【外伝】陰陽師、山ノ井瑠衣 八話 〜命懸け! 笑ってはいけない鬼・ケツレンジャー〜
女は、黒い水面の向こうで、静かに首を傾げた。
長く黒い髪が、さらりと揺れる。
顔は、やはり見えない。
けれど、笑っている。
なぜか、そう思った。
——あそびましょう。
もう一度、頭の中に声が響く。
遥は全力で首を横に振った。
嫌です。
絶対に嫌です。
そう目で訴える。
女は少しだけ肩を落とした。
そのまま肩をすくめ、欧米人がやるように両手を見せ、ため息をする。首まで振っちゃう。長く垂れ下がった前髪が揺れた。
二人は思った。なんだかイラッとする。
そしてその仕草が、妙に人間くさい。
次の瞬間、女は袖の中から、すっと何かを取り出した。
札だった。
白い札。
そこに、墨で大きく文字が書かれている。
『声、出したら負け』
遥の眉間に、深い皺が寄った。
知ってる。そしてそれを作ったのはお前だろう。
目でそう訴える。
女はこくりと頷いた。
わかっているならよろしい、とでも言いたげに。
腹が立つ。
声が出せないだけで、ここまで腹が立つとは思わなかった。
遥は口を真一文字に結んだ。
その横で、瑠衣がトンファーを構えたまま、じっと女を見ている。
緊張している。
間違いなく、警戒している。
この女は危険だ。
遥にもわかった。
けれど。
女が次に取り出したものを見た瞬間、遥の緊張は変な方向へ吹き飛びかけた。
フリップだった。
『第一問』
女は水面の上で、すっとフリップを掲げる。
続けて、二枚目。
『これは何でしょう?』
その直後、女は袖の中から、白い布を取り出した。
ひらひらと揺らす。
長い布。
ゆらゆら。
ふわふわ。
くねくね。
一反木綿だった。
いや、正確には一反木綿の物真似だった。
遥の頬が、ぴくりと引きつる。
答えはわかる。
わかるけど、言えない。
言えないことをわかった上で、問題にしてきている。
性格が悪い。
女はじっと遥を見た。
答えは?
とでも言うように。
遥は口を閉じたまま、両手を交差させて大きくバツを作った。
答えません。
女は、また札を出した。
『不正解』
遥は目を剥いた。
いや、答えてない!
不正解もなにも、答えてない!
喉まで出かかった言葉を、遥は必死に飲み込んだ。
危ない。
今、かなり危なかった。
瑠衣が横から、そっと遥の肩に手を置いた。
落ち着いて。
そういう圧だった。
遥はこくこくと頷く。
わかってる。
わかってるけど、腹が立つ。
女は三枚目の札を出した。
『第二問』
まだやるのか。
遥は目で抗議した。
女は無視した。
袖の中から、今度は小さな和傘を取り出す。
遥の目が、すっと細くなった。
嫌な予感がした。
とても嫌な予感がした。
女は和傘を持ってをくるくる回した。
可愛らしく。
上品に。
そして、ゆっくりと傘を開こうとする。
遥は両手で大きくバツを作った。
開くな。
それは開くな。
さっきの記憶が戻る。
和傘。
一本足。
4の字。
ふんどし。
見せつけ。
最低。
女の手が、傘の留め具にかかる。
遥はさらに強く首を横に振る。
開くな。
本当に開くな。
女はぴたりと動きを止めた。
そして、顔の見えないまま、どこか得意げに見えた。
札を出す。
『開けてほしい?』
遥は全力で首を横に振った。
違う。
逆。
真逆。
女はまた札を出した。
『照れ屋さん』
遥の目が、かっと見開かれた。
違うわ!!
