【外伝】陰陽師、山ノ井瑠香 拾九話 〜軍神〜
「来る!」
瑠衣の警告と、遥が地を蹴るのは、ほぼ同時だった。
無数の腕が床を這い、壁を叩き、天井からも降り注ぐ。
まるで館そのものが牙を剥いたようだった。
実戦、しかも命懸けである。
喋る余裕などあるはずもない。
無言。
遥はバックステップから着地と同時に右足で地面を大きく蹴る。その先で左手を地面につけ、側転の要領でコンパクトに方向転換をする。
逆サイドでは瑠衣がほぼ左右対称の動きで回避していた。
遥は一歩踏み込み、そのまま迫り来る腕を右拳で払う。
払った腕へ、流れるように左拳をぶち込む。
ぱんっ!
乾いた音。
最初に迫った腕が、紙細工のように弾け飛ぶ。
「え?」
遥が目を丸くした。
「なにこれ、めっちゃ殴りやすい!」
「お母さ……山ノ井家製だから」
瑠香のお手製だったらしい。
「製造元がバレてる!」
返事をしながら、左拳。
続けて肘。
回し蹴り。
伸びてくる腕を次々と叩き落としていく。
どうやらこの退魔武器は、使用者の体表に、退魔の効果を秘めた薄い膜を貼るようだ。
甲に刻まれた退魔文字が、打撃のたび淡く光った。
『……ほう』
怪異が低く笑う。
『近接戦闘特化型か』
「悪い?」
遥はにやりと笑った。
「私、考えるの苦手だからさ!」
滑るように踏み込む。
右手ストレートリードを怪異の左手脇に叩き込む。
手を引く動作に連動させ、左足で膝関節に踏みつけるように蹴りを入れた。
そのまま踏みつけた足を支点に右足を下げる。
高速のスイッチングを挟み、踏み込んで左順突きを怪異の胸の真ん中、段中へと刺した。
その背後では、瑠衣の刀印が静かに結ばれた。
「臨」
護符が一枚。
「兵」
二枚。
「闘」
三枚。
遥の左右をすり抜けるように飛翔し、腕の根元へ突き刺さる。
どんっ!
白い霊光が爆ぜた。
腕の動きが一瞬止まる。
「今!」
「!」
遥が床を蹴る。
加速。
一直線。
「でゃぁぁぁぁぁあっ!!」
無呼吸連打を叩き込む。
十、十五、二十、二十五。
拳が、次々に怪異の胴体中央へと突き刺さる。
鈍い衝撃。
……だが。
それだけだった。
怪異は一歩も動かない。
「げっ! ノーダメ!?」
遥の戦闘勘が危険を察知する。弾けるように距離を取った。
『終わりか? ならば……』
その瞬間。
黒い体表から無数の腕が一斉に開き、
『次は私の番だな』
にやりと笑った。
瑠衣の刀印によく似た印を素早く組み替え、結んでいく怪異。
『我が名は軍神――』
荘厳に声を張ろうとした。
軍服の名残がわずかに揺れ、まるで見得を切るような溜めが入る。そして、
「みょんみょん丸!」
遥が、ぶった斬った。
『……え?』
目が点になる怪異さん。
「ブフォッ!」
『ブフォッ!!』
瑠衣が真顔のまま噴き出した。
札子も一緒に吹き出した。
もちろんフリップで。
『ちょっ! おい!』
怪異の声が、初めて素に戻った。
『待て、名乗りの途中だぞ! ひとの由緒ある名を——』
「知らないわよ! 顔ないくせに名前だけご立派とか、そういうのもう間に合ってるから!」
『こ、このっ!?』
怪異の声が、露骨に引きつった。
「山ノ井家の宿て……ぶふっ! 敵、坂之上ノ右斜下。あなたは今日から【みょんみょん丸】ぶふぅ!」
瑠衣が無表情のまま笑いを堪えながら喋る、という荒業をこなす。
本名も大概だっ——
『ほんとにやめようか? その流れでそんな嘘言ったら、みんな信じちゃうでしょ!? その坂之上のなんとかが本名みたいに言うの。それも全然違うからな!?』
——違ったらしい。
『みょんみょん丸草』
札子がフリップを見せつけた。
いつのまにか召喚した河童たちも順番に、みょんみょん丸と書かれたフリップを出していく。
最後のフリップは『右斜下』になっていた。
当然、瑠衣も遥も吹き出した。
『き、貴様ら、ひとをコケにしよって!!』
きっと顔があったら真っ赤にしていたのであろう。
全身から黒い妖気を迸らせ、
言った——
『殺す』
刀の鞘に手を添え、騒ついた空気に終止符を打つように——カチリ、と鯉口を切った。
そのまま腰から太刀を引き抜く、ただそれだけの動作で、周囲の空気が重たく張り詰めた。
そして怪異は、今度こそ静かに名乗りをあげる。
『我が名は坂上田村麻呂。初代征夷大将軍にして最強の武将!』




