【外伝】陰陽師、山ノ井瑠衣 弐拾話 〜初代征夷大将軍〜
静寂——
誰も、動かなかった。
「……」
遥が怪異を見た。
「……」
怪異も遥を見た。
「…………」
「いや、誰?」
沈黙を破ったのは、やはり遥だった。
違う沈黙が舞い降りた。
……瑠衣が短く答える。
「日本の歴史上で語るなら、原初の英雄」
札子のフリップが勢いよく上がる。
『教科書レベルです』
「えぇっ!?」
遥は頭を抱えた。
「まさか、初代征夷大将軍って……あの歴史の?」
「たぶん」
「たぶん!?」
『たぶんではない』
怪異が静かに口を開いた。
『我が名は坂上田村麻呂』
言葉を、
『その名を継ぎ、その戦を継ぐ者』
ひとつずつ、
『その畏れを繋ぐ者』
置いていく。
『人は英雄を忘れぬ』
刀をゆっくりと構えた。
『そして忘れられぬ存在は、思念と化し、実体を持ち……時に怪異となる』
空気が、変わる。
鬼穴全体が震えた。
ギシ……
ギシギシ……
館中の床が悲鳴を上げる。
遥の笑みが消えた。
「……っ」
重い。
物理ではない。
それでも確かに存在する、不可視の圧力。
「くっ!」
妖気や霊気を感じ取ることのできないはずの遥が、半歩後ずさる。
札子の手が震えた。
フリップが上がる。
『霊圧が……桁が、違い過ぎます!』
瑠衣は目を細めた。
「英雄信仰」
「え?」
「人々は語る」
「伝説を」
「武勇を」
「恐怖を」
「その積み重ねが、思念が、怪異になることがある」
遥は怪異を見る。
「つまり本人じゃない?」
『左様。本人ではない』
怪異は答えた。
『だが』
にやり。
『本人より弱いとも思うな』
ぞわり。
遥の本能が警鐘を鳴らす。
目の前の存在は、
今までの怪異たちとは根本から違う。
本物の脅威が牙を剥いたのだ。
瑠衣が小さく目を見開く。
「はるちゃん」
「なに?」
「ここから先は迂闊に突っ込まないで」
瑠衣の視線が床へ誘導する。
遥も視線を落とした。
瑠衣が先ほど放った護符。
怪異へ届かなかった三枚が、床へ落ちていた。
護符は中央から真っ二つになっていた。
「え……」
「斬られた」
「いつ!?」
「抜刀」
「え?」
「鯉口を切った瞬間」
遥の背筋を冷たいものが走る。
あの時。
刀はまだ鞘から半分も抜けていなかった。
——ように見えた。
それなのに。
届いてすらいない護符が斬られている。
怪異は小さく笑った。
音もなく抜かれる軍刀。
刀身が完全に姿を現す。
鈍く、黒い光を放つ細い刃。
その刃を見た瞬間。
札子のフリップが、今までにない速さでめくられた。
『逃げて下さい!』
一枚。
『勝てません!』
二枚。
『今ならまだ……!』
三枚目を出そうとした、その時。
瑠衣が静かに首を横へ振った。
「無理」
「え?」
「もう」
刀の切っ先が、
ほんの少しだけこちらへ向く。
「……逃がしてくれない」
坂上田村麻呂は、静かに笑った。
『山ノ井とその伴侶よ』
「……!」
『今宵は楽しもうぞ』
言葉を発し終わると同時に、坂上田村麻呂と名乗る怪異が動いた。
狙いは遥。
瞬きの一瞬で間合いを詰める。
「——」
「しまっ……!」
「はるちゃん!!」
無言のまま、遥の左肩へ袈裟懸けに刃を落とす。
戦いに慣れ、殺しに慣れた者が、実戦で掛け声など出すはずがなかった。
「遥さん!」
「きゃっ!!」
スマホから飛び出した札子が遥を押し倒し、その刃を背中に受けた。
黒い刃が、札子の肩口から胸元へ抜ける。
「——っ」
声にならない息が漏れた。
細い身体が、びくりと跳ねる。
坂上田村麻呂は表情一つ変えず、そのまま刃を振り抜いた。
札子の身体が、肩口から斜めに裂けた。
黒い粒子が、血飛沫の代わりに舞う。
「良かっ……間に……あっ……」
「札子ちゃん……?」
遥は床へ倒れたまま、目の前の光景を理解できなかった。
札子の上半身が、ゆっくりとずれ、
——落ちた。
フリップが床を打つ。
札子の身体は黒い粒子へと崩れ、その場から跡形もなく消えていく。
「……え?」
遥の理解が追いつかない。
「ふだ……ちゃ……」
いや、心が理解を拒む。
『裏切り者め』
坂上田村麻呂が、冷たく言い捨てた。
一拍……。
「札子ちゃーん!!」
遥の絶叫が、鬼穴を震わせた。




