【外伝】陰陽師、山ノ井瑠衣 弐拾参話 〜その一歩の重み〜
——死ぬ気で来い!
その言葉と同時に。
田村麻呂が、初めて一歩を踏み出した。
ただ、それだけ。
場の空気が沈んだ。
軍神——その一歩は、戦場を濃厚な死の匂いで満たす。
「来る!」
瑠衣が叫ぶ。
田村麻呂の姿が掻き消えた。
遥は考えるより先に右へ跳んだ。
瑠衣は左。
ただの勘。
黒い軍刀が振り下ろされた。
無音。
床が一直線に切れた。スッパリと。
「げぇっ……!」
遥が声を上げる。
刃は届いていない。
「飛ぶ斬撃っ!?」
「違う」
瑠衣は双剣を構えながら、床の亀裂を見る。
「空間ごと斬ってる」
「少年漫画じゃないんだから!」
田村麻呂が踏み込む。
二撃目。
横薙ぎ。
二人は同時に身を沈めた。
「ひょえっ!?」
頭上を刃が通過する。
背後の壁が、音もなく横へずれた。
切断された壁の上半分が、ゆっくりと崩れ落ちる。
「ちょっと! 洒落になってないわよ!」
「はるちゃん、前!」
「え?」
田村麻呂は既に眼前へいた。
左斜め上から、袈裟懸けに黒い刃が迫る。
奇しくも右斜め下、遥の左肩から右脇腹までを、一息に断つ軌道。
「やばっ!!」
下がれば斬られる。ならば!
遥は半歩前へ出る。
右の掌底を、軍神の左肘へ叩き込んだ。
「ぬぅ?」
斬撃が、ほんの一瞬だけ遅れた。
そこへ瑠衣が滑り込む。
一対の刃を立て、軍刀を受け止めた。
激突。
火花が散り、瑠衣の身体が遥ごと横へ弾き飛ばされる。
二人は絡まり合うように床を転がった。
「痛ったぁ……瑠衣、大丈夫!?」
「大丈夫」
二人は即座に跳ね起きる。
田村麻呂は追撃しない。
軍刀を両手で構えたまま、静かに二人を見ていた。
『どうした』
無数の瞳が細められる。
『先ほどまでの威勢は、その程度か』
「一発当てたくらいで調子に乗ってんじゃないわよ!」
「はるちゃん、それはブーメラン」
「分かってるわよ!」
遥が拳を構える。
瑠衣は田村麻呂の足元を見た。
踏み込み。
剣筋。
間合い。
先ほどまでとは違う。
こちらの動きを待っていない。
田村麻呂自身が先に動き、二人の逃げ道を限定している。
「……読んでないわね」
遥が断じた。
「今は私たちを読んでない」
田村麻呂が軍刀を僅かに持ち上げる。
瑠衣の視線が右へ動いた。
「詰将棋……」
右へ逃げれば、次の刃が来る。
左へ逃げれば、壁際へ追い込まれる。
後ろへ下がれば、遥と動線が重なる。
前へ出れば斬られる。
動ける場所を、選択肢を、ひとつずつ削られていた。
遥が周囲を見た。
床には、先ほどの斬撃で生じた深い亀裂。
背後には崩れた壁。
左右には柱。
二人が自由に動ける空間は、知らないうちに狭められていた。
『戦とは、敵の考えを読むことではない』
田村麻呂が一歩進む。
二人が一歩下がる。
『退路を断ち』
さらに一歩。
『選択肢を奪い』
軍刀が振り上げられる。
『望む場所へ追い込むものよ』
「それくらい知ってるわよ! いつも結女がやってるんだから!」
『ほう。今の世にも、戦を知る者がいるか。だが……』
田村麻呂が軍刀をゆっくりと振り上げる。
一分の隙もない、上段の構え。
ぴたりと止め、そして——
黒い刃が振り下ろされた。
二人は再び左右へ跳ぶ。
だが、その先へ。
既に次の刃が走っていた。
「誘導された!」
瑠衣が双剣で受ける。
遥は両腕を交差させた。
衝撃。
二人の身体が中央へ弾き返される。
そこへ田村麻呂が踏み込む。
正面。
逃げ場はない。
「はるちゃん!」
「分かってる!」
遥が瑠衣の襟首を掴んだ。
「え?」
「せぇのっ!」
そのまま瑠衣を田村麻呂へ放り投げる。
「え?」
『何!?』
瑠衣の身体が、田村麻呂に向けて飛んでいく。
まさかの味方投げ。
通常なら余裕を持って対処できるはずだった。
ただし予想外が過ぎた。
田村麻呂の動きが僅かに迷う。
瑠衣は空中で身体を丸め、右手の刀を逆手に持ち替えた。
「柳流、顎門」
左手の刀を振り下ろすと同時に右手を斬り上げる。
上下から噛み付くように瑠衣の二刀の刃が田村麻呂を襲う。
軍刀の腹で瑠衣の攻撃を受け止める。
「ふんっ」
一瞬の鍔迫り合い。
遥が床を蹴った。
瑠衣の背中を踏み台にする。
「ぐふぅっ!」
まさかのフレンドリーファイア。
「ごめん!」
瑠衣の身体を蹴って、遥が真上へ跳ぶ。
田村麻呂の無数の瞳が上を向いた。
「てぇっ! りゃぁっ!!」
遥が身体を縦に回転させる。
踵が田村麻呂の頭頂部へ落ちる。
だが。
黒い腕が、遥の足首を掴んだ。
「……え?」
軍刀を持つ二本とは別の腕。
田村麻呂の背中から生えた、三本目の腕だった。
続いて。
肩から四本目。
脇腹から五本目。
黒い塊が盛り上がり、次々と人の腕へ形を変えていく。
「やっぱり出せるんじゃない!」
逆さに吊り下げられた遥が叫ぶ。
瑠衣は床へ着地し、双剣を構え直した。
「今まで使わなかっただけ」
『然り』
田村麻呂の背後で、黒い腕が蠢く。
一本には槍。
一本には弓。
一本には鉞。
さらに二本が、素手のまま瑠衣へ向けられる。
『名も知らぬ相手に、我が全てを見せる必要はない』
「名前を聞いたの、そういう意味!?」
『牛島遥』
田村麻呂が、吊り下げた遥を見る。
『山ノ井瑠衣』
全ての瞳が歓喜に歪んだ。
『おぬしらは、これを使うに値する』
「全然嬉しくない!」
無数の腕が、一斉に広がった。




