーのボトルを照らし出している。酒のアテに用意した乾き物やスナック類の袋も足元に散乱していた。
「飲み過ぎだな」
寝落ちしたという事実と、部屋の中の状況を総合的に判断すると、そういうことになる。やや頭の中は霞がかっているものの、二日酔いにはなっていないようだ。
歯磨きをせずに寝てしまったので、口の中が気持ち悪い。きっと口臭もえらいことになっているのだろう。アルコールと乾き物の匂いが充満した部屋の空気を入れ替えるべく、窓を大きく開け放つと、歯を磨くために洗面所に向かう。
そこで、歯磨き粉を切らしていたことに気が付く。大晦日に予定通りショッピングモールでの買い出しができていたら、その時に買ってこようと思っていたのを忘れていた。歯磨き粉は、数年前から界面活性剤不使用のものを使っている。割高で売っているお店も少ないが、磨いた後も味覚が変にならないところが気に入り、今ではその歯磨き粉でしか磨けなくなった。この近くでは、例のショッピングモールでしか扱っていない。
時刻は10時半になろうとしていた。ショッピングモールは年中無休だし、この時間なら既に開店している。やむを得ず、元日早々からショッピングモールまで歯磨き粉を買いに行くことにした。
雪は昨夜のうちに止んでいたが、道路にはまだしっかりと積雪が残っていた。いつもより大幅にクルマ通りが少ないせいか、融雪もあまり進んでいない。通常の路面コンディションの時でも、歩けば片道25分かかるショッピングモールに向かって歩き出す。
湿った雪は水分が多く、踏みしめるとザクザクと氷が砕ける音がした。転ばないように慎重に積雪の少ない部分を選びながら、そろりそろりと歩みを進める。時間はかかるが、この路面の状態では自転車は無理だろう。自転車で走れるくらい融雪が進むには、数日はかかるだろう。仕事始めの日までには、消えてくれていると助かるのだが。
次の交差点の角を曲がれば、ショッピングモールというところで、1台の軽自動車がこちらに向かって走って来るのが見えた。そういえば、ここに来るまでほとんどクルマの姿を見かけていない。
すれ違いざま、軽自動車は不意に停車したかと思うと、ウィンドウが開き運転している女性が話しかけてきた。
「あけおめー!どうしたの?こんな早くから」
高校時代に同級生だった女性だ。たしか、このショッピングモールにテナントとして入っているレディースアパレルショップで働いていたはずだ。
「歯磨き粉、切らしてるの忘れてて。モールまで買いに来たとこ」
「ええ?モール、今日は休みだよ」
「え?年中無休じゃないの?」
「今年のお正月3が日は、お休み。働き方改革だって」
「そうなのー!?どうしよう…そっちは?」
「昨日、閉店したあとバックルームで軽い慰労会があってさあ。店長がワイン、差し入れてくれたんだけど、飲んじゃったから運転して帰れなくて。スタッフみんなで、タクシー相乗りして帰宅したんだけど、モールの駐車場にクルマ置きっぱなしにもできないから、早起きして取りに来たところ」
「そうなん?路面、ところどころまだ凍ってるから気をつけてね」
「うん、クルマの数も少ないし、ゆっくり帰るようにする。そっちは大丈夫なの?部屋の近くまで送っていこうか?」
「うん、大丈夫。近頃、運動不足だったし」
「そっか。じゃあ、そっちも気を付けてね」
ウィンドウを閉めると、軽自動車は歩いてきたのとは反対方向に走り去っていった。
念のため、ショッピングモールの前まで来て見たのだが、店内は消灯されたままで、広大な駐車場の入口にはロープが張られたままになっていた。やはり、今日は休店日のようだ。元日早々から30分以上かけて、足元の悪い中歩いてきたのに。
ふとそこで、言いようのない違和感を覚えた。
ショッピングモールの入口のガラス製の自動ドア。店内の照明が消されているため、その自動ドアのガラスに映っている人影は、自分のはず…だった。
そこで違和感の正体に気が付いた。
自動ドアのガラスに映し出されているのは、どう見ても女性だった。見るからに不健康そうな痩せた女性の姿が、そこには映し出されていた。
自分が手を振ると、その女性も手を振った。片足を持ち上げると、その女性も片足を上げる。自分が首を傾げたら、ガラスに映ったその女性も同じ方向に首を傾げる。
そこで、あらためて自分の身体をよく見てみる。ペラペラな生地でできたミニ丈のワンピースから伸びる、青白い2本の生足が目に飛び込んできた。靴下こそ履いているものの、その上に履いているのは、雪道には不適切な華奢なミュールだった。
上半身も確認する。防寒性が全く無さそうなワンピースの上には、やや厚手のカーディガンを羽織っており、その上からマフラーを巻いていた。
顔は…持っていたスマホのカメラを自分に向けて確認する。肩まであるストレートの髪は起き抜けのボサボサの感じのままだった。不健康そうに頬がこけた顔立ちは、見開いた大きな目だけが目立ち、その眼もとにはクマが浮いていた。
つまり、ガラス製の自動ドアに映し出されている女性と、そっくりな人物がスマホのカメラにも映し出されていた。
「なにこれ…」
そういえば、さっき高校時代の同級生にクルマから話しかけられた時に返した自分の声も、明らかに女性の声だった。
「ちょっと待って、これって女性になったってこと?」
明らかに自らの性自認とは異なる人物が、自分として映し出されている。
慌てて両手で自分の身体を触って確認する。胸も、股間もこれまで認識してきた自分の身体とは異なっている。
混乱する頭で、必死に冷静を保ちながら、とにかく部屋へと戻る道のりを急いだ。




