【外伝】陰陽師、山ノ井瑠衣 拾七話 〜相棒消失す〜
人影が。
にたり、と笑った。
顔は無い。
なのに、
確かに笑ったのだ。
ぞわりと瑠衣と遥の肌が強制的に泡立たされる。
笑った瞬間、空気が変わった。
館中の床板が、小さく軋む。
「……っ」
遥は思わず一歩下がった。
喉が乾く。
理由は分からない。
目を逸らしてはいけない。
そんな予感だけがあった。
人影が一歩、歩く。
かつ。
その音だけで、廊下の暗闇が波紋のように揺れた。
瑠衣の指先が動く。
退魔札が一枚。
「急急如律令」
放つ。
白い札は一直線に飛び、人影の胸へ――届く寸前。
穴。
顔の穴が、
ふわりと広がった。
札は吸い込まれる。
音もなく。
光もなく。
消えた。
遥が目を見開く。
「え……?」
瑠衣の眉が、ほんのわずかに動く。
「……効かない」
その一言だけだった。
人影は歩みを止めない。
かつ。
かつ。
軍靴の音が近付くたび、館そのものが呼吸しているようだった。
札子が震える手でフリップを書く。
『術を……食べました』
遥が瑠衣を見る。
「……食べたの?」
「うん」
「そんなのあり?」
「鬼穴だから」
短い返答。
だが、その声には初めて焦りが混じっていた。
人影の顔の穴。
その奥で渦巻く無数の目が、
一斉に、
遥を見た。
どくん。
心臓が跳ねる。
「……なんで」
目を逸らせない。
「なんで私だけ見てるのよ」
瑠衣は答えない。
答えられない。
その代わり、札子が震える指でフリップを掲げた。
『見つかりました』
「見つかったって、何に!?」
返事は無かった。
その瞬間。
人影が消えた。
「――っ!」
瑠衣が叫ぶ。
「左!」
遥は反射だけで身体を動かした。
頭で考えるより早く。翔ぶ。
騎馬戦では一人騎馬、つまり歩兵で走り回ることも多い遥だった。
何度も実戦の中で練り上げられた戦闘勘と回避。
身体が勝手に転がる。
直後。
ごん。
さっきまで遥が立っていた場所へ、
軍靴が静かに着地した。
音は小さい。
なのに。
床が砕けた。
「え……」
石畳が、
豆腐みたいに沈んでいた。
「一発でも受けちゃ駄目」
瑠衣の声。
その声に合わせて、三枚の札が宙へ舞う。
「臨」
一枚。
「兵」
二枚。
「闘」
三枚。
三角形に展開した札が淡く輝く。
結界。
その中心へ人影を閉じ込める。
眩い光。
一瞬だけ、
人影の輪郭が揺らいだ。
「今!」
「せりゃあぁぁ!」
遥が飛び込む。
ピコピコハンマーを思い切り振り抜く。
乾いた音。
ぱこん。
いつもなら笑える音だった。
だが。
ハンマーは。
人影を叩かなかった。
顔の穴へ、
吸い込まれた。
「え?」
柄まで飲まれる。
「ちょ、返して!」
遥が引っ張る。
引けない。
穴の中から、
何十本もの腕が、
ハンマーを掴んでいた。
「ひょえっ!」
遥が怯むのも当然であった。
顔の中に広がる穴。そこから生えた、異形の腕。
痩せ細った老人の腕。
血塗れの子どもの手。
さらにその奥にはまるで、寓話の蜘蛛の糸に群がる、地獄の亡者のように絡み付く、無数の亡者達の姿があった。
それを無数の目が見つめている。
しかも……。
兵士。
女。
男。
無数。
そして全員が……。
笑っていた。
「離せぇっ!」
瑠衣の表情が初めて変わる。
「はるちゃん! 離して!!」
その声には焦りがあった。遥の反応は早い。
手を離すと同時に怪異の胴体へサイドキックを叩き込み、その反動で後方へと弾け飛ぶ。
相棒だったピコピコハンマーは、怪異の顔の中へと吸い込まれていった。
穴が。
ぐるり、と、瑠衣の方を見た。
穴の中の目、数え切れない瞳が今度は瑠衣を見る。
瑠衣を認識した。
人影の口の無い顔から。
声がした。
『——また、山ノ井か……』
低い。
擦れた。
何百人もの声が重なったような声。
瑠衣の目に僅かな困惑が混じる。
「……?」
『久しいな』
「久しくなんかない。私はあなたを知らない」
『くっくっくっ。今代の山ノ井は気が強そうだ』
「滅っ!」
瑠衣が刀印を高速で組み、封滅の札が走る。だが、
ジュッ!
届く前に燃え尽きる。それも一瞬で。
火ではなく強い酸性の液体に落とされたかのように。
瑠衣は何も答えなかった。
いや。
答えられなかった。
本当に、何も知らないのだ。
いつもの無表情は崩れていない。
けれど漫画なら、その顔の周りには小さなクエスチョンマークが浮かんでいたに違いない。
遥には何も分からない。
ただ一つだけ、確かなことがあった。
あの怪異は、
山ノ井を——知っている。