声にならない絶叫が、喉の奥で暴れた。
瑠衣の肩が、わずかに震える。
遥はぎろりと瑠衣を睨んだ。
笑うな。
さっきから笑うな。
瑠衣は口元を引き結んでいる。
必死に堪えている顔だった。
しかし、目だけが少し笑っていた。
裏切り者。
遥は目だけでそう告げた。
瑠衣は目だけで返した。
ごめん。
女は二人のやり取りを見ていた。
そして、すっと札を出した。
『仲良し』
遥は一瞬だけ固まった。
瑠衣も、固まった。
その隙を、女は見逃さなかった。
次の札。
『お幸せに』
瑠衣の耳が、わずかに赤くなる。
遥の顔も、少しだけ熱くなった。
違う。
今、そこじゃない。
違わないけど、そこじゃない。
とにかく今は、そういう流れではない。
遥は慌てて首を横に振る。
瑠衣は、なぜか少しだけ嬉しそうだった。
違う。
喜ぶな。
今、喜ぶ場面じゃない。
女は満足そうに頷いた。
そして、次の瞬間。
女の足元の水面が、ぽこりと膨らんだ。
黒い水から、何かが浮かび上がってくる。
丸い。
緑色。
皿がある。
河童だった。
ただし、小さい。
手のひらサイズの河童が、水面の上で正座していた。
小河童は、ぺこりと頭を下げる。
そして、両手で自分のお尻を守った。
遥は口を押さえた。
危ない。
今のは危なかった。
なぜ河童の方が尻子玉を守っているのか。
なぜ被害者面なのか。
言いたい。
言いたすぎる。
女は札を出した。
『彼にも守りたいものがある』
遥は肩を震わせた。
笑いではない。
怒りだ。
たぶん怒りだ。
いや、少し笑いかけたかもしれない。
瑠衣が、ゆっくりと顔を伏せた。
だめだ。
瑠衣もかなり危ない。
女は続けて水面から、唐傘お化けを出した。
小さい。
これも手のひらサイズだった。
唐傘お化けは、ぴょんぴょんと一本足で跳ねる。
そして、さっきの話を聞いていたのか、恥ずかしそうに傘を閉じたまま、もじもじしている。
遥は目を閉じた。
見るな。
もう見るな。
あれは危険だ。
女が札を出した。
『今日は開きません』
遥は薄目を開けた。
女がもう一枚、札を出す。
『たぶん』
遥は目を剥いた。
たぶんじゃない!
絶対に開くな!
喉まで出かかったツッコミを、両手で押さえ込む。
その横で、瑠衣が震えていた。
笑っている。
完全に笑っている。
ただ、声だけは出していない。
瑠衣はさすがだった。
口を結んだまま、肩だけを小刻みに震わせている。
だが、それはそれで腹が立つ。
女は今度、アカナメを出した。
小型のピンク色。
アカナメBミニである。
それは水面の上をぺたぺた歩くと、小さな桶を置き、ぺろりと床板を舐めた。
ぴかっ。
そこだけ異様に綺麗になった。
さらにもう一舐め。
ぴかっ。
もう一舐め。
ぴかっ。
そして、満足げに親指を立てた。
遥は口を押さえたまま、目だけで叫んだ。
やめろ! 無駄にニヒルな笑顔でサムズアップはやめろ!
女は札を出した。
『匠の技』
遥は膝から崩れそうになった。
ずるい。
この女、ずるい。
やっていることはくだらない。
でも、声を出せない状況でやられると、ものすごく効く。
瑠衣が、そっと札を一枚取り出した。
何かを書いて、遥に見せる。
『見ない方がいい』
遥はその札を見た。
そして、無言で瑠衣を睨んだ。
遅い。
もう見た。
全部見た。
瑠衣は少しだけ目を逸らした。
女はそれも見逃さない。
札を出す。
『彼女、けっこう抜けてる』
遥は両手で口を押さえた。
それは言っちゃだめ。
いや、声には出てない。
でも、言っちゃだめ。
瑠衣の目が、すっと細くなった。
笑っていた空気が消える。
トンファーを握る手に、力がこもる。
女はすぐに札を裏返した。
『冗談です』
さらに一枚。
『ごめんなさい』
妙に素直だった。
遥は目を瞬かせる。
この怪異、なんなんだろう。
怖い。
怖いはずなのに、さっきから妙に芸が細かい。
女はまた水面の上に立った。
小さな妖怪たちは、女の足元へ集まっていく。
河童。
唐傘。
アカナメ。
一反木綿。
全員が、こちらを見ている。
そして、ぺこりと頭を下げた。
何かが始まる。
遥は嫌な予感に、背筋を凍らせた。
女が袖から大きな札を取り出す。
『最後の遊び』
続けて、もう一枚。
『笑ったら負け』
遥は固まった。
待って。
声を出したら負けじゃなかったの?
笑ってもだめなの?
そんな追加ルール聞いてない。
しかし、たしかに笑えば声が漏れる。
息も漏れる。
口も開く。
つまり、アウト。
遥は口を両手で押さえた。
瑠衣も真剣な顔で口元を引き結ぶ。
女が、ゆっくりと右手を上げた。
小妖怪たちが横一列に並ぶ。
河童が、尻を守る。
唐傘が、開くか開かないかの瀬戸際で震える。
アカナメが、床を磨く。
一反木綿が、妙に優雅に舞う。
そして全員が、なぜか決めポーズを取った。
中央の女が札を掲げる。
『妖怪用務員戦隊』
次の札。
『鬼・ケツレンジャー』
遥は死にそうになった。
違う。そこで切るな!
鬼穴はそういう意味じゃない。
鬼・ケツレンジャーってなに!?
河童は何色担当なの。
アカナメBは絶対ピンクでしょ。
唐傘は何。
傘だから雨担当?
いや、考えるな。
考えたら負ける。
瑠衣が、隣で完全に下を向いていた。
肩が震えている。
かなり危ない。
遥は必死に瑠衣の袖を引いた。
しっかりして。
あなた本職でしょ。
瑠衣は涙目で頷いた。
女はさらに札を出した。
『主題歌、いきます』
遥は目を見開いた。
歌うな。
禁言の間で歌うな。
そっちだけ自由か。
女は口を開いた。
けれど声は出ない。
かわりに、遥の頭の中へ、妙に軽快なリズムだけが流れ込んできた。
ちゃららー。
ちゃらららー。
ちゃららー、ちゃっちゃっ。
歌詞はない。
だが、明らかに昭和の特撮風だった。
小妖怪たちが、無音で踊る。
河童が皿を押さえながらステップを踏む。
アカナメBが床を磨きながらターンする。
一反木綿が背景の幕のように広がる。
唐傘お化けが、開きかける。
遥は目を剥いた。
開くな。
だから開くな。
唐傘は、ぎりぎりのところで止まった。
そして、照れたように傘を閉じた。
遥の肩が震えた。
もう限界だった。
でも、声を出せない。
出したら、持っていかれる。
声。
名前。
存在。
それは怖い。
怖いのに。
目の前で、鬼・ケツレンジャーが無音で決めポーズを取っている。
世界は理不尽だった。
その時、瑠衣が動いた。
右手の人差し指と中指を立てる。
声は出さない。
唇だけが動く。
女が、ぴたりと札を下ろした。
空気が変わる。
笑いの気配が薄れ、黒い水面が、ざわりと波立った。
瑠衣の目が細くなる。
遥にもわかった。
今だ。
ふざけているように見えた。
でも、この女はずっと、こちらに口を開かせようとしていた。
笑わせるために。
ツッコませるために。
名前を呼ばせるために。
そして、少しずつ距離を詰めていた。
女の足元の水面が、いつの間にか板張りの道のすぐ近くまで広がっている。
小妖怪たちも、最初よりずっとこちらへ近い。
遊びではない。
これは、誘いだった。
声を出させるための罠。
瑠衣が左手を振る。
無音のまま、札が三枚飛んだ。
水面に突き刺さる。
瞬間、黒い水が白く泡立った。
女が、はじめて動きを止める。
遥は息を殺した。
瑠衣の唇が、静かに動く。
――祓え。
声はない。
けれど、空気が応えた。
板張りの道の左右に、細い光の線が走る。
結界だった。
黒い水が、道から押し返されていく。
女は、少しだけ首を傾げた。
そして、札を一枚出した。
『つまらない』
その文字を見た瞬間。
遥の目が、すっと細くなった。
つまらない?
今、つまらないって言った?
あれだけ自分でボケ倒しておいて?
こっちは命懸けで我慢してるのに?
遥の中で、何かが切れかけた。
瑠衣がすぐに遥の口を押さえる。
早かった。
完璧なタイミングだった。
遥は口を押さえられたまま、女を睨みつけた。
女は、顔の見えないまま、また笑った気がした。
そして、最後の札を出した。
『いい目』
ぞわり。
今度こそ、遥の背筋が冷えた。
その一言だけは、笑えなかった。
女は遊んでいる。
けれど、ただ遊んでいるわけではない。
こちらの反応を見ている。
どこで怒るのか。
どこで笑うのか。
どこで声が漏れるのか。
どこで、名前を呼ぶのか。
瑠衣の手が、遥の口からゆっくり離れる。
そして、瑠衣は目だけで言った。
逃げる。
遥は頷いた。
無言で。
全力で。
女が両手を広げる。
黒い水面が、ざわりと盛り上がった。
小妖怪たちの姿が、にたりと歪む。
さっきまでの可愛らしさは消えていた。
河童の皿が割れたように開く。
唐傘の内側に、無数の目が浮かぶ。
アカナメの舌が、蛇のように何本にも分かれる。
一反木綿が、首吊り縄のように細くねじれる。
遥は息を呑んだ。
声は出さない。
出せない。
瑠衣が遥の手を引いた。
二人は、板張りの道を駆け出す。
背後で、女がまた口を開いた。
声はない。
けれど、頭の中に響く。
――また、あそびましょう。
遥は振り返らなかった。
振り返ったら、絶対に何か言ってしまう気がしたからだ。
ただ、胸の中でだけ叫んだ。
絶対に嫌!!
声にはしない。
声にはしなかった。
その代わり、遥は走りながら、全力で中指を立てた。
瑠衣が横目でそれを見た。
ほんの一瞬だけ、目を丸くする。
そして、無言で親指を立てた。
なにその返し。
今それいる?
遥はまたツッコミそうになった。
だから、さらに強く口を閉じた。
禁言の間。
声を奪う場所。
名前を奪う場所。
存在すら奪う場所。
そして何より。
遥にとっては、ツッコミを封じられる、最悪の地獄だった。
命をかけた笑ってはいけない、ですね笑笑
面白い、続きが気になる、そう思っていただけたそこのあなた!
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